織田作之助と川島雄三 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
織田作之助と川島雄三

 いささか旧聞に属するが、作家の小沢信男さんから届いた年賀状に「今年は富士正晴と青山光二と織田作と、地味な連中の生誕百年とのこと。織田作は地味かな?」とあった。

 ああ、織田作ももう生誕百年なのか、とふと思う。織田作之助は、私には珍しく全集を揃えたこともある作家で、以前から、私なりの視点で彼のエッセイ集をまとめてみたいと思っていた。


 織田作之助に最初に惹かれたのは、十代の頃で、当時、愛読していた野坂昭如が耽溺していた作家として名前をあげていたこと、そして、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の一生』(ノーベル書房)を読んだせいである。

 今村昌平が編纂したこの遺稿集は、川島雄三という映画作家の神話化に多大な貢献をしただけでなく、川島に関する第一級資料としての価値は今もなお絶大である。私は、この本で、川島雄三が戦時下、織田作之助と意気投合して、<日本軽佻派>を名乗り、ふたりで暗い世相を笑い飛ばす実にバカバカしい手紙をやりとりしていたことを知って興味を覚えたのだ。


 たとえば、その往復書簡の中で川島雄三はゲオルク・ジンメルの『日々の断想』からの次のような一節を引用している。


「ある深さを持つ人間にとって人生に堪えるには一般に一つの可能性しか存しない。即ちある程度の浅薄ということである」

「大多数の人々にとっては軽佻か退屈か何れか一方に陥ることなくして他方を避けることは全く不可能である」


 そして、この一節に、大いに我が意を得たりと思った織田作之助は、晩年の長篇小説『夜の構図』や未完の『土曜夫人』の中でさりげなく再引用しているのだ。


 戦時下における、ささやかな抵抗にすぎなかったであろうが、彼らの深刻・荘重さを嘲笑し、大上段にふりかぶるのを良しとしない姿勢は、たとえば、後年の吉行淳之介の<軽薄派の発想>などに連なっているように思う。

  

 織田作之助は出世作である『夫婦善哉』ばかりが取り沙汰されるが、(ジュリアン・)ソレリアンの面目躍如たる、日本版『赤と黒』ともいうべき痛快な『青春の逆説』、阿部定伝説に新たな光をあてた『世相』、夭折した愛妻一枝へのレクイエムでもある哀切な『競馬』などの名品を忘れるわけにはいかない。前述の『夜の構図』『土曜夫人』も凝りに凝った実験性にあふれるモダンな官能小説として出色の面白さである。 


 織田作は、断じて、旧来の太宰治、坂口安吾らとともに<戦後焼け跡の無頼派>などというクリシェで一括りにされ、事足りてしまうような作家ではないのだ。


 織田作之助は『モダン・ランプ』をはじめ劇作でもすぐれた才能を発揮したが、川島雄三が監督デビューするにあたって、織田作の『清楚』を原作に選び、さらに脚本も彼に依頼したのは、たんなる友情というレベルを超えて、彼の清新な感覚に期待したからにほかなるまい。

 こうして出来上がった『還って来た男』(44)は、戦時下につくられたとは思えない、みずみずしい佳作に仕上がった。

 戦地から帰還した軍医・佐野周二が父親(笠智衆)に見合いを勧められる。一週間後に見合いを控える彼は、慰問袋を送ってくれた女性、戦死した友人の妹、さらに奈良で出会った女性(田中絹代)たちとのちぐはぐな交流を重ねていく。

 友人の雨男、日守新一が登場するたびに雨が降り出すくだりなどはルネ・クレールのタッチを彷彿とさせる。さらに佐野周二と笠智衆が温泉の湯船に浸かっている光景などは、同工の小津安二郎の『父ありき』の滋味あふれるトーンとはまったく異なるくつろいだユーモアが感じられる。


 この処女作を見ると、後年、破調と諧謔で知られた鬼才川島雄三監督が、いかにオーソドックスな演出テクニックを自家薬籠中のものにしていたかがわかるのである。


 早逝した織田作之助を悼むかのように、没後、ふたたび川島雄三は、やはり彼の原作をもとに『わが町』(56)を映画化している。<ベンゲットのたぁやん>と呼ばれた佐渡島他吉(辰巳柳太郎)という人力車引きの一代記で、一九七〇年代の文芸坐オールナイトで一度、見たきりだが、辰巳柳太郎の名演が忘れられない。とくに子供の運動会に飛び入り参加して、力走するシーンは、『無法松の一生』の阪東妻三郎を想起させるほどのすばらしさだった。


 川島雄三のフィルモグラフィーを眺めると、『銀座二十四帖』(55)『夜の流れ』(60)、『花影』(61)など東京の夜の風俗を描く作品とは対照的に、『還って来た男』『暖簾』(58)『わが町』『貸間あり』(59)などの<大阪もの>の系譜が目を惹く。これは、たぶん織田作之助との交遊が大きく影を落としているに違いない。


『暖簾』で大阪弁の直しを手伝った藤本義一が『貸間あり』で川島雄三とコンビで脚本を書き、以後、深い師弟関係を結んだことは、川島の没後七年目に書かれた川島のモデル小説『生きいそぎの記』を読めばわかる。『生きいそぎの記』は直木賞候補になったが、受賞しなかったのが不思議に思えるほどの見事な完成度を示している。

 実は、その頃、長部日出雄さんが川島雄三の評伝を準備していると「話の特集」のコラムで書いていたのを読んだ記憶があり、後年、直接、うかがったところ、『生きいそぎの記』を読んで、ショックをうけ、書くのをあきらめたとおっしゃっていた。


『生きいそぎの記』の刊行をきっかけに「キネマ旬報」一九七五年一月下旬号で、「川島雄三という映画監督は我々にとって何であったのか?」という藤本義一と長部日出雄の対談が組まれ、最初の<川島ブーム>が到来したことが、つい、昨日のことのように思い出される。


 藤本義一のデビュー当時に書かれた長篇『ちんぴら・れもん』は、「あれが、オダサクや」という焼け跡を闊歩する作家を目撃した少年が発する印象的なモノローグが冒頭に置かれていた。大阪出身で東京文壇への対抗意識が異様に強かった若き日の藤本義一を、川島雄三はあたかも織田作之助の生まれ変わりのごとく思ったのではないかという気がする。


 後年、藤本義一は川島雄三への返歌ともいうべきライフワーク『わが織田作』(『瑩の宿』『瑩の宴』『瑩の街』『瑩の死』四部作)という大部な評伝(中央公論社)をものしている。 


 藤本義一に関しては、苦い思い出がある。三十年ほど前、『月刊イメージフォーラム』の編集を始めたばかりの頃、「日本の喜劇映画」という特集を組んだ際に、藤本義一に川島雄三についてのエッセイを依頼したのだ。

 当時、藤本は、「イレブンPM」にレギュラー出演し、最も多忙な頃で、なかなか摑まらなかった。ようやく関西の自宅に電話がつながり、あれこれ説得したものの、話が噛み合わず、最後は、あまりの原稿料の安さに呆れられ、断られてしまった。そして、電話を切る際に、「キミ、さっきから川島雄三、川島雄三って、ずっと呼び捨てにしてるけど、川島さんは私の師匠だ、失礼だぞ」と叱責された。


 私としては、川島雄三という映画監督に深く魅せられ、当時、上映可能な川島作品はすべてスクリーンで見ているという自負と愛着があったがゆえに、無意識のうちに呼び捨てにしてしまったのだが、藤本義一の指摘は、きわめて真っ当で、返す言葉もなかった。


 その藤本義一も昨年亡くなり、続いて小沢昭一と川島雄三にゆかりのある映画人たちが相次いで鬼籍に入られていく。


 私は、近年、何冊もの太宰治の評伝を上梓している長部日出雄さんが、なぜ、川島雄三の評伝を書かないのか、とても残念に思っている。青森の下北半島に生まれた川島雄三は、明らかに長部さんも自ら属する太宰治、寺山修司という<東北のモダニズム>を体現する特異な系譜に位置する人物であるはずだからである。

 そういえば、今年は、川島雄三の没後五十年にあたる。

 

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今村昌平編『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の一生』(ノーベル書房)

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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