『ライク・サムワン・イン・ラブ』を見て、J・V・ヒューゼンを想う - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
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『ライク・サムワン・イン・ラブ』を見て、J・V・ヒューゼンを想う

イラン映画の名匠アッバス・キアロスタミが日本を舞台に撮った新作『ライク・サムワン・イン・ラブ』という題名を聞けば、ジャズ・ファンなら、すぐさま、ジョニー・バークの作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲した同名のスタンダード・ナンバーを思い起こすだろう。

映画の中では、もと大学教授のタカシ(奥野匡)が、デリヘル嬢の女子大生明子(高梨臨)を自宅に呼んだ際に、レコードをかけるシーンで、デューク・エリントンの「ソリチュード」に続いて、エラ・フィッツジェラルドの名唱ともいうべき「ライク・サムワン・イン・ラブ」が聴こえてくる。

 

映画では意表を突くラストシーンに、ふたたびこの曲が流れるのだが、エラのスローなバラードは、不意打ちを食らって呆然とする観客をやさしく慰撫するような、不思議な鎮静作用があり、あらためて、スタンダード・ナンバーの偉大さに思いをはせることになる。

  

ジミー・ヴァン・ヒューゼンは、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュインのような二十世紀を代表する巨人ではないが、以前、このコラムで取り上げたジョニー・マーサーと同様、アメリカのポピュラー音楽の歴史には欠かせない名ソング・ライターである。

 

 黄金期のハリウッド映画と深い関わりがある点でも、ジョニー・マーサーとJ・V・ヒューゼンはとても似ている。

「ライク・サムワン・イン・ラブ」も、もともと『ユーコンの美女』(44)という日本未公開の西部劇の中で、ダイナ・ショアが歌って大ヒットした曲である。

J・V・ヒューゼンは、フランク・シナトラとは、彼の無名時代からの大親友で、トミー・ドーシー楽団の座付き歌手だった若き日のシナトラが歌った「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」などは、ジャズ・シンガーが必ずレパートリーに加える不朽の名曲といってよい。

 

『珍道中』シリーズをはじめパラマウントでビング・クロスビーが主演した映画にも数多くの佳曲を書いており、『我が道を往く』(44)の中の「星にスイング」は、アカデミー主題歌賞を受賞している。その後も、作詞家のサミー・カーンとのコンビで、フランク・シナトラが劇中で歌った『抱擁』(57)の「オール・ザ・ウェイ」、『波も涙も暖かい』(59)の「ハイ・ホープス」はオスカーを受賞している。六〇年代に入っても、『パパは王様』(63)の「コール・ミー・イレスポンシブル」と、トータルで四度もアカデミー主題歌賞を受賞した作曲家は、もしかしたら、J・V・ヒューゼンだけかもしれない。

 

そして、「ライク・サムワン・イン・ラブ」「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」と並んで、私がもっとも好きなジミー・ヴァン・ヒューゼンの名曲に「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」がある。

「夢の残滓だけでもとっておくべきだった。恋がこんなに冷たい雨の日に変わってしまうなんて……」というジョニー・バークの詞がなんとも切ないトーチ・ソングの代表作である。

 

私は、これまで「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」を、ローリンド・アルメイダとのデュオによるサミー・デイヴィス・ジュニアの軽妙洒脱なヴォーカル、アン・バートンの絶唱、そして名盤『フライト・トゥ・デンマーク』に収められた、デューク・ジョーダンのしっとりしたピアノトリオなどで愛聴してきたが、このナンバーが生まれたのは、一九五三年初演のブロードウェイ・ミュージカル『フランドルの謝肉祭』である。

 

『フランドルの謝肉祭』は、フランソワ・ロゼー主演、シャルル・スパーク脚本、ジャック・フェデール監督の往年のフランス映画『女だけの都』(35)を翻案したミュージカルで、台本・演出を手がけたのは、なんとあの天才喜劇映画監督プレストン・スタージェスなのだ。

 

一九五三年といえば、プレストン・スタージェスは、もはや奇跡と呼ばれた栄光のパラマウント時代をとうに過ぎて、二十世紀フォックスで『殺人幻想曲』(48)、『バシュフル・ベンドのブロンド美人』(49)を撮ったものの、タイクーン、ダリル・D・ザナックから興行的に失敗作とみなされ、契約も更新されず、長く苦しい失意の日々を送っていた時期だった。

 

厳密には、プレストン・スタージェスは、プロデューサーからジョージ・オッペンハイマーとハーバート・フィールズの台本の改訂を依頼され、演出も引き継いだだけだったようだが、この『フランドルの謝肉祭』という舞台がアメリカでのスタージェスのほぼ最後の仕事であるのは間違いない。

 

主演のドロレス・グレイは、当時のスタージェスを「優雅だけれど独裁的だった」と次のように回想している。

「彼は舞台の仕事から長らく遠ざかっていたせいか、私たちにどう動いてほしいのかまったく判っていませんでしたね。……彼は絶えず新しいページを私たちに持ってきて、ずっと台本を書き直していたわけですけれど、私たちみんなに対してどんどん専制的になることで、ご自分の恐怖心を隠していたようです」

 

 しかし、プレストン・スタージェスの懸命な直しは効を奏さず、この『フランドルの謝肉祭』は、わずか四日間で打ち切られてしまう。一方で、主演のドロレス・グレイは、この舞台でトニー賞の主演女優賞を受賞し、彼女が舞台で歌った挿入歌「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は、永遠のスタンダード・ナンバーとして今なお歌い継がれている。

 

ドロレス・グレイは、一九四六年、『アニーよ銃をとれ』のロンドン公演で主役を演じ、帰国後、この舞台に出演したのだが、以後、МGMと契約、スタンリー・ドーネンの『いつも上天気』(55)で映画デビューを飾り、さらに、ヴィンセント・ミネリの『バラの肌着』(57)にも出演し、本格的な女優になっていくのである。

女優の魅力を最大限に引き出す名人であったプレストン・スタージェスは、生涯、最後にこの<呪われた舞台>でドロレス・グレイという女優を誕生させたといってよいかもしれない。

舞台で彼女が歌った「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は残念ながらレコード化された形跡はない。そのかわり、五六年に録音した『ウォーム・ブランディ』というバラード中心のアルバムが残されている。ドロレス・グレイはジュリー・ロンドンをさらに甘くしたようなエロティックなハスキー・ヴォイスで、夜中に聴いていると病みつきになりそうな魅力がある。

私は、時々、この悩ましいバラード集を聴きながら、プレストン・スタージェスの数奇な運命を想ったりしている。

 

 

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ドロレス・グレイの悩殺的なアルバム『ウォーム・ブランディ』

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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