片岡義男について知っている二、三の事柄 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
片岡義男について知っている二、三の事柄

今、雑誌『ジャズ批評』で、「日本映画とジャズ」という特集を準備しているのだが、そのなかで、安田南と沖山秀子というふたりの映画女優=ジャズシンガーにスポットを当てることになった。『神々の深き欲望』『真剣勝負』『十九歳の地図』などの代表作がある沖山秀子と違って、安田南は、厳密には映画女優とは呼べないかもしれない。だが、若松孝二の『天使の恍惚』の主演、そして降板というスキャンダラスなアクシデント、黒テントの舞台における気風のよい歌姫としてのキャリアはもはや伝説と化しており、数年前に物故した、この魅力的な女性を私なりにきちんと追悼しておきたいという気持ちもあった。

 

今回、安田南については、どうしても話を聞きたかった人物がいる。ひとりは黒テントの演出家、佐藤信、もうひとりは、もちろん、一九七〇年代に一部で絶大な人気を誇ったFM東京の深夜放送「きまぐれ飛行船」で、安田南と一緒にパーソナリティを務めていた片岡義男である。

 

先日、片岡義男さんに会い、一九七四年に、「きまぐれ飛行船」が始まった意外な経緯を含めて、当時の貴重なお話をうかがうことができた。

安田南と「きまぐれ飛行船」をめぐる興趣が尽きない数々のエピソードは、六月発売予定の『ジャズ批評』を読んでいただくことにしよう。

私は、まず、片岡義男さんの当時とまったく変わらない若々しい声と風貌に、ただ驚くばかりであった。と、同時に、ゆくりなくも、一九七一年に三一書房から刊行された『ぼくはプレスリーが大好き』(後に角川文庫)を読んだ時の、衝撃が思い出された。

『ぼくはプレスリーが大好き』は、プレスリーという天才の出現を起点に、ブルースからロックンロールの変遷、対抗文化、ヒッピームーブメントの内実などを政治、社会史をも視野に収めて縦横に分析したとてつもない名著で、私は、今なお、日本人による戦後アメリカ文化論でこれを超えるものはないと思っている。

 

その直後、晶文社から出た訳編著『ロックの時代』(一九七二年)、『10セントの意識革命』(一九七四年)も繰り返し読んだ。とりわけ、『ロックの時代』に収められた「グランド・オール・オープリー」は、ロバート・アルトマンの傑作『ナッシュビル』を理解する上でもっとも重要なエッセイだし、『10セントの意識革命』所収のマンガ誌『マッド』を批判した長大な論考には、ただただ感嘆するほかなかった。

 

片岡義男という作家は、恐らく、出会った時代によってさまざまな受け止められ方をされる存在である。角川映画にもなった『スローなブギにしてくれ』に代表される爽快な青春小説の書き手のイメージがもっとも一般的だろうが、私にとっては、一貫してアメリカ文化の最良の水先案内人のひとりであった。

 

ところが、『日本語の外へ』(一九九七、筑摩書房)あたりから、片岡義男は、湾岸戦争以後のアメリカを鋭く批判する視点が研ぎ澄まされ、英語と日本語の根源的な差異について、さらに日本とアメリカのねじれた関係性まで踏み込んだ啓示に富む考察には、<哲学者>のような深い思索が見られ、圧倒される思いがしたものである。

ハワイから引きあげてきた祖父を持ち、岩国のハイスクークで学んだ片岡義男は、花田清輝ふうにいえば、日本語と英語という二つの焦点をもつ<楕円的な思考>を血肉化している稀有な文学者といえるのではないかと思う。

 

昔、片岡義男は、なにかのエッセイで、五歳の時、大映の<母もの>映画を見て、あまりの情緒過多な湿り気、お涙ちょうだいの作劇に嫌悪感を抱き、以後、絶対に日本映画を見ない決意をした、と書いていた。

 

ところが、最近では『彼女が演じた役――原節子の戦後主演作を見て考える』(早川書房)『映画を書く――日本映画の原風景』(文春文庫)、『吉永小百合の映画』(東京書籍)、『映画の中の昭和30年代――成瀬巳喜男と描いたあの時代と生活』(草思社)と立て続けに、日本映画に関する評論集を上梓している。

 

これらの一連の著作は、一見、若い時代のアメリカへの憧憬から、一転して、老境に入ると<日本回帰>を遂げるというある種の日本の文学者たちの典型的なパターンを踏襲しているかに思えるが、そうではない。まったく、逆で、片岡義男は、精神の老いとしてのノスタルジアとは無縁な鋭い眼差しで、戦前、戦中、戦後と連綿と続く<昭和>という時代を、そこに生起する日本人特有の心性の在り処を、<歴史意識>を踏まえて、粘り強く論究しているのだ。

 

片岡さんと話をしている際に、成瀬巳喜男を論じた『映画の中の昭和30年代』が話題になり、「成瀬の映画はホラー映画ですよ」という発言が出た。たとえば、『女の歴史』では、夫は戦死、息子は事故死、と男だけが次々に死んでいき、女だけが生き残る。これはコワい、と。かつて、情緒派の名匠などと称された成瀬巳喜男に、片岡さんがもっとも関心を惹かれたのは、その情緒の側面ではなく、物語を支えるより大きな<構造>、そして時代の生々しい痕跡、なのではないかとも思う。

 

片岡さんは、成瀬作品のなかでは『銀座化粧』『おかあさん』をもっとも高く評価しているが、その理由として次のように書いている。

「貧乏とは、自分の身体を直接に細々と動かして労働することをいとわない日々における、月末ごとの収支とつじつまが今月もなんとか合うか合わないか、という問題だ。……中略……一九五一、五二年あたりでこのような貧乏を娯楽映画にすると、描かれる生活はそのまま時代であり、もし時代が描かれたなら、それはそのまま生活だった。時代と生活は乖離していず、緊密に重なり合って一体だった。『銀座化粧』と『おかあさん』を見れば、このことはすぐにわかる。」

 

 また、『銀座化粧』に重ねて、半世紀前の映画を見るということが「長らく忘れていたものを思い出す、という営みが半分はあるとするなら、残りの半分は、新鮮な発見をして驚く、という営みだ。」と書いている。彼が言語化しようとするのは、後者であるのは言うまでもないだろう。

 

 私は、不明を恥じるようだが、片岡さんが『一九六〇年 青年と拳銃』(毎日新聞社)という赤木圭一郎論を書いていることを知らなかった。夭折した同世代の伝説的な俳優赤木圭一郎が主演した「拳銃無頼帖」シリーズ全四作を徹底分析したものだという。片岡さんが論じる日活無国籍アクション!これは、読まねばなるまい。

 

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片岡義男の名著『ぼくはプレスリーが大好き』(三一書房)

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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