クラス・マガジン『話の特集』が輝いていた時代 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
クラス・マガジン『話の特集』が輝いていた時代

 今年の一月、築地本願寺で行われた大島渚監督の通夜で、近くに坐った老人に見覚えがあった。誰かと思い、すぐに矢崎泰久さんであることに気づいたが、ちょっと声をかけそびれてしまった。

二〇一一年七月、茅場町の森岡書店で故・草森紳一さんの「本は崩れず」という写真展が開かれ、南陀楼綾繁さんを聴き手に、『話の特集』編集長の矢崎泰久さんが草森さんの思い出を語るトークショウがあった。その席で、私が虫明亜呂無のエッセイ集をつくったことを告げると、矢崎さんは、嬉しそうに、「虫明さんについてはとっておきの面白い話がいっぱいあるので、今度、ゆっくりお聞かせしましょう」と話していたのだが、なんとなくそのままになってしまっていたのだ。

 

今、『話の特集』という名前を聞いて、ある種、眩いイメージを覚えるのは、私の世代が最後かもしれない。

一九七〇年、当時、中学三年生だった私が初めて書店の店頭で『話の特集』を手にした時の言い知れない衝撃は鮮明に覚えている。度重なる引越しで、『話の特集』のバックナンバーは、ほとんど処分してしまったのだが、この七〇年五月号だけは、なぜか手許に残っている。

表紙はエロティックな宇野亜喜良のイラストで、カラーグラビアは柳沢信の「SCORPIO」、耳朶にサソリの刺青をした女がヌードを披露している。ちなみに、このモデルとなった、当時、天井桟敷に在籍していた市川魔子というアングラ女優は、六年後、世界的に名前が知れ渡ることになる。『愛のコリーダ』の松田瑛子である。 

 

 私はすぐに定期購読を申し込んだが、『話の特集』には「緑色ズックカバーのノートブックから」という植草甚一の連載があり、次の号の「夢のドキュメンタリーとしてのフェリーニの『サテリコン』がどんなに素晴らしいかモラヴィアが語ってくれた」というエッセイにすっかり魅了された。この連載は七〇年の秋に、『ぼくは散歩と雑学が好き』(晶文社)になり、私は熱烈な植草甚一ファンとなってしまった。その頃、晶文社に植草甚一の映画の本を出してほしいと投書したことがあり、翌々年だったか、『映画だけしか頭になかった』が刊行された時には、我がことのように嬉しかった。

 あの頃、晶文社からは毎月、新刊案内のハガキが届いたが、七三年には植草甚一責任編集の雑誌『ワンダーランド』創刊の告知が届き、なにか新しい時代が始まるというワクワクするような胸騒ぎの予感を覚えたものである。

 

 私がもっとも熱心に『話の特集』を読んだのは、この一九七〇年代前半の数年間だったと思う。後に『東京のロビンソン・クルーソー』(晶文社)に収録される小林信彦のコラム「世直し風流陣」、虫明亜呂無の『ロマンチック街道』、色川武大の『怪しき来客簿』などの連載も夢中になって読んだ。 

 

私は、上京後、古本屋で初期の六〇年代の『話の特集』を見つけては購入していた時期があるが、『話の特集』のエッセンスは、レイアウトを担当した和田誠の傑出した才能に負う部分が大きいこともわかってきた。文章と写真・イラストをまったく同格でとらえた斬新な発想はまぎれもなく和田誠によるものだった。いっぽうで、矢崎泰久好みの硬派なジャーナリズム精神は、たとえば、竹中労の『メモ沖縄』『公開書簡』のような連載に体現され、この<遊び>と反権力志向のフシギな共存こそが、一時期の『話の特集』の面白さを支えていたように思う。

 

一九七〇年代の後半になると、矢崎泰久が<革自連>を結成して、政治活動に走ってしまい、『話の特集』も、戦後民主主義礼讃ふうの微温湯的な<良識>で誌面が覆われて、つまらないものになってしまった。

そして、惰性で買っていた感のある『話の特集』をそろそろ止めようかと思っていた矢先、一九七六年一月号から山田宏一の「わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」の連載が始まったのだ。

山田宏一さんは、その数年前「キネマ旬報」で連載していた「シネ・ブラボー!」を突然、中断し、自ら映画批評家失格宣言をして、ファンとしては心を痛めていた。それだけにこの新連載はうれしい驚きであった。恐らく、『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社)の翻訳、マキノ雅弘の自伝『映画渡世』(平凡社)の取材、執筆を始めていた時期に重なると思うが、とにかく歴史的な名著『友よ映画よ――わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』が、『話の特集』に連載されていたことは記憶されてよい。

 

そして、山田さんの「わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」のバトンをリレーするかのように、蓮實重彦の連載「シネマの扇動装置」が一九七七年一月号から始まった時には、またしても驚かされた。というのも、当時、蓮實さんの映画評論集はまだ一冊もなく、ごく一部の映画ファンの間で、その独特の文体の影響が感染症のようにじわじわと拡がっていた時期であったからだ。私の周囲でも、毎月、「今月の『話の特集』のハスミ、読んだ?」が合言葉のように飛び交っていたのをよく憶えている。

 

私が「シネマの扇動装置」でもっとも鮮明に記憶しているのは澤井信一郎監督のデビュー作『野菊の墓』を論じた文章である。森田富士郎の絶妙なキャメラワークに着目し、新人らしからぬ見事な画面造型を絶賛した一文に、まさに扇動されるように、東映の封切館に足を運び、深い感銘を受けたのだ。

 

後に、澤井信一郎監督から直接、聞いた話であるが、角川映画で第二作目の出世作『Wの悲劇』を撮ることになったのは、角川のブレーンが、『話の特集』の蓮實さんのコラムを読んで、澤井さんを大抜擢したためだという。「僕にとっては、人生を決めたみたいな批評で、蓮實さんにはすごく感謝しています」と澤井さんが語っていたのが強く印象に残った。世の中には、ひとりの映画人の人生を左右してしまうような批評というものがあるのだ。

 

このふたつの連載を企画・担当したのは鈴木隆という名編集者だった。鈴木隆さんは山田さん、蓮實さんから絶大な信頼を得ていたが、実際、金井美恵子姉妹が司会する「マッド・ティー・パーティ」とかこの時期の『話の特集』の面白い連載はすべて鈴木隆さんの発案によるものである。

鈴木隆さんは、後に上野昂志さんの名著『映画=反英雄たちの夢』(話の特集)を編集してもいるが、『話の特集』を退社後、独立してメディア・フロントという編集プロダクションを立ち上げた。蓮實重彦、山田宏一監修によるビデオシリーズ「リュミエール・シネマテーク」を制作し、一時、入手困難であった非売品の蓮實、山田両氏の対談集『傷だらけの映画史――ウーファからハリウッドまで』(後に中公文庫)を編集したのも鈴木さんである。

 

あれは一九九三年だったろうか。当時、私が編集長をしていたビデオ業界誌『A?ストア』が経営危機で廃刊となり、傑作『死んでもいい』を撮った石井隆監督のロング・インタビューの原稿が宙に浮いてしまった。そこで、私は当時、『話の特集』にいた友人に強引に頼み込み、なんとか石井隆インタビューはオクラにならず、『話の特集』に掲載することができた。この時には、私もいささかの感慨を覚えた。

 

『話の特集』が休刊したのは一九九五年で、もう二十年近くの歳月が流れてしまった。日本のカウンター・カルチュアを象徴するクラス・マガジン『話の特集』は、<映画>をめぐる貴重で歴史的な言説が刻まれた雑誌でもあったことを忘れてはならないと思う。

 

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宇野亜喜良のイラストが表紙の『話の特集』一九七〇年五月号

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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