寺山修司とネルソン・オルグレン - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
寺山修司とネルソン・オルグレン

 

 今年は寺山修司の没後三十周年に当たる。私が、寺山さんに初めて面識を得たのは亡くなる三か月ほど前のことだった。ちょうど、その頃、谷川俊太郎さんとの映像による往復書簡『ビデオレター』が完成したので、『月刊イメージフォーラム』で、この作品をめぐって二人に対談してもらったのだ。挨拶をすると、寺山さんはあの鋭い、しかし人懐こそうな眼で、一瞬、私を見すえた。

当時、寺山さんはすでに重度の肝硬変のために椅子に坐ることさえ大儀そうな感じで、編集部のソファに横になったままの状態で、谷川さんと対話しているのがなんとも痛々しかった。

 

この対談で、ひときわ印象深かったことがある。谷川俊太郎さんの発言は明晰そのもので、まとめたテープお越しの原稿にもまったくといってよいほど直しは入らなかった。そして、その原稿を渋谷の天井桟敷に届けたのだが、後日、戻ってきた原稿を一読して、あっと驚いた。寺山さんの発言部分がまったく原型をとどめないほどに書き直されていたからである。しかも、その場での発言とは似て非なる、まったく関係のない言葉のみが加筆されているのにもかかわらず、対談そのものは、谷川さんの発言にきちんと対応して成立しているのだ。

 

私は、この時、遅ればせながら、完璧なまでに、<虚構の人><言葉の人>としての寺山修司を目の当たりにしたという気がする。

寺山さんは、自ら<職業は寺山修司>と名乗ったほど、詩人、劇作家、脚本家、小説家、評論家、演出家、映画監督とあらゆる領域での八面六臂の活動で知られたが、たとえば、映画作家としては、生涯、フェリーニの視覚的なスタイルを引きづり、その影響下から抜け出せなかったのではないかと思う。その中でも、私は、初期の劇作『大人狩り』に想を得たと思しき『トマトケチャップ大帝』が、もっとも寺山さんの<アンファンテリブル>な資質が出ていて好きだ。

 

俳句、短歌においては、まぎれもなき天才であった寺山修司は<引用>の達人でもあった。<書を捨てよ、街へ出よう>という高名なるアジテーションにもかかわらず、私にとっては、魅惑的な書物の世界へと誘う最良のチチェローネ(案内人)のひとりであった。

 

たとえば、寺山修司のエッセイによって、私はネルソン・オルグレンという作家を知った。シカゴのスラム街を舞台に、ギャンブラーやボクサー、不具者、貧しい移民たちを好んで描いたネルソン・オルグレンは、寡作にもかかわらず、なぜか作品が二本も映画化されている。オットー・プレミンジャーの『黄金の腕』、そしてエドワード・ドミトリクの『荒野を歩け』である。

『黄金の腕』と『荒野を歩け』は、いずれもソウル・バスの傑作なタイトル・デザインと音楽をエルマー・バーンスタインが担当していることで映画ファンに記憶されている。

 

『黄金の腕』は、主人公のポーカーの名手フランキー・マシーンをフランク・シナトラが演じて、本格的なハリウッドへのカムバックを果たした作品として知られている。当初、シナリオにも参加したオルグレンは、原作では麻薬中毒の果てに自殺するフランキーが、恋人のキム・ノヴァクと共に更生の道を歩むというハッピーエンドに改変させられたことに激怒し、降板したと言われる。

私は、むしろ車椅子に乗った妻を演じたエリナー・パーカーが強く印象に残っている。たしか、虫明亜呂無も、あるエッセイで、彼女の生涯最高の演技だと絶賛していたのを読んだ記憶がある。

 

『荒野を歩け』は、昔、テレビで見たきりだが、ローレンス・ハーヴェイ、ジェーン・フォンダ、アン・バクスター、キャプシーヌ、バーバラ・スタンウィックという超豪華なキャスティングにもかかわらず、猫が歩いている秀逸なタイトルだけを覚えている。

 

ちょうど、その頃、一九七〇年代後半に、ハヤカワ文庫から『黄金の腕』の完訳と、晶文社から『荒野を歩め』(三谷貞一郎訳)が続けて刊行されたのですぐに読んだ。とりわけ、『荒野を歩め』は、不具者がぞろぞろ出てくるし、散文詩のような独特の文体のせいもあって、むしろ、ルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』を思い起こさせた。<スラム街の詩>という形容がもっともふさわしい作品に思えた。

 

寺山修司が絶賛していた『朝はもう来ない』は、長谷川四郎の名作『遠近法』を出していた書肆パトリアという小さな出版社から発行されていたが、なかなか見つからず、神田の古本屋でようやく安価で発見した時はうれしかった。『朝はもう来ない』は、一九八七年には河出書房新社から同じ宮本陽吉の翻訳で完訳が出たが、私は、カバーのデザインも含めて、この書肆パトリア版を気に入っている。

シカゴの貧民街を舞台に、ブルーノ・バイセックという不良少年がヘビー級チャンピオンを夢見るが、仲間たちの横やりで挫折する、という物語は、いかにも寺山修司好みで、寺山さんの処女小説『ああ荒野』、そして東映で撮った清水健太郎主演の『ボクサー』の原典は、まちがいなく『朝はもう来ない』だろう。

 

『朝はもう来ない』と『黄金の腕』を最初に称賛したのは、ジャン=ポール・サルトルで、そのパートナーであったシモーヌ・ド・ボーヴォワールとネルソン・オルグレンが長い間、愛人関係にあったことはよく知られている。

 

 ボーヴォワールの『アメリカその日その日』(人文書院・二宮フサ訳)を読むと、初めてのアメリカ旅行に同行したネルソン・オルグレンが印象的に描かれている。

 たとえば、ニューヨークを一緒に散歩している時に、オルグレンが発した「シカゴにはユダヤ人街はない」という言葉に触発され、アメリカの反ユダヤ主義の跋扈に思いをはせる。あるいは、「シカゴ人の眼でニューヨークを発見する彼を見ていると面白い」といったオルグレンへの親密な感情を吐露した記述にたびたび出会うのである。

 

 私が一番好きなネルソン・オルグレンの作品は『スティックマンの笑い』という短篇だ。ギャンブル狂の男が給料日に家に帰ると、女房は不在で、がっかりした男はふらふらと外へ出る。ダイスの勝負に賭け、有り金を全部すってしまい、泥酔して帰宅すると、妻がいて――。というお話だが、ラストの一行がいい。

 

 この短篇は、むかし、白水社から出ていた『現代アメリカ短篇選集?』に収められていたが、最近、『20世紀アメリカ短篇選上』(岩波文庫・大津栄一郎編訳)にふたたび収録された。やはり、名篇なのだろう。

 

 寺山修司によって見出され、映画にも縁が深かった作家ネルソン・オルグレンを決してわすれてはならない。

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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