『そこのみにて光輝く』と一九七〇年代、ニューシネマの記憶 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
『そこのみにて光輝く』と一九七〇年代、ニューシネマの記憶

 さる三月二十一日の夜、赤坂BLITZで「我が青春のパック・イン・ミュージック」なる気恥ずかしいタイトルのイベントがあり、私も一員である「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」に招待チケットが回ってきたので、のこのこと出かけて行った。久々に何人かのメンバーに再会し、林美雄夫人の文子さんにもご挨拶ができた。会場は五十代、六十代でぎっしりと埋めつくされていた。小島一慶と兵藤ゆきの司会で、山崎ハコ、山本コウタロー、小室等のミニライブがあり、客席には、パックでパーソナリティだったTBSの元アナウンサー桝井論平の顔も見られ、さながら、パックの同窓会の様相を呈した。

 

 私がパックをもっとも熱心に聴いていたのは、林美雄さんが金曜第二部を担当していた一九七四年の八月までである。だから、一九八二年まで続いたパックの終了時の記憶はまったく欠落している。ただ、この夜のイベントで改めて実感したのは、パック・イン・ミュージックの歴史の中で、超メジャーの野沢那智と超マイナーの林美雄というすでに鬼籍に入った二人の存在がいかに大きかったかということだ。

 

「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」では、一時、もし林美雄が生きていたら、絶賛したであろう新作映画を各人が推薦しようという呼びかけがあったが、最近、これは、絶対に林さんが狂喜するだろうと思える映画を見た。

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』だ。原作は一九九〇年に四十一歳で自死した作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。

村上春樹と同世代の佐藤泰志は、その小説を読むと、同時代の映画の引用が目につき、かなりの映画狂であったことがわかる。作り手たちもそのことを意識していると思しく、映画『そこのみにて光輝く』は、一九七〇年代のアメリカン・ニューシネマやATGの青春映画、初期の日活ロマンポルノの記憶を刺戟するような不思議な魅力をたたえている。

たとえば、主人公の達夫(綾野剛)と拓児(菅田将暉)がパチンコ屋で、百円ライターをきっかけに知り合うシーンは、『スケアクロウ』(73)の冒頭、最後の一本のマッチがきっかけで、ジーン・ハックマンとアル・パチーノが意気投合する場面を、思い起こさせる。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫は、バラックのような拓児の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、東京の川向うの浦安を舞台に、行き場のない女たちの淀んだ日常を描いた曾根中生の『色情姉妹』(72)を彷彿とさせる。

さらに、自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が、人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、神代辰巳の『恋人たちは濡れた』(73)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感や閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。

 

絶えず煙草を吸い、よるべない怒りや焦燥をもてあます綾野剛、絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴、ノンシャランな存在感が『共食い』以上にリアルに迫ってくる菅田将暉、それぞれがベストパフォーマンスと言えるすばらしさだ。だか、私は、この映画では脇役がひときわ光っていると思う。千鶴の愛人で気勢をあげながらも、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長を演じた高橋和也の浅ましさ、そして、かつて達夫の上司で、達夫の「家族持ちたくなったんだ」という言葉に、「バカか、俺を見れ、誰もいねえ、……それでいいんだ」と自嘲気味に呟く火野正平の深い皺が刻み込まれた異貌は、忘れがたい強烈な印象を残す。

 

俳優たちの自在でのびやかな演技を引き出した呉美保監督の演出手腕も見事だが、七〇年代ニューシネマのルックを意識した撮影の近藤龍人も特筆すべきだろう。深夜、函館のネオン街をあてどない不眠症患者のごとく徘徊する達夫に寄り添うキャメラは、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(73)で、夜のロサンゼルスを彷徨うフィリップ・マーロウをとらえたヴィルモス・ジグモンドの魔術的なキャメラワークを想起させる。 

画面からにじむような橙色の光が氾濫する『そこのみにて光輝く』の海辺のラストシーンを見ながら、私が思い出していたのは、フランク・ペリーの『去年の夏』(69)だった。まぎれもなく藤田敏八の『八月の濡れた砂』(71)に影響を与えた、このニューシネマの隠れた秀作は、夏にもかかわらず、全篇にわたって、陽光がさすことはなく、空はどんよりと曇り、橙色のくすんだ色調で染まっていたという記憶がある。しかし、ある意味では、『八月の濡れた砂』以上に残酷で、悲痛な結末を迎える『去年の夏』とは対照的に、『そこのみにて光輝く』は、かすかな希望にも似た曙光に満たされて、幕を閉じる。

 

『そこのみにて光輝く』は、今の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出しながらも、いっぽうで、一九七〇年代という時代をめぐって思いを馳せるような、稀有な思索的な映画である。 

 

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呉美保監督『そこのみにて光輝く』

(C) 2014 佐藤泰志 / 「そこのみにて光輝く」製作委員会

 

*お詫びと訂正

 

前々々回のコラム「『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について」の中で、球磨元男氏について(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)と書きましたが、読者の方から、球磨氏は「東宝東和の宣伝部に勤めていらした方」であるとご指摘をいただきました。ここにつつしんでお詫びし、訂正いたします。

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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