イタリア映画の魅惑 あるいはマルコ・フェレーリ讃 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
イタリア映画の魅惑 あるいはマルコ・フェレーリ讃

ようやく企画・編集を手がけた吉岡芳子さんの『決定版!Vivaイタリア映画120選』(清流出版)が出来上がった。

佐藤忠男さんの日本映画、中条省平さんのフランス映画に続く国別のムーヴィーガイド・シリーズの第三弾だが、当初から、イタリア映画バージョンをつくるならば、吉岡芳子さんに執筆してもらうことは自明だった。

吉岡芳子さんとは、『月刊イメージフォーラム』の一九八四年十二月号の「現代イタリア映画を<発見>する」特集で、登場していただいて以来のおつきあいである。吉岡さんは、フランス映画社が『一九〇〇年』(76)、『カオス・シチリア物語』(84)などの傑作を立て続けに紹介し、一時、<イタリア映画社>などと呼ばれていた時代から、イタリア映画の字幕スーパーではすでに第一人者であった。以来、フェリーニ、ベルトルッチ、マルコ・ベロッキオ、エルマンノ・オルミといったイタリア映画界の巨匠たちすべての作品の字幕を手がけてきた。

 

吉岡さんは、映画批評家ではないが、長年培ったイタリア映画への真率な情熱では並ぶものがいないし、その信仰告白にも似た愛情あふれる作品解説はどれも読みごたえがある。 

ネオ・レアリズモの端緒とされるルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(42)からベロッキオの『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09)まで、ここに厳選された120本の作品を見れば、間違いなく、ひとかどの<イタリア映画通>になれるはずである。

 

作品選択に関しては、フェリーニほかの巨匠の作品はほぼ網羅されているが、吉岡さん自身の好みも自ずとはっきり出ていて、なかでも特筆すべきは、マルコ・フェレーリの映画が六本も入っていることだ。『最後の晩餐』(73)、『バイ・バイ・モンキー』(77)、『マイ・ワンダフル・ライフ』(79)、『町でいちばんの美女 ありきたりな狂気の物語』(81)、『未来は女のものである』(84)、『I LOVE YOU』(86)と題名を書き写すだけでも、マルコ・フェレーリという特異な映画作家の魅力が伝わってくるようだ。  

 

二〇〇一年から〇二年にかけてフィルムセンターで開催された大規模な特集「イタリア映画回顧展」でも、『猿女』(64)、『男と5つの風船』(68)というマルコ・フェレーリの未公開作品が二本入っていたが、これは恐らく作品選定委員の一人だった吉岡さんの尽力によるものだろう。

『猿女』は、胡散臭い山師ウーゴ・トニャッツィが、救貧院で見つけた体中が体毛で被われた女(アニー・ジラルド)を使って見世物にし、金もうけのショーを始める。ふたりは結婚し、女はやがて妊娠、毛むくじゃらの赤ん坊を生み落として、死んでしまうが、男は彼女の遺体を博物館から盗み出し、ふたたび見世物にするというお話。まるで『フリークス』のトッド・ブラウニングがフェリーニの『道』をリメイクしたら、こうなると妄想したくなるグロテスクな寓話なのだが、広場に集まった大群集の前で、アニー・ジラルドが突然、「ラ・ノビア」を歌い出すシーンに、不思議な感銘を受けたのを憶えている。

 

『男と5つの風船』も、お菓子工場主のマルチェロ・マストロヤンニが、婚約者カトリーヌ・スパークが風船を膨らませるのを見て、興味を覚え、風船に破裂するまでどれぐらい空気をいれられるかというオブセッションに憑りつかれる奇怪な話だ。やがて、乱痴気騒ぎの果てに、マルチェロは自宅のマンションの窓から投身自殺を遂げてしまう。

妊娠したカトリーヌ・スパークが異様に美しかったのが強く記憶に残っているが、フェレーリの映画では、一見、終末的でデカダンな世界を描いていても、澄み切った独特の明るさがあり、奇をてらったような難解さはまったくない。

 

八〇年代のフェレーリのミューズだったオリネラ・ムーティの妊婦姿がひときわ印象的な『未来は女のものである』という題名通り、フェレーリの映画は、すべて<未来は女のものである>というモチーフを飽くことなく語ってやまない。

 

ウーゴ・トニャッツィは、まさに、フェレーリの哲学を体現している奇特な俳優で、初期の『女王蜂』(63)では、豊満な若妻マリナ・ブラディの過剰な性欲に翻弄され、精力を吸い尽くされて、疲労困憊の果てに衰弱して死んでしまう夫を悲哀たっぷりに演じていた。ラスト、彼の葬式で喪服姿のマリナ・ブラディのどこか充ち足りないような不穏な表情のクローズアップがなんと無気味であったことか。

 

『最後の晩餐』では、ウーゴ・トニャッツィは美食家の料理長を演じている。社会的地位のある四人の男たちが、パリ郊外の古い屋敷に集まり、娼婦を呼んで、たらふく食べ、放縦きわまりない酒池肉林の果てに死んでいく壮絶な話であった。

 この映画は、二十歳の頃、公開時に見て、スカトロジーやら何やらが盛り沢山で、とても面白かった記憶があった。だが、中年になってからあらためて見直すと、比較にならない凄絶なまでの感動に襲われてしまった。若い時には深く味到することができない種類の作品というのがあって、『最後の晩餐』は、まさにその筆頭に来る映画ではなかろうか。

 

私が愛聴するアルバム『マルコ・フェレーリの映画/フィリップ・サルド作品集』でも、とりわけ『最後の晩餐』のメランコリックなナンバーは、何度、聴いても決して飽きることがない。この体の芯の奥底にじかに響くような官能的な旋律に比肩するのは、カルロス・ダレッシオのもの憂いピアノ・ソロによる『インディア・ソング』のスコアぐらいではないだろうか。

 

 このアルバムには、もう一曲、スタン・ゲッツのアルト・サックスが自在にブローする抒情的なナンバーが入っていて、ずっと気になっていたのだが、最近、ようやく、その作品を中古ビデオで見つけた。

『ピエラ 愛の遍歴』(83)という映画で、原案はなんとアルベルト・モラヴィアの最後の妻であった『不安の季節』のダーチャ・マライーニである。

幼少時から、男関係に自由奔放な母親エウジェニア(ハンナ・シグラ)に嫉妬と羨望、そして反撥を感じながら成長した娘ピエラ(イザベル・ユペール)の心理的な葛藤をラフなタッチで描いている。ピエラはやがて女優の道を歩む。

マルコ・フェレーリの映画では、浜辺で女たちが佇んでいるイメージが繰り返し現れるが、この作品でも、無人の海辺で、この母娘がお互いの服を脱がし合い、全裸のままに抱き合うというラストシーンが印象的である。

『ピエラ 愛の遍歴』では、冒頭からスタン・ゲッツの「枯葉」が軽快に流れ出し、思わず、陶然となってしまった。スタン・ゲッツは、この大スタンダード・ナンバーを数えきれないほど吹き込んでいるが、この映画で聴ける「枯葉」は彼のベスト・パフォーマンスといってよい。

 

『黄金の七人』に代表されるイタリアン・シネ・ジャズとはまったくコンセプトが異なるオーソドックスな音楽もさることながら、マルコ・フェレーリの映画は、もっともイタリア的な野放図さを感じさせながらも、いっぽうで、既存のイタリア映画のイメージを軽々と越えていくコスモポリタンな魅力が強烈にある。

 マルコ・フェレーリは一九九七年、七十歳で亡くなってしまったが、未公開作品も数多くあり、その全貌はいまだに謎めいているのだ。

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吉岡芳子著『決定版!Viva イタリア映画120選』(清流出版)

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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