今年の東京フィルメックスは、中村登とジャン・グレミヨン特集など気になるプログラムもあったのだが、仕事に追われ、あまり通えなかった。ただ、どうしてもツァイ・ミンリャンの新作『ピクニック』だけは見たかった。
というのも、ツァイ・ミンリャンは、今年のベネツィア国際映画祭の記者会見で、「『ピクニック』で監督を引退する」と表明していたからだ。四年前の東京フィルメックスでオープニングを飾った前作の『ヴィザージュ』(09)は結局、一般公開されなかった。恐らく、『ピクニック』もどこの配給会社も買わないだろうし、私は、これが最後の機会になるだろうと思い、今回、来日したツァイ・ミンリャンにインタビューを申し込み、その真意を聞いてみたいと思ったのだ。
『ピクニック』は、まさにツァイ・ミンリャンにしか撮れない、とてつもない映画だった。台北の街頭で高級住宅地のPRの看板を持って一日中立ち続けるリー・カンション。二人の幼い子供はスーパーマーケットの試食品コーナーを徘徊し、彼らは廃屋となったビルの一室で寝泊まりしている。この世界から打ち棄てられ、壮絶な貧困と孤立を強いられた家族の光景を、ツァイ・ミンリャンは、驚異的な長回しによって凝視し続ける。その果てに、夢とも現ともつかぬ不可思議な〈時間〉が流れ出す。こういう稀有な体験は、今や、ツァイ・ミンリャン以外の作品では味わうことができない。
私は、『ピクニック』を見ながら、『愛情萬歳』(94)を思い出していた。高度経済成長下の台北を舞台に、高級マンションの不動産セールスレディ、ヤン・クイメイが抱える孤独と空虚が鮮烈に描かれ、ベネティア映画祭で金獅子賞を受賞した傑作だった。この映画を配給したプレノン・アッシュは、その後も『Hole』(98)、『楽日』(03)、『西瓜』(05)、『黒い眼のオペラ』(06)とツァイ・ミンリャンの映画を公開し続けた。
私は、これらの作品のパンフレットをすべて編集していたので、ツァイ・ミンリャンの映画がいかに一部で熱狂的なファンを擁しながらも、興行的には厳しい苦戦を強いられていた現実をよく知っている。プレノン・アッシュは、残念ながら、今年、倒産してしまったが、私は、大ヒットを飛ばしたウォン・カーウァイ作品よりも、むしろツァイ・ミンチャンの映画を持続的に配給した功績によって、プレノン・アッシュは永く評価されるべきだと思う。
『ピクニック』には、冒頭で二人の子供を見守る守護天使のようなヤン・クイメイが登場し、さらに、ルー・イーチン、後半には母親とおぼしきイメージを背負ったチェン・シャンチーと、ツァイ・ミンリャンの映画の常連だった女優たちが、次々に現れる。
この謎めいた女たちについて、ツァイ・ミンリャンは、こんなふうに語っている。
「私は、当初、ルー・イーチンだけをキャスティングしていたのですが、クランク・イン前にひどく体調を崩してしまい、もしかしたら、これが最後の映画になるのではないかと危惧しました。そこで、これまで私の映画に出てくれたヤン・クイメイ、チェン・シャンチーにも急遽、出演してくれるように声をかけたのです。役柄などは別に考えもしませんでした。この映画では、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチーの三人がひとりのキャラクターを演じているといってよいかもしれません。しかし、映画が出来上がってみると、もう、そんなことはどうでもよいと思えるようになりました。」
ツァイ・ミンリャンは、もはや通常の意味でのプロットや物語を語ることにまったく興味がない。意図や主題をめぐって積極的に云々することもない。彼は、主演のリー・カンションについて話題が及んだ時にのみ、心底、饒舌になるのだった。
デビュー作『青春神話』(92)以来、すべてのツァイ・ミンリャンの映画に主演しているリー・カンションとの関係は映画史的にも極めてユニークである。ツァイ・ミンリャンは、「私の映画には、ただリー・カンションの顔だけがあるのです。」とまで断言するのだが、それは、彼が『ふたつの時、ふたりの時間』(01)で引用していた『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォーとジャン・ピエール・レオとの関係とはやや異なるように思う。
トリュフォーは、ジャン・ピエール・レオーを主演にしたアントワーヌ・ドワネルものにおいて、自らの過去を、ある距離をもって、トラジコミカルに回顧、再構成しているが、ツァイ・ミンリャンにとって、リー・カンションという俳優は、映画を作り続ける根拠そのもの、創作というイマジネーションの絶えざる霊感源にほかならないからだ。それは、一時期のジャン・コクトーの映画におけるジャン・マレーのような存在と言ってよいかもしれない。
ツァイ・ミンリャンは、この映画でも、リー・カンションが、ただひたすら食べること、排泄する光景を注視し続けるのだが、とりわけ、彼が子供たちがいなくなった蒲団の上で、キャベツをむさぼり喰う、愛と憎しみが複雑に入り混じった、おぞましくも悲痛に満ちた行為を長回しでとらえたショットは、名状し難い感銘を与える。
その直後に、大雨の中、リー・カンションが子供たちを連れて河上のボートに乗せようとする瞬間、ルー・イーチンが木の上から二人を救出する幻想的な場面がある。ここでのリー・カンションは明らかに邪悪なイメージを身にまとっているのだが、ゆくりなくも、ある一本の映画を連想させずにはおかない。チャールズ・ロートンの『狩人の夜』(55)である。
リー・カンションは、河上でボートに乗った孤児の兄妹に襲いかかる殺人鬼の牧師ロバート・ミッチャムの恐ろしくも甘美で夢魔的なイメージを体現し、そしてルー・イーチンは、ライフルを持ってふたりを守ろうとするリリアン・ギッシュの神話的なイメージにぴったりと重なるのだ。
そのことを指摘すると、ツァイ・ミンリャンは、あえてことさらにシネ・フィル的に言及することはしなかった。だが、昨年、『サイト・アンド・サウンド』誌による映画監督が選ぶ映画史上のベストテンというアンケートで、ツァイ・ミンリャンは『狩人の夜』を選んでいるのだ。無意識のうちに、『ピクニック』を撮っている際、あの呪われたカルト・ムーヴィーの記憶が揺曳していたことは充分に考えられると思う。
予定の一時間を超えてもなお、ツァイ・ミンリャンは率直に現在の心境を語ってくれた。その一端は、いずれ『キネマ旬報』誌上で、ご紹介できるかと思う。
そして、公開はとうてい無理かと思われた『ピクニック』だが、ムヴィオラが配給することが正式に決定したようだ。アートフィルムが冬の時代を迎えている今、ムヴィオラの大英断には心から敬意を表したいと思う。
ツァイ・ミンリャン監督『ピクニック』