桂ゆきとジャン・ジュネ - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
桂ゆきとジャン・ジュネ

先日、東京都現代美術館で開催中の「桂ゆき ―ある寓話―」展(4月6日―6月9日)を見てきた。桂ゆきの生誕百年を記念して開催された個展で、これほど大規模なものは東京でも恐らく初めてであろう。コルクや布を使ったコラージュ、お伽噺に想を得た動物や妖怪が闊歩するユーモラスな寓話まで、広い会場を埋め尽くす、抽象から具象へと自在に往還するその壮大な作品群には、ただ圧倒されるばかりであった。 

 

会場には、私が八年前に企画・編集した『余白を生きる 甦る女流天才画家・桂ゆき』(清流出版)が積まれてあった。現在、入手できる桂ゆきの唯一のエッセイ集であり、この本をつくっておいてよかったとつくづく思った。

 

私が桂ゆきという画家を知ったのは、花田清輝の著作を通じてである。一九七〇年代の半ば頃、私は当時亡くなったばかりの花田清輝の魅力に憑りつかれ、古本屋で見つけては片っぱしから花田の本を購入していた。なかでも、『さちゅりこん』(未来社)、『冒険と日和見』(創樹社)、『乱世今昔談』(講談社)『俳優修業』(講談社)、『随筆三国志』(筑摩書房)は桂ゆきの装幀・挿絵で、その大胆不敵な奇想とユーモア、諷刺と諧謔に満ちた作品は、強烈な印象を与えた。

 

一九八〇年代の半ば頃、私は、『月刊イメージフォーラム』の編集部を辞めた後に、『一枚の繪』という美術雑誌の編集部に数年間務めていた。竹田厳道というカリスマ的で超ワンマンな会長が君臨するかなり特異な会社であったが、この雑誌で、桂ゆきさんの自伝的回想を連載することになり、私が担当することになった。

毎月一度、新宿の余丁町にあった桂さんのアトリエに原稿を取りに伺い、手料理をごちそうになりながら、数時間、過ごすのが、私の唯一の楽しみとなった。

 

桂ゆきさんは、戦後、岡本太郎の誘いで、日本のアヴァンギャルド芸術運動の拠点となった「夜の会」に入ったが、桂さんから、当時のメンバーであった埴谷雄高、花田清輝、安部公房たちのゴシップを交えた回顧談を聞くのは、まさに至福の時間であった。とりわけ、<意地悪ジイサン>の異名をもち、辛辣な皮肉と毒舌をもってなる花田清輝が、桂さんのアトリエを訪れた時にはいつも、シャイで下を向いて顔をあわせることもなく、ほとんど話すらしなかったというエピソードは、何度聞いても、可笑しくてならなかった。

 

桂ゆきさんは、一九五六年に渡仏し、以後、ヨーロッパ、アフリカの奥地、そしてアメリカにわたって、数年後に帰国し、一冊の旅行記を書き上げる。一九六二年に光文社からカッパブックスとして刊行された『女ひとり原始部落に入る――アフリカ・アメリカ体験記』である。

この傑作旅行記の帯は当時、気鋭の作家だった大江健三郎が書いているが、一躍、ベストセラーとなり、翌年には、当時、まだ権威があった毎日出版文化賞を受賞している。

 

『女ひとり原始部落に入る』には、アフリカの原地人の奇怪な風習や猛獣狩りに参加し、バッファローの大群に襲われるという、恐ろしくも抱腹絶倒な体験の数々が綴られている。

たとえば、映画がらみの話題でいえば、中央アフリカの小都市バンギの空港で、突然、オーソン・ウェルズ、ジュリエット・グレコ、エロール・フリンらハリウッドのスターと遭遇するエピソードが興味深い。ジョン・ヒューストン監督の『自由の大地』のロケ隊が、この地で撮影を行っていたのだ。ここで見かけたエディ・アルバートとは、後に、桂さんがニューヨークに住んだ時に知り合いとなる。桂さんは、グリニッジ・ヴィレッジで絵画制作の傍ら指圧のアルバイトをしていたのだが、エディ・アルバートの紹介で、フランスの名優ミッシェル・シモンから顔面神経麻痺の治療を頼まれる話もじつに面白い。

 

桂さんは、ご自身は、美術家として映画の現場に関わることはなかったが、映画雑誌には何度か登場している。「キネマ旬報」の一九五六年九月下旬号では、「『夜の河』をめぐって」というタイトルで、吉村公三郎監督、文芸評論家の十返肇と鼎談している。あの吉村監督、最初のカラー作品の独特の色彩感覚について鋭い卓見を述べていた記憶がある。

同じく「キネマ旬報」の一九六五年五月下旬号では、羽仁進監督がアフリカ・ロケをして話題になった『ブワナ・トシの歌』をめぐって、羽仁監督と対談し、楽しそうにアフリカ談義をしている。

 

『女ひとり原始部落に入る』でも『余白を生きる』でも、最も忘れがたい印象を残すのは、パリのセーヌ河畔の古本屋で出会ったジャン・ジュネのエピソードである。桂さんはジュネと意気投合し、ジュネは、二十部限定の戯曲『バルコン』をプレゼントし、サインしてくれたという。帰国しても手紙のやりとりがあり、「映画『羅生門』に出てくる若者はよかった。日本にはあんな男が大勢いるのか? 今度、ぜひ、日本に行きたい」としきりに熱っぽく語っていたという。

 

桂ゆきさんとジャン・ジュネの話題になった時に、私は見たばかりの『愛の唄』(50)の話をした。『愛の唄』はジャン・ジュネが監督した唯一の映画で、フランスはもちろんアメリカでも上映禁止となった伝説の作品である。刑務所の囚人と看守の恋愛をテーマにしているが、大島渚監督が『戦場のメリー・クリスマス』を撮る際に、もっともインスパイアされたと公言していた映画でもある。

 

当時、『愛の唄』は、新宿厚生年金会館の裏手にあったアートシアター新宿でたびたび上映されていた。佐藤重臣の主催する黙壺子フィルム・アーカイブスの提供で、当時、ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』ノーカット版、トッド・ブラウニングの『フリークス』と並ぶ定番の人気作品だった。上映前に、佐藤重臣の解説がいつも付いていたが、とくに、ペニスを丸出しにした全裸の黒人が看守への愛に打ち震えて踊り出すシーンなど、メルヘンのような幻想的な味わいがあった。

 

『愛の唄』の話をすると、桂ゆきさんは、眼を活き活きと輝かせ、こんど、ぜひ、その映画に連れて行ってほしいと、しきりにおっしゃていた。

 

私は『月刊イメージフォーラム』時代に、佐藤重臣の回顧録ふうな連載「祭りよ、甦れ!」を担当していたので、重臣さんがいかに花田清輝に影響されていたのかをよく知っていた。花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』こそが、佐藤重臣の<アングラ志向>の原点なのであった。

その花田清輝がもっとも尊敬していた画家が桂ゆきさんであった。だから、私も、このふたりを引き合わせることを密かに楽しみにしていたのだが、一九八八年に佐藤重臣が脳出血で急逝し、続いて、アートシアター新宿も閉館してしまった。

 

私も、その頃、『一枚の絵』を退社してしまったが、桂ゆきさんとのおつきあいは続き、八九年、東京画廊の「桂ゆき」展に出かけてご挨拶をしたりもした。だが、桂ゆきさんもその後、体調を崩されて東京女子医科大附属病院に入院され、一九九一年、急性心不全で逝去された。

 

今でも、私の唯一の心残りは、桂ゆきさんにジャン・ジュネの『愛の唄』を見せられなかったことである。

それにしても、『愛の唄』を含む、あの非合法なトンデモナイ黙壺子アーカイブスの幻の作品群はどこにいってしまったのだろうか。

 

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桂ゆき著『余白を生きる――甦る女流天才画家 桂ゆき』(清流出版)

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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