「ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」――大島渚追悼 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
「ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」――大島渚追悼


 一月二十一日、大島渚監督の通夜に行く。築地本願寺での映画監督の葬儀に出席したのは、二〇〇一年の相米慎二監督以来のことである。車椅子の鈴木清順、篠田正浩、山本富士子、山田洋次、北野武などの顔が見えて、さながら戦後の日本映画史を支えた映画人が一堂に会したような感があった。

焼香の後で、小山明子さんに、「一昨年、大島さんの『わが封殺せしリリシズム』をつくれたことを嬉しく思います」とお声をかけると、小山さんが隣に立っている息子の武、新さんに、「パパの最後の本をつくった方よ」と話されたので、恐縮してしまった。

 

その訃報以来、大島渚という映画監督の偉業については、ざまざまな人がさまざまな視点で語っているが、ここでは、あくまで私が自分の眼で見た大島さんの印象、思い出を書いてみたい。

 

最初に大島渚監督の姿を見たのは、たしか、一九七〇年代の半ばごろ、当時、先鋭的だった自主上映組織「カトル・ド・シネマ」の最後の上映会が四谷公会堂で行われた時で、『儀式』の上映の後、大島さんをゲストに主催者側とのティーチ・インが開かれた。当時は『白昼の通り魔』や『絞死刑』『日本春歌考』などの大島作品が名画座にかかることは稀で、ホールでの自主上映で見るほかなかったのだ。最初に主催者代表が、『儀式』を批判しつつ、なぜ最終上映に大島作品を選んだのかを説明したが、続く、大島さんの激烈な反批判に、彼らはまったくグーの音も出なかったという記憶がある。 

 

この時に、激烈でポレミークな論客としての大島渚というイメージが、強く印象づけられたのだった。

 

次に、大島さんとじかに会ったのは、『月刊イメージフォーラム』に入った直後の一九八二年である。大島さんは『戦場のメリー・クリスマス』のクランク・インを控えており、ロケ地であるラロトンガ島に出発する直前に、編集部でロング・インタビューを行ったのだ。聞き手はダゲレオ出版代表の富山加津江さんと編集長の服部滋さんで、私は隅の方でただ黙って聞き入っているだけであった。

この時は、さながら大島さんの独演会という様相を呈し、にこやかに、『戦場のメリー・クリスマス』が実現するまでの経緯を、ほぼ三時間、まったく淀みなく語っていた。このロング・インタビューは、『戦メリ』の公開時に出た増刊号『それでもまだ君は大島渚が好きか!?』に収録されたが、大島さん自身は、ゲラに目を通す機会はなかったはずである。

私は、テープ起こしをしながら、その発言が一言一句、まったく訂正する必要のない完璧な原稿として完成されていることに、ただ、驚嘆するばかりだった。こういう稀有な人物は、私が知る限り、詩人の谷川俊太郎さんだけである。

 

このインタビューの際に、強く印象に残ったことがある。富山加津江さんが、大島さんの発言に反応して、ふっと笑ったのだが、大島さんが、突然、激昂し「笑うな!」と大声で叫んだのである。その場が、一瞬、凍りついたようになり、次の瞬間、大島さんは、なにごともなかったように、また、にこやかに笑いながら、話し始めたのだが、あの一瞬の憤怒に満ちたような一喝は、いったいなんだったのだろうと思う。

それは、明らかに、『朝まで生テレビ』での視聴者を意識した上でのパフォーマティブな「バカヤロー!」発言とは次元が違う異様な迫力に満ちていた。

 

しばらくして、私は、ふと、『同時代作家の発見』(三一書房)に収められた「『仁義なき戦い=深作欣二』という卓抜な大島さんのエッセイを思い出した。

 

大島さんは、昔、アテネ・フランセ文化センターの全作品連続上映で、ある学生から、「ヤクザ映画を一回撮ってみたらどうですか?」と質問された際、「その時私の体をつんざいた理不尽な怒りの記憶は、今も私のなかになまなましい」と書いている。そして、「それはどういう意味ですか?」と語気荒く言い返し、激情に駆られて、その学生と言い合いになってしまい、最後には、「私はヤクザ映画を撮らないのではなく、撮れないのだ!」と強弁したままにもの別れとなった気まずい顚末を振り返っている。

 

当時、ATGとの提携による一千万映画の映画つくりに疲れ果て、なんらかの方向転換を模索していた大島さんにとって、その学生の質問は最大級の好意的な申し出であるかもしれないと、一応、理解を示しながら、しかし、と大島さんは次のように書く。

「あの時、私にはその好意がわかっていたのだ。しかしそれは好意であるだけに私の窮境へグサリと突き刺さるものだった。痛さに私は飛びあがったのだ。そして、跳ねた。ありとあらゆる論理の鎧で身を守ろうとした。それはボロボロの新聞紙の鎧であったけれども。」

 

私は、一昨年、大島渚とは、一般に知られたラディカルな戦後日本映画の変革者としての貌とは別に、過敏なまでのセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持った芸術家であるという視点からエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)を編纂した。しかし、さらに裏を返せば、大島さんは、その自ら封印した柔らかでリリックな部分に触れられそうになると、制御しがたい理不尽な怒りが込み上げてくるという実にやっかいな映画作家でもあったのだと思う。

 

その後、大島さんには、一九九〇年ごろ、私が編集長をやっていたビデオ業界誌『A?ストア』の創刊号でもインタビューをしているが、その時には、ビデオ・レンタル全盛時代の映画作家の悲惨と不幸をユーモアたっぷりに語ってくれた。さらに、デビュー当時に熱烈に擁護した花田清輝や斎藤龍鳳のことを懐かしげに回想していたことなども思い出される。

 

小山明子さんは、テレビで、最後に大島さんが大好きだったお酒を唇にしめらせて飲ませたエピソードを語っていたが、私も一度だけ、大島さんと酒席をともにしたことがある。

 

あれは、やはり、一九九〇年の真夏の暑い時期だったと思う。新橋にあるTCC試写室でヨリス・イヴェンスの『風の物語』の試写があり、見終わって出口のところで映画評論家の松田政男さんに声をかけられた。そして、そのうしろには大島監督がいて、なぜか、三人で新橋のガード下の汚い居酒屋に流れたのだ。大島さんは洒落た絣の和服を着ていたと思うが、当時、大島さんはテレビのワイドショーに出まくっていた時期だから、周りの昼間から酒を飲んでいる労働者風の男たちがびっくりしていたのをよく憶えている。

冷奴をたのみ、生ビールを何杯も飲み干しながら、見たばかりのヨリス・イヴェンスの新作をこき下ろす大島さんがなんとも痛快であった。ちなみに、この時は、大島さんに奢っていただいた。

 

大島さんは、その生涯に膨大なインタビュー、発言を残しているが、今、私がもっとも強く印象に残っているのは、かつて読売新聞の林玉樹が、「同じ松竹大船育ちで、自己完結的な世界をつくる山田洋次に対して、大島さんは自分に不便なもの、夾雑物と格闘するタイプである」と指摘したのを受けた、次の言葉である。

「ひと口でいうと、ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」

 

 大島映画が甘美な自己陶酔とはほど遠い、独特の居心地の悪さ、挑発性を秘めているのは、見る者が、この大島さんの<悶え>に共振するせいなのだと思う。

 


わが封~1.jpg

大島渚著『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
バックナンバー
検索