高崎俊夫の映画アット・ランダム
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ダニエル・シュミットとミニシアターの時代

 オーディトリウム渋谷で大規模な「ダニエル・シュミット映画祭」が始まった。第一部は彼のほぼ全作を網羅した「レトロスペクティヴ」、第二部はドキュメンタリー『ダニエル・シュミット――思考する猫』、第三部は「ダニエル・シュミットの悪夢―彼が愛した人と映画」と題し、『歴史は女で作られる』『グリード』など彼が偏愛してやまなかった八本の映画が上映される。

 先日、『ダニエル・シュミット――思考する猫』の試写を見せてもらった。私は、パスカル・ホフマンとベニー・ヤールがチューリッヒ芸術大学大学院の終了制作として撮った、この優れたドキュメンタリーを見て、さまざまな思いに耽ってしまった。

 

ダニエル・シュミットという名前は、ミニシアターが華々しく登場した一九八〇年代初頭という時代の記憶と深く結びついている。一九八一年に、フィルムセンターの特集「スイス映画の史的展望」において、シュミットの『ラ・パロマ』が上映された時の異様な混雑ぶりはよく憶えている。その理由は、はっきりしていた。蓮實重彦が、当時、『話の特集』のコラムで、この無名の映画作家の『ラ・パロマ』を大絶賛していたからだ。

今、思えば、ダニエル・シュミットを世界中でもっとも高く評価したのは、日本の映画ファンであり、より正確に言えば、当時、絶大な影響力を誇示していた蓮實重彦の扇動的な批評によるところが大きかったと思う。一九八二年にアテネ・フランセで開催された「ダニエル・シュミット映画祭」は、日本で一本も正式公開されていない映画作家の特集としては、異例の大成功を収めた。

この年に、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが亡くなり、ちょうど、映画祭で来日していたシュミットがドイツ文化会館でファスビンダーの追悼講演とシンポジウムを行った。この時に司会兼通訳を務めた岩淵達治さんには、その後、シュミットへのインタビューをお願いし、それらをまとめる形で、『月刊イメージフォーラム』で「R・W・ファスビンダー研究」という特集をつくったのである。

 

ダニエル・シュミットといえば耽美的でキッチュで倒錯的なメロドラマの作家と語られがちだが、私がこのシンポジウムで、強く印象に残ったのは、彼の次のような発言だった。

 

「だいたい私は、二人の人間関係、たとえば、男と女とか夫婦関係というものが最少単位のファシズムの発生するベースだと思う。つまり、ファシズムをそういうふうに二人の人間の従属関係から捉えた場合は、日本だろうとソ連だろうとアメリカだろうとドイツだろうと皆同じではないだろうか。」

 

『思考する猫』ではシュミットの、一九六〇年代のベルリンにおける政治運動やカウンター・カルチャーの洗礼を浴びた経験が語られていて興味深かった。そして、一九七〇年以後は、映画の世界で一挙にバロック風な幻想的な資質を開花させた経緯が、あざやかにスケッチされており、あらためて、一筋縄ではいかない映画作家だなと思った。

この作品のなかで、図らずも、シュミットをスイスの山脈の斜面によって自己形成を遂げた〈山の人〉と指摘するビュル・オジェと蓮實重彦はさすがに鋭い洞察を示しているが、すっかり頭部が薄くなってしまったキャメラマンのレナート・ベルタが登場すると、妙になつかしくなって思わず見入ってしまった。

レナート・ベルタは、『今宵かぎりは……』(72)以後のダニエル・シュミットのほぼ全作品、さらに、ゴダール、アラン・レネ、そしてなによりも、スイス映画の盟友アラン・タネールのキャメラマンとして知られている。

そのレナート・ベルタが最初に来日したのは、一九八五年に開催された「アラン・タネール映画祭」の時だった。招聘したユーロスペースの堀越謙三さんから依頼があり、ベルタへのインタビューを行ったのだが、面白かったのは、その後、ベルタが、突然、新宿歌舞伎町のノゾキ部屋に行きたい、と言いだしたことだ。

どうやら、シュミットら映画仲間から、新宿の風俗情報などを聞いていたらしい。ベルタと新婚らしき奥さん、それに通訳をお願いした、当時ヘラルドエースにいた寺尾次郎さん、それに私というメンバーで、当時、人気絶頂だったアトリエ・キーホールかどこかを数軒、ハシゴしたはずだが、レナート・ベルタが好奇心に満ちた眼差しで、そんな東京の怪しげな最前線の風俗店をみつめていたのを、おぼろげながら記憶している。

 

ダニエル・シュミット、アラン・タネール、そしてレナート・ベルタは、ミニシアターの黄金時代をそのまま体現する固有名詞といってよいだろう。映画批評家ではもちろん蓮實重彦の名前を逸するわけにはいかない。そして、配給・興行のサイドで、この時代をシンボライズする人物といえば、やはりユーロスペース代表の堀越謙三さんをおいてほかにいないだろう。

 

私は、以前から、ミニシアター・ブームの牽引役を務め、レオス・カラックス、アッバス・キアロスタミのプロデューサーとして、さらには東京藝大大学院映像研究科を立ち上げた教育者の貌も持つ堀越謙三さんのユニークな軌跡に深い関心を抱いていた。

今度、筑摩書房のPR誌「ちくま」で始まった堀越さんの聞き書きのメモワールは、ミニシアターという時代がなんだったのか、をめぐってある答えを与えてくれるような気がしている。

 

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『ダニエル・シュミット――思考する猫』

『今野雄二 映画評論集成』を読みながら考えたこと

 先日、洋泉社から大部の『今野雄二 映画評論集成』が届いた。二〇一〇年七月に自死を遂げた映画評論家今野雄二さんの遺稿集である。

 最初は、今野さんとほとんど面識がなかった私に、なぜ送られてきたのだろうと思った。実際に、私が今野雄二さんと言葉を交わしたのは、たぶん、一度きりである。ジョン・ウォーターズの『セシル・B・シネマウォーズ』(00)が公開された際、配給会社のプレノンアッシュが、六本木の焼肉屋で今野さんとジョン・ウォーターズの食事会をセッティングし、パンフレットを編集した私も呼ばれて同席したのだ。その時に、ジョン・ウォーターズがゲイ・セクシュアリティがらみの冗談を連発し、今野さんが苦笑していたのを覚えている。

 

本書の帯には、「日本のサブカルチャー&カルト映画ブームを牽引した孤高の映画評論家が遺した幻の評論原稿を厳選採録!」という文言が謳われているが、通読してみて、今野さんの批評がもっとも活き活きと輝いていたのは、やはり、一九七〇年代という「アメリカン・ニューシネマ」の時代だったなとあらためて思った。

たとえば、今野さんは、七一年の「キネマ旬報」の年間ベストテンで「これまで見たすべての映画が『ファイブ・イージー・ピーセス』へ至る為の指針だったことになり、今後、見るあらゆる作が、『ファイブ・イージー・ピーセス』を越えなくてはならぬという宿名を、担うことになる」と書いたが、当時、高校生だった私はなんとカッコいいコメントだろうと思った。当時、こんなふうに一本の映画への熱愛をキザに語ってしまう映画評論家はいなかったからである。

 

ひと口にニューシネマと言っても、今野さんの好みは千差万別で、『イージー・ライダー』を、「『白昼の幻想』や『ワイルド・エンジェル』同様に、一連のアメリカン・インターナショナルの延長でしかないこのフォーニー(ニセモノ)・フィルム」とまで酷評している。

本書を読んでいて嬉しかったのは、『ウェスタン・ロック・ザカライヤ』(71)という珍品の批評が載っていることだ。ニューシネマ全盛時代にひっそりと公開された、この異色の西部劇は、陽炎がゆらめく荒野で、カーボーイたちがロックギターをかき鳴らすフシギな場面や、突然、現われたジャズドラマーの大御所エルヴィン・ジョーンズがロックドラムを叩いている若造を蹴飛ばして、居座るや、ドラムソロを延々と繰り広げるシーンなど断片的な記憶だけが残っているが、私にとっては、幻のニューシネマの一本なのであった。

 

当時の今野雄二さんのお気に入りは、何といっても、ロバート・アルトマンとケン・ラッセル、そしてブライアン・デ・パーマ(彼はこの表記に固執した)だが、アルトマンに関しては、『ナッシュビル』や『ウェディング』の批評にせよ、海外の文献を渉猟した綿密な研究という趣きがあり、今、読み返しても、その鮮度は決して失われていないと思える。

 

ブライアン・デ・パーマ作品に至っては、手放しの礼讃で、たとえば、『スカーフェイス』評において、「デパーマに目覚めてしまった者が、映画を楽しむ基準としてストーリーは二の次にしてとりあえずはその映像のスタイル美を第一に考えるようになる」という、内容よりも様式の美しさを顕揚するくだりなどは、スーザン・ソンタグの『反解釈』の多大な影響を感じないわけにはいかない。

 

実際に、最初期に書かれた「ブラック・ユーモア――そのフリークの世界」という『映画評論』7011月号に載った評論の結びには、「「キャンプ」という感覚を論じようとしたソンターグにならって、あえて、「ブラック・ユーモア」を定義づけようなどという野心は抱かない方がこの際、賢明というものだろう」という一節がみえる。

 

今、思うと、過剰なまでのソフィスティケーションを志向するスーザン・ソンタグのきらびやかなキャンプ論には、彼女の両性具有的な美学、あるいはレズビアニズムの影が垣間見えるような気がする。

 

本書に目を通すと、あらためて、今野雄二が、批評家として出発点から、映画における同性愛、ホモ・セクシュアリティの主題に深く執着していたことがわかる。

たとえば、『キネマ旬報』688月別冊「アングラ68ショック篇」に収められた「ホモ的エロティシズムと日本のアングラ」という長篇のエッセーでは、西村昭五郎の隠れた秀作『帰ってきた狼』(66)の主人公と混血のヤクザ少年とのセクシャルな関係に着目しているのが印象深い。

この論考で、私が興味を覚えたのは、今野雄二が、ドナルド・リチーのスキャンダラスな実験映画を絶賛していることだ。なかでも、年上の女が若い男子学生を、古びた庭園にひきずり込み、芝生で全裸にして愛撫する『し』に言及し、今野さんは、「この映画で最も魅惑的なのは、年上の女がフェラチオという性技を駆使して、遂に相手の少年を死に到らしめる、というショッキングなテーマだと思います。これとても、ホモ・セクシュアルな発想なしには、とうていなし得なかったはずであります」と書いている。

 

一九六八年当時、ドナルド・リチーと今野雄二さんは、恋人同士だったという噂を耳にしたことがあるが、実情は詳らかではない。

その頃、ドナルド・リチーは『季刊フィルム』に「私の映画遍歴」という一文を寄せているが、私は、これはドナルド・リチーによって書かれたもっとも感動的なエッセーと考えている。映画に耽溺することの恍惚と病いを、これほど真率に告白したエッセーは稀であり、次に引用する冒頭の一節は、おそらく、今野雄二さんも深く共鳴していたのでないかと想像されるのだ。

 

「妻は、私と離婚する直前にこういった。「私がもし、これから結婚しようとする人にアドヴァイスを頼まれたら、その女性には、映画を好きな男とは結婚するな、っていうでしょう」。彼女の判断は正しかった。映画が好きな男は、ほとんどの時間をひとりぼっちで暗闇で過ごすために、自己本位で社交嫌いになってしまう。そのうえ、それほど映画が好きだというのは、幼い頃から映画を見始めているに違いないのだ。彼の幼年期は歪んだものだ。自分の家族よりもスターを愛し、彼は暗闇の中にひとりぼっちで坐っていた。最後には、彼がそれほどまでに映画が好きになるには、スターが必要となったはずである。これは不幸な家庭を意味し、あまりにも不幸であるために彼は映画館へ逃避せざるを得なかったのだ。あまりにも映画が好きな子供は、病める子供であり、病める人間になる。彼は現実よりもスクリーンの幻影を愛するようになる。」(今野雄二訳)

 

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大部の遺稿集『今野雄二 映画評論集成』(洋泉社)

白鳥あかねメモワールと池田敏春のこと

私が企画・編集した白鳥あかねさんの聞き書きの自伝『スクリプターはストリッパーではありません』(国書刊行会)がようやくできあがった。一九五五年、日活にスクリプターとして入社し、小林旭の人気を決定づけた「渡り鳥」シリーズをはじめとする日活アクション映画の黄金期から、神代辰巳、藤田敏八、根岸吉太郎らの才能が開花したロマンポルノの現場を経て、ディレクターズ・カンパニーとの熱い共闘……と、戦後映画界の盛衰をみつめてきた白鳥さんのメモワールは、日活映画のみならず日本映画ファンには必読といっておきたい。

 

本書には、今村昌平、浦山桐郎、長谷川和彦、曾根中生といった常軌を逸した破天荒な映画人たちが続々登場し、産経新聞で書評を書いてくれた中条省平さんの表現を借りれば、「現場そのものがドラマチックな人間喜劇」の様相を呈するが、そのなかでも、ひと際、鮮烈な印象を与える人物が、池田敏春である。

池田敏春は、ロマンポルノで復活した日活に七四年に入社して『天使のはらわた・赤い淫画』(81)などの秀作を撮り、さらに、ディレクターズ・カンパニーの第一作『人魚伝説』(84)を監督したが、興行的に不入りで、その後は、次第に作品数も減り、二〇一〇年、『人魚伝説』の舞台となった三重県伊勢志摩の海上で自死した。

 

白鳥さんは、本書で次のように語っている。

「私が池田の訃報を聞いたその日に、渋谷の名画座(シネマヴェーラ渋谷)でちょうど『人魚伝説』をやっていたんです。矢も楯もたまらず観に行って、涙がとまらなかったですね。でも観終ったら池田が死んだのも納得できたというか、こんな映画をつくったら死ぬしかないのかなとも思いましたね。それほどすごい映画でした。」

 

 私も深く同意するが、今や、原発誘致問題などアクチュアルなテーマを内包するカルト・ムーヴィーとして高い評価を得ている『人魚伝説』も、公開時には賛否両論であったように思う。当時、熱狂的な擁護者ではシネセゾンにいた市井義久さんがひとり気を吐き、キネカ大森で池田敏春特集を組んだ時など、私が在籍していた『月刊イメージフォーラム』に、連日のようにファックスを送ってきたことが思い出される。

 というのも、『人魚伝説』が公開される直前、『月刊イメージフォーラム』の八四年四月号で、「日本映画への発言」という特集を組み、池田敏春監督のインタビューや、『人魚伝説』の製作ノートを掲載していたからだ。

 

 この特集では、八〇年代半ばの時点で、一般、自主映画を問わず活躍中の若手監督二〇人に抱負・提言を書いてもらったが、巻頭の対談で、『神田川淫乱戦争』(83)で商業映画デビューしたばかりの黒沢清と早大シネ研のエースとして絶大な人気があった山川直人という組み合わせには、いかにも当時の時代の気分が反映されていると思う。

 

 この時、池田敏春は、原稿を書く時間がなく、編集部に来てもらい、私が談話を纏める形になったが、初対面の池田監督は、終始、うつむくような感じで人見知りが激しい方だなという印象を持った。

池田監督はこんなふうに当時の心境を語っている。

「『人魚伝説』は単純に女が主人公で、いかに活劇として成立させるかということに興味があったんです。……中略……、現場でも、僕自身の自己暗示というか錯覚がスタッフや役者たちに伝わり、一種、別な表現を使えば〈共犯幻想〉というか、幻想を共有することで画面に熱気なり力が生じることはあると思うんです。今回の現場はそんなことを初めて感じさせてくれました。それと同時に自分の恥しさ、羞恥心みたいなことを強烈に意識させられましたね。……中略……今度、角川で撮ることになった『湯殿山麓呪い村』は、『人魚伝説』と同じように〈殺戮〉が主題になるんですが、『人魚伝説』が、全篇、鮮血で真っ赤だったから、今回は血を一滴も見せない殺戮は可能か、ということを考えているんです。」

 

 七〇年代に一部で聖典のように読まれた『共犯幻想』(嗚呼、真崎・守!)というフレーズが自然に吐露されるのが、いかにも池田監督らしいと思える。

 

 チーフ助監督・渡辺容大の手になる製作ノートも、四百字詰めで五十枚を超えるボリュームがあり、この伝説的な映画の過酷な現場が、実に活き活きと描かれていて読みごたえがある。この中に、白鳥あかねさんが創作し、撮影されたものの、編集段階で惜しくもカットされてしまった幻のシーンについての記述がある。

ヒロインのみぎわ(白都真理)とセックスした翌朝、心の葛藤を持てあましながら一人引き上げていく祥平(清水健太郎)が、客引き女と出会う場面である。シナリオではこうなっている。

 

客引き女 「あんさん燃えとんのやないの。もう一晩どないや。」

祥平   「女なんかもう顔も見とうないわ。」

客引き女 「あいにくやな、船着場はあっちやに。」

祥平   「この道は、どこ行くんか?」

客引き女 「坂上ったら墓や。」

祥平   「こっちは?」

客引き女 「どんづまりや。」

祥平   「どんづまり……け。」

 

 清水健太郎が好演した不甲斐ない、地元の大立者の息子の末路を暗示するかのような秀逸なシーンだが、ちなみに、この客引き女を演じたのは、白鳥あかねさん自身で、これは、ぜひ、見て見たかった!

 

 その後、最後に、池田敏春監督と会ったのは、一九九二年、私がビデオ業界誌の編集長時代で、パイオニアLDCが製作した『くれないものがたり』のゼロ号試写をイマジカで見た時だった。赤江瀑の短篇の映画化で、修学旅行で京都を訪れた高校生が、妖しい香の世界に魅せられていく物語だった。スーパー16で撮られ、本来オリジナルビデオ作品としてつくられた作品だが、あまりに完成度が高かったために、劇場公開されたのではなかったろうか。

『くれないものがたり』は、京都の街の佇まいや、日本家屋、とくに障子の部屋や庭の灯籠が、突如、深紅に染まり、蠱惑的な幻想空間へと変貌する、鈴木清順ばりのケレンたっぷりの演出に瞠目させられた。とりわけ、ヒロインを演じた竹井みどりが優美に官能的に撮られていたのには感嘆した。そんな感想を伝えると、池田監督は照れたように苦笑するばかりだった。その直後に、竹井みどりにインタビューしたのだが、彼女も池田敏春の繊細な演出ぶりを称賛していた。

当時から、池田敏春といえば、血みどろの殺戮や暴力的な描写ばかりが取り沙汰されがちだったが、『くれないものがたり』は、綿密な色彩設計や日本的な情緒を画面ににじませる端正で正攻法の演出に唸った。思えば、『天使のはらわた 赤い淫画』の泉じゅん、『人魚伝説』の白都真理、そして『くれないものがたり』の竹井みどりにしてもすべて彼女たちにとって代表作といってよい。池田敏春は、なによりも女優を美しく撮れる監督であったことは特筆されねばならない。

 

白鳥さんの本の刊行に合わせて、六月十五日から約二か月間、ラピュタ阿佐ヶ谷で「映画のすべてを記録する 白鳥あかねのスクリプター人生」という特集が組まれている。三十三本の上映作品の中には、以前、このコラムでも紹介した皇太子(今上天皇)を主人公とする西河克己の問題作『孤獨の人』をはじめ、『人魚伝説』、そして近年、海外でもカルト・ムーヴィーとして評価が高い『死霊の罠』という二本の池田敏春の映画が入っている。ぜひ、この機会に、スクリーンで池田敏春の特異で官能的な魅力を味わってほしい。

 

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白鳥あかね著『スクリプターはストリッパーではありません』(国書刊行会)

『ブルージャスミン』と「ブルー・ムーン」

『ブルージャスミン』は、近年、ヨーロッパの各都市を舞台に、いささか弛緩したロマンティック・コメディを連作していたウディ・アレンが、ひさびさにアメリカ西海岸を背景に撮ったダークな味わいのドラマだ。セレブリティの世界から転落したジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、どん底からはい上がろうと身悶える姿を冷徹にとらえたウディ・アレンのまなざしは辛辣きわまりない。

虚栄心の塊のようなケイト・ブランシェットは、なまなかな感情移入を完璧に拒むヒロインだが、狂気の淵をのぞかせる、その鬼気迫る演技には、ただ圧倒されるほかない。最近のウディ・アレンの映画ではもっとも心に沁み入る、チェーホフ的ともいうべき苦い、メランコリックな笑いに彩られている。

 

 現在のアメリカ映画界で、ウディ・アレンは、ジャズのスタンダード・ナンバーをもっとも愛情をこめて、巧みに使う映画作家だが、この作品では、ケイト・ブランシェットが、「大切な出会いの歌なの、歌詞は忘れたけど」と呟き、「ブルー・ムーン」が何度も流れる。とりわけ、幕切れで、コラル・フォークスのピアノソロによる「ブルー・ムーン」の旋律が聴こえてくると、なんだか粛然たる思いにとらわれてしまった。

 

「ブルー・ムーン」は、「ロマンティックじゃない?」「時さえ忘れて」「恋に恋して」「イッツ・イージー・トゥ・リメンバー」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」などの名曲で知られるロレンツ・ハート&リチャード・ロジャースの代表作といってよいだろう。

 この名曲の誕生には、紆余曲折がある。最初は、クラーク・ゲイブルとウィリアム・パウエル主演の『男の世界』(34)のなかで「ザ・バッド・イン・エヴリマン」という題で、挿入歌として使われている。ただし、歌手シャーリー・ロスがメロディを口ずさむシーンがあっただけで、ほとんど話題にはならなかった。そこで、ロレンツ・ハートが「ブルー・ムーン」の題で新たに詞を書くと、今度は、当時の美人歌手コニー・ボズウェルが歌って大ヒットとなった。

私の手許にも、メル・トーメ、ジュリー・ロンドン、ディーン・マーチン、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンなどが歌ったアルバムがあるが、とりわけ、私が密かにトニー・ベネットの最高傑作と考えている名盤『ロング・アンド・ファー・アウェイ』に入っている「ブルー・ムーン」は、何度、聴いても陶然となる、すばらしい絶唱だ。

 

「ブルー・ムーン」は、一九六一年には、ザ・マーセルズがアップテンポのドゥー・ワップのスタイルで歌ってミリオンセラーとなったが、私が、この曲を最初に強烈に印象づけられたのは、ジョン・ランディスの『狼男アメリカン』(81)だった。この映画では、ザ・マーセルズのバージョンをメインにして、サム・クックのソウルフルな熱唱、そしてボビー・ヴィントンの甘く切ない「ブルー・ムーン」がそれぞれ使われている。

『狼男アメリカン』は、当初は、『ブルー・ムーン殺人事件』という素敵な邦題だったはずで、当時、SF映画雑誌『スターログ日本版』の編集者だった私は、早めに試写を見て、『ブルー・ムーン殺人事件』の題で、紹介記事を書いた記憶がある。なぜ『狼男アメリカン』などというつまらないタイトルに変わってしまったのだろうか。 

 

 日本映画で、もっとも早く「ブルー・ムーン」が使われたのは、間違いなく、鈴木傳明が監督・主演した『舗道の囁き』(36)だろう。加賀まり子の父親で戦後、大映のプロデューサーとして活躍した加賀四郎が製作した、この幻の作品は、日本最初の本格的なダンス・ミュージカル映画といってよい。中川三郎のアパートで一夜を過ごしたジャズ歌手のベティ稲田が、翌朝、食事の用意をしながら、「ブルー・ムーン」を口づさむと、それに合わせて、中川三郎が超絶技巧のタップを踊り出すシーンは、まさに、アステア&ロジャーズ映画を彷彿とさせる愉しさである。

 

 インストルメンタルでは、フェリーニの『81/2』(63)で、マルチェロ・マストロヤンニの映画監督が愛人と逗留しているロケ地に、妻のアヌーク・エーメが初めて登場するシーンに流れる「ブルー・ムーン」が忘れられない。『81/2』は、ニーノ・ロータのさまざまに変奏される主題曲が有名だが、既成のスコアでは、湯治場のシーンでダイナミックに響きわたる「ワルキューレの騎行」と「セヴィリアの理髪師」が傑出した効果を上げているのは周知の通り。なかでも、広場のステージで、フル・オーケストラが演奏する哀愁に満ちた「ブルー・ムーン」は、なんともゴージャスで美しかった。

ところが、最近、DVDで見直したところ、この場面に使われていた「ブルー・ムーン」が、まったく別な曲に替えられていた。これはいったい、なぜだろう。著作権の問題だろうか。

 


 最後に、「ブルー・ムーン」の極め付けといっていい名演を紹介したい。狂気じみたアナーキーな笑いが炸裂するマルクス兄弟の映画のなかでも、もっとも豊かな音楽性が感じられるのが『マルクス兄弟珍サーカス』(39)である。サーカス巡業の移動列車内で、チコがピアノで弾く「ビア樽ポルカ」、グルーチョが怪しげな振り付けで歌い踊る「刺青の女リディア」も実に可笑しいが、動物園のくだりで、黒人たちのジャズ・コーラスをバックに、ハーポがお得意のハープで「ブルー・ムーン」を弾くシーンは、一度見たら忘れられない。 典雅きわまりないハーポの演奏に唖然とした表情で聴き入っている少女のショットがあるが、恐らく、マルクス兄弟の全作品のなかでも屈指の、どこか神々しさすら漂う感動的なシーンであった。


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『マルクス兄弟珍サーカス』でハーポが「ブルー・ムーン」を弾く名場面

イタロ・カルヴィーノの映画作法

 最近、試写で『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』というイタリアのドキュメンタリー映画を見た。ローマを取り巻く高速道路GRAの周辺に住む、ひと癖もふた癖もある個性的な人物たちを定点観測のようにスケッチした愛すべき小品で、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しているが、プレスを読んで驚いた。監督のジャンフランコ・ロージが、「この映画はイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』にインスパイアされた」と語っていたからだ。 

 

イタロ・カルヴィーノは、多分、翻訳された作品をほとんど読んでいる唯一の作家といっていいかもしれない。亡くなって三十年近くの歳月が流れたが、彼の発見者であるチェーザレ・パヴェーゼと同様、未だに岩波文庫で陸続とその作品が復刊されているのはうれしい限りである。一時期、高橋源一郎が激賞したせいもあってか、カルヴィーノは、〈エレガントな前衛〉〈ポストモダンの作家〉などと称されて、実験的なメタ・フィクションの作家と目されがちだが、私にとっては、カルヴィーノとは、なによりも豊潤なイタリア映画の名作と同じように、〈美しい物語〉の語り手である。

 

最初に読んだのは、一九七一年に晶文社から刊行が始まった〈文学のおくりもの〉シリーズの『まっぷたつの子爵』 だった。その詩的で奇想に満ちた面白さにめまいのような感動を覚え、すぐさま『木のぼり男爵』(白水社)、『不在の騎士』(学芸書林)、『マルコヴァルドさんの四季』(岩波少年文庫)と読み継いで、すっかり魅了されてしまった。

とりわけ、十八世紀の啓蒙思想の時代を背景に、ある日、森の木に登って、一生涯、木から降りてこなくなった少年を描いた『木のぼり男爵』は、あまりの童話的な残酷さと澄み切ったユーモアの混交に圧倒された。

ちょうど、その頃、封切られた『フェリーニのアマルコルド』(73)に、主人公の少年が精神病院に入院しているテオ叔父さんを連れ出して、一家で郊外にピクニックにでかけるエピソードがあった。テオ叔父さんは、突然、田舎家のはずれにある樹にのぼりはじめる。そして、夕暮れになっても、降りて来ず、地平線の彼方に向かって、「女を抱かせろ!」と叫び続けるのだ。この涙が出るほど、可笑しい場面を見ながら、私は、まるで『木のぼり男爵』のようだ、と呟いた。

 

それ以来、ずっと長い間、私は、イタロ・カルヴィーノの魔術的な想像力とフェリーニのノスタルジアに満ちたサーカス的な夢想の世界は、きわめて近しいのではないかと思っていた。

一九八五年、不思議な偶然だが、カルヴィーノが亡くなる直前、雑誌『ユリイカ』が「イタロ・カルヴィーノ 不思議な国の不思議な作家」という特集を組んだことがあった。その号はとても充実した内容で、今も私の手元にあるが、とくにパゾリーニへの深い友情を感じさせる「パゾリーニへの最後の手紙」、偉大なコメディアン、グルーチョ・マルクスを追悼した「グルーチョの葉巻」などを読むと、カルヴィーノがいかに映画に深く傾倒していたのかが了解されるのだ。

 

カルヴィーノの没後、ずいぶん経ってから、『サン・ジョヴァンニの道――書かれなかった[自伝](朝日新聞社)が刊行された。この中にある「ある観客の自伝」という章は、カルヴィーノの幼少期から青春時代に出会ったアメリカ映画やイタリア映画への想いを綴ったメモワールで、とくに後半は、まるごとフェリーニへの熱いオマージュとなっている。たとえば、次のような一節はどうだろうか。

 

「フェリーニのヒーローの伝記――それを監督は毎回最初から撮りなおす――は、この意味でわたしのものよりはるかに典型的だ。若者が地方を離れ、ローマに出て、スクリーンの向こう側へ移って映画をつくり、自分自身が映画になるからだ。フェリーニの作品は、裏返された映画なのだ。映写機は客席をのみこみ、カメラはセットに背を向けているというのに、その二つの極がいつももたれあいながら、地方はローマによって憶いだされることで意味を獲得し、ローマは地方からやってくる人びとのなかに意味を獲得し、両側に棲む怪物じみた人間たちのはざまで同じ神話が生まれ、それが『甘い生活』のアニタ・エクバーグの巨大な女神となって、そのまわりを回っている。フェリーニの仕事が狙っているのは、この発作的な神話を明るみに出し位置づけることであり、その中心にあるのが、さまざまな原型が螺旋状にひしめきあう『812』における自己分析なのだ。」

 

まさに、目の覚めるような卓見がちりばめられたこの美しいエッセイを読み返しながら、私は、カルヴィーノが、シナリオライターとして関わった二本の作品があったことを思い出した。

一本は、フォルコ・クィリチ監督の『チコと鮫』(62)、もう一本は、『ヴォッカチオ70』(62)の第一話、マニオ・モニチェリが監督した「レンツォとルチアーナ」である。

このオムニバス大作は、深夜、巨大な女神アニタ・エクバーグがローマの街を闊歩する、フェリーニ篇の「アントニオ博士の誘惑」ばかりが取り沙汰されるが、日本では劇場公開されなかった職人モニチェリのパートも、実に愛すべき小品である。

実は、最近、初めてこの「レンツォとルチアーナ」を見て驚いたことがある。工場に勤めるカップルが、職場結婚を禁止されているために極秘で結婚式をあげたものの、発覚して会社をクビになる。夫は夜間勤務の工場で働き、妻は、夫が早朝、帰宅する時刻に、目覚まし時計と共にベッドを起きだし、コーヒーを用意し、あわただしくキッスをかわしながら、仕事へ出かけて行く。残された夫は、ベッドに入ると、片側の、今しがたまで妻が寝ていた、その躰のかたちをとどめたままの温かい窪みのなかで、顔を枕にうづめ、妻の薫りにくるまれるようにして眠りにつくのだ。

このエロティックなラストシーンを見ながら、私は、カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(福武書店、のちに岩波文庫)のなかの名篇「ある夫婦の冒険」の忘れがたいエピソードがそのまま再現されているので、思わず、微苦笑してしまった。   

 

イタロ・カルヴィーノは、名著『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、のちに河出文庫)のなかで、「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資質だ。」と書いている。この古典についての見事な定義は、イタロ・カルヴィーノの作品にそのまま当てはまるように思えるのである。

 

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イタロ・カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(和田忠彦訳・岩波文庫)

 

 

 

 

 

『そこのみにて光輝く』と一九七〇年代、ニューシネマの記憶

 さる三月二十一日の夜、赤坂BLITZで「我が青春のパック・イン・ミュージック」なる気恥ずかしいタイトルのイベントがあり、私も一員である「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」に招待チケットが回ってきたので、のこのこと出かけて行った。久々に何人かのメンバーに再会し、林美雄夫人の文子さんにもご挨拶ができた。会場は五十代、六十代でぎっしりと埋めつくされていた。小島一慶と兵藤ゆきの司会で、山崎ハコ、山本コウタロー、小室等のミニライブがあり、客席には、パックでパーソナリティだったTBSの元アナウンサー桝井論平の顔も見られ、さながら、パックの同窓会の様相を呈した。

 

 私がパックをもっとも熱心に聴いていたのは、林美雄さんが金曜第二部を担当していた一九七四年の八月までである。だから、一九八二年まで続いたパックの終了時の記憶はまったく欠落している。ただ、この夜のイベントで改めて実感したのは、パック・イン・ミュージックの歴史の中で、超メジャーの野沢那智と超マイナーの林美雄というすでに鬼籍に入った二人の存在がいかに大きかったかということだ。

 

「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」では、一時、もし林美雄が生きていたら、絶賛したであろう新作映画を各人が推薦しようという呼びかけがあったが、最近、これは、絶対に林さんが狂喜するだろうと思える映画を見た。

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』だ。原作は一九九〇年に四十一歳で自死した作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。

村上春樹と同世代の佐藤泰志は、その小説を読むと、同時代の映画の引用が目につき、かなりの映画狂であったことがわかる。作り手たちもそのことを意識していると思しく、映画『そこのみにて光輝く』は、一九七〇年代のアメリカン・ニューシネマやATGの青春映画、初期の日活ロマンポルノの記憶を刺戟するような不思議な魅力をたたえている。

たとえば、主人公の達夫(綾野剛)と拓児(菅田将暉)がパチンコ屋で、百円ライターをきっかけに知り合うシーンは、『スケアクロウ』(73)の冒頭、最後の一本のマッチがきっかけで、ジーン・ハックマンとアル・パチーノが意気投合する場面を、思い起こさせる。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫は、バラックのような拓児の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、東京の川向うの浦安を舞台に、行き場のない女たちの淀んだ日常を描いた曾根中生の『色情姉妹』(72)を彷彿とさせる。

さらに、自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が、人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、神代辰巳の『恋人たちは濡れた』(73)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感や閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。

 

絶えず煙草を吸い、よるべない怒りや焦燥をもてあます綾野剛、絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴、ノンシャランな存在感が『共食い』以上にリアルに迫ってくる菅田将暉、それぞれがベストパフォーマンスと言えるすばらしさだ。だか、私は、この映画では脇役がひときわ光っていると思う。千鶴の愛人で気勢をあげながらも、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長を演じた高橋和也の浅ましさ、そして、かつて達夫の上司で、達夫の「家族持ちたくなったんだ」という言葉に、「バカか、俺を見れ、誰もいねえ、……それでいいんだ」と自嘲気味に呟く火野正平の深い皺が刻み込まれた異貌は、忘れがたい強烈な印象を残す。

 

俳優たちの自在でのびやかな演技を引き出した呉美保監督の演出手腕も見事だが、七〇年代ニューシネマのルックを意識した撮影の近藤龍人も特筆すべきだろう。深夜、函館のネオン街をあてどない不眠症患者のごとく徘徊する達夫に寄り添うキャメラは、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(73)で、夜のロサンゼルスを彷徨うフィリップ・マーロウをとらえたヴィルモス・ジグモンドの魔術的なキャメラワークを想起させる。 

画面からにじむような橙色の光が氾濫する『そこのみにて光輝く』の海辺のラストシーンを見ながら、私が思い出していたのは、フランク・ペリーの『去年の夏』(69)だった。まぎれもなく藤田敏八の『八月の濡れた砂』(71)に影響を与えた、このニューシネマの隠れた秀作は、夏にもかかわらず、全篇にわたって、陽光がさすことはなく、空はどんよりと曇り、橙色のくすんだ色調で染まっていたという記憶がある。しかし、ある意味では、『八月の濡れた砂』以上に残酷で、悲痛な結末を迎える『去年の夏』とは対照的に、『そこのみにて光輝く』は、かすかな希望にも似た曙光に満たされて、幕を閉じる。

 

『そこのみにて光輝く』は、今の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出しながらも、いっぽうで、一九七〇年代という時代をめぐって思いを馳せるような、稀有な思索的な映画である。 

 

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呉美保監督『そこのみにて光輝く』

(C) 2014 佐藤泰志 / 「そこのみにて光輝く」製作委員会

 

*お詫びと訂正

 

前々々回のコラム「『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について」の中で、球磨元男氏について(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)と書きましたが、読者の方から、球磨氏は「東宝東和の宣伝部に勤めていらした方」であるとご指摘をいただきました。ここにつつしんでお詫びし、訂正いたします。

実践者の眼 獅子文六の魅力

  昨年、ちくま文庫から獅子文六の『コーヒーと恋愛』が復刊された。もしかしたら、獅子文六の静かなブームが起きているのだろうか。永年のファンとしてはうれしい限りだが、周知のように、獅子文六は、映画との関わりが深い。『コーヒーと恋愛』も松竹で『「可否道」より なんじゃもんじゃ』(63)の題で映画化されているが、井上和男の演出にメリハリがなく、ヒロインの森光子もやや精彩に欠ける。むしろ一九七四年に放映されたNHKの銀河テレビ小説『恋とコーヒー』の渡辺美佐子のほうがはるかに魅力的で、原作の味わいが感じられた記憶がある。 

 

獅子文六の映画化された作品は四十本ほどある。私は三分の一程度しか見ていないが、戦前なら清水宏の『信子』(40)、戦後は渋谷実の『てんやわんや』(50)、『やっさもっさ』(53)、松竹と大映の吉村公三郎で競作となった『自由学校』(51)、千葉泰樹の『大番』(57-58)四部作、川島雄三の『特急にっぽん』(61)といった作品がすぐさま思い浮かんでくる。

なかでも、最近、ラピュタ阿佐ヶ谷で上映された野崎正郎の『広い天』(59)は、疎開先に向かう少年と「馬おじさん」と呼ばれる中年の彫刻家との交流を描く隠れた秀作で、馬づらの伊藤雄之助があまりに原作のイメージ通りなので、笑ってしまう。

 

獅子文六は、近年、小林信彦、中野翠、堀江敏幸、平松洋子といった読み巧者が絶賛しているせいもあり、昭和を代表する大衆的なユーモア作家というイメージで語られることが多い。もちろん、その通りなのだが、私は、数年前、近所の古本屋で「獅子文六全集」(全十七巻・朝日新聞社)を格安の値段でみつけて以来、折に触れて、読み返すたびに、獅子文六はもっと一筋縄ではいかない、巨大なスケールの作家ではないかという思いを強くしている。

 

たとえば、二・二六事件で九死に一生を得た老首相の皮肉な運命を描いた晩年の傑作「出る幕」のトラジ・コミカルで絶妙な味わいは、ちょっと形容しがたい。こんな意想外な語り口で二・二六事件を描いた小説は空前絶後ではあるまいか。 

 

笠原和夫の『破滅の美学』(幻冬舎アウトロー文庫)に次のような一節がある。 

「そういえば、わたしも、二度ほど出刃包丁を持とうか、と思ったことがある。ひとつは、戦争が終わって海軍の復員兵としてくうやくわずの生活をしていたころで、戦時中、わたしたちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六のペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光を浴びているのが許せなかった。海軍の実態は、岩田氏が書いたものとまったく違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを美化し、筆力をもって若者たちを海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。なにが『てんやわんや』だ、ふざけやがってーと、二十歳前後の荒んだ血で、岩田邸に乗りこもうと考えたのだが、これは空想に終わってしまった。いまでも、わたしは獅子文六に好感も敬意ももっていない。ただ、小説『海軍』はいまだに座右に愛蔵している。」

 

たしかに獅子文六は、戦時下に『海軍』を書いたために戦犯の容疑を受けたが、戦後になるや、戦争協力者から、安易に親米の民主主義者に転向した作家たちとは一線を劃すように毅然たる姿勢を貫いた。 

私が獅子文六の面白さを知ったのは花田清輝の影響が大きい。花田清輝は、『乱世今昔談』(講談社)所収の「有名無実」というエッセイで次のように書いている。   

「死の直後に発表された『モーニング物語』によれば、獅子文六は、半世紀前にパリでつくったモーニングを一着して、文化勲章をもらいに出かけた。これを、故人がケチだったためという人があるが、はたしてそうか。わたしは、そこに、名声というものにほとんど心をうごかされない、ひとりの達人のすがたをみた。おもうに、故人は、戦後、戦犯のリストにのせられたさいにも、大いにローバイもせず、虚心にその悪名を受けとったのではなかったろうか。達人というのがいいすぎなら、芸術家といいなおしてもいい。」

 

 獅子文六は、『食味歳時記』『飲み・食い・書く』といった食べ物エッセイの名著も多いが、映画に関するエッセイも少なからず残している。獅子文六が、『てんやわんや』でデビューした淡島千景に、「ヘップバーンとコルベールの間に君の道がある」という色紙を贈ったのは有名なエピソードだ。「『大番』余禄」というエッセイでは、小説を書き終わらないうちに始まった映画『大番』シリーズで、途中から淡島千景が演じたおまきさんの評判が高まり、本来、考えていたおまきさんと淡島千景の風貌がちゃんぽんになり、後半は、完全に淡島千景のイメージが作者を支配するようになってしまったと苦笑気味に書いている。

私は、なんとなく『やっさもっさ』で混血孤児院の理事長を演じた淡島千景が獅子文六の理想的なヒロイン像のように思えてならない。 

 

 昭和十五年に刊行された『牡丹亭雑記』には、獅子文六の笑いに関するエッセイが数多く収められているが、なかでも「映画に現われたユーモア」は、出色な面白さである。幼少期に見たニコニコ大会に始まり、新馬鹿大将、マック・セネットのエロチック喜劇、ウィル・ロジャースの静かなユーモア、マルクス兄弟の瘋癲的ユーモア、チャップリン、ルネ・クレールの諷刺的笑いと自らの喜劇映画体験を回想しながら、日本映画のある喜劇俳優についてこんなふうに書いている。

「だが、藤原釜足という役者だけは、僕の狭い見聞のうちでもっとも嘱望し得る一人だ。およそ彼ぐらい、平凡な一日本人の体躯容貌を備えた役者はない。まるで、平凡の典型の如きパーソナリティである。そこに、彼の絶大なる強みがあるのだと思う。彼は、あらゆる平凡な日本人の笑いと、悲しみを唄う資格をもっている。芸からいっても、素直で、真実で、P・C・L有数の技術者である。僕は『坊ちゃん』の中のウラナリを観て、彼に注目し始めたのだが、その後、大体に於いて、期待を裏切られない。……中略……彼は現代日本人として濃い属性をもっているのだから、日本の現実から生まれた役、演技を与えなければ、ウソである。僕は彼の主演で、牛乳配達かなんかの生活を、シミジミ描いた喜劇が見たい。日本の現代の真実がそこに示されれば、とりもなおさず、それがよいユーモア映画になるわけだ。」

 

 藤原釜足の個性をとらえたなかなかの卓見であると思う。獅子文六は、そのほかにも、一緒に文学座をつくった盟友岸田國士の娘である岸田今日子を深い愛情をこめつつも怜悧に分析した卓抜なエッセイを書いているし、生涯を通じて無二の親友だった徳川夢声の名著『夢声戦争日記』の書評では、爆撃機の試験飛行中に殉職した夢声の義弟、竜夫の思い出にほとんどの筆を費やしていて、感動的である。

 

かつて花田清輝が、「三島由紀夫の『近代能楽集』などとはちがって、能狂言の近代化ではなく、能狂言を否定的媒介にして、あざやかに近代をこえることに成功した」と讃嘆したのが岩田豊雄の戯曲『東は東』である。この戦前に発表された狂言形式の一幕物を、昭和二十九年、上演したのが武智鉄二で、その斬新な演出は、今なお、伝説的な舞台として語り継がれている。 

岩田豊雄=獅子文六は、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』の名訳者で知られたアヴァンギャルドな芸術家だったのである。

 

どこか奇特な版元があれば、腕によりをかけて、『獅子文六映画・演劇エッセイ集』を編んでみたいというのが、私のささやかな夢である。 


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獅子文六著『コーヒーと恋愛』(ちくま文庫)

『映画評論』時代の長部日出雄をめぐって

前回、優れた『私が棄てた女』論をものした映画批評家・蒼井一郎について書きながら、私は、もう一人、浦山桐郎の最も深い理解者であった同時代の映画批評家がいたことを思い出した。長部日出雄である。

直木賞作家の長部日出雄が、かつてきわめてジャーナリスティックなセンス溢れる映画批評家であったことはつとに知られている。『週刊読売』の記者時代に、大島渚らが一斉に登場した際に、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名したことはあまりに有名なエピソードだ。

長部日出雄は、今も『オール讀物』に「紙ヒコーキ通信」を連載中である。この「紙ヒコーキ通信」は、劇場で見たばかりの新作映画をとりあげた時評で、これまで『映画は世界語』『映画監督になる方法』『映画は夢の祭り』(すべて文藝春秋)という三冊の単行本になっているし、昨年は、ライフワークともいうべき『新編 天才監督 木下恵介』(論創社)も上梓している。 

とりわけ、私は、虫明亜呂無ほか物故した映画人のメモワールを収めた『振り子通信』正続、『精神の柔軟体操』(すべて津軽書房)などのエッセイ集を愛読している。

 

長部さんは、映画好きが嵩じて、自らの原作・脚本で『夢の祭り』(89)という映画まで監督してしまったが、作家に転身して以降は、作り手の視点に寄り添うようになり、かつてのような鋭い批判的な言辞は一切、封印してしまったように思う。そこが、私は少し不満でもあった。

というのも、かつて佐藤忠男が編集長を務め、虫明亜呂無、品田雄吉が編集者だった一九六〇年代半ばの『映画評論』に長部日出雄さんが発表していた映画評論は、辛辣な批評精神と同時代をリアルにとらえる鋭敏で柔軟な志向性が融合した独特の魅力を放っていたからである。

その代表作といえるのが、『赤ひげ』を論じた「黒澤明の世界」(『映画評論』1965年7月号)で、マックス・ウェーバーを引きながら、黒澤明の作品世界に、一貫した家父長的な支配構造を見出したこの名高い論考は、図らずも、以後の映画ジャーナリズムにおける黒沢明批判の先鞭をつける役割を果たすことになった。

 

この時代の長部日出雄の批評で出色なのは、たとえば、「『裏切りの季節』―この汚辱にまみれた旗」(『映画評論』1966年8月号)である。冒頭の一節を引いてみよう。

「混沌とした映画である。が、これは新人がひさびさに、既成のモラルでない、それだけに不定型な自己の内部の観念を思うさまフィルムの上にぶちまけた作品だ。」

こんなぐあいに、悠然たるタッチで大和屋竺の鮮烈なデビュー作『裏切りの季節』を論じながら、当時、勃興していた三百万でつくられるエロダクション映画の可能性を見出している。

 

長部日出雄の生涯のベスト・ワンはフェリーニの『812』である。長部の「フェリーニの『81/2』」(『映画評論』1965年5月号)は、公開当時に書かれた数多の『81/2』の批評の中でも、もっとも長大で(原稿用紙で40枚以上あったと思う)、緻密で、卓越したスリリングな論考であった。私は、イメージの万華鏡のような『81/2』の魅惑的なディテールを鮮やかに再現する、その途方もない筆力に舌を巻いたが、この傑作評論は、たしか、『非行少女』をもってモスクワ映画祭に行った浦山桐郎監督から、その年のグランプリを獲得した『812』がいかに素晴らしかったかを延々と聞かされていた、という印象的なエピソードからはじまっていたと記憶する。

 

長部日出雄が『映画評論』の一九六四年八月号から始めた「日本の映画作家」という連載がある。第1回目が浦山桐郎で、以後、今村昌平、増村保造、市川崑、山田信夫、岡本喜八、蔵原惟繕、篠田正浩と続くのだが、この連載が途中で終わったのはなにか理由があるのだろうか。これも40枚以上ある長篇論考で、抽象的な作家論ではなく、監督の出身、背景を丹念に調べ上げ、周到な取材を積み重ねて、作品と監督の人物像の相関を見つめた秀逸なポルトレの趣があり、今、読んでも新鮮である。

 

私は、長部日出雄が『ヒッチコック・マガジン』(1962年6月号)に書いた、あるエッセーがずっと気になっている。というのも、小林信彦が名著『日本の喜劇人』の中で、次のように書いているからである。

「これは、彼の書いた多くの文章のなかでも、すぐれたものの一つだと私は確信している。〈あるコメディアンの歩み――石井均はなぜ東京を去ったか〉という短文を私は、ここに、全文、紹介したい気がする。長部は、惚れた相手にからみ、どう仕様もなくなってしまったとき、いい文章を書く。石井均もそうした対象の一人なのである。」

 

「あるコメディアンの歩み」は引用部分を読んだだけでも、優れた喜劇人論となっていると思えるが、ぜひ、全文を読んでみたい。小林信彦さんは、『日本の喜劇人』の中で長部さんについて「喜劇について語るに足る数少ない友人の一人」と書いているが、私もあるエピソードを思い出す。

 

 一九八五年十月、浦山桐郎の訃報が入り、当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、すぐさま、長部日出雄さんに追悼文をお願いした。「〈戦後〉の最良の表現者」と題された、その追悼は、深い哀惜の想いを溢れんばかりに伝わってくる感動的な一文で、かつて日活社員だったオペラ演出家の三谷礼二さんが「一読し、泣きました」とわざわざ電話をくださったほどだ。

私は、長部さんの原稿を受け取った時に、新宿に飲みに誘われたのだが、私はその際、新宿の紀伊國屋書店の裏手にあった「あさぎり」というお店に長部さんをお連れした。その少し前に、昼間、偶然入ったカレー屋「あさぎり」のママさんが、話してみると伝説の喜劇俳優シミ金こと清水金一の奥さんで、引退した女優の朝霧鏡子さんであると知っていたからだ。朝霧さんからも「夜は、お酒も飲めますから、ぜひ、一度、いらしてね」と言われていたのである。

長部さんは伝説の女優に会えたので大感激し、全盛期のシミ金の映画を絶賛するや、朝霧鏡子さんも大喜びで、松竹少女歌劇団時代のチャーミングな写真が沢山貼られたアルバムを見せてくれたりもした。果ては美しいおみ脚を披露する大サービスもあって、長部さんも狂喜乱舞して、朝霧さんと松竹少女歌劇団のテーマソングを大合唱したりと、なんとも楽しい一夜であった。 

その後、ずっと引退していた朝霧さんが、一九九五年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』で、突然、華麗なカムバックを遂げたのは周知の通りである。

 

長部日出雄さんとは、その後、『夢の祭り』がビデオ化された際に、『A?ストア』誌でインタビューしたが、その際に、一九六〇年代に書かれた映画評論をまとめないのですか、と訊いてみたことがある。

長部さんは、「黒澤明の世界」をはじめ、当時、書いた映画批評を本にすることには否定的な発言をされていた。やはり、創作者、作り手に回ったことで、大きな意識の転回があったようである。しかし、私は、『映画評論』を中心に、長部日出雄さんが一九六〇年代に書かれた映画批評は、同世代もしくは同時代の監督への大いなる挑発であり、励ましであり、まぎれもない、血の通った繊細な創作者の〈言葉〉として、再発見されなければならないと思っている。 

『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について

 一本の映画について思いをめぐらす際には、その作品を論じた同時代の優れた批評が喚起されることがある。一番、有名な例を引けば、「映画芸術」に載った三島由紀夫の「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの鶴田浩二」だろう。この批評で山下耕作の名作『博奕打ち・総長賭博』の評価は決定的なものとなった。

私の個人的な記憶をたどれば、たとえば、今やカルト映画として若い世代にも人気がある野田幸男の『〇課の女 赤い手錠』(74)は、封切り時に、「キネマ旬報」に載った球磨元男(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)の「瞠目すべき傑作」という大絶賛の短評に大いに刺激された。そして数か月遅れで、新宿昭和館でようやくつかまえ、驚愕したのをよく憶えている。ダイニチ映配末期に狂い咲いた長谷部安春の日活ニューアクションの代表作『野良猫ロック・セックスハンター』(70)についても、当時、「キネマ旬報」の読者投稿欄に載った藤田真男の「『野良猫ロック・セックスハンター』の論理と構造」という秀抜な論考が強く印象に残っている。

 

 一九八四年に出た山田宏一の書下ろしエッセイ集『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫)は、まさに、達意の名文による同時代の映画批評の宝庫で、「サミュエル・フラーの戦争 『最前線物語』」、「松田聖子のおでこ 『野菊の墓』」、「田中裕子とグリーンの誘惑 『天城越え』」、「森崎喜劇の行方 『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』」などは、それぞれの作品について書かれた最も魅力に富んだブリリアントな批評であった。

 

 その山田宏一さんから、はるか昔、日本ヘラルド映画の宣伝部長の山下健一郎さんが蒼井一郎というペンネームで映画評を書いていて、浦山桐郎論がすごくよくてね、という話を聞いたことがある。

 

 山下健一郎といえば、私が「月刊イメージフォーラム」編集部に在籍していた一九八〇年代の前半には、子会社のヘラルド・エースを原正人さんと共に牽引していた。『赤い帽子の女』『瀬戸内少年野球団』『片翼だけの天使』などのプロデューサーとして活躍していた時期で、恐らく、その頃は多忙を極め、映画批評を書く余裕はなかっただろう。

 

その後、私はフリーの編集者になったが、必要があって、戦後日本映画の批評の歴史を調べていて、小川徹が編集委員会代表を務めた『現代日本映画体系』全六巻(冬樹社)を通読する機会があり、ようやく「蒼井一郎」の書いたいくつかの批評を読むことができた。

第二巻「個人と力の回復」には「やむをえざる犯罪の物語――『警視庁シリーズ』論――」、第三巻「日本ヌーベルバーグ」には「渋谷実の笑い――『二人だけの砦』評――」が収められており、とくに前者は、東映の『警視庁シリーズ』を、その作られた高度成長期という時代背景を踏まえた精緻な分析が読みごたえがある。

「とどのつまり、警視庁シリーズ作品の絶ちがたい魅力とは、大都会の貧しい風景・貧しい犯罪の描写をはさんで、企業的アルチザン根性と本物のドキュメンタリー精神が、その接点のあたりで毎度安定した〈スタイル〉のなかにするりと統一されてしまうという、〈じれったさ〉にあったのかもしれないのだが……。」というくだりなどは、実に鋭い指摘で、読んでいると、猛然と「警視庁」シリーズ全作を見たくなってしまうほどだ。 

 

しかし、映画批評家、蒼井一郎の最高傑作といえば、やはり第五巻「幻想と政治の間」所収の「『私が棄てた女』と六〇年代」だろう。四百字詰め原稿用紙で四十枚ほどの長篇の論考で、初出が一九七〇年三月刊行の「シネマ70」四号というのも時代を感じさせ、象徴的である。

 

冒頭で、蒼井一郎は次のように書き出している。

「浦山桐郎の『私が棄てた女』について書こうとすると、それはひとつの明確な結論を持った文章として完結しないのではないか、という危惧を、最初から感じてしまう。……中略……『私が棄てた女』を正面切って分析した批評は少なく、いわば論理的解明ではなく心情的な共感として、ひとりひとりの胸の奥にスムーズにしまいこまれ、やがては記憶という錆びによって動かなくなる錠を下されてしまっていくように思える。

 多分その理由は、『私が棄てた女』という作品が、自己の内部と外部の両方に向かって発した〈問いかけ〉であり〈追求〉であり、〈否定〉でありながら、同時にその〈答え〉であり〈弁明〉であり、〈肯定〉であるという構造を持っているために、明確な一元的メッセージを受けとることができなかったからであろう。」 

 

『私が棄てた女』(69)を、私は、十年おきぐらいに名画座でかかると見返しているが、最初、二十歳前後で見た時には、さほど感銘を受けることのなかった、この作品は、歳を重ねて、見直すたびに、名状し難い苦さ、棘が刺さったような鈍い痛みにしばし襲われる。こういうタイプの映画はきわめて稀である。

蒼井一郎の批評は、この『私が棄てた女』という一筋縄ではいかない、不可解な魅力をたたえた映画に、全力でぶつかり、格闘し、〈言葉〉によって肉薄しようとした稀有な試みである。

 

『私が棄てた女』の主人公・吉岡(河原崎長一郎)は、勤め先の社長の姪であるマリ子(浅丘ルリ子)と結婚するいっぽうで、昔、学生時代に知り合い、妊娠させて棄てた女工の森田ミツ(小林トシ江)と再会した後、関係を持ち続ける。そして、ふたたび、見棄ててしまい、結果的には、ミツを死に追いやってしまう。

 

蒼井一郎は、吉岡の「俺は……ミツじゃないが、ミツは俺だよ」という謎めいた呟きの意味を問い直し、吉岡にとって、「死せるミツは、すでにあの「『道』のザンパーノにおけるジェルソミーナのような存在になっているのである」と卓見を述べている。

さらにラストのマリ子のモノローグについても次のような鋭い分析を加えている。

「ここでは、ミツとは対照的な環境に育ち、都会的知的な女性像として登場したマリ子が、吉岡に対するミツのような存在に転生している。吉岡にとっては、彼女自身が第二のミツになりうるかもしれない。だが、吉岡の方は、愛するものを愛し続けながら、ミツを殺した外部の敵、内部の敵と戦ってゆくことができるのだろうか。朝の空とも、夕暮れの空とも見える不思議なラストショットの空のあかね色は、その可能性と絶望の交錯のように見える。」

 

 浦山桐郎は、『キューポラのある街』(62)、『非行少女』(63)、そして『私が棄てた女』という日活時代の三本の作品で、作家生命を燃焼し尽くしてしまったというのが私の長年の持論で、とくに主人公の吉岡に烈しく自己を投影した『私が棄てた女』には、浦山桐郎のすべてがあると思える。

 

その後、山下健一郎さんとは、フリーのプロデューサーになられてから、数回、酒席を共にする機会があったが、酒が入ると、なんだか照れてしまい、直接、『私が棄てた女』論の感銘を伝えることはできなかった。山下さんは、二〇一〇年の八月に胆管細胞ガンで死去された。享年七〇。

その数か月後に、『ゴダール・ソシアリズム』の完成披露試写で、奥様の山下由紀子さんと偶然、お会いし、喫茶店で長々と話し込んだ。山下さんご自身も大変な映画狂で、シネ・ヴィヴァン六本木に勤務していた一九九〇年代には、ジョン・カサヴェテス特集などで一緒にイベントを企画したこともあった。山下さんは、「通夜では、原正人さんや河原畑寧さんなど親しかった沢山の友人たちが、いつまでたっても帰らずに主人の思い出を延々と語り合っていたんですよ」と嬉しそうに話されていたのが印象的だった。

山下健一郎さんは、豪放無頼なキャラクターの魅力もあって、黄金期のヘラルド映画時代の宣伝マンとしての伝説的なエピソードには事欠かないが、私としては、傑出した『私が棄てた女』論を書いた映画批評家・蒼井一郎としての貌を忘れないでおきたいのである。

 

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浦山桐郎監督の名作『私が棄てた女』(VHSのみ。絶版)

幻の日活映画『孤独の人』をめぐって

 いささか旧聞に属するが、昨年十二月二十三日の天皇誕生日に、今上天皇が記者会見の席上、「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」と述べられたのが強く印象に残った。とりわけ「孤独」という言葉から、私はすぐさま、映画『孤独の人』を思い浮かべた。


 今から半世紀以上前の一九五六年に、皇太子(今の天皇)の御学友だった藤島泰輔が、皇太子をモデルにした『孤独の人』を発表し、センセーショナルな話題となった。すぐさま、その原作は日活の辣腕プロデューサー児井英生の目にとまって映画化された。西河克己が監督した『孤独の人』である。

私の手許にある三笠書房版『孤独の人』の奥付をみると、四月十五日に第一版、二十五日には第五十版というにわかに信じられない数字が記載されているが、大ベストセラーであったのは間違いない。帯にある大谷壮一評が当時の雰囲気をよく伝えているので引用しておこう。 

「これは、いわば『暴力教室』学習院版で、彼らはつとめてべらんめえ口調で語りあい、その不良的な発言によって、皇太子をめぐる側近のナンバーワン的地位を獲得し、おまけに皇太子をそそのかせて、銀座につれだすところなど、まるで『ローマの休日』の日本版だ。」

 

 さらに、序文を寄せた三島由紀夫は次のように書いている。

「作者は多くの学生を登場させて、あらゆる側面から照明を当て、皇太子に対する同級生の各種の反応を客観的に並べている。そして小説的に興趣のある点は、皇太子なる人物が、丁度故人を主人公にした『レベッカ』のやうに、小説の背後に淋しい肩を見せて立っているだけで、すべての登場人物に影響を与え、行動の動機を与えていることである。作者が小説家として皇太子を拉し来った企みは、まさにここにあったのかもしれない。」

 

たしかに藤島泰輔の原作は、学習院内において初等科からの学友が中等科から入った生徒に対して抱く排他意識を露わにし、さらに熱っぽい同性愛の描写まで盛り込まれており、スキャンダラスな興味を喚起させるには充分だった。そして、翌年の五七年一月に封切られた『孤独の人』は、ひとりの人物の運命を大きく変えることになる。当時、学習院大学の四年生で戯曲研究会に所属していた三谷礼二さんは日活サイドに乞われて、皇太子の御学友の役で出演することになった。しかし、そのために、安倍能成学習院院長から退学処分を受けてしまうのだ。三谷礼二さんは、責任を感じた西河克己の伝手で日活俳優部に入り、『果しなき欲望』『幕末太陽傳『白い悪魔』など数本の作品に秋津礼二の芸名で出演している。その後、宣伝部に移って、退社後は、日本を代表する天才的なオペラ演出家となった。 

 

天皇陛下の発言に刺激されて、私は、二十年ほど前、深夜T?で放映された『孤独の人』を録画したビデオを、ひさびさに見直してみた。そして、この問題作が、決して時流に便乗したキワモノ映画ではなく、正統派の学園青春ものに仕上がっていることに感心してしまった。新米教師をいじめる教室内のあっけらかんとしたユーモラスな描写など、鈴木清順の『けんかえれじい』を彷彿させるし、初等科からの学友の鼻持ちならぬ特権意識も丁寧に描き込まれている。あらためて、『生きとし生けるもの』など、手堅い職人としての手腕が発揮された西河克己の日活初期の文芸映画は、きちんと再評価されねばならないと思った。   

 

『西河克己映画修業』(ワイズ出版)によれば、公開時には、日活に右翼から拳銃のタマが送られるなど、不穏な騒動もあったらしい。皇太子はまったくの素人が演じているが、遠目におぼろげながらに存在は確認できるものの、画面にその貌が現れることはない。白い手袋をして、時おり一人称による主観ショットが差し込まれるだけで、皇太子は、つねに不可視の中心のように、まさに「淋しい肩を見せて立っている」だけの透明な存在と化しているのだ。

 

映画初出演の三谷礼二さんの堂に入った演技も見ものだが、御学友では年上の色っぽい叔母月丘夢路とねんごろな関係にある津川雅彦の屈折したキャラクターが異彩を放っている。なにしろ、ふたりのベッドシーンまであるので、一瞬、どきりとする。こういうキワドい場面を平気で入れてしまうところに、若い映画会社日活のノンシャランな自由さを感じてしまう。 

もうひとり、ひと際、強く印象に残るのが、やはり御学友に扮した小林旭である。この時期の小林旭は、まだ大部屋時代で無名に近いはずだが、クラス討論で「学習院内の男女交際の可能性について」などというお題目で一席、熱弁をふるう珍景もある。この映画のクライマックスともいえる、皇太子を夜の銀座に連れ出して、一波乱を巻き起こすのも小林旭なのだ。宿舎に帰り、寮長に叱責されて、泣き伏してしまうシーンなど、後のアクション・スターとは異なる小林旭の性格俳優としての魅力が光っている。

 

そういえば、今、編集している白鳥あかねさんの聞き書きの自伝『スクリプターはストリッパーではありません』(国書刊行会)の中で、『孤独の人』にスクリプターとして就いた白鳥さんはこんなエピソードを披露していた。

教室のシーンで、西河監督が「誰か歌を歌える奴はいないか」と訊ねたところ、「ハイ」と手を挙げたのが小林旭で、いきなり、旭が「木曾節」を歌い出すと、あまりのうまさに、その場にいたスタッフ全員が水を打ったように静まり返ってしまったのだという。そしてたまたまそこに立ち会っていたコロンビア・レコードのディレクターが、旭の類まれな歌唱力に目をつけ、翌年、「女を忘れろ」で歌手デビューさせたとのことである。

 

私は、八年前、三谷礼二さんの遺稿集『オペラとシネマの誘惑』(清流出版)を編纂した時に、三谷さんの学習院中等・高等科時代の後輩である蓮實重彦さんに、当時の思い出をめぐってロング・インタビューをしたことがある。蓮實さんは、折りに触れて、三谷さんのことを「アメリカのB級映画をていねいに見る習慣を教えてくれたアナーキーな先輩」と称賛していたからである。羽根木の御自宅で、蓮實さんに珈琲をごちそうになりながら、若き日のふたりの異常な映画狂ぶりをうかがうのは至福の時間であった。『孤独の人』の話題にふれると、撮影用に、急遽、蛇腹の学習院の学生服を集めなければならず、三谷さんから「君、まだ持ってる?」と問われ、貸したのだという。蓮實さんは「私の古い制服を誰が着たのかはわかりませんが」と苦笑していたが、私は、『孤独の人』の出演者のなかで、蓮實さんのような巨きな体型に見合う俳優は、小林旭以外には思いつかない。スクリーンの中で、後の東大総長の学生服を、後の〈無意識過剰〉な不世出の大スターが着ていたのかもしれないと想像するのはなかなかに愉しいことである。

キナ臭い世相の今こそ、見るにふさわしい問題作『孤独の人』は、日活にもプリントがないという噂もあるが、ぜひ、どこかの名画座で上映してほしい。

 

 

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藤島泰輔著『孤独の人』(岩波現代文庫)

秦早穂子の映画エッセイの魅惑

 六年ほど前だったか、コミュニティシネマ支援センターが発行していた会報誌「フィルムネットワーク」で秦早穂子さんにロング・インタビューをしたことがある。秦さんについては、山田宏一さんとの対談集『映画、輪舞(ロンド)のように』(朝日新聞社)、『スクリーン・モードと女優たち』(文化出版局)等の著作で、ある程度の知識はあったものの、あらためて、ご自身の口から直接、語られる新外映時代、カンヌ映画祭をめぐる数多のエピソードは、あまりにもきらびやかで、めまいが起きそうであった。

「秦早穂子のヌーヴェル・ヴァーグ誌」と題して、二号にわたって掲載されたインタビューは一部で反響もあったが、私としては、秦早穂子さんのような特権的な体験をされた映画人の回想は、ぜひ、活字に残しておかなければならないとずっと考えていた。

 そうこうするうちに、しばらくして、雑誌『真夜中』で、秦さんの自伝的な回想と小説を織り交ぜた連載が始まった。私は、ああ、やられてしまったと口惜しい思いに駆られながらも、毎号、興奮を抑えがたい気持ちで愛読していたのだが、その連載が昨年、『影の部分』(リトルモア)となって上梓された。さっそく、通読し、あらためて深い感銘を受けた。『影の部分』は、昨年、刊行された映画本のなかでも傑出した名著である。


『影の部分』は、戦前から焦土と化した戦後を生きぬいた秦早穂子さん自身を思わせる萩舟子という主人公の一人称の小説と、新外映の社員として、一九五〇年代の終りに、リアルタイムで、パリでヌーヴェル・ヴァーグの飛沫を全身で浴びた秦さんのリアルな体験が三人称のドキュメントで交互に綴られている。秦早穂子さんは、意図的に、フィクションとノンフィクションの綴れ織りのような手法を選びとることで、私的な記憶を昭和という時代の歴史に貫流させ、かけがえのない体験をより立体的にとらえ直し、内面化させ、深化させようと試みたのだと思う。


『影の部分』は、続篇を予想させる終わり方になっていて、一九六〇年代以後の時代を描く第二部が愉しみでならない。その一方で、私は、秦早穂子さんがこれまで書かれた膨大なエッセイもずっと気になっている。


  たとえば、一九五八年から『スクリーン』で、六一年からは『映画の友』でほぼ毎号のように連載されていた女優、男優へのインタビュー記事は出色の面白さで定評があった。とりわけ、『太陽がいっぱい』の時のアラン・ドロンの妖しいエロティシズムに言及した秦さんのインタビューを、三島由紀夫が絶賛していたことはよく知られている。


  今、私の手許にある『映画芸術』の一九六〇年四月号には、秦さんの「ヌーヴェル・ヴァーグの横顔――パリ日記より」というエッセイが載っているが、たとえば、一九五九年十一月二十日、ある新人監督の完成試写を見た時の、次のような記述がある。

「シャブロール、トリュフォー、ベッケル、ゴダール、ヴァレールらが集まっている。ラッシュを見たときとちがって、思い切ってカットしてある。カットされた部分と、完成のコピイを総合してみて、ゴダールの意図がはっきりわかる。だが、商業上からいうと、あまりにカットされたことによる危険性をはらむので、ゴダールにくってかかる。「この間のラッシュのときは、切ってくれとあんなにいっていたのに」。ゴダールはうけつけない。だが商業的立場だけからいっているのではない。カットされたシーンは数々美しい点があった。たとえば、ベルモンドが、ボガートの写真を見つめて独りいうセリフ。「全く変なことだけどさ。ボブが死んだとき、俺は泣けて仕方なかった」。ひとつの作品を、撮影ラッシュから完成と見守ってゆくとき、映画作家の秘密にふれることができる。その秘密にはしばしば美しいものがある。試写後、けんけんごうごうの議論になる。興奮状態。……黒眼鏡のゴダール、さすがにほほを紅潮させるが、次の一瞬にやりと笑って何もいわない。議論をきいていたいが、おそいので中座。コリガでおそい夜食をとる。一時だ。」


  秦早穂子さんが、ジャン=リュック・ゴダールという未知の新人監督の『息切れ』のラッシュフィルムを見ただけで、世界最初に買い付け、自ら『勝手にしやがれ』と名づけた伝説的なエピソードは、『影の部分』でも微妙にトーンを変えて鮮やかに再現されているが、試写室で、猛然とゴダールにくってかかる秦さんの姿を思い浮かべるとやはりすごいなと思ってしまう。

  それか、あらぬか、やはり『映画芸術』の六〇年五月号では、「映画の性とモラル」という特集が組まれ、戸井田道三の司会で、「映画にあらわれた?性?の問題」というテーマで、石原慎太郎、白坂依志夫と秦さんが鼎談しているのも際立って印象的だ。フランス本国で公開禁止だったロジェ・ヴァディムの『危険な関係』や『墓にツバをかけろ』『青い牝馬』などを話題にしながら、当時、人気絶頂の気鋭の若手作家、シナリオライターを相手にまったくひるむことなく丁々発止の議論を戦わしている秦早穂子さんは、とてもチャーミングである。

 

 私は、秦早穂子さんが一九七〇年代の終りに書かれた『パリに生きる女たち』(時事通信社)、『パリの風のなかで』(講談社)を永年、愛読している。どちらもパリとそこに生きる有名、無名の芸術家、映画女優、歌手、デザイナーなどを描いたポルトレ集といえるが、フランスの文化を真に血肉化している人物以外には、絶対に書けない円熟した味わいがある。

  たとえば、『パリに生きる女たち』に収められた「ぶらんこ人生」と題されたアニイ・ジラルドのスケッチは印象深い。秦さんは「アニイ・ジラルドという女優の存在を考える時に、いつも人間の持つ愚かさの部分を思い浮かべる」と書き、なんと藤山寛美と比較しているのだが、その波瀾に富んだ生き方を、彼女の言葉をさりげなく引きながら一筆書きのような見事な肖像として描いている。この一文を読むと、アニイ・ジラルドが出演した『若者のすべて』と『パリのめぐり逢い』を見直したくなるのは間違いない。


  秦早穂子さんは、一九五八年から二〇〇三年までの四五年間、毎年欠かさずにカンヌ映画祭に通われていた。インタビューの際に、秦さんは、一九六〇年のカンヌで、賛否両論だったフェリーニの『甘い生活』がグランプリを獲った瞬間の異様な熱狂に包まれた雰囲気や、同じ年、『情事』を出品したアントニオーニがあまりの観客のブーイングに、思わず泣き出してしまったエピソードを、あたかも昨日の出来事のように語っていた。秦さんは、まさにカンヌが、そして映画が最も豊饒であった時代を肌で知っているほとんど唯一の証言者にほかならないのである。そんな秦さんのカンヌ映画のメモワールを読みたいと思うのは私だけではないはずである。

  秦早穂子さんのまばゆいばかりの映画的キャリアに思いを馳せるたびに、編集者としての熱い血が限りなく騒いでしまうのである。



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秦早穂子著『影の部分』(リトルモア)


東京フィルメックスでのツァイ・ミンリャンとの対話

 今年の東京フィルメックスは、中村登とジャン・グレミヨン特集など気になるプログラムもあったのだが、仕事に追われ、あまり通えなかった。ただ、どうしてもツァイ・ミンリャンの新作『ピクニック』だけは見たかった。

というのも、ツァイ・ミンリャンは、今年のベネツィア国際映画祭の記者会見で、「『ピクニック』で監督を引退する」と表明していたからだ。四年前の東京フィルメックスでオープニングを飾った前作の『ヴィザージュ』(09)は結局、一般公開されなかった。恐らく、『ピクニック』もどこの配給会社も買わないだろうし、私は、これが最後の機会になるだろうと思い、今回、来日したツァイ・ミンリャンにインタビューを申し込み、その真意を聞いてみたいと思ったのだ。

 

『ピクニック』は、まさにツァイ・ミンリャンにしか撮れない、とてつもない映画だった。台北の街頭で高級住宅地のPRの看板を持って一日中立ち続けるリー・カンション。二人の幼い子供はスーパーマーケットの試食品コーナーを徘徊し、彼らは廃屋となったビルの一室で寝泊まりしている。この世界から打ち棄てられ、壮絶な貧困と孤立を強いられた家族の光景を、ツァイ・ミンリャンは、驚異的な長回しによって凝視し続ける。その果てに、夢とも現ともつかぬ不可思議な〈時間〉が流れ出す。こういう稀有な体験は、今や、ツァイ・ミンリャン以外の作品では味わうことができない。

  

私は、『ピクニック』を見ながら、『愛情萬歳』(94)を思い出していた。高度経済成長下の台北を舞台に、高級マンションの不動産セールスレディ、ヤン・クイメイが抱える孤独と空虚が鮮烈に描かれ、ベネティア映画祭で金獅子賞を受賞した傑作だった。この映画を配給したプレノン・アッシュは、その後も『Hole』(98)、『楽日』(03)、『西瓜』(05)、『黒い眼のオペラ』(06)とツァイ・ミンリャンの映画を公開し続けた。

私は、これらの作品のパンフレットをすべて編集していたので、ツァイ・ミンリャンの映画がいかに一部で熱狂的なファンを擁しながらも、興行的には厳しい苦戦を強いられていた現実をよく知っている。プレノン・アッシュは、残念ながら、今年、倒産してしまったが、私は、大ヒットを飛ばしたウォン・カーウァイ作品よりも、むしろツァイ・ミンチャンの映画を持続的に配給した功績によって、プレノン・アッシュは永く評価されるべきだと思う。

 

『ピクニック』には、冒頭で二人の子供を見守る守護天使のようなヤン・クイメイが登場し、さらに、ルー・イーチン、後半には母親とおぼしきイメージを背負ったチェン・シャンチーと、ツァイ・ミンリャンの映画の常連だった女優たちが、次々に現れる。

 

この謎めいた女たちについて、ツァイ・ミンリャンは、こんなふうに語っている。

「私は、当初、ルー・イーチンだけをキャスティングしていたのですが、クランク・イン前にひどく体調を崩してしまい、もしかしたら、これが最後の映画になるのではないかと危惧しました。そこで、これまで私の映画に出てくれたヤン・クイメイ、チェン・シャンチーにも急遽、出演してくれるように声をかけたのです。役柄などは別に考えもしませんでした。この映画では、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチーの三人がひとりのキャラクターを演じているといってよいかもしれません。しかし、映画が出来上がってみると、もう、そんなことはどうでもよいと思えるようになりました。」

 

ツァイ・ミンリャンは、もはや通常の意味でのプロットや物語を語ることにまったく興味がない。意図や主題をめぐって積極的に云々することもない。彼は、主演のリー・カンションについて話題が及んだ時にのみ、心底、饒舌になるのだった。

デビュー作『青春神話』(92)以来、すべてのツァイ・ミンリャンの映画に主演しているリー・カンションとの関係は映画史的にも極めてユニークである。ツァイ・ミンリャンは、「私の映画には、ただリー・カンションの顔だけがあるのです。」とまで断言するのだが、それは、彼が『ふたつの時、ふたりの時間』(01)で引用していた『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォーとジャン・ピエール・レオとの関係とはやや異なるように思う。

トリュフォーは、ジャン・ピエール・レオーを主演にしたアントワーヌ・ドワネルものにおいて、自らの過去を、ある距離をもって、トラジコミカルに回顧、再構成しているが、ツァイ・ミンリャンにとって、リー・カンションという俳優は、映画を作り続ける根拠そのもの、創作というイマジネーションの絶えざる霊感源にほかならないからだ。それは、一時期のジャン・コクトーの映画におけるジャン・マレーのような存在と言ってよいかもしれない。

 

ツァイ・ミンリャンは、この映画でも、リー・カンションが、ただひたすら食べること、排泄する光景を注視し続けるのだが、とりわけ、彼が子供たちがいなくなった蒲団の上で、キャベツをむさぼり喰う、愛と憎しみが複雑に入り混じった、おぞましくも悲痛に満ちた行為を長回しでとらえたショットは、名状し難い感銘を与える。

 

その直後に、大雨の中、リー・カンションが子供たちを連れて河上のボートに乗せようとする瞬間、ルー・イーチンが木の上から二人を救出する幻想的な場面がある。ここでのリー・カンションは明らかに邪悪なイメージを身にまとっているのだが、ゆくりなくも、ある一本の映画を連想させずにはおかない。チャールズ・ロートンの『狩人の夜』(55)である。

リー・カンションは、河上でボートに乗った孤児の兄妹に襲いかかる殺人鬼の牧師ロバート・ミッチャムの恐ろしくも甘美で夢魔的なイメージを体現し、そしてルー・イーチンは、ライフルを持ってふたりを守ろうとするリリアン・ギッシュの神話的なイメージにぴったりと重なるのだ。

 

 そのことを指摘すると、ツァイ・ミンリャンは、あえてことさらにシネ・フィル的に言及することはしなかった。だが、昨年、『サイト・アンド・サウンド』誌による映画監督が選ぶ映画史上のベストテンというアンケートで、ツァイ・ミンリャンは『狩人の夜』を選んでいるのだ。無意識のうちに、『ピクニック』を撮っている際、あの呪われたカルト・ムーヴィーの記憶が揺曳していたことは充分に考えられると思う。

 

 予定の一時間を超えてもなお、ツァイ・ミンリャンは率直に現在の心境を語ってくれた。その一端は、いずれ『キネマ旬報』誌上で、ご紹介できるかと思う。

 そして、公開はとうてい無理かと思われた『ピクニック』だが、ムヴィオラが配給することが正式に決定したようだ。アートフィルムが冬の時代を迎えている今、ムヴィオラの大英断には心から敬意を表したいと思う。

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ツァイ・ミンリャン監督『ピクニック』

忘れられた映画監督、野村孝の擁護と顕揚

先日、神保町の東京堂書店で『昭和怪優伝―帰ってきた昭和脇役名画館』(中公文庫)の刊行を記念して、著者の鹿島茂さんと坪内祐三さんのトーク・イベントがあり、出かけて行った。    

二〇〇五年に講談社から出た単行本『甦る昭和脇役名画館』は、私の愛読書で、『プレミア日本版』で書評したこともある。荒木一郎、ジェリー藤尾、岸田森、川地民夫、吉澤健、佐々木考丸、伊藤雄之助…といったシブい個性派俳優への熱いオマージュで、とくに一九七〇年代の映画館の記憶と当時の鬱屈した著者の心象風景が重ねあわされ、極私的であることこそが普遍性を持つという映画評論の模範的な達成かと思われた。

 

爆笑を誘うエピソードが満載の御二人のトークも、まるで気のおけない同世代の映画談議につきあっているようで、とても楽しかった。場内にはお二人と親しい映画監督の内藤誠さんもいらしていて、一緒に打ち上げに参加させていただいたが、鹿島茂さんからは、私が十代の頃、ファンクラブに入っていた伝説の深夜放送のパーソナリティ、大村麻梨子さんの近況をうかがうことができたのも嬉しかった。

 

大幅に加筆・増補された文庫版を再読しながら、ジェリー藤尾の章で、日本映画史上最高のハードボイルド映画『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(67)が絶賛されているので、あらためて溜飲が下がったが、監督の野村孝については、近年、あまり言及されることがないような気がする。鹿島さんも、「この大傑作以外にはあまり見るべき作品がないですよね」と、おっしゃっていたが、実は、野村孝は、私がもっとも偏愛する映画監督のひとりなのだ。

 

あれは、私が毎週のように池袋の文芸坐オールナイトに通っていた時期だから、一九七〇年の半ば頃だったと思う。当時の文芸坐オールナイトは鈴木清順を定番にして、日活アクション映画の五本立てが監督別に組まれ、舛田利雄、蔵原惟繕、長谷部安春、沢田幸弘などの特集はひときわ人気が高かった。そんな中で、野村孝特集がかかったのである。 

たぶん、その時に、初めて『拳銃は俺のパスポート』を見たのだと思うが、ラストの荒涼とした埋め立て地での四人の殺し屋を相手にした宍戸錠の胸のすくようなガン・アクションには、度肝を抜かれた。

宍戸錠は、前方に拳銃を放り投げ、まず、ライフルで二人を倒した後、弾がなくなったライフルを投げ捨てるや、全力疾走で、身体を一回転させながら、先の拳銃を拾って一瞬で二人の止めをさす。この宍戸錠の流れるような身体の動きを横移動でとらえた名手峰重義のめまいのようなキャメラワークもすごいが、宍戸錠の身体の動きのあまりの美しさに、場内から一斉に溜息が漏れ、次の瞬間、拍手喝采となったのは言うまでもない。

『拳銃は俺のパスポート』のラストのガン・アクションは世界的にも類を見ない水準に達しているが、野村孝の本領は、ガンのメカニックな魅力をめぐるディテールの描写や非情なハードボイルド・タッチと表裏をなすセンチメンタリズムにある。宍戸錠とジェリー藤尾が逗留する横浜の渚館での小林千登勢との淡い交情は、まるでアンリ・ヴェルヌイユの『ヘッドライト』のような甘さと暗いリリシズムが横溢していた。

 

この時の文芸坐オールナイトでは、ほかに『夜霧のブルース』(63)と『昭和やくざ系図 長崎の顔』(69)『無頼無法の徒 さぶ』(64)、それに『黒い傷あとのブルース』(61)が上映されたように思う。

『黒い傷あとのブルース』の冒頭、霧笛が流れる横浜の波止場に白いトレント・コートの小林旭が現われ、回想に入っていく瞬間、あっと声が出そうになった。これを私は七歳の時に封切りで見ていたからだ。『黒い傷あとのブルース』は恐らく私が最初に見た日活映画で、小林旭が歌うバタくさい抒情あふれる主題歌は忘れようもなかった。旭は清純なバレリーナ吉永小百合と恋に落ちるが、父親の大阪志郎と共謀した神山繁が旭の組を潰した黒幕であることが判明し、苦い復讐を遂げるという物語だった。

今、思うと、『黒い傷あとのブルース』は、小林旭と吉永小百合が共演した唯一の映画なのだった。

『野獣の青春』のシナリオライター山崎忠昭さんの証言にもある通り、この当時の日活無国籍アクション映画の大半は、欧米のメロドラマの名作のプロットを平気でパクっていたのは有名な話である。だが、野村孝の映画は、ハンフリ・ボガートばりに白いトレンチコートを着た旭がキザな台詞を呟こうが、いっこうに軽佻浮薄になったり、アイロニカルな自己批評的なトーンを帯びることはない。それは、野村孝の本来的な資質が、強靱なまでの〈抒情と感傷〉をあるからだろう。

 

回想が入れ子ふうな構造になっている『夜霧のブルース』でも、ヤクザの石原裕次郎が、喫茶店で、オルガンで賛美歌を弾いている浅丘ルリ子を見初め、通いつめるシーンや、長崎の坂道で、雨の中、ようやく心を通い合わせたふたりが白い傘をさして歩いていくロング・ショットの哀切な美しさは忘れられない。 

実は、讃美歌のメロディは大陸での裕次郎の幼少期の至福の記憶と結びついたものなのだが、野村孝は、照れずに、たっぷりと甘いセンチメンタルな音楽と回想形式という語り口の常套と通俗性を前面に押し出しながら、血の通った映画の感情と体温を伝えてくる。野村孝の映画のかけがえない魅力はそこにあるのだと思う。

 

最近、歳下の映画ファンと話していて話が通じにくいのは、たとえば、一九六七年に鈴木清順が『殺しの烙印』で日活を馘首された後、次の作品を撮れるまでの十年間がいかに長かったかということだ。その間、いくつもの企画が立ち上がってはつぶれ、清順神話はいっそう強固なものとなっていった。だからこそ、一九七七年に、突然、『悲愁物語』が公開されたときの驚きと喜びと戸惑いはどう形容してよいかわからなかった記憶がある。 

私は浅草松竹の初日にかけつけたのだが、驚いたのは、併映が野村孝の『雨のめぐり逢い』だったことだ。私は、奇怪きわまりない清順の新作を堪能しつつ、『雨のめぐり逢い』にも深く心打たれた。大金を強奪した山城新伍が、その際、突き飛ばして失明させてしまった竹下景子の手術費用を出そうと懊悩する、まるでチャップリンの『街の灯』を犯罪もので味付けしたようなベタなお話だったが、市川秀男のリリシズム溢れるジャズピアノの旋律がきわだって印象的で、なんども涙腺がゆるんでしまったおぼえがある。『雨のめぐり逢い』は、いまのところ、野村孝が撮った最後の映画であるはずだ。

こんなふうに、野村孝の映画についてとりとめもなく回想しているうちに、無性に彼の映画が見たくなってしまった。ぜひ、ラピュタ阿佐ヶ谷あたりで野村孝特集を組んでいただきたい。

 

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鹿島茂著『昭和怪優伝――帰ってきた昭和脇役名画館』(中公文庫)

ルー・リードの師デルモア・シュワルツをめぐる断章

 最近は、ネットで著名人の訃報に接する機会が多い。ルー・リードが亡くなったのを知ったのもネット上であったが、興味深いのは、何人かがルー・リードが最も深い文学的影響を受けたシラキュース大学の恩師、作家・詩人のデルモア・シュワルツに言及していたことだ。

 

デルモア・シュワルツは、『夢の中で責任が始まる』という短篇小説によってアメリカ文学史に燦然と輝いている作家である。

 この短篇は、一九八八年に刊行された村上春樹訳編の『and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇』(文藝春秋)の中に、『夢で責任が始まる』という題で収録されている。訳者の畑中佳樹は次のように書いている。

「たった一発の狙いすました弾丸でたった一つの的を射ぬき、あとは一切余計なことをせずに死んでいった作家――デルモア・シュウォーツを、ぼくはそんな風に感じている。その一発の弾丸とは、一つの短篇小説である。そのタイトルが、まるで伝説のように、アメリカ小説愛好家の間で囁かれつづけてきた。」

 

『夢の中で責任が始まる』が長く語り継がれる伝説の作品となった理由のひとつは、たぶん、それが「映画」と「夢」の親密な関わりについて書かれた最初の、そして最高の小説だからだ。

 

時は、一九〇九年。主人公の「僕」は映画館でスクリーンを見つめている。映っているのは古いサイレント映画で、そこに登場する男女は、若き日の「僕」の父と母だ。父は母を連れ出して、コニーアイランドへ出かける。浜辺を散歩し、メリーゴーランドに乗り、いちばん高級な店で食事をとる。そこで父は母にプロポーズする。母はうれしさのあまりすすり泣く。すると、「僕」は席から立ち上がり、スクリーンに向かって「結婚しちゃいけない! まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」と叫ぶ――。

 

かつて、ジャン・コクトーは、「映画とは現在進行形の死をとらえた芸術だ」と書いたが、そんな映画というものの特異さ、そして映画館でスクリーンに魅入っている時の混濁した深層心理、夢想とも妄想ともつかない昏い惑乱状態をこれほど繊細に掬い取った作品はない。

『夢の中で責任が始まる』は、一九三七年に復刊された「パーティザン・レヴュー」の巻頭を飾ったが、当時、二十四歳だったデルモア・シュワルツは、一躍、若手世代の文化英雄となった。文芸批評家のアルフレッド・ケイジンが「『夢の中で責任が始まる』は、率直で、美しく、忘れられないものだった。……〈われわれの経験〉についてその後読むことになったもののなかで、最高の寓話だった」と回想しているのは、そのひとつの例証だ。

 

私が、デルモア・シュワルツの名前をふたたび強く意識するようになったのは、マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』の2001年12月号で「坪内祐三 いつも読書中」という特集が組まれ、その中で坪内祐三がデルモア・シュワルツの『スクリーノ』という短篇を翻訳し、「必敗者シュワルツ」という刺激的なエッセーを寄せていたからである。この『スクリーノ』も「映画」と「映画館」が主題になっていた。

 

坪内祐三さんは、その後、2007年に『変死するアメリカ作家たち』を上梓する。この本は、一九九一年から未来社のPR誌『未来』に断続的に連載された20世紀のアメリカ文学で変死したマイナー作家たちを描いたポルトレがもとになっており、その巻頭を置かれていたのがデルモア・シュワルツだった。そのほかにハリー・クロスビー、ナサニェル・ウエスト、ロス・ロックリッジ、ウェルドン・キースというシブい名前が並んでいる。

坪内さんによれば、当初は、さらにジェイムズ・エイジーとリング・ラードナーのふたりの作家を加えて一冊にまとめる構想があったようで、本来なら最初の彼の著作になるはずであったという。

 

この頃、神田神保町の北沢書店のバーゲンだったかで、五百円ぐらいで『Selected ssays of elmore chwartz』を見つけた。デルモア・シュワルツの詩作と小説以外の評論、エッセイを集成した大部のハードカバーで、私は、拾い読みしているうちに、デルモア・シュワルツは、ほぼ同世代のジェイムス・エイジーにどこか似ているなと思った。

ジェイムズ・エイジーは、アメリカが生んだ最高の映画批評家であり、優れた詩人、作家、シナリオライターでもあったが、デルモア・シュワルツと同様、過度のアルコール中毒と憂鬱症のために、やはり〈変死〉している。ピューリッツァー賞を獲ったエイジーの唯一の長篇小説『家族の中の死』も自伝的な作品で、父親とチャップリンの映画を見に行った幼少時の場面が印象的に描かれていた。 

デルモア・シュワルツも、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、W・H・オーデンをめぐる詩論、ヘミングウェイ、フォークナー、ジイドについての作家論などのほかに、映画評論も手がけている。

たとえば、「W・C・フィールズの天才」は、サイレント時代からトーキー初期にかけて絶大な人気を誇った喜劇人W・C・フィールズをマーク・トウェイン、リング・ラードナーなどのアメリカの偉大なユーモリストの系譜に位置づけた論考でとても面白い。メアリー・ピックフォード論も彼女の自伝の書評という形でこのサイレント期を代表する女優へのオマージュを捧げている。

そのほかにもヒッチコックの『泥棒成金』や『七年目の浮気』におけるマリリン・モンローの魅力を論じたり、ロバート・アルドリッチの『ビッグ・ナイフ』評でも原作者クリフォード・オデッツに着目し、その才能を称賛している。本格的な文学論から雑文まで、デルモア・シュワルツの鋭い知見とユーモアにあふれたエッセーはとても読みごたえがある。

 

デルモア・シュワルツについては、さまざまな人たちがその「恐るべき早熟さ」を指摘している。たとえば、前述のアルフレッド・ケイジンは、デビュー当時、「人生を生きる前にすでに、みずからの全人生を生き尽くしてしまった」ような印象を受けたと書き、『グループ』の作家メアリー・マッカーシーも、後に夫となるエドマンド・ウィルソンへの手紙で、「彼は化け物です。……私がこれまで会ったなかでもっとも知的な人間で、あまりに知的なので非人間的なくらいです。……もうこの世の本は全部読んでしまったので、老い先慰みとするべきものは何も残っていないんですよ」とその印象を書きとめている。

 

数年前、私は、ある一本の映画を見ながら、ひさびさにデルモア・シュワルツのことを思い浮かべた。

ショーン・ペンが監督した『イントゥ・ザ・ワイルド』だ。ジョン・クラカワーのベストセラー・ノンフィクション『荒野へ』の映画化で、裕福な家庭に育った青年が、突然、すべてを捨てて、ヒッチハイクでアメリカを縦断し、最後はアラスカの奥地に分け入り、餓死するまでを描いた作品だ。

この映画の冒頭近くで、主人公がホーム・ムーヴィーを眺めているシーンがある。そこに映っているのは若き日の父と母で、彼はその至福に満ちた映像を見ながら、必死で「結婚なんかしちゃ、だめだ!」と叫ぶのである。

『イントゥ・ザ・ワイルド』はジャック・ケルアックの『路上』の精神的嫡子ともいうべき作品で、アメリカ文学史に時おり現われる、神話性を帯びた浪漫的放浪者を描いている。ショーン・ペンは、この映画を撮る際に、間違いなく、ルー・リードの代表作「ワイルド・サイドを歩け」にインスパイアされたはずだ。そして、ルー・リードの詩作に天啓を与えたデルモア・シュワルツの『夢の中で責任が始まる』の鮮烈で悲痛なイメージを、映画の中で引用したに違いないと思うのである。

 

 

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村上春樹訳編『and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇』(文藝春秋)

激変する中国社会を描く至高の映画作家ニン・イン

 新作が長い間、見られないために、時どき、今、どうしてるのかなと、その動向が気にかかってしまう映画監督がいる。中国のニン・イン監督はそのひとりだ。八年前、東京フィルメックスで上映された『無窮動』(2005)以来、何の音沙汰もなかったからだ。

だから、今年の東京国際映画祭のコンペ部門のラインナップにニン・インの『オルドス警察日記』(2013)というタイトルを見つけた時にはちょっと驚いた。そうか、ニン・インは新作を撮っていたのか!

 

先日、その『オルドス警察日記』の内覧試写があり、見に行った。内モンゴル自治区の町オルドスで地元の住民たちに英雄のように慕われたハオ・ワンチョンという実在の人物をテーマにした作品である。

ハオ・ワンチョンは、謹厳実直を絵に描いたような男で、パトロールの巡査から公安警察局長にまでとんとん拍子に出世するのだが、2011年、ジョギング中に、心臓発作で急逝してしまう。

映画は、この地元が生んだヒーローをめぐるルポを依頼された敏腕ジャーナリストが、彼が書き残した膨大な業務日誌を手がかりに、その生涯を追跡していく。冒頭に主人公の葬儀のシーンが置かれ、記者が彼の周辺人物たちを取材しいく中で、モザイクの断片が集積され、次第に人物像が結ばれていく手法は、明らかに『市民ケーン』の〈語り口〉を意識している。

当初、美談めいた偉人伝を書くことに否定的だった記者も、賄賂を一切、受け取らず、オルドスへ流入し、窮迫する移民労働者たちにも援助を惜しまなかったハオ・ワンチョンという人物に魅かれていく。 

映画の中では、ハオ・ワンチョンが新米警官時代に遭遇した親子三人が惨殺された事件が、トラウマのように何度もフラッシュ・バックされる。彼が関わった中で、唯一、未解決のままになったこの謎めいた事件の描写は、不穏な、おぞましいサイコ・サスペンスを見ているようなリアルさで圧倒される。別の殺人事件の犯人を辺境にある実家捕まえるくだりも緊迫感にあふれ、ニン・インは極上のクライム・ムーヴィーも撮れるのではないかと思った。

『オルドス警察日記』は、未曽有の消費社会に変貌を遂げる一方で、急速に階層化が進む経済大国中国の現実を、辺境の町のクロニクルを通して逆照射するドラマだが、ニン・インは、家族を顧みない常軌を逸したワーカホリックであり、なおかつ武骨な人情家でもある主人公をヒロイックに礼讃もせず、一定の距離をもって見つめている。主人公の設定も含め、下町の警官の日常を描いた、初期の『スケッチ・オブ・Peking』(96)の作風に回帰したようにも思えた。

 

 それにしても、ニン・インといえば、やはり、八年前に見た『無窮動』(05)の印象が未だに強烈である。なぜ、あの傑作が日本で一般公開されなかったのだろうか。

 

 私は、東京フィルメックスでニン・イン監督が来日した時に、『文學界』2006年3月号でロング・インタビューをしている。その時の発言を思い出しながら、彼女のキャリアを素描してみたい。

 

ニン・インは一九七八年に北京電影学院に入学、同期には〈中国第五世代〉と呼ばれるチェン・カイコー、チャン・イーモウがいるが、年齢的に彼らよりはるかに若い。

その後、イタリアのローマ実験映画センター(チェントロ)に留学し、ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』に助監督として就いた経験が彼女を大きく変貌させる。ちょうど、かつて一九五〇年代にチェントロで学び、デビュー作『くちづけ』(58)で閉塞した日本映画界に新風を吹き込んだ増村保造のように、ニン・インの処女作『北京好日』(93)も清新な中国映画の台頭を予感させた。

最初の二本は、ロベルト・ロッセリーニのネオ・レアリズムを想起させる堅牢なタッチだった。しかし、第二回東京フィルメックスで上映された『アイラブ北京』(00)は、北京市内を周遊するタクシー運転手の視線を通して、急激な経済成長によって享楽的な消費社会へと変貌した北京の街が、バロック的な感覚でとらえられ、フェリーニの『甘い生活』を彷彿させた。

 

そして、『無窮動』は、リアリズム的な手法、演出スタイルをかなぐりすて、舞台劇を思わせる趣向で、現代北京のグロテスクな断面に鋭いメスを入れる。

主人公の女は、旧正月のお祝いを口実に、夫宛てに卑猥なメールを送ってきた夫の浮気相手を探すために、三人の女友達を自宅に呼び寄せる。不動産、芸術、出版、芸能界の各分野で成功を収めた彼女たちは、あけすけな男性体験の告白など他愛ないお喋りに終始するが、次第に、文化大革命の時代の悲痛な記憶、それぞれが心の奥底に抱えていた癒しがたい想念を吐露し始める。

主演しているのはすべて素人で、実際に中国の政財、文化界で成功を収めた女性たちであり、そのリアルさはなまなかではない。とりわけ、露骨な下ネタ、エロティックなダイアローグの応酬には、思わず腰が引けてしまうほどだ。鶏の足をむさぼり食らう彼女たちの口唇を超クローズアップで延々と映し出すシーンなどはあからさまな性行為のメタファーといった感じで、マルコ・フェレーリの傑作『最後の晩餐』をすぐさま思い起こさせる。

そのことを指摘すると、ニン・インもわが意を得たりとばかりに、あの食事のシーンは『最後の晩餐』を強く意識し、思い切り誇張して撮ったと嬉しそうに語っていた。

上映後のティーチ・インで、客席にいらした野上照代さんが立ち上がり、「この映画は、女性の本性は食欲と性欲の二つだということをズバリと描いていて、素晴らしい!」と感想を述べるや、壇上でニン・インも哄笑しながら、肯いていた光景が思い出される。

私も、この『無窮動』でニン・イン監督の官能的な資質が初めてあらわになったのではないかと問いただすと、次のような答えが返ってきた。

「たしかに、私は、これまで老人や若い警察官などを描いてきましたが、生身の私とはかけ離れたテーマばかりでしたので、私自身の内なる欲望は隠しおおせていたように思います。それが、この映画では、それまで我慢し、抑制してものが一挙にあらわになってしまいました(笑)」

 

『無窮動』は、一夜が明け、早朝、無人の高速道路を女たちが黙々と歩いている光景で唐突に終わる。「赤い貴族」と呼ばれる高級幹部の娘であり、表面的には成功したようにみえる彼女たちの内面に巣食う空虚さや喪失感があざやかに浮かび上がってくる。まるで、イタリアの高度経済成長下において澄明なニヒリズムを追求した『情事』や『太陽はひとりぼっち』のアントニオーニを見ているようであった。

 

このように、ニン・インの映画は、いつも最良のイタリア映画の匂いを濃厚に感じさせるのだが、『無窮動』については、ヒロインが住んでいる邸宅が、四合院と呼ばれる鄙びた伝統的な住宅であり、年老いたお手伝いの視点で描かれているため、私は成瀬巳喜男の『流れる』に似ているように思えた。

格式をもった花柳界の芸者屋を舞台に、そこに住み込んだお手伝いさんの視点で、古き良き世界が崩壊していくさまを描いた名作『流れる』を見たことがあるかどうか、と尋ねると、ニン・インは、「成瀬巳喜男のDVDは何本か持っていますが、まだ見ていません。さっそく、『流れる』という作品を見なければいけませんね」と答えてくれた。

その後、はたして、ニン・インは『流れる』を見たのだろうか。


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ニン・イン監督『オルドス警察日記』(c Inner Mongolia Blue Hometown Production Co., Ltd

 

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ニン・イン監督

『別冊シティロード』を読んで思い出したこと

 先日、本棚を整理していたら、『別冊シティロード/もうひとつの80年代を読む!』が出てきた。奥付には1981年6月とあるから、30十年以上前の刊行物だが、目次を眺めると、当時の映画、ロック、演劇状況が活写されており、時代の勢いを感じさせる固有名詞が散見し、しばし感慨にふけってしまった。

 

一九七〇年代から九〇年代にかけて、東京の情報誌は『ぴあ』と『シティロード』の二誌が覇権争いを演じていた。部数では膨大な情報を並列した『ぴあ』が圧倒的に優勢だったが、『シティロード』は映画評論家による星採りを含め、批評性を重視したマニアックなコラムが充実しており、クセの強いマイナー好みの映画ファンは、間違いなく、『シティロード』を買っていた。

私が宇田川幸洋の第一評論集『無限地帯』(ワイズ出版)を編集した時にも、『シティロード』の「スクリーンのしみ」という宇田川さんの傑作コラムからずいぶん採録させてもらったが、そのクオリティの高さは尋常ではなかった。

 

『別冊シティロード/もうひとつの80年代を読む!』は、まさに、『シティロード』の持っていたジャーナリスティックな批評性が凝縮したような一冊だった。

たとえば、四方田犬彦、西嶋憲生、武田潔の座談会「アメリカ映画だけじゃない!今、刺戟的な映画の世界マップ」では、エリック・ロメールとジャック・リヴェットの映画が一本も公開されていない現状に三人が憤慨している。ロメールの『海辺のポーリーヌ』が初めて日本で封切られたのは、この四年後のことで、まさにミニシアター・ブーム前夜の時代なのだ。

 

激突対談と銘打った蓮實重彦と松田政男の「日本映画の転形期をめぐって 80年代、ニューウェイヴへの期待と危惧」でも、『翔んだカップル』『狂い咲きサンダーロード』『純』『泥の河』『十九歳の地図』『オレンジロード急行』といった当時、デビューしたばかりの新人監督の作品から、『アナザ・サイド』『風たちの午後』『しがらみ学園』『MOMENT』などの八ミリの自主映画が俎上にのせられている。

蓮實重彦が、『翔んだカップル』の相米慎二のワンシーン・ワンショットを必ずしも評価していなかったりするのも興味深いが、当時の自主映画の世界では、山川直人が意想外に評価が高かったことなどが思い出される。

 

「80年代の映画作家10傑」という小特集ではファスビンダーからキン・フーまで、当時、日本でほとんど正式公開されていなかった10人の映画監督を若手批評家が熱く論じている。そのなかでは、滝本誠というまったく未知の名前の書き手による「ニコラス・ローグ」論を読んで、いささかコーフンを禁じ得なかった。

ちょうど、ニコラス・ローグの『ジェラシー』が公開される直前で、当時、すでに『美しき冒険旅行』と『地球に落ちてきた男』に魅了され、いっぱしのニコラス・ローグ・フリークを気取っていた私は、ロンドンで『ドント・ルック・ナウ』というローグの未公開作を見たという、この人物に猛烈な嫉妬を覚えたのである。

 

その直後、当時、『スターログ』編集部にいた私は、フランス映画社に顔を出すと、宣伝部の松岡葉子さんから、滝本誠さんを紹介された。当時、滝本さんは、マガジンハウスの『クロワッサン』編集部にいたはずだが、いきなり、開口一番、ニコラス・ローグ談義にふけってしまったことを憶えている。

実は、その夜、当時、渋谷にあった川喜多和子さんの自宅で、大森さわこさんがアメリカで買って来た『ドント・ルック・ナウ』のビデオを見る会があったのだ。10数人が集まり、酒を飲んでわいわい言いながら見た記憶があるが、当時は、ビデオレンタル店もなく、ビデオのソフト自体が高価で入手困難な時代だったために、映画マニアの間では、こんな上映会がたびたび開かれていたのである。

この時に見た『ドント・ルック・ナウ』は、まさに衝撃的だったが、シネマすくうぇあ東急のこけら落しである『ジェラシー』がヒットしたため、その後まもなく、同じヘラルド・エースの配給で『赤い影』の題で公開されたのは周知の通りである。

 

 しばらくして、やはり、フランス映画社で、松岡葉子さんから、『もうひとつの80年代を読む!』を編集した瀬下幹夫さんを紹介された。私は大絶賛したが、この別冊は思ったほど売れず、その責任をとらされたのかどうか、瀬下さんは間もなく、『シティロード』編集部を辞めてしまった。

 この別冊で自主映画を担当していた小出幸子さんが『シティロード』本誌の編集長になったのは、一九九〇年前後だったろうか。

 小出さんは、『あの夏、いちばん静かな海』の公開時に、北野武と中上健次の対談(これはとても読みごたえがあったと記憶する)を企画したり、荒井晴彦、石井隆、武田花さんの日記を連載するなどシャープで意欲的な誌面づくりを見せたが、版元のエコー企画が経営危機に見舞われ、九三年の夏に『シティロード』は休刊に追い込まれた。

 

 あの夏のことがひと際、記憶に鮮明なのは、ほぼ同じ時期に、私が編集長をしていたビデオ業界誌『A?ストア』も、版元が倒れ、休刊になってしまったからである。

 

 その直後、小出さんから、九州の福岡でタウン誌をつくっている西アドという会社がスポンサーとして名乗りを上げ、『シティロード』の復刊が決まったので、編集を手伝ってほしいという連絡があった。復刊当初の『シティロード』は、ほぼ以前と同じクオリティを維持し、私も映画評やインタビュー記事をずいぶん手がけた。新会社は、雑誌以外で、単行本のセクションも充実させたいという意向があり、私が書籍編集者として入社するという話も出て、西アドの社長に単行本の企画案を打診したこともあった。

 

 しかし、この西アドの社長がとんでもないクワセ者で、復刊数号目にして、小出さんほか編集部員を全員クビにする暴挙に出た。そして、おきまりの労働争議が起き、その後、『シティロード』はまったくオリジナリティのかけらもないデータの羅列だけの情報誌となり、まもなく廃刊となった。

 

 十年ぐらい前だったろうか、『スタジオ・ボイス』の雑誌特集で、「現役編集者が選ぶ、今、復刊してほしい雑誌ベスト・テン」という企画があり、一位に『シティロード』が選ばれていた。そのほか、テンには『月刊イメージフォーラム』とSFビジュアル誌『スターログ』が入っていた。廃刊した三つの雑誌に関わりがあったのは皮肉というべきか。私が、時おり、〈呪われた編集者〉などと揶揄されるのは、そのせいなのかもしれない。

『夜になっても遊びつづけろ』を再読する

 先日、オーストラリアのタスマニア大学教授で武田泰淳を研究しているバーバラ・ハートリーさんが来日したので、武田花さんと三人で渋谷で待ち合わせ、久々に一献、傾けた。バーバラ・ハートリーさんは堅苦しいアカデミシャンという感じはまったくしないチャーミングな女性で、昨年は、熊野大学主催の夏季セミナーで中上健次をめぐるシンポジウムにも出席したそうだが、いっぽう、大逆事件の研究者でもある。

 

 バーバラ・ハートリーさんの永年の夢は、武田泰淳の『富士』と、金井美恵子の『噂の娘』を英語圏で翻訳出版することで、この二つの小説がいかに素晴らしいかを飽くことなく繰り返し熱心に語っていた。


 バーバラさんには、今年の八月、平凡社から「金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]」全四巻の刊行が始まったことを伝えたが、彼女も金井美恵子さんのエッセイが大好きだという。そんな雑談をかわしながら、私は、今、ふたたび、静かな金井美恵子ブームが到来しつつあることを実感するのである。

 

 私も金井美恵子さんの小説、エッセイの永年の愛読者だが、今、手許にある「金井美恵子エッセイ・コレクション」全四巻の内容見本を眺めると、どうやら、著者自身が「批評」「猫」「作家」「映画」という四つのテーマでセレクトし、新たに編まれたもののようだ。


 そして「批評」をテーマにした第一巻のタイトルが『夜になっても遊びつづけろ』とある。思わず、ああ、なつかしい、とつぶやいてしまった。

四十年ほど前、私が初めて手に取った金井美恵子さんの本が、『夜になっても遊びつづけろ』だったからだ。


 金井美恵子さんには、もちろん『映画 柔らかい肌』『愉しみはTVの彼方に』(河出書房新社)という映画エッセイ集がある。近年、金井さんの映画エッセイは、あたかもワンシーン=ワンショットで描写するように長いワンセンテンスが延々と続くその老練で典雅な文体にいっそう磨きがかかって、一種、凄みすら感じさせるのだが、いっぽうで、『夜になっても遊びつづけろ』に収められた、若き日の、ある独特の観念の硬さがそのまま、引き締まった持続と諧謔をたたえているエッセイにも私は深い愛着を感じている。


 そこで、ふと、ひさびさにオリジナルの『夜になっても遊びつづけろ』 (講談社)を読み返してみたくなったのである。 


 一九七四年に上梓された、このエッセイ集は、金井美恵子さんが「十九歳(一九六七年)から二十五歳(一九七三年)までの間に書いた小説以外の文章の中から、詩人論、作家論、作品論といった類いのものを除いたほとんど」(あとがきより)を収録したものである。

 ずっと私の記憶に残っていたのは、「視線と肉体――長谷部安春『野獣を消せ』」というエッセイだ。『野獣を消せ』の冒頭の名高い、基地のごみ捨て場で少女が犯され、自殺するシーンで、それまで両極が黒く塗られた画面が一挙にシネマスコープサイズに広がる視覚的な魅惑に言及したくだりとか、長谷部安春の前作『縄張はもらった』のきり込み場面の飛沫がサム・フランシスの赤い絵を思わせるとか、『野獣を消せ』の撃ち合いで壁にかかった星条旗が、ジャスパー・ジョーンズを思い出させること、そして、長谷部作品の魅力は「暴力的なアクションの内に開ける本質的なリリシズム」にあるとする指摘などは、今なお新鮮である。

 ちょうど、この当時、文芸坐オールナイトで、長谷部安春の日活ニューアクション五本立てを見ていたせいもあるかもしれない。映画評論というのは、やはり、アクチュアルな時代の気分の刻印が押されていなければ面白くない。  


 「高橋英樹――テロルと肉体とアドレッセンス」は、あらためて読み返しても、つくづく見事な論考だと思う。金井さんは、高橋英樹の映画には、〈少年期との訣別〉という体験が繰り返し重要な意味合いをもって現れると書く。そして、『狼の王子』、『刺青一代』、『けんかえれじい』を論じながら、とりわけ『狼の王子』において、「高橋英樹は、青春期の過剰な熱狂に支えられた張りつめきった筋肉と、精神の熱狂的な硬直、いわばテロルの思想と肉体そのものであり、彼は眉の濃い、意志と自尊心の強いりりしい少年めく、それゆえ一種の硬直した精神の蒙昧さを具現していた」と鋭く洞察している。こういう卓越した評論を読むと、舛田利雄の『狼の王子』が見たくてたまらなくなってしまう。


 時代性と言えば、「石坂浩二――スノッブの栄光」という俳優論が面白かった。論というよりも、一九七〇年当時、異様な人気を誇っていた石坂浩二をめぐって、あらんかぎりに罵倒し尽くした痛快な一文だが、私がひときわ興味を覚えたのは、当時、放映されていたテレビドラマ『憎いあンちくしょう』について言及した次のくだりだ。


 「テレビの機構の中で疲れきってケンタイの最中にある人気タレントという役どころを、石坂浩二は実に楽々とまったく自然にこなしていた。しかし、『憎いあンちくしょう』という蔵原惟繕の傑作は、石原裕次郎と浅丘ルリ子という俳優と六二年という時代とによって作られた映画であったことによって成立したのである。今や、わたしたちは石坂・加賀(まりこ)の『憎いあンちくしょう』の中に、白々しさとどうしようもない低級な、いわば『少女フレンド』や『マーガレット』といった雑誌の中にようやく生きのびている類いのロマンスしか、見はしないのである。」


 じつに、身もふたもない激烈な批判である。ただ、蔵原惟繕のオリジナルが傑作であることは言うを待たないが、私は、同じ山田信夫の脚本による、このテレビ版のほうも、当時、テレビマンユニオンの鬼才として知られていた村木良彦の斬新な演出が鮮烈に記憶に残っているのだ。当時、石坂浩二と加賀まり子が実際に恋人同士であったことも、奇妙なリアリティを感じさせたし、あの時代の白々しい気分を鮮やかにすくいとったヌーヴェル・ヴァーグ風な村木良彦の演出もすばらしかったように思う。

 この村木良彦版の『憎いあンちくしょう』は、たぶん、映像も残っておらず、批評も皆無であるせいか、私の中では永い間、<再見したい伝説のテレビドラマの一本>となっていた。金井美恵子さんの歯に衣を着せない批評を読んで、私は、ひさしぶりに、この幻のテレビドラマを思い出してしまったのである。


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金井美恵子著『夜になっても遊びつづけろ』(講談社)

『ルイス・ブニュエル』を読みながら思い出したこと

 四方田犬彦の六百ページを超える大著『ルイス・ブニュエル』(作品社)を読んでいたら、次のような一節が目に止まった。

「一九八〇年代に入ると、これまで日本ではブニュエルの暗黒時代であると見なされていたメキシコでの諸作品に照明が投じられることになった。最初の契機となったのは、一九八四年に開催された「ぴあフィルムフェスティヴァル」のブニュエル特集である。……中略……わたしはこの年をもってブニェエル元年と呼びたい気持ちを、今でも抱いている。」

 

 そうだ、八四年にはPFFでルイス・ブニュエルの全三十二作品のうち二十九本を集めた大回顧上映会が開催されたのだ。あれは画期的な〈事件〉といってよかった。ブニュエルの自伝『映画 わが自由の幻想』(矢島翠訳・早川書房)が刊行されたのもこの年だった。

 

この空前絶後のブニュエル特集がすごかったのは、それまでまったく見ることができなかったメキシコ時代の彼の作品がほとんどすべて上映されたことである。

この特集によって、ルイス・ブニュエルにつきまとっていた〈難解でスキャンダラスなシュルレアリスムの巨匠〉というイメージが払拭されてしまった。

そして、それに代わって、ミュージカル、通俗メロドラマ、コメディ、とあらゆるジャンルを手がけ、スピーディなタッチで撮り上げてしまう、まるでマキノ雅弘を彷彿させる、プログラムピクチャーの職人監督としての貌が一挙にクローズアップされることになったのである。

 

世界中からプリントを集めたということで、二、三か国語の字幕が付いている奇怪なプリントが何本もあった。たしか、市ヶ谷のシネアーツで、連日、試写をやっていたはずで、そこで、たびたび、金井久美子さん、金井美恵子さん姉妹と一緒になり、見終わった後、近くの喫茶店で談笑した記憶がある。

金井美恵子さんは、かなり興奮気味に、ブニュエルについて語っていた。その後、金井さんは、何度も「メキシコ時代のブニュエル」というテーマでエッセイを書いていたが、それほど、このブニュエル特集は刺戟的であったということだ。

 

PFFの特集にあわせて、編集長である西嶋憲生さんの発案で、『月刊イメージフォーラム』でも「ルイス・ブニュエル伝説」という特集を組んだ。宇田川幸洋さんの「ブニュエル爺(ジー)の秘かな愉しみ」という長めのエッセイ、晩年のブニュエルの傑作のシナリオを書いたジャン=クロード・カリエールのインタビュー、ジャン・パイヤールの『銀河論』、ルイス・ガルシア=アブリネスの『ブニュエルの再生』というメキシコ時代の作品をテーマにした論考、それにメキシコ時代の十五作品の映画評を網羅した内容だった。

 

とりわけ、先日亡くなった梅本洋一さんによるカリエールのインタビューは、私も同行して帝国ホテルの一室で行ったのだが、演劇評論家でもあった梅本さんは、ピーター・ブルックとの共同作業について、熱心に訊いていたことが思い出される。

 

ちょうど同じ号に『女子大生・恥ずかしゼミナール』(後に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と改題)の製作ノートが載っているのだが、この問題作を撮ったばかりの黒沢清さんに『熱狂はエル・パオに達す』、水谷俊之さんに『昇天峠』と『幻影は電車に乗って旅をする』の批評を書いてもらった。ところが、その号が出た後で、『映画芸術』で評論家の野崎六助が、このふたりの批評にかみついたのだ。たしか、「こんな、理解不能な、ふざけきった文章を載せた編集部に猛省をうながす」みたいな批判であった。

 

しかし、今、ふたりの批評を読み返してみても、ふざけているとは思えない。ただ、未知のブニュエルの映画の世界に触れた、その新鮮な驚きの体験を、率直に言葉にしているだけである。

 

この特集では、私も『若い娘』とい過激なロリコン映画について書いている。PFFの特集の後で、一時、世界で一本しかないそのプリントが紛失してしまったという噂が流れた。実際、その後、ヘラルド・エースを中心にメキシコ時代の作品が上映される機会が増えたものの、この『若い娘』だけは、長い間、見ることができなかったが、数年前、日本でもようやくDVD化されたようだ。

 

四方田犬彦の『ルイス・ブニュエル』の最終章は「日本におけるブニュエル受容」と題され、ここは読みどころかと思う。戦前の瀧口修造の初紹介にはじまり、パリで『アンダルシアの犬』を見て、そのオリジナル脚本を訳出した映画評論家、内田岐三雄の功績が高く評価されている。

さらに、戦後、日本で初めて公開されたブニュエル作品『忘れられた人々』を、「シュルレアリスムと社会主義リアリズムを高次で統合した傑作」と喝破した花田清輝の炯眼が称賛され、その影響下から松本俊夫の名著『映像の発見』が生まれた背景が詳述されている。

この章で、興味深いのは、一九六〇年代に、唯一、メキシコ・シティの自宅でルイス・ブニュエルにインタビューした日本人への言及があることだ。金坂健二である。金坂は、ジョナス・メカスをはじめとするアメリカの実験映画、アンダーグラウンド文化の最初の紹介者であり、アメリカのカウンター・カルチャーに関する優れた批評家でもあった。

金坂健二のブニュエルのインタビューは、たぶん、一九六二年頃、『シナリオ』に掲載された「海外作家インタビュー」シリーズに載ったものではないかと思う。

 

今、私の手許にはアンドリュー・サリスが編纂した世界の映画作家へのインタビューをまとめた『インタヴューズ・ウィズ・フィルム・ディレクターズ』があるが、この中にも金坂健二による短いブニュエルへのインタビューが収録されている。初出は一九六二年の『フィルム・カルチャー』誌で、この時期、金坂健二がいかに旺盛に活躍していたかがわかる。このインタビューを読むと、ブニュエルは、ヌーヴェル・ヴァーグでは『二十四時間の情事』と『大人は判ってくれない』が好きであること、日本映画では『羅生門』『七人の侍』『地獄門』を見ていて、日本への関心はあるが、飛行機恐怖症のため、たぶん、日本へ行くことはないだろう、などと語っている。

 

金坂健二は、九〇年代であったろうか、映画祭かなにかのあるパーティで見かけたことがあるが、若い映画関係者、ライターたちのテーブルに立ち寄っては、しきりに「金坂健二です」と自己紹介している光景を憶えている。突然、声をかけられて、相手はぽかんとしていたが、あれだけの仕事を成し遂げた人物が、すでに忘れられた存在になっていることがショックであった。

 

私自身は、イメージフォーラム時代に、かわなかのぶひろさんから、「ジャパン・コーポ」総会において、金坂健二が「フィルム・アート・フェスティバル東京1969」開催をめぐって造反を起こした経緯をなんども訊いていたので、こちらから積極的に話をするということはなかった。

近年、北沢夏音による金坂健二の評伝ノンフィクションが書かれ、再評価が始まっているようだ。そして、金坂健二の造反で、「ジャパン・コーポ」を脱退し、「日本アンダーグラウンドセンター」をつくった佐藤重臣は、晩年、黙壺子アーカイブスで非合法でブニュエルの『アンダルシアの犬』や『黄金時代』『砂漠のシモン』を上映していたのだった。その佐藤重臣もふたたび脚光を浴びている。

『ルイス・ブニュエル』を読みながら、日本のアングラ文化との意外なむすびつきに思いを馳せてしまった。

 

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四方田犬彦著『ルイス・ブニュエル』(作品社)

〈元祖オタク〉のシナリオライター、山崎忠昭について

 先日、どこかのソフトメーカーから、突然、昔のテレビアニメをDVD化するので脚本を手がけた山崎忠昭さんの著作権継承者を教えてほしいという電話があった。

 

 なぜ、そのような問い合わせがくるのだろうといぶかしく思ったが、すぐに、六年前、私が山崎忠昭さんの遺稿集『日活アクション無頼帖』(ワイズ出版)を編集したせいだと得心がいった。

 

『日活アクション無頼帖』は、一九八三年から八六年にかけて『月刊イメージフォーラム』に、山崎忠昭さんが連載していたメモワールである。ホン読みというシステム、プロットライターという職能に関するひねりのきいた考察があり、鈴木清順の『野獣の青春』や中平康の『危いことなら銭になる』など、山崎さんがシナリオを手がけた傑作の製作秘話が語られ、そして不遇時代の虫明亜呂無や長谷部安春、神代辰巳、佐藤重臣ほか映画人たちの爆笑エピソードが次々に披瀝される。まさに、日活無国籍アクションを中心とした六〇年代カルチュア・グラフィティとしても出色の面白さである。

 

 山崎忠昭さんは、六〇年代後半には映画界を離れ、テレビアニメの世界で活躍するようになるが、私はその方面にはまったく不案内なため、この遺稿集のために、テレビアニメのシナリオで共作することが多かった雪室俊一さんにインタビューをした。

 雪室俊一さんは、山崎さんの独特の作風を次のように分析している。 

「たとえば、『ルパン三世』もそうだけど、非日常の世界を書かせたら、山崎さんは冴えるんですよ。だから逆にホームドラマみたいなのは苦手で、書けないんですよ。……中略……山崎さんは原作を換骨奪胎するのがうまいんですよ。(『ムーミン』で)「無駄じゃ、無駄じゃ」なんて言っているジャコウネズミとか渡り鳥のようなスナフキンとか、ノンノンの兄貴のエリート、スノークとか、ああいう面白いキャラクターは、全部、山崎さんがつくったんですよ。だって、原作を読んだら、たんなるのどかな話で、ほんとにつまんないんでびっくりしましたもの。……山崎さんはお母さんとふたりだけの母子家庭だったとは微塵も思わせない、日常とは超越した世界を構築していたと思いますね。」

 

雪室さんは、山崎さんが、途中で『ウィークエンダー』やワイドショーの構成のほうに寄り道し、テレビ局は世代交代が激しいために、アニメの世界に戻った時にはもはや浦島太郎状態になってしまっていたと語っていたが、その指摘は正しいだろう。

 

山崎忠昭さんは、早稲田大学文学部演劇科を卒業しているが、卒論のテーマは「一九五〇年代のアメリカSF小説」というユニークなものだった。いわば〈元祖オタク〉というべきか。当時、翻訳もされていなかったロバート・A・ハインラインやフレドリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリ、シオドア・スタージョンなどのペーパーバックを神保町の古本屋で大量に買いあさっていたと嬉しそうに語っていたのを憶えているが、恐らく、その卒論は担当の大学教授にはまったく理解不能だったのではないかと思われる。

 

山崎さんの奇想に満ちたアモラルな感覚については、さまざまな逸話が残されている。たとえば、『テレビの黄金時代』で、小林信彦さんは次のように書いている。

「山崎忠昭は奇妙なギャグを考える才能があり、のちに小川英と共同で小林旭映画の脚本を書いたが、コワいところもあった。日活でお盆映画を企画したとき、原爆の被害者の亡霊ものを考え、ぼつになった。「それはまずいでしょう」とぼくが言うと、「まずいですかねえ?」 彼は納得しない。コワいというのはそういう瞬間であり、おおむねは内向的な、静かな人物であった。」

 

日本テレビの敏腕プロデューサーであった山口剛さんも山崎さんに興味を抱き、藤竜也主演のアクションドラマ『プロハンター』で、ホンを依頼し、プロットを提出してもらった時のエピソードを、『ジャズ批評』七月号「日本映画とジャズ」特集のインタビューで次のように語っている。

「ひとつは、鎌倉の奥に巨大生物を作っている秘密工場があって象のように大きなネズミと戦う奇想天外な話(笑)。もうひとつは、血統書つきの名犬がどんどん失踪する事件で、それはナチスの残党が自分たちの犬の価値を高めようとしている陰謀で、鎌倉の奥に巨大な犬の収容所があるって話(笑)。カメラが引けども引けども、何万頭の犬の収容されたアウシュビッツが延々と続いているんです。たしかに話は面白いんだけど、「とても実現不可能です」って言ったら、「ちょっとトイレに行ってくる」って言ってそれっきり帰って来なくなっちゃって(笑)。」

 

たしかに、山崎忠昭さんの書くものには、どこかモラルのタガがはずれた刺すような〈毒〉と〈狂気〉が宿っていたような気がする。

日本テレビの伝説的なプロデューサー井原高忠がつくったバラエティ番組『九ちゃん!』に集まった三人の作家が、その後、朝日ソノラマからジュブナイルものをそれぞれ発表する。小林信彦の『オヨヨ島の冒険』、井上ひさしの『ブンとフン』、そして山崎忠昭の『悪魔がねらっている』である。小林、井上両氏は、この作品によって本格的に小説の世界に進出し、大きな飛躍を遂げることになる。

いっぽう、山崎さんの『悪魔がねらっている』は、当時、井上ひさしさんが絶賛したと言われるが、あまり話題にはならなかったようだ。澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』と『秘密結社の手帖』にインスパイされたオカルト風の恐怖小説で、巧みなストーリーテリングは、『悪を呼ぶ少年』などトマス・トライオンの一連の作品を彷彿させるものがあった。『悪魔がねらっている』は、数年前、まんだらけの店頭で、法外な価格が付けられていたのを見かけたことがある。

 

山崎忠昭さんは、晩年、テレビの仕事もなくなり、時おり、幻聴に悩まされるらしく意味不明の電話がかかって来ることが多くなった。私は、ときどき、会っては、一緒に酒を飲み、励ますことぐらいしかできなかった。 

あれは、亡くなる数年前だったろうか、地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教の幹部が一斉に検挙された時期に、久々に山崎さんに会ったら、事件にまつわる参考試写で岡本喜八監督の『殺人狂時代』を見た公安の人間が、こういうホンを書いた人物を不審に思ったらしく、突然、会いにやってきたと語っていた。

その時に、「こんなものを書いてみたので、読んでみてくれませんか」と、B5判の用紙にワープロで打たれた小説を手渡された。

 

題名は『ルミよ 祈りて 闇なる邪悪を祓え』とある。

美少女ヒロイン、ルミが、ある日、突然、超能力を授かり、真言密教を武器に、巨大な悪と闘うという荒唐無稽なサイキック・アドベンチャー小説である。スティーブン・キングの『ファイアー・スターター』と『風の谷のナウシカ』をブレンドさせたようなフシギな味わいがある。

とくに大島渚監督の『少年』を思わせる、ヤクザな義父によって当たり屋をやらされている薄倖のヒロイン、ルミの哀切極まりない描写が強く印象に残る。

オウムを思わせる邪悪な新興宗教組織が登場したり、『家畜人ヤプー』ばりの奇天烈で残虐なSMの描写があったり、まったく飽かせない語り口は、山崎忠昭の卓越した手腕をうかがわせるに充分である。

このグロテスクでイノセントなダークファンタジーは私の手許に残されている。どこか奇特な出版社が、この異能の作家、山崎忠昭の幻の小説を世に出してくれないだろうか。


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山崎忠昭著『日活アクション無頼帖』(ワイズ出版)

 

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山崎忠昭著『悪魔がねらっている』(朝日ソノラマ)

和田誠 または寛大なるイロニスト 

最近、私が編集した『ジャズ批評』七月号の「日本映画とジャズ」特集で、和田誠さんにジャズピアニスト・作曲家の八木正生についての追想ふうなエッセイを書いてもらった。故人への真正な尊敬の気持ちが伝わってくる見事な一文で、あらためて和田誠という稀有なマルチ的な才能をめぐって思いをはせた。

 

和田誠さんには、本業のイラストレーター以外に、エッセイストとしても名著がたくさんある。私の好みではジャズのスタンダード・ナンバーの魅力を綴った『いつか聴いた歌』(文春文庫)がトップに来るが、『ビギン・ザ・ビギン―日本ショウビジネス楽屋口―』(文春文庫)もすばらしい。  

そして、もちろん映画の名セリフを介したエッセイ集『お楽しみはこれからだ』(文藝春秋)全七冊があり、山田宏一さんとの無類に楽しい対談集『たかが映画じゃないか』(文藝春秋)、『ヒッチコックに進路を取れ』(草思社)と枚挙にいとまがない。

 

 私が初めて買った和田誠の本は、一九七三年に出た『PEOPLE 和田誠肖像画集』(美術出版社)である。草森紳一が、当時、この画集を丸ごと論じた「寛大なるイロニー」というエッセイで、「『PEOPLE』は私の宝ものである」と絶賛していたが、私も未だに手許においてあり、時々、ページをめくると得も言われぬ至福感に包まれる。

  

 巻頭に横尾忠則の「和田誠の似顔絵について」というエッセイが収められているが、これは、今、読んでももっとも優れた和田誠論のひとつだろう。

 横尾忠則は、神戸新聞社にデザイナーの卵として勤めていた一九五七年に、和田誠が『夜のマグリット』と題するイヴ・モンタンの似顔絵をあしらった映画ポスターで、日宣美賞を受賞したことに大変なショックをうけたと告白している。

「こうして和田君は今日、ついに自らの手で、グラフィック・デザインの世界に庶民性とアイロニイとエンターテインメントというデザインにとって重要な要素をうえつけた。……中略……また和田君は自らの趣味という、非常に個人的で没社会的な領域を縦に掘り下げながら、いつのまにか横の社会と大きなパイプで結合させてしまった。」

 

 さらに、横尾忠則は次のように書いている。

「和田君はアングラやアバンギャルドなる芸術が大嫌いである。まあこうした運動は非常に自己主張的であり、時には暴力的なコミュニケーションの方法をとる。しかしこうした暴力的な表現の背景には性や死のイメージにささえられた、人間の生々しい欲望が露出した狂気の世界があるが、ぼくは最近こうした不安な芸術がなんともいやになってきた。……このことはぼく自身がマイナスの不安の想念にささえられている証拠でもある。こんなとき和田君の人間愛に満ちた似顔絵などをみるとぼくは本当にほっとするのである。」

 

 アングラとサイケデリックの時代を象徴する存在だった横尾忠則が、自分と対極にある和田誠の個性を鮮やかに洞察したエッセイだと思うが、いくつか気になる指摘もある。たとえば、和田誠は、ほんとうにアヴァンギャルドが嫌いだったのだろうか。 

 

 ひとつ、思い出したエピソードがある。

 一九八四年の秋、私が編集していた『月刊イメージフォーラム』で、和田誠さんが最初に監督した劇映画『麻雀放浪記』をめぐって、一緒に脚本を書いた澤井信一郎監督と対談してもらったことがある。場所は、当時、澤井さんが『Wの悲劇』を撮影していた東映の大泉撮影所近くの小料理屋だった。 

その前年に二号にわたって『天城越え』をめぐる三村晴彦監督と澤井信一郎監督の徹底討議が載ったことがあり、この時の舌鋒鋭い澤井監督の論客ぶりはすさまじいものだった。和田誠さんもそれを読んでいたので、ある程度、覚悟はしていたようだ。とにかく、澤井さんは具体的なディテールをめぐって鋭い突っ込みを入れてくるので、司会の私も思わず手に汗を握るような白熱した対話となった。とくに和田さんの演出について、カット割りはうまいが、割ったカットの中の充実度が足りないという指摘には、和田さんもかなり応えた感じであった。 

その帰り、ぐったりと疲れて、和田誠さんと西武池袋線に乗っている時に、私は、ふいに「『麻雀放浪記』のラスト近く、バクチ打ちの出目徳(高品格)の死体が水たまりに転げ落ちるシーンを見て、ルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』を思い出しました」と呟いた。

すると、和田さんはちょっと驚いたような顔をして、「実はね、まだ、これは山田宏一にも言っていないんだけど、あのシーンを原稿用紙に書いている時に、突然、中学生の時に見た『忘れられた人々』の不良少年の死体がごみ溜めに落ちていくシーンを思い浮かべたんだよ。僕とブニュエルって、みんな、意外に思うだろうけどね」と話してくれた。私が、密かにわが意を得たりと思ったのはいうまでもない。

 

しかし、たしかに、心優しいユーモリスト風な和田誠のイメージと〈魔と残酷の発想〉に憑りつかれた過激なシュルレアリスト、ルイス・ブニュエルとは、一見、結びつかないような気もする。

その十年後、『怖がる人々』がビデオ化された際に、今度は編集長をやっていたビデオ業界誌『A?ストア』で、ひさびさに和田誠さんにインタビューをする機会があった。

その時に、和田さんが何気ない雑談のさなか、「僕が、一番好きな評論家というのはねえ」と言いだした。

私はそれまで、和田誠さんのエッセイ集をかなり読んでいたので、恐らく、植草甚一か、双葉十三郎、野口久光、あるいは淀川長治あたりだろうと想像していた。しかし、和田さんが口にしたのは、まったく意外な名前だった。

「花田清輝なんだよ」

 

思えば、日本で、ルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』を最初にもっとも高く評価したのは花田清輝であった。花田清輝がもっとも充実した時期に上梓した『大衆のエネルギー』や『映画的思考』には、その批評が載っているし、若き日の和田誠が読んでいたことは、当然、考えられるのだ。

 

和田誠さんは、もっとも匿名性の強いポピュラー・カルチャーである映画のポスターで初めて日宣美賞を獲り、一九六〇年代には、武満徹や寺山修司、八木正生らと映画音楽を一緒につくり、『話の特集』の斬新なレイアウトでクラス・マガジンの黄金時代を切り開いた。さまざまなジャンルを軽々と越境し、八面六臂の活躍を続ける和田誠とは、もしかしたら、かつて花田清輝が提唱した大衆芸術としての『アヴァンギャルド芸術』をもっとも理想的な形で体現した芸術家ではなかろうか。

 

そういえば前述のエッセイで、草森紳一が『PEOPLE』でもっとも気に入った作品は、眼光鋭いルイス・ブニュエルを描いた肖像画であった。なるほど「寛大なるイロニー」とは、和田誠のクールな作風を形容するにもっともふさわしい。

 

 

大岡昇平とルイズ・ブルックス

 大岡昇平の『成城だより』全三巻(文藝春秋)は、時おり、読み返す愛読書のひとつだ。ほとんど日記というものをつける習慣のない私にとって、<署名入りの「匿名批評」>と評されたこの膨大な日記は、ちょうど、『文学界』に連載されていた一九七九年の終りから八五年にかけての時代の文化、政治、社会状況が手に取るように活写されており、当時の記憶がリアルに甦ってくるのも、大きな読みどころになっている。 

 

とにかく、『成城だより』のページをめくるたびに、七十歳を超えても文学、映画、音楽、舞台とあらゆるジャンルに触手をのばす、大岡昇平の止まるところを知らない旺盛な好奇心に驚嘆させられる。とりわけ立花隆の批判が火種となったフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』をめぐる批評論争に首を突っ込む顚末は有名だが、映画についていえば、この時期、大岡昇平が、突然、狂ったようにオマージュを捧げて、伝説の彼方から鮮やかに甦らせてしまったひとりの女優がいたことを思い出すのである。

 

その名はルイズ・ブルックス。

サイレントからトーキーの時代にかけて、あまりに斬新なボブ・ヘアで一世を風靡したこの魅惑的な女優は、そのポートレイトを一目、見たら、決して忘れようもない。

映画史的には、サイレント期にハワード・ホークスの『港々に女あり』(28)、『カナリヤ殺人事件』(29)、そして、とくにG・W・パプストの『パンドラの箱』(29)、『淪落の女の日記』(29)で神話的なファム・ファタール(宿命の女)を演じ、人気は絶頂を迎えるが、トーキー以後、急速に忘れられた存在だった。

 

そのルイズ・ブルックスが1970年代に復活したのだ。欧米でルイズ・ブルックス自身による回想録『ハリウッドのルル』、彼女をめぐる証言集『あるアンチ・スターの肖像』が続けて刊行され、それを入手した大岡昇平が熱に浮かされるように、文芸雑誌『海』の84年1月号に「あるアンチ・スター」、同誌3月号に「ブルックスふたたび」を一気に書き上げるや、その後、すぐに『パンドラの箱』の主要場面スチルで構成された豪華本『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(中央公論社、84年)として纏められた。

 

この大岡昇平の刺戟的な論考がとても身近に感じられたのは、ちょうど同じ時期に、私が編集していた『月刊イメージフォーラム』で「ハリウッドの神話学」という特集を組み、当時、ニューヨーク大学の博士課程にいた平野共余子さんに、「私が決して回想録を書かないわけ」というルイズ・ブルックスのエッセイを翻訳してもらい載せていたからだ。

 

大岡昇平は、このエッセイもさっそく引用し、分析を加えているが、面白いのは、この老大家の異様な熱狂に当てられてしまい、山口昌男、大江健三郎、埴谷雄高、蓮實重彦、山田宏一、四方田犬彦、松田政男といった人たちがルイズ・ブルックス関係の資料を惜しげもなく提供していることだ。筒井康隆にいたっては、以前からブルックスに目をつけて、昭和初期の「キネマ旬報」を独占的に収集していたものの、大岡昇平の文章を読んで、その計画を放棄し、一括送付してきたという。

 

大岡昇平のエッセイは、『パンドラの箱』の原作者ヴェデキントが創造したヒロイン「ルル」を制度破壊者、トリックスター的道化の文脈で考察したり、当時、『パンドラの箱』の日本版である舞台、蝙蝠座「ルル子」で、日本でも大流行したブルックス刈りをいち早く真似した三宅艶子の証言なども紹介するなど、雑知識、情報が豊富で、興味は尽きない。

 

筋金入りのスタンダリアンである大岡昇平は、「美は幸福の約束である」というスタンダールの定義を引きながら、「ルイズの顔は何か幸福を約束していなければならない。それは多分知性をまじえた、友愛的なものだろう。しかしそういいきってしまうには、彼女の身体の曲線には魅力がありすぎ、上眼使いの眼には色気がありすぎる。あれが演技でできるだろうか。」と書いている。

 

当時、この大岡昇平の本をきっかけに、アテネ・フランセやドイツ文化センターで、ルイズ・ブルックスの映画の上映会が幾度か開催された記憶がある。ただし、上映されたのは『パンドラの箱』、『淪落の女の日記』、そして『港々に女あり』にほぼ限られていたと思う。

 

 映画史には、スチル写真を見た記憶だけで、ずっと見たいと切実に夢想してしまうような幻の映画が何本かある。私にとって、ある時期までは、プレストン・スタージェスの『サリヴァンの旅』(43)、そしてウィリアム・ウェルマン『人生の乞食』(28)がそういう作品であった。

 

映画監督の自己探求というメタ・フィクション的な趣向が先駆的な『サリヴァンの旅』で、もっとも魅了されるのは、映画監督サリヴァンと共にホーボーに扮した、女優志願の娘ヴェロニカ・レイクがハンティング帽をかぶった男装で、鉄道の貨車にヘタクソに飛び乗るシーンだ。突然、コマ落としになったり、ヴェロニカ・レイクが、トレードマークである多量な髪が額を覆い尽くすかのような独特のヘアスタイルを封印し、少年のように走り回るシーンは、何度見てもその美しさに陶然となってしまう。 

 

だが、この映画監督サリヴァンが、社会の過酷な現実を知るための<通過儀礼>としての列車のタダ乗りのシーンには、どうやら原典があり、それはサイレント末期の社会派映画『人生の乞食』であるというのが映画史の通説となっている。

 

最近、不完全な形ながら、その『人生の乞食』をようやく見る機会があり、ホーボーであるリチャード・アーレンとハンティング帽をかぶった男装のルイズ・ブルックスが列車にタダ乗りするシーンを見て、愕然となった。プレストン・スタージェスは、やはり『サリヴァンの旅』で『人生の乞食』のこのシーンを、カット割りまでほとんど丸ごと再現していたのだ。これは明らかにパロディというよりもオマージュ、岸松雄ふうに言えば<心ある踏襲>と呼ぶにふさわしい。

 

それにしてもボーイッシュなショート・ボブヘアのルイズ・ブルックスが男装するといったいどうなるか。二重に倒錯した形容しがたい妖しいエロティシズムが生まれるのだ。とくにふたりが干し草の山の中で、一晩過ごすシーンの瞳が濡れたようなルイズ・ブルックスの美しさは筆舌に尽くしがたい。

 

『サリヴァンの旅』の撮影時、ヴェロニカ・レイクは妊娠していて、当然、列車のシーンでは、スタンドインがいたが、『人生の乞食』で、ルイズ・ブルックスは危険なスタントにも果敢に挑み、走り出した列車に飛び乗るというシーンも自分でこなしている。

 

『ハリウッドのルル』には、『人生の乞食』をめぐる印象深い記述がある。ロケーション先で、リチャード・アレンの身替りスタントマンが、確実に死んだと思われるような見事な離れ業をみせたので、彼女は、その男に、今夜、遅く宿舎の自分の部屋の窓に来れば、入れてあげると言った。しかし、男は来なかった。翌朝、男は、ロビーで会うと、大声で「ミス・ブルックス」と呼びかけ、声をひそめて「われわれの商売は体が元手なんです。あなたは監督と寝ているという噂だ。ところがあの監督は梅毒持ちだということですので」と言ったという。

 

 全篇がこんな途方もない率直さと親密な語り口で溢れている『ハリウッドのルル』は、ルイズ・ブルックスという神話的な女優を知るうえで最重要な文献である。私の手許にはバリー・パリスの大部の評伝『ルイズ・ブルックス』もあるのだが、これらの著作をどこかで翻訳・出版できないものかと思う。そして、その際には、ぜひとも『人生の乞食』をニュープリントで上映したい、とあてどない妄想はますますふくらむばかりである。

 

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『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(大岡昇平著・中央公論社)

 

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『サリヴァンの旅』の男装のヴェロニカ・レイク(右)

 

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『人生の乞食』の男装のルイズ・ブルックス(右)

岩田宏、あるいは小笠原豊樹をめぐる断想

淀川長治、蓮實重彦、山田宏一氏の鼎談集『映画千夜一夜』(中公文庫)を読み返すたびに、世の中には、映画ファンであるならば、見ておかなければいけない映画が膨大に存在することにあらためて愕然となる。私の場合、たとえば、その筆頭に挙げられるのが、ヘンリー・ハサウェイの『永遠に愛せよ』(35)だ。とはいっても、ゲイリー・クーパーとアン・ハーディングが主演したこのハリウッド黄金期の古典的なメロドラマが気になり始めたのは、つい最近のことである。

 

十年ほど前に上梓された岩田宏のエッセイ集『渡り歩き』(草思社)の中に「夢の領域」という一文がある。アメリカのミステリ、大衆小説に頻出するピーター・イベットスンという謎の名前をめぐって入念に考察したエッセイで、読み進むうちに、それはダフネ・デュモーリアの祖父にあたるジョージ・デュモーリアの処女作『ピーター・イベットスン』に由来することが判明するのだが、他ならぬ『永遠に愛せよ』の原作が『ピーター・イベットソン』なのだ。

 

岩田宏は、『ピーター・イベットスン』の主人公の生い立ちが、作家ジョージ・デュモーリアのそれとほぼ同じであると指摘し、この夢の中の相愛をテーマにした哀切極まりない物語の骨子を紹介しているが、その手際があまりに見事で惚れ惚れとしてしまうのである。

以来、『永遠に愛せよ』は、もっとも見たい映画の一本となり、恐らく未訳であるはずのジュージ・デュモーリアの原作『ピーター・イベットソン』も、ぜひとも彼の翻訳で読みたいと思った。

 

 詩人の岩田宏と翻訳家である小笠原豊樹が同一人物であることに気づいたのは、いつ頃だったろうか。

 最初に名前を知ったのは、もちろん小笠原豊樹のほうである。最初に読んだ小笠原豊樹の翻訳は、多分、レイ・ブラッドベリの『太陽の黄金(きん)の林檎』(早川文庫)だったと思う。

私にとって、翻訳者としての小笠原豊樹という名前、ブランドに対する信頼感は絶大でゆるぎないものだ。

 たとえば、ロス・マクドナルドの『さむけ』(早川ミステリ文庫)を読み終えた時の得も言われぬ充実感は、今でもあざやかに憶えている。イリヤ・エレンブルグの『芸術家の運命』(美術出版社)の堅牢なタッチで描きだされた数々のポルトレはいかに魅力的であったことか。ウラジーミル・ナボコフの『四重奏/目』(白水社)、『ロシア文学講義』(TBSブリタニカ)の精妙で酔わせるような言語の魔術にも瞠目させられた。   

 

詩ではウラジーミル・マヤコフスキー、そして何といってもジャック・プレヴェールだ。昔、書肆ユリイカから出ていた小笠原豊樹訳の『プレヴェール詩集』(後にマガジンハウスから復刊された)は、何度、読み返したかしれない。たとえば次に引用する「夜のパリ」などは、すっかり暗誦してしまったほどだ。

 

三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜のなかで

はじめはきみの顔を隈なく見るため

つぎのはきみの目を見るため

最後のはきみのくちびるを見るため

残りのくらやみは今のすべてを想い出すため

きみを抱きしめながら。

 

この名高い詩を含む詩集『パロール』は、初期の谷川俊太郎の詩作にも深い影響を与えているはずである。私は、未だに、プレヴェールの詩に関しては小笠原豊樹訳以外では読む気がしない。

『天井桟敷の人々』のシナリオライターでもあったプレヴェールの詩が映像的であるのは言うを俟たないが、なぜか小笠原豊樹の翻訳には映画化された作品が多いことも特筆されよう。代表作としては、ジョン・ファウルズの『コレクター』(白水社)、『魔術師』(河出書房新社)、そしてメアリイ・マッカーシイの『グループ』を挙げたい。

 

『コレクター』は、ウィリアム・ワイラーの手堅い演出で見せるが、ジョン・ファウルズの原作は主人公のキャラクターがより一層屈折しており、彫りが深い。『魔術師』は、たしかダーク・ボガード主演で映画化されたはずで、日本未公開であるが、あの壮麗な地中海的幻想の世界を映像化するのは至難の業である。

 

シドニー・ルメットが監督した『グループ』は、もっと高く評価されていい〈女性映画〉の秀作である。一九三三年、バッサー女子大を卒業した八人の女性たちが、ニューディール政策下のアメリカ社会で、理想と現実の葛藤にさいなまれ、それぞれが挫折と幻滅を味わうという物語だが、キャメラが名手ボリス・カウフマンのせいか、エリア・カザンの『草原の輝き』を想起させる柔らかな色調と淡いノスタルジックなトーンが強く印象に残っている。

ところが、メアリイ・マッカーシイの原作のほうは、あけすけなまでにドライで、感傷を排した冷静な叙述と文体が、時としてグロテスクなまでに暴露的なユーモアをたたえているのだ。とくに第二章のヒロインの一人、ドティ・レンフルーが初めて男とベッドを共にするくだりなど、彼女のエスカレートする妄想や男とのトンチンカンな会話がアイロニーたっぷりで爆笑をさそう。この辛辣なユーモアが、ルメットの映画にはやや希薄なのだ。 

 

『グループ』の小笠原豊樹の訳者あとがきは、独立したメアリイ・マッカーシイ論として読める卓越したもので、「この小説は、新しい家具のようにグッド・センスという言葉で片付けるには、あまりにも多くの生々しい問題を含み、強烈な個性に満たされている。それはたぶん孤児の哀しみと、バッサーの教育と、トロツキストの政治運動と、「パーティザン・レヴュウ」の文学運動と、三度の離婚を経て来たひとりの女性の年輪のようなものであるのだろう」という指摘は正鵠を得ていると思う。

 

 岩田宏には、『同志たち、ごはんですよ』(草思社)という大部のエッセイ集がある。ここには、後に『私は好奇心の強い女』で話題となるヴィルゴット・シェーマンの伝説の獣姦映画『491』を試写で見た感想や、エリア・カザンの『アメリカ・アメリカ』とルイ・マルの『鬼火』を比較した「青春の獲得と喪失」などが収められている。『妻よ薔薇のように』と『彦六大いに笑う』を中野実、三好十郎の原作と比較して論じたエッセイも出色で、職能的映画批評家とはまったく異なる独自の視点がきわめて新鮮である。

 

そういえば、岩田宏は、ロバート・アルトマンの『三人の女』の劇場用パンフレットにも作品評を書いていて、とても読みごたえがあったと記憶する。私は、今、岩田宏=小笠原豊樹の映画エッセイ集を編んでみたい、というささやかな夢想にふけっている。

 

 

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メアリイ・マッカーシイ『グループ』(小笠原豊樹訳・早川書房)

 

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ジャック・プレヴェール『プレヴェール詩集』(小笠原豊樹訳・マガジンハウス)

クラス・マガジン『話の特集』が輝いていた時代

 今年の一月、築地本願寺で行われた大島渚監督の通夜で、近くに坐った老人に見覚えがあった。誰かと思い、すぐに矢崎泰久さんであることに気づいたが、ちょっと声をかけそびれてしまった。

二〇一一年七月、茅場町の森岡書店で故・草森紳一さんの「本は崩れず」という写真展が開かれ、南陀楼綾繁さんを聴き手に、『話の特集』編集長の矢崎泰久さんが草森さんの思い出を語るトークショウがあった。その席で、私が虫明亜呂無のエッセイ集をつくったことを告げると、矢崎さんは、嬉しそうに、「虫明さんについてはとっておきの面白い話がいっぱいあるので、今度、ゆっくりお聞かせしましょう」と話していたのだが、なんとなくそのままになってしまっていたのだ。

 

今、『話の特集』という名前を聞いて、ある種、眩いイメージを覚えるのは、私の世代が最後かもしれない。

一九七〇年、当時、中学三年生だった私が初めて書店の店頭で『話の特集』を手にした時の言い知れない衝撃は鮮明に覚えている。度重なる引越しで、『話の特集』のバックナンバーは、ほとんど処分してしまったのだが、この七〇年五月号だけは、なぜか手許に残っている。

表紙はエロティックな宇野亜喜良のイラストで、カラーグラビアは柳沢信の「SCORPIO」、耳朶にサソリの刺青をした女がヌードを披露している。ちなみに、このモデルとなった、当時、天井桟敷に在籍していた市川魔子というアングラ女優は、六年後、世界的に名前が知れ渡ることになる。『愛のコリーダ』の松田瑛子である。 

 

 私はすぐに定期購読を申し込んだが、『話の特集』には「緑色ズックカバーのノートブックから」という植草甚一の連載があり、次の号の「夢のドキュメンタリーとしてのフェリーニの『サテリコン』がどんなに素晴らしいかモラヴィアが語ってくれた」というエッセイにすっかり魅了された。この連載は七〇年の秋に、『ぼくは散歩と雑学が好き』(晶文社)になり、私は熱烈な植草甚一ファンとなってしまった。その頃、晶文社に植草甚一の映画の本を出してほしいと投書したことがあり、翌々年だったか、『映画だけしか頭になかった』が刊行された時には、我がことのように嬉しかった。

 あの頃、晶文社からは毎月、新刊案内のハガキが届いたが、七三年には植草甚一責任編集の雑誌『ワンダーランド』創刊の告知が届き、なにか新しい時代が始まるというワクワクするような胸騒ぎの予感を覚えたものである。

 

 私がもっとも熱心に『話の特集』を読んだのは、この一九七〇年代前半の数年間だったと思う。後に『東京のロビンソン・クルーソー』(晶文社)に収録される小林信彦のコラム「世直し風流陣」、虫明亜呂無の『ロマンチック街道』、色川武大の『怪しき来客簿』などの連載も夢中になって読んだ。 

 

私は、上京後、古本屋で初期の六〇年代の『話の特集』を見つけては購入していた時期があるが、『話の特集』のエッセンスは、レイアウトを担当した和田誠の傑出した才能に負う部分が大きいこともわかってきた。文章と写真・イラストをまったく同格でとらえた斬新な発想はまぎれもなく和田誠によるものだった。いっぽうで、矢崎泰久好みの硬派なジャーナリズム精神は、たとえば、竹中労の『メモ沖縄』『公開書簡』のような連載に体現され、この<遊び>と反権力志向のフシギな共存こそが、一時期の『話の特集』の面白さを支えていたように思う。

 

一九七〇年代の後半になると、矢崎泰久が<革自連>を結成して、政治活動に走ってしまい、『話の特集』も、戦後民主主義礼讃ふうの微温湯的な<良識>で誌面が覆われて、つまらないものになってしまった。

そして、惰性で買っていた感のある『話の特集』をそろそろ止めようかと思っていた矢先、一九七六年一月号から山田宏一の「わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」の連載が始まったのだ。

山田宏一さんは、その数年前「キネマ旬報」で連載していた「シネ・ブラボー!」を突然、中断し、自ら映画批評家失格宣言をして、ファンとしては心を痛めていた。それだけにこの新連載はうれしい驚きであった。恐らく、『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社)の翻訳、マキノ雅弘の自伝『映画渡世』(平凡社)の取材、執筆を始めていた時期に重なると思うが、とにかく歴史的な名著『友よ映画よ――わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』が、『話の特集』に連載されていたことは記憶されてよい。

 

そして、山田さんの「わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」のバトンをリレーするかのように、蓮實重彦の連載「シネマの扇動装置」が一九七七年一月号から始まった時には、またしても驚かされた。というのも、当時、蓮實さんの映画評論集はまだ一冊もなく、ごく一部の映画ファンの間で、その独特の文体の影響が感染症のようにじわじわと拡がっていた時期であったからだ。私の周囲でも、毎月、「今月の『話の特集』のハスミ、読んだ?」が合言葉のように飛び交っていたのをよく憶えている。

 

私が「シネマの扇動装置」でもっとも鮮明に記憶しているのは澤井信一郎監督のデビュー作『野菊の墓』を論じた文章である。森田富士郎の絶妙なキャメラワークに着目し、新人らしからぬ見事な画面造型を絶賛した一文に、まさに扇動されるように、東映の封切館に足を運び、深い感銘を受けたのだ。

 

後に、澤井信一郎監督から直接、聞いた話であるが、角川映画で第二作目の出世作『Wの悲劇』を撮ることになったのは、角川のブレーンが、『話の特集』の蓮實さんのコラムを読んで、澤井さんを大抜擢したためだという。「僕にとっては、人生を決めたみたいな批評で、蓮實さんにはすごく感謝しています」と澤井さんが語っていたのが強く印象に残った。世の中には、ひとりの映画人の人生を左右してしまうような批評というものがあるのだ。

 

このふたつの連載を企画・担当したのは鈴木隆という名編集者だった。鈴木隆さんは山田さん、蓮實さんから絶大な信頼を得ていたが、実際、金井美恵子姉妹が司会する「マッド・ティー・パーティ」とかこの時期の『話の特集』の面白い連載はすべて鈴木隆さんの発案によるものである。

鈴木隆さんは、後に上野昂志さんの名著『映画=反英雄たちの夢』(話の特集)を編集してもいるが、『話の特集』を退社後、独立してメディア・フロントという編集プロダクションを立ち上げた。蓮實重彦、山田宏一監修によるビデオシリーズ「リュミエール・シネマテーク」を制作し、一時、入手困難であった非売品の蓮實、山田両氏の対談集『傷だらけの映画史――ウーファからハリウッドまで』(後に中公文庫)を編集したのも鈴木さんである。

 

あれは一九九三年だったろうか。当時、私が編集長をしていたビデオ業界誌『A?ストア』が経営危機で廃刊となり、傑作『死んでもいい』を撮った石井隆監督のロング・インタビューの原稿が宙に浮いてしまった。そこで、私は当時、『話の特集』にいた友人に強引に頼み込み、なんとか石井隆インタビューはオクラにならず、『話の特集』に掲載することができた。この時には、私もいささかの感慨を覚えた。

 

『話の特集』が休刊したのは一九九五年で、もう二十年近くの歳月が流れてしまった。日本のカウンター・カルチュアを象徴するクラス・マガジン『話の特集』は、<映画>をめぐる貴重で歴史的な言説が刻まれた雑誌でもあったことを忘れてはならないと思う。

 

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宇野亜喜良のイラストが表紙の『話の特集』一九七〇年五月号

田中眞澄の遺稿集『小津ありき――知られざる小津安二郎』

 今、映画・文化史家の田中眞澄さんの遺稿集『小津ありき――知られざる小津安二郎』(清流出版)を編集している。今年は、小津安二郎監督の生誕百十年、没後五十年にあたるが、それに合わせて、小津研究の第一人者であった田中さんの小津に関する単行本未収録のエッセイをまとめたいと考えたのだ。

 

 田中眞澄さんにはさまざまな逸話がつきまとっている。

私は、一九七〇年代の半ば頃から、京橋のフィルムセンターに通い始めたが、そのロビーには、必ずいつも長髪で、白いワイシャツ、草履ばき、という怪しい風体の眼光鋭い人物がいた。それが田中さんだった。

 田中さんは、後年、自ら「フィルムセンター最多有料鑑賞者」という肩書を名乗っていたが、この呼称に何ら誇張はない。田中さんは、後に「キネマ旬報」の連載「その場所に映画ありて」で、七〇年代のフィルムセンターに棲息していた常軌を逸した映画狂たちの生態を、自嘲を交えつつ諧謔たっぷりに回想していたが、その中心にいたのがほかならぬ田中さんだった。

 

その頃、新沼千春さんが編集していた映画ファンのガリ版の同人誌『ぴくちゃあ』で、「日本映画監督ベストテン」特集が組まれ、私も参加しているのだが、田中眞澄さんは一位に小津安二郎を選んでいた。「小津作品こそ、日本の<近代>の最大の達成なのだ」云々という記述があったのを憶えている。

 

 フィルムセンターで一九八一年に開催された大規模な小津安二郎特集が連日、大盛況となり、八三年には蓮實重彦の『監督 小津安二郎』(筑摩書房)が刊行されて、<小津ブーム>は頂点を迎えた。当時、蓮實流の表層批評以外は、野暮の骨頂のようにみなす風潮が蔓延する中、一九八七年、田中さんの最初の編著『小津安二郎全発言19331945』(泰流社)が上梓された。

 田中眞澄さんは、以前から、日常生活のほとんどをフィルムセンターの映画鑑賞と国会図書館で古新聞、古雑誌を渉猟することに費やしているという伝説があった。その伝説がまさに真実であったことを物語るのが、『全発言』と『小津安二郎戦後語録集成 昭和21年―昭和38年』(一九八九、フィルムアート社)という二冊の編著である。

さらに、ほぼ同時期に、「ユリイカ」の臨時増刊『監督 川島雄三』が出ているが、私は、巻末にある田中眞澄・編「川島雄三関連文献目録」を眺めた瞬間、感嘆を禁じ得なかった。これほどまでに豊饒な資料は、気の遠くなるような時間をかけなければ精査できるはずがないからである。

 

その後、編著『全日記 小津安二郎』(一九九三、フィルムアート社)を刊行し、文字通り、田中眞澄さんは、自他ともに認める小津研究の第一人者となった。文藝春秋の細井秀雄、照井康夫さんというふたりの映画狂の優れた編集者に恵まれ、類い稀なエッセイストとしての貌を露わにし始めたのは、その頃からである。

 

私が田中眞澄さんと親しく口をきくようになったのも、たぶん、田中さんが、文春の『ノーサイド』で特集「「戦後」が似合う映画女優」を監修していた頃だったように思う。フィルムセンター、あるいは神保町や世田谷の古本屋でばったりと出食わし、そのままなんとなく一緒に安い呑み屋に流れるというケースがたびたびあった。映画の物書きは下戸か底なしの呑兵衛かに大別されるというのが、私の永年の持論で、われわれはまぎれもなく後者であった。

 

酒席でも、田中さんとは堅苦しい映画論などを交わした記憶はほとんどない。共通の知り合いをめぐる他愛ないゴシップやら、読んだ本の話などが多かったが、はっきり覚えているのは、ドナルド・リチイの評価をめぐってである。

 

田中さんはドナルド・リチイの『黒澤明の映画』も『小津安二郎の美学』(ともに現代教養文庫)も世評ほどには高くは買ってはいなかった。私も、ドナルド・リチイの本領は、それ以前に書かれた『現代アメリカ芸術論』(早川書房)、『現代アメリカ文学主潮』(英宝社)、『映画芸術の革命』(昭森社)の三冊にあると自論を述べると、田中さんは、我が意を得たりとばかりに、じつは、『現代アメリカ文学主潮』は密かな愛読書で、この本で、天才女流作家カースン・マッカラーズの名前を初めて知って、夢中になって読んだんだよ、と嬉しそうに語っていたことが思い出される。

 

一緒に仕事をしたのは、私が編集した『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』(清流出版)のために「大衆文化としての菊池寛」という序文を書いてもらった時である。わずか十五枚ほどのエッセイのために、菊池寛の長大な通俗小説を何冊も読破してしまう、その周到さには本当に頭が下がった。

田中さんは、私がつくってきた虫明亜呂無、山川方夫、武田泰淳などの雑文集を気に入っていて、自分もその種のエッセイ集を出したがっている風情であった。

 

私は、今回、『小津ありき』を編集するに当たって、第一章では小津映画を戦争、家族、メロドラマなど幅広い視点でとらえたエッセイを集めた。第二章では小津の生誕九十周年の時に刊行された『小津安二郎映畫讀本』(松竹映像本部映像渉外室)の小津全作品解説を網羅し、巻末には、小津の助監督だった斎藤武市監督のインタビューを収めた。

『映畫讀本』を編集した郡淳一郎さんによれば、田中さんは、「みんな、あの作品解説を読んでくれてないんですよ」と嘆いていたという。

 

巻頭の「<日本の家>を描き続けた小津安二郎」という論考において、田中さんは「小津安二郎の描いた家族は、常に解体する」と断じている。この視点が、「小津全作品解説」をつらぬく通奏低音となっているのはいうまでもない。

 

「『東京暮色』複雑な情感が渦巻く上野駅」というエッセイで、田中さんは、北海道から上京、帰省する際に並んだ上野駅ホームの光景をスケッチしているが、こういう私的な回想はきわめて珍しい。

「長野日報」に連載された「小津安二郎と蓼科高原」も、小津と信州という風土を結びつけた卓抜なエッセイである。こういう微細な発見に富む、味わい深いエッセイは田中さん以外には誰も書けないだろう。

ドイツ映画祭のパンフレットに寄稿した「ルビッチュ、ルビッチ、そして小津――日本に生きたルビッチ映画」、フィルムセンターのニューズレターに載った「<あいつはあれでいいんだ、儲かるシャシンは俺が作る>――小津安二郎と清水宏の蒲田時代」といった長篇エッセイは、田中さんの博覧強記が存分に発揮され、見事なものである。

 

田中眞澄さんとは、ここ十年ほど、毎年、年末に新宿紀伊國屋ホールで澤登翠さんの活弁でサイレント映画上映会を聴いた後、数人の気のおけない映画仲間と浪漫房での忘年会になだれ込むのが慣わしとなっていた。二年前の十二月二十九日深夜、やはり、ほろ酔いの田中さんと新宿で別れたその数時間後、田中さんは急逝してしまった。

 

『小津ありき』は、これまでの小津を主題にした『小津安二郎のほうへ モダニズム映画史論』(みすず書房)、『小津安二郎周遊』(文藝春秋、岩波現代文庫)、『小津安二郎と戦争』(みすず書房)とは、また一味違う、雑文家としての田中さんの魅力を堪能できるエッセイ集になっていると思う。早ければ、六月末には、店頭に並ぶ予定である。ぜひ、手にとっていただきたい。

 

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講演中の田中眞澄さん

桂ゆきとジャン・ジュネ

先日、東京都現代美術館で開催中の「桂ゆき ―ある寓話―」展(4月6日―6月9日)を見てきた。桂ゆきの生誕百年を記念して開催された個展で、これほど大規模なものは東京でも恐らく初めてであろう。コルクや布を使ったコラージュ、お伽噺に想を得た動物や妖怪が闊歩するユーモラスな寓話まで、広い会場を埋め尽くす、抽象から具象へと自在に往還するその壮大な作品群には、ただ圧倒されるばかりであった。 

 

会場には、私が八年前に企画・編集した『余白を生きる 甦る女流天才画家・桂ゆき』(清流出版)が積まれてあった。現在、入手できる桂ゆきの唯一のエッセイ集であり、この本をつくっておいてよかったとつくづく思った。

 

私が桂ゆきという画家を知ったのは、花田清輝の著作を通じてである。一九七〇年代の半ば頃、私は当時亡くなったばかりの花田清輝の魅力に憑りつかれ、古本屋で見つけては片っぱしから花田の本を購入していた。なかでも、『さちゅりこん』(未来社)、『冒険と日和見』(創樹社)、『乱世今昔談』(講談社)『俳優修業』(講談社)、『随筆三国志』(筑摩書房)は桂ゆきの装幀・挿絵で、その大胆不敵な奇想とユーモア、諷刺と諧謔に満ちた作品は、強烈な印象を与えた。

 

一九八〇年代の半ば頃、私は、『月刊イメージフォーラム』の編集部を辞めた後に、『一枚の繪』という美術雑誌の編集部に数年間務めていた。竹田厳道というカリスマ的で超ワンマンな会長が君臨するかなり特異な会社であったが、この雑誌で、桂ゆきさんの自伝的回想を連載することになり、私が担当することになった。

毎月一度、新宿の余丁町にあった桂さんのアトリエに原稿を取りに伺い、手料理をごちそうになりながら、数時間、過ごすのが、私の唯一の楽しみとなった。

 

桂ゆきさんは、戦後、岡本太郎の誘いで、日本のアヴァンギャルド芸術運動の拠点となった「夜の会」に入ったが、桂さんから、当時のメンバーであった埴谷雄高、花田清輝、安部公房たちのゴシップを交えた回顧談を聞くのは、まさに至福の時間であった。とりわけ、<意地悪ジイサン>の異名をもち、辛辣な皮肉と毒舌をもってなる花田清輝が、桂さんのアトリエを訪れた時にはいつも、シャイで下を向いて顔をあわせることもなく、ほとんど話すらしなかったというエピソードは、何度聞いても、可笑しくてならなかった。

 

桂ゆきさんは、一九五六年に渡仏し、以後、ヨーロッパ、アフリカの奥地、そしてアメリカにわたって、数年後に帰国し、一冊の旅行記を書き上げる。一九六二年に光文社からカッパブックスとして刊行された『女ひとり原始部落に入る――アフリカ・アメリカ体験記』である。

この傑作旅行記の帯は当時、気鋭の作家だった大江健三郎が書いているが、一躍、ベストセラーとなり、翌年には、当時、まだ権威があった毎日出版文化賞を受賞している。

 

『女ひとり原始部落に入る』には、アフリカの原地人の奇怪な風習や猛獣狩りに参加し、バッファローの大群に襲われるという、恐ろしくも抱腹絶倒な体験の数々が綴られている。

たとえば、映画がらみの話題でいえば、中央アフリカの小都市バンギの空港で、突然、オーソン・ウェルズ、ジュリエット・グレコ、エロール・フリンらハリウッドのスターと遭遇するエピソードが興味深い。ジョン・ヒューストン監督の『自由の大地』のロケ隊が、この地で撮影を行っていたのだ。ここで見かけたエディ・アルバートとは、後に、桂さんがニューヨークに住んだ時に知り合いとなる。桂さんは、グリニッジ・ヴィレッジで絵画制作の傍ら指圧のアルバイトをしていたのだが、エディ・アルバートの紹介で、フランスの名優ミッシェル・シモンから顔面神経麻痺の治療を頼まれる話もじつに面白い。

 

桂さんは、ご自身は、美術家として映画の現場に関わることはなかったが、映画雑誌には何度か登場している。「キネマ旬報」の一九五六年九月下旬号では、「『夜の河』をめぐって」というタイトルで、吉村公三郎監督、文芸評論家の十返肇と鼎談している。あの吉村監督、最初のカラー作品の独特の色彩感覚について鋭い卓見を述べていた記憶がある。

同じく「キネマ旬報」の一九六五年五月下旬号では、羽仁進監督がアフリカ・ロケをして話題になった『ブワナ・トシの歌』をめぐって、羽仁監督と対談し、楽しそうにアフリカ談義をしている。

 

『女ひとり原始部落に入る』でも『余白を生きる』でも、最も忘れがたい印象を残すのは、パリのセーヌ河畔の古本屋で出会ったジャン・ジュネのエピソードである。桂さんはジュネと意気投合し、ジュネは、二十部限定の戯曲『バルコン』をプレゼントし、サインしてくれたという。帰国しても手紙のやりとりがあり、「映画『羅生門』に出てくる若者はよかった。日本にはあんな男が大勢いるのか? 今度、ぜひ、日本に行きたい」としきりに熱っぽく語っていたという。

 

桂ゆきさんとジャン・ジュネの話題になった時に、私は見たばかりの『愛の唄』(50)の話をした。『愛の唄』はジャン・ジュネが監督した唯一の映画で、フランスはもちろんアメリカでも上映禁止となった伝説の作品である。刑務所の囚人と看守の恋愛をテーマにしているが、大島渚監督が『戦場のメリー・クリスマス』を撮る際に、もっともインスパイアされたと公言していた映画でもある。

 

当時、『愛の唄』は、新宿厚生年金会館の裏手にあったアートシアター新宿でたびたび上映されていた。佐藤重臣の主催する黙壺子フィルム・アーカイブスの提供で、当時、ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』ノーカット版、トッド・ブラウニングの『フリークス』と並ぶ定番の人気作品だった。上映前に、佐藤重臣の解説がいつも付いていたが、とくに、ペニスを丸出しにした全裸の黒人が看守への愛に打ち震えて踊り出すシーンなど、メルヘンのような幻想的な味わいがあった。

 

『愛の唄』の話をすると、桂ゆきさんは、眼を活き活きと輝かせ、こんど、ぜひ、その映画に連れて行ってほしいと、しきりにおっしゃていた。

 

私は『月刊イメージフォーラム』時代に、佐藤重臣の回顧録ふうな連載「祭りよ、甦れ!」を担当していたので、重臣さんがいかに花田清輝に影響されていたのかをよく知っていた。花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』こそが、佐藤重臣の<アングラ志向>の原点なのであった。

その花田清輝がもっとも尊敬していた画家が桂ゆきさんであった。だから、私も、このふたりを引き合わせることを密かに楽しみにしていたのだが、一九八八年に佐藤重臣が脳出血で急逝し、続いて、アートシアター新宿も閉館してしまった。

 

私も、その頃、『一枚の絵』を退社してしまったが、桂ゆきさんとのおつきあいは続き、八九年、東京画廊の「桂ゆき」展に出かけてご挨拶をしたりもした。だが、桂ゆきさんもその後、体調を崩されて東京女子医科大附属病院に入院され、一九九一年、急性心不全で逝去された。

 

今でも、私の唯一の心残りは、桂ゆきさんにジャン・ジュネの『愛の唄』を見せられなかったことである。

それにしても、『愛の唄』を含む、あの非合法なトンデモナイ黙壺子アーカイブスの幻の作品群はどこにいってしまったのだろうか。

 

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桂ゆき著『余白を生きる――甦る女流天才画家 桂ゆき』(清流出版)

虫明亜呂無ふたたび、そして宇津宮雅代

いささか旧聞に属するが、『文学界』四月号の特集「随筆を読む」で、平松洋子さんが<わが偏愛する随筆家>として「虫明亜呂無――誇り高く、なつかしく、孤独」というエッセイを書いていた。その影響であろうか、ネット上でも、しばし、私が数年前に編集した虫明亜呂無の『女の足指と電話機――回想の女優たち』『仮面の女と愛の輪廻』(清流出版)という二冊のエッセイ集が話題になったようである。

 

平松洋子さんが書いていた虫明亜呂無と寺山修司の競馬をめぐるエピソードは、ちょっと怪談ふうなコントのようでもあり、とても面白い。ちなみに平松さんは読書エッセイ集『野蛮な読書』(集英社)でも虫明亜呂無に言及している。

 

私は、この二冊のエッセイ集を編むことで、従来、すぐれたスポーツ評論、スポーツ小説の書き手としてのみ評価が高かった虫明亜呂無という作家をもっと幅広い視野の中でとらえ返したいと考えた。とりわけ、映画、音楽、小説、演劇、ファッション、女性、恋愛とあらゆるテーマを自在に論じる、卓抜でポップなコラムニストとしての魅力を広く知らしめることができたのではないかと、自負している。

 

 虫明亜呂無の文章がひときわ魅力を放つのは、女性、とくに女優について語られたエッセイにおいてである。

たとえば、作家の堀江敏幸は、書評集『振り子で言葉を探るように』(毎日新聞社) 所収の、『仮面の女と愛の輪廻』を評した一文で、次のように書いている。

 

「特筆すべきは、女性を描くときの呼吸の艶(つや)だ。岩下志麻、岸田今日子、吉永小百合、池内淳子、太地喜和子、ジェーン・フォンダらの肖像の、冷静な距離を置きながら、眼で愛撫するようなまなざしの蕩尽は、小説だのエッセイだののジャンルを超えて印象深い。<僕は女優としての岩下志麻はもとより、女優としてのだれだれには、まったく興味がない。あるのは、ひたすら、彼女らが女であることである>と彼は記した。ほとんど片思いにも似た女性への注視は、だから年齢にも左右されない。」

 

 たとえば、『女の足指と電話機』というエロティックな書名は、三浦洋一のひとり会『ストリッパー物語・惜別編』について書いた「スポーツ・ニッポン」の連載「うぇんずでい・らぶ」のコラムのタイトルからとったものである。虫明亜呂無は、次のように書いている。

 

「舞台の上で、あおむけに寝た宇津宮雅代が、足指をそっくり三浦洋一にくわえられ、舐められるところがある。男女の愛欲が、ある緊張感を伴って表現される。と、三浦洋一のひもが、女の足をそのまま電話機にして、客引きの注文取りにつかう。ここが、舞台の演劇的ハイライトで、奇妙なセクシャルな情景がかもしだされ<女>のなまの味が、観客をとらえる。ひもを軽蔑し、しかもひもから離れられない<女>がかなり明白にクローズ・アップされてくる(宇津宮雅代は、あの個所は、独特な緊張感が女優をとらえる、と、語ってくれた)。」

 

 私は、このコラムを読み返すたびに、一九七七年に上演されたこの伝説的な舞台を見逃してしまったことが悔やまれてならない。というのも、一九六九年のデビュー作、ポーラテレビ小説『パンとあこがれ』以来、私は宇津宮雅代という女優の密かな、そして熱烈なファンであったからだ。

 

 私の手許には、奥様の虫明敏子さんから、お預かりした、虫明亜呂無が書き残した単行本未収録の原稿の膨大なスクラップがある。ときおり、気の向くままに、拾い読みするのだが、あまりの面白さに、読みふけってしまい、しばし、時を忘れてしまうほどだ。

そのなかに、ある雑誌に載った「縁は異なもの――恋愛感情を教えてもらった仲」という意味深なタイトルのエッセイがある。

虫明亜呂無の早稲田の同窓生で堂園という際立った美貌の女性がいた。ある時、彼女から、弟は宇津宮といって開成中学で虫明と同級生であったと教えられる。二十数年後、中学の同窓会でその宇津宮から、姪が新宿中村屋の創始者、相馬黒光を演じる『パンとあこがれ』に出るからよろしく、と挨拶される。

それが奇縁となって、虫明が、一時期、家族と離れ、経堂のマンションで仕事をしていた頃には、時おり、近所に住む宇津宮雅代が食事を作ってくれたという。

 

虫明亜呂無は「僕は彼女から、女の心理とか、女の感受性、女の美意識、女の恋愛感情などをつぶさに教えてもらった。……中略……彼女がはじめてお産をすることになったとき、お母さまが僕の家を訪ねてきて<よろしく頼みます>と言った。昔の同窓生だった女性からそう言われると、僕はあらためて歳月の流れと、人間の出逢いの深さを思わずにはいられなかった」と書いている。

 

虫明亜呂無は、このほかにも宇津宮雅代の魅力をめぐって、いくつかのエッセイを書いている。おびただしい女優へのオマージュだけを集めて、虫明亜呂無のエッセイ集を編んでみたいというのが、私のささやかな夢である。

 

ところで、デビュー当時、文学座の若手三羽烏などと呼ばれた宇津宮雅代は、やはり、舞台がメインで、映画では、これはという決定打はない。

 

そのなかで、私が好きな作品は、森谷司郎の青春映画の佳作『放課後』(73)だ。宇津宮雅代は、ヒロインの女子高生・栗田ひろみの同級生の姉で、スナックのママを演じていたが、父親の地井武男を、眼差しひとつで誘惑するシーンが、なんともエロティックであった。

ほんの数カットしか登場しないが、佐藤純弥の傑作『新幹線大爆破』(75)の爆弾犯のリーダー高倉健の別れた妻も強く印象に残っている。ラスト近く、海外逃亡しようとする高倉健を捕まえるべく、警察の要請で面通しのために羽田で待機していた彼女が、高倉健をと視線が合った瞬間の表情が忘れられない。

 

究極の一本を選ぶとすれば、数年前、ラピュタ阿佐ヶ谷の≪田中登追悼特集≫で上映された『横溝正史の鬼火 仮面の男と湖底の女』(83)だろうか。かつて、テレビ朝日の「土曜ワイド劇場」で放映された二時間ドラマである。

田舎の旧家に嫁いだうら若き義母・宇津宮雅代の奸計によって、お互いに憎しみ合うように生きてきた兄と弟。ともに画家となった彼らは東京で再会するが、過酷な運命がふたりを破滅へと導いていく。宇津宮雅代は、『めまい』のキム・ノヴァクを彷彿とさせる、謎めいた<宿命の女>を演じ、妖艶な美しさがきわだっていた。

日活ロマンポルノの鬼才田中登が撮った、もっとも優れたテレビ映画であり、ぜひ、DVD化してほしい傑作だ。

 

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各紙で絶賛された虫明亜呂無のエッセイ集『女の足指と電話機――回想の女優たち』(清流出版)

 

片岡義男について知っている二、三の事柄

今、雑誌『ジャズ批評』で、「日本映画とジャズ」という特集を準備しているのだが、そのなかで、安田南と沖山秀子というふたりの映画女優=ジャズシンガーにスポットを当てることになった。『神々の深き欲望』『真剣勝負』『十九歳の地図』などの代表作がある沖山秀子と違って、安田南は、厳密には映画女優とは呼べないかもしれない。だが、若松孝二の『天使の恍惚』の主演、そして降板というスキャンダラスなアクシデント、黒テントの舞台における気風のよい歌姫としてのキャリアはもはや伝説と化しており、数年前に物故した、この魅力的な女性を私なりにきちんと追悼しておきたいという気持ちもあった。

 

今回、安田南については、どうしても話を聞きたかった人物がいる。ひとりは黒テントの演出家、佐藤信、もうひとりは、もちろん、一九七〇年代に一部で絶大な人気を誇ったFM東京の深夜放送「きまぐれ飛行船」で、安田南と一緒にパーソナリティを務めていた片岡義男である。

 

先日、片岡義男さんに会い、一九七四年に、「きまぐれ飛行船」が始まった意外な経緯を含めて、当時の貴重なお話をうかがうことができた。

安田南と「きまぐれ飛行船」をめぐる興趣が尽きない数々のエピソードは、六月発売予定の『ジャズ批評』を読んでいただくことにしよう。

私は、まず、片岡義男さんの当時とまったく変わらない若々しい声と風貌に、ただ驚くばかりであった。と、同時に、ゆくりなくも、一九七一年に三一書房から刊行された『ぼくはプレスリーが大好き』(後に角川文庫)を読んだ時の、衝撃が思い出された。

『ぼくはプレスリーが大好き』は、プレスリーという天才の出現を起点に、ブルースからロックンロールの変遷、対抗文化、ヒッピームーブメントの内実などを政治、社会史をも視野に収めて縦横に分析したとてつもない名著で、私は、今なお、日本人による戦後アメリカ文化論でこれを超えるものはないと思っている。

 

その直後、晶文社から出た訳編著『ロックの時代』(一九七二年)、『10セントの意識革命』(一九七四年)も繰り返し読んだ。とりわけ、『ロックの時代』に収められた「グランド・オール・オープリー」は、ロバート・アルトマンの傑作『ナッシュビル』を理解する上でもっとも重要なエッセイだし、『10セントの意識革命』所収のマンガ誌『マッド』を批判した長大な論考には、ただただ感嘆するほかなかった。

 

片岡義男という作家は、恐らく、出会った時代によってさまざまな受け止められ方をされる存在である。角川映画にもなった『スローなブギにしてくれ』に代表される爽快な青春小説の書き手のイメージがもっとも一般的だろうが、私にとっては、一貫してアメリカ文化の最良の水先案内人のひとりであった。

 

ところが、『日本語の外へ』(一九九七、筑摩書房)あたりから、片岡義男は、湾岸戦争以後のアメリカを鋭く批判する視点が研ぎ澄まされ、英語と日本語の根源的な差異について、さらに日本とアメリカのねじれた関係性まで踏み込んだ啓示に富む考察には、<哲学者>のような深い思索が見られ、圧倒される思いがしたものである。

ハワイから引きあげてきた祖父を持ち、岩国のハイスクークで学んだ片岡義男は、花田清輝ふうにいえば、日本語と英語という二つの焦点をもつ<楕円的な思考>を血肉化している稀有な文学者といえるのではないかと思う。

 

昔、片岡義男は、なにかのエッセイで、五歳の時、大映の<母もの>映画を見て、あまりの情緒過多な湿り気、お涙ちょうだいの作劇に嫌悪感を抱き、以後、絶対に日本映画を見ない決意をした、と書いていた。

 

ところが、最近では『彼女が演じた役――原節子の戦後主演作を見て考える』(早川書房)『映画を書く――日本映画の原風景』(文春文庫)、『吉永小百合の映画』(東京書籍)、『映画の中の昭和30年代――成瀬巳喜男と描いたあの時代と生活』(草思社)と立て続けに、日本映画に関する評論集を上梓している。

 

これらの一連の著作は、一見、若い時代のアメリカへの憧憬から、一転して、老境に入ると<日本回帰>を遂げるというある種の日本の文学者たちの典型的なパターンを踏襲しているかに思えるが、そうではない。まったく、逆で、片岡義男は、精神の老いとしてのノスタルジアとは無縁な鋭い眼差しで、戦前、戦中、戦後と連綿と続く<昭和>という時代を、そこに生起する日本人特有の心性の在り処を、<歴史意識>を踏まえて、粘り強く論究しているのだ。

 

片岡さんと話をしている際に、成瀬巳喜男を論じた『映画の中の昭和30年代』が話題になり、「成瀬の映画はホラー映画ですよ」という発言が出た。たとえば、『女の歴史』では、夫は戦死、息子は事故死、と男だけが次々に死んでいき、女だけが生き残る。これはコワい、と。かつて、情緒派の名匠などと称された成瀬巳喜男に、片岡さんがもっとも関心を惹かれたのは、その情緒の側面ではなく、物語を支えるより大きな<構造>、そして時代の生々しい痕跡、なのではないかとも思う。

 

片岡さんは、成瀬作品のなかでは『銀座化粧』『おかあさん』をもっとも高く評価しているが、その理由として次のように書いている。

「貧乏とは、自分の身体を直接に細々と動かして労働することをいとわない日々における、月末ごとの収支とつじつまが今月もなんとか合うか合わないか、という問題だ。……中略……一九五一、五二年あたりでこのような貧乏を娯楽映画にすると、描かれる生活はそのまま時代であり、もし時代が描かれたなら、それはそのまま生活だった。時代と生活は乖離していず、緊密に重なり合って一体だった。『銀座化粧』と『おかあさん』を見れば、このことはすぐにわかる。」

 

 また、『銀座化粧』に重ねて、半世紀前の映画を見るということが「長らく忘れていたものを思い出す、という営みが半分はあるとするなら、残りの半分は、新鮮な発見をして驚く、という営みだ。」と書いている。彼が言語化しようとするのは、後者であるのは言うまでもないだろう。

 

 私は、不明を恥じるようだが、片岡さんが『一九六〇年 青年と拳銃』(毎日新聞社)という赤木圭一郎論を書いていることを知らなかった。夭折した同世代の伝説的な俳優赤木圭一郎が主演した「拳銃無頼帖」シリーズ全四作を徹底分析したものだという。片岡さんが論じる日活無国籍アクション!これは、読まねばなるまい。

 

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片岡義男の名著『ぼくはプレスリーが大好き』(三一書房)

わが偏愛するエリオット・グールドの七〇年代

 

 今年、早々に刊行された『70年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)には、私も「アルトマンとペキンパーの70年代」というコラムを書いているのだが、主編である渡部幻さんの熱っぽい力のこもった作品解説を読んでいるうちに、私にとって、一九七〇年代を象徴する俳優は誰だっただろうか、と思いをはせることになってしまった。

 

それはニューシネマを代表する、傷つきやすい繊細さを体現したアル・パチーノでも、ピーター・フォンダでもない。あるいはウォーレン・オーツでも、デニス・ホッパーでもないし、ジャック・ニコルソンでも、ロバート・デ・ニーロでもない。

やはり、エリオット・グールドだ。

 

 私がエリオット・グールドを初めてスクリーンで見たのは、ロバート・アルトマンの『М★A★S★H』(70)だが、当時、高校生だった私を魅了したのは、むしろ、同時期に見たリチャード・ラッシュの『…YOU…』(70)のほうである。

『…YOU…』は、当時、センセーショナルに喧伝された『いちご白書』(70)と同系列の<学園紛争もの>で、エリオット・グールドは、ハリーというややトウがたった英米文学を専攻する学生を演じていた。ヒゲもじゃでむさ苦しい、大きなガタイを持て余しているような風情が、強く印象に残った。

 ハリーは、かつて学園闘争のリーダーとして活躍したが、絶望して大学を飛び出し、六年のブランクの後に復学し、高校の教師になろうとしている。恋人のジャン(キャンディス・バーゲン)は、闘争に積極的に参加し、懐疑的なハリーとのあいだにはひびがはいってくる。そして、学園に警官隊が導入されて衝突が起こっているさなか、修士試験の面接の場で、試験官たちの意地の悪い時代遅れな質問に憤激したハリーは、テーブルの上に立ち上がって、彼らを面罵し、学生のデモの中に飛び込み、傷ついたジャンと抱き合う――。

 

『…YOU…』については、当時、珍しいことに朝日新聞の文化欄で評論家の松田道雄が絶賛している。手許にあるスクラップを読むと、「『…YOU…』はアメリカの映画芸術の生存証明書といえる。そこには今日がある」と述べ、オレゴン州のレーン大学がキャンパスを開放し、映画の製作に協力したことを讃え、日本映画が大学の問題に正面から取り組まない現状を憂いている。結語では「今日という日がないかのように映画会社もテレビ局も大学紛争をタブーにしている。だが、芸術はタブーをもったら衰退する」とまで書いている。

 

残念ながら、『…YOU…』は、DVD化もされず、今やすっかり忘れ去られてしまったが、<学園紛争もの>としては時流に便乗した『いちご白書』よりもはるかにすぐれていると思う。なぜなら、エリオット・グールドがドライ・フール(道化)として傑出した存在感を示しているから。とくにクライマックスの面接シーンで、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』のニックとギャッツビーとの隠れた同性愛とか『夜はやさし』の近親相姦をめぐってねちねちと尋問する教授とグールドの丁々発止のやりとりが爆笑もので、当時、アメリカ小説に興味を抱き始めた私にはこの上なく刺戟的だった。

 

当時、さっそく角川文庫から出ていたケン・コルブの原作『傷だらけの青春』(小菅正夫訳)を読んでみたが、『ライ麦畑でつかまえて』の系譜に連なる青春小説してもなかなか面白かった。これは、余談になってしまうが、一九七〇年前後に角川文庫から刊行されていた映画の原作本のラインナップはほんとうにすばらしい。

たとえば、ナサニエル・ウェストの『いなごの日』、スー・カウフマンの『わが愛は消え去りて』、トーマス・ロジャースの『幸せを求めて』、リチャード・マイルスの『雨に濡れた舗道』、トマス・マッゲインの『スポーツ・クラブ』、エヴァン・ハンターの『去年の夏』、ロマン・ギャリの『白い犬』、ジェイムズ・ミルズの『哀しみの街角』、レナード・ガードナーの『ふとった町』etc…。当時、私は、これらの原作本をむさぼるように読んだが、今や、ほとんど古本屋でも入手困難である。

 

私にとっては、一九七四年とは、エリオット・グールド主演の『ロング・グッドバイ』(73)と『破壊!』(73)というふたつの傑作が封切られた年として記憶されている。たしか、当時、「キネマ旬報」のベストテン選考委員だった五木寛之が、決算号で一位に『破壊!』、十位に『ロング・グッドバイ』を挙げ、「エリオット・グールドは『破壊!』が最高で、『ロング・グッドバイ』よりも断然よい」とコメントしていたはずだ。    

 

私は五木寛之の感想には必ずしも同意しないけれど、この二本をベストテンに入れた慧眼には今でも敬意を表している。

ピーター・ハイアムズの『破壊!』は、街角をさっそうと歩く美女(『セルピコ』のコーネリア・シャープだ!)がビルの一室にある歯科医を訪ねると、診療椅子で、いきなり服を脱ぎ始め、股をひろげるオープニングにしびれる。エリオット・グールドは風紀係の刑事で、コンビを組むロバート・ブレイクとのかけあい漫才のようなへらず口の応酬が実におかしい。彼らは、街の麻薬・売春ビジネスを牛耳るボス(アレン・ガーフィールド)に一矢報いようとするも、警察内部は腐敗しきっており、すべては徒労に帰する。

 

『破壊!』では、芯にある生真面目さと自嘲を交えたアイロニカルな笑いというエリオット・グールドの両義的な魅力がアクション映画のフォームを介して見事に生かされていた。

 

そして、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』で、グールドはトレードマークのヒゲをばっさりと切り、紺のスーツにネクタイで身をかため、かつてのハンフリー・ボガートとは対極にある、ヒロイズムとは無縁の匿名性を体現するフィリップ・マーロウ像をつくりあげた。

 

ロサンゼルスという街を白昼夢のように彷徨するヴィルモス・ジグモンドの魔術的なキャメラも忘れがたいが、一九五〇年代に『アスファルト・ジャングル』ほかのケイパームーヴィーの名作で犯罪者を演じたスターリング・ヘイドンが作家ロジャー・ウェイドに扮している点こそ興味深い。私は、海岸に面した邸宅でロジャーとマーロウがとりとめのない会話をするシーンを見るたびに、名状しがたい感銘を覚える。ここでは、虚勢と恥らいと怯え、そして書けない絶望を抱えた巨漢の作家の繊細な神経がむき出しにされているのかのようだ。その過酷な現実をなすすべもなく、見つめるほかない無力さを噛みしめるフィリップ・マーロウ。エリオット・グールドは、<タフで、優しくあること>の美徳が、カリカチュアとしてしか機能しなくなった一九七〇年代という時代を誠実に生きた俳優だった。私は、あの頃、スクリーン上のエリオット・グールドの一見、飄々とした屈折した身振りを見つめることで、やっかいな自意識を手なずけ、ささやかな解放感を味わっていたのだと思う。

 

最近、『ルビー・スパークス』(12)で、ひさびさに老境を迎えたエリオット・グールドに再会し、その健在ぶりが嬉しかった。

 

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『…YOU…』の原作『傷だらけの青春』(ケン・コルブ著・小菅正夫訳、角川文庫)

寺山修司とネルソン・オルグレン

 

 今年は寺山修司の没後三十周年に当たる。私が、寺山さんに初めて面識を得たのは亡くなる三か月ほど前のことだった。ちょうど、その頃、谷川俊太郎さんとの映像による往復書簡『ビデオレター』が完成したので、『月刊イメージフォーラム』で、この作品をめぐって二人に対談してもらったのだ。挨拶をすると、寺山さんはあの鋭い、しかし人懐こそうな眼で、一瞬、私を見すえた。

当時、寺山さんはすでに重度の肝硬変のために椅子に坐ることさえ大儀そうな感じで、編集部のソファに横になったままの状態で、谷川さんと対話しているのがなんとも痛々しかった。

 

この対談で、ひときわ印象深かったことがある。谷川俊太郎さんの発言は明晰そのもので、まとめたテープお越しの原稿にもまったくといってよいほど直しは入らなかった。そして、その原稿を渋谷の天井桟敷に届けたのだが、後日、戻ってきた原稿を一読して、あっと驚いた。寺山さんの発言部分がまったく原型をとどめないほどに書き直されていたからである。しかも、その場での発言とは似て非なる、まったく関係のない言葉のみが加筆されているのにもかかわらず、対談そのものは、谷川さんの発言にきちんと対応して成立しているのだ。

 

私は、この時、遅ればせながら、完璧なまでに、<虚構の人><言葉の人>としての寺山修司を目の当たりにしたという気がする。

寺山さんは、自ら<職業は寺山修司>と名乗ったほど、詩人、劇作家、脚本家、小説家、評論家、演出家、映画監督とあらゆる領域での八面六臂の活動で知られたが、たとえば、映画作家としては、生涯、フェリーニの視覚的なスタイルを引きづり、その影響下から抜け出せなかったのではないかと思う。その中でも、私は、初期の劇作『大人狩り』に想を得たと思しき『トマトケチャップ大帝』が、もっとも寺山さんの<アンファンテリブル>な資質が出ていて好きだ。

 

俳句、短歌においては、まぎれもなき天才であった寺山修司は<引用>の達人でもあった。<書を捨てよ、街へ出よう>という高名なるアジテーションにもかかわらず、私にとっては、魅惑的な書物の世界へと誘う最良のチチェローネ(案内人)のひとりであった。

 

たとえば、寺山修司のエッセイによって、私はネルソン・オルグレンという作家を知った。シカゴのスラム街を舞台に、ギャンブラーやボクサー、不具者、貧しい移民たちを好んで描いたネルソン・オルグレンは、寡作にもかかわらず、なぜか作品が二本も映画化されている。オットー・プレミンジャーの『黄金の腕』、そしてエドワード・ドミトリクの『荒野を歩け』である。

『黄金の腕』と『荒野を歩け』は、いずれもソウル・バスの傑作なタイトル・デザインと音楽をエルマー・バーンスタインが担当していることで映画ファンに記憶されている。

 

『黄金の腕』は、主人公のポーカーの名手フランキー・マシーンをフランク・シナトラが演じて、本格的なハリウッドへのカムバックを果たした作品として知られている。当初、シナリオにも参加したオルグレンは、原作では麻薬中毒の果てに自殺するフランキーが、恋人のキム・ノヴァクと共に更生の道を歩むというハッピーエンドに改変させられたことに激怒し、降板したと言われる。

私は、むしろ車椅子に乗った妻を演じたエリナー・パーカーが強く印象に残っている。たしか、虫明亜呂無も、あるエッセイで、彼女の生涯最高の演技だと絶賛していたのを読んだ記憶がある。

 

『荒野を歩け』は、昔、テレビで見たきりだが、ローレンス・ハーヴェイ、ジェーン・フォンダ、アン・バクスター、キャプシーヌ、バーバラ・スタンウィックという超豪華なキャスティングにもかかわらず、猫が歩いている秀逸なタイトルだけを覚えている。

 

ちょうど、その頃、一九七〇年代後半に、ハヤカワ文庫から『黄金の腕』の完訳と、晶文社から『荒野を歩め』(三谷貞一郎訳)が続けて刊行されたのですぐに読んだ。とりわけ、『荒野を歩め』は、不具者がぞろぞろ出てくるし、散文詩のような独特の文体のせいもあって、むしろ、ルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』を思い起こさせた。<スラム街の詩>という形容がもっともふさわしい作品に思えた。

 

寺山修司が絶賛していた『朝はもう来ない』は、長谷川四郎の名作『遠近法』を出していた書肆パトリアという小さな出版社から発行されていたが、なかなか見つからず、神田の古本屋でようやく安価で発見した時はうれしかった。『朝はもう来ない』は、一九八七年には河出書房新社から同じ宮本陽吉の翻訳で完訳が出たが、私は、カバーのデザインも含めて、この書肆パトリア版を気に入っている。

シカゴの貧民街を舞台に、ブルーノ・バイセックという不良少年がヘビー級チャンピオンを夢見るが、仲間たちの横やりで挫折する、という物語は、いかにも寺山修司好みで、寺山さんの処女小説『ああ荒野』、そして東映で撮った清水健太郎主演の『ボクサー』の原典は、まちがいなく『朝はもう来ない』だろう。

 

『朝はもう来ない』と『黄金の腕』を最初に称賛したのは、ジャン=ポール・サルトルで、そのパートナーであったシモーヌ・ド・ボーヴォワールとネルソン・オルグレンが長い間、愛人関係にあったことはよく知られている。

 

 ボーヴォワールの『アメリカその日その日』(人文書院・二宮フサ訳)を読むと、初めてのアメリカ旅行に同行したネルソン・オルグレンが印象的に描かれている。

 たとえば、ニューヨークを一緒に散歩している時に、オルグレンが発した「シカゴにはユダヤ人街はない」という言葉に触発され、アメリカの反ユダヤ主義の跋扈に思いをはせる。あるいは、「シカゴ人の眼でニューヨークを発見する彼を見ていると面白い」といったオルグレンへの親密な感情を吐露した記述にたびたび出会うのである。

 

 私が一番好きなネルソン・オルグレンの作品は『スティックマンの笑い』という短篇だ。ギャンブル狂の男が給料日に家に帰ると、女房は不在で、がっかりした男はふらふらと外へ出る。ダイスの勝負に賭け、有り金を全部すってしまい、泥酔して帰宅すると、妻がいて――。というお話だが、ラストの一行がいい。

 

 この短篇は、むかし、白水社から出ていた『現代アメリカ短篇選集?』に収められていたが、最近、『20世紀アメリカ短篇選上』(岩波文庫・大津栄一郎編訳)にふたたび収録された。やはり、名篇なのだろう。

 

 寺山修司によって見出され、映画にも縁が深かった作家ネルソン・オルグレンを決してわすれてはならない。

織田作之助と川島雄三

 いささか旧聞に属するが、作家の小沢信男さんから届いた年賀状に「今年は富士正晴と青山光二と織田作と、地味な連中の生誕百年とのこと。織田作は地味かな?」とあった。

 ああ、織田作ももう生誕百年なのか、とふと思う。織田作之助は、私には珍しく全集を揃えたこともある作家で、以前から、私なりの視点で彼のエッセイ集をまとめてみたいと思っていた。


 織田作之助に最初に惹かれたのは、十代の頃で、当時、愛読していた野坂昭如が耽溺していた作家として名前をあげていたこと、そして、『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の一生』(ノーベル書房)を読んだせいである。

 今村昌平が編纂したこの遺稿集は、川島雄三という映画作家の神話化に多大な貢献をしただけでなく、川島に関する第一級資料としての価値は今もなお絶大である。私は、この本で、川島雄三が戦時下、織田作之助と意気投合して、<日本軽佻派>を名乗り、ふたりで暗い世相を笑い飛ばす実にバカバカしい手紙をやりとりしていたことを知って興味を覚えたのだ。


 たとえば、その往復書簡の中で川島雄三はゲオルク・ジンメルの『日々の断想』からの次のような一節を引用している。


「ある深さを持つ人間にとって人生に堪えるには一般に一つの可能性しか存しない。即ちある程度の浅薄ということである」

「大多数の人々にとっては軽佻か退屈か何れか一方に陥ることなくして他方を避けることは全く不可能である」


 そして、この一節に、大いに我が意を得たりと思った織田作之助は、晩年の長篇小説『夜の構図』や未完の『土曜夫人』の中でさりげなく再引用しているのだ。


 戦時下における、ささやかな抵抗にすぎなかったであろうが、彼らの深刻・荘重さを嘲笑し、大上段にふりかぶるのを良しとしない姿勢は、たとえば、後年の吉行淳之介の<軽薄派の発想>などに連なっているように思う。

  

 織田作之助は出世作である『夫婦善哉』ばかりが取り沙汰されるが、(ジュリアン・)ソレリアンの面目躍如たる、日本版『赤と黒』ともいうべき痛快な『青春の逆説』、阿部定伝説に新たな光をあてた『世相』、夭折した愛妻一枝へのレクイエムでもある哀切な『競馬』などの名品を忘れるわけにはいかない。前述の『夜の構図』『土曜夫人』も凝りに凝った実験性にあふれるモダンな官能小説として出色の面白さである。 


 織田作は、断じて、旧来の太宰治、坂口安吾らとともに<戦後焼け跡の無頼派>などというクリシェで一括りにされ、事足りてしまうような作家ではないのだ。


 織田作之助は『モダン・ランプ』をはじめ劇作でもすぐれた才能を発揮したが、川島雄三が監督デビューするにあたって、織田作の『清楚』を原作に選び、さらに脚本も彼に依頼したのは、たんなる友情というレベルを超えて、彼の清新な感覚に期待したからにほかなるまい。

 こうして出来上がった『還って来た男』(44)は、戦時下につくられたとは思えない、みずみずしい佳作に仕上がった。

 戦地から帰還した軍医・佐野周二が父親(笠智衆)に見合いを勧められる。一週間後に見合いを控える彼は、慰問袋を送ってくれた女性、戦死した友人の妹、さらに奈良で出会った女性(田中絹代)たちとのちぐはぐな交流を重ねていく。

 友人の雨男、日守新一が登場するたびに雨が降り出すくだりなどはルネ・クレールのタッチを彷彿とさせる。さらに佐野周二と笠智衆が温泉の湯船に浸かっている光景などは、同工の小津安二郎の『父ありき』の滋味あふれるトーンとはまったく異なるくつろいだユーモアが感じられる。


 この処女作を見ると、後年、破調と諧謔で知られた鬼才川島雄三監督が、いかにオーソドックスな演出テクニックを自家薬籠中のものにしていたかがわかるのである。


 早逝した織田作之助を悼むかのように、没後、ふたたび川島雄三は、やはり彼の原作をもとに『わが町』(56)を映画化している。<ベンゲットのたぁやん>と呼ばれた佐渡島他吉(辰巳柳太郎)という人力車引きの一代記で、一九七〇年代の文芸坐オールナイトで一度、見たきりだが、辰巳柳太郎の名演が忘れられない。とくに子供の運動会に飛び入り参加して、力走するシーンは、『無法松の一生』の阪東妻三郎を想起させるほどのすばらしさだった。


 川島雄三のフィルモグラフィーを眺めると、『銀座二十四帖』(55)『夜の流れ』(60)、『花影』(61)など東京の夜の風俗を描く作品とは対照的に、『還って来た男』『暖簾』(58)『わが町』『貸間あり』(59)などの<大阪もの>の系譜が目を惹く。これは、たぶん織田作之助との交遊が大きく影を落としているに違いない。


『暖簾』で大阪弁の直しを手伝った藤本義一が『貸間あり』で川島雄三とコンビで脚本を書き、以後、深い師弟関係を結んだことは、川島の没後七年目に書かれた川島のモデル小説『生きいそぎの記』を読めばわかる。『生きいそぎの記』は直木賞候補になったが、受賞しなかったのが不思議に思えるほどの見事な完成度を示している。

 実は、その頃、長部日出雄さんが川島雄三の評伝を準備していると「話の特集」のコラムで書いていたのを読んだ記憶があり、後年、直接、うかがったところ、『生きいそぎの記』を読んで、ショックをうけ、書くのをあきらめたとおっしゃっていた。


『生きいそぎの記』の刊行をきっかけに「キネマ旬報」一九七五年一月下旬号で、「川島雄三という映画監督は我々にとって何であったのか?」という藤本義一と長部日出雄の対談が組まれ、最初の<川島ブーム>が到来したことが、つい、昨日のことのように思い出される。


 藤本義一のデビュー当時に書かれた長篇『ちんぴら・れもん』は、「あれが、オダサクや」という焼け跡を闊歩する作家を目撃した少年が発する印象的なモノローグが冒頭に置かれていた。大阪出身で東京文壇への対抗意識が異様に強かった若き日の藤本義一を、川島雄三はあたかも織田作之助の生まれ変わりのごとく思ったのではないかという気がする。


 後年、藤本義一は川島雄三への返歌ともいうべきライフワーク『わが織田作』(『瑩の宿』『瑩の宴』『瑩の街』『瑩の死』四部作)という大部な評伝(中央公論社)をものしている。 


 藤本義一に関しては、苦い思い出がある。三十年ほど前、『月刊イメージフォーラム』の編集を始めたばかりの頃、「日本の喜劇映画」という特集を組んだ際に、藤本義一に川島雄三についてのエッセイを依頼したのだ。

 当時、藤本は、「イレブンPM」にレギュラー出演し、最も多忙な頃で、なかなか摑まらなかった。ようやく関西の自宅に電話がつながり、あれこれ説得したものの、話が噛み合わず、最後は、あまりの原稿料の安さに呆れられ、断られてしまった。そして、電話を切る際に、「キミ、さっきから川島雄三、川島雄三って、ずっと呼び捨てにしてるけど、川島さんは私の師匠だ、失礼だぞ」と叱責された。


 私としては、川島雄三という映画監督に深く魅せられ、当時、上映可能な川島作品はすべてスクリーンで見ているという自負と愛着があったがゆえに、無意識のうちに呼び捨てにしてしまったのだが、藤本義一の指摘は、きわめて真っ当で、返す言葉もなかった。


 その藤本義一も昨年亡くなり、続いて小沢昭一と川島雄三にゆかりのある映画人たちが相次いで鬼籍に入られていく。


 私は、近年、何冊もの太宰治の評伝を上梓している長部日出雄さんが、なぜ、川島雄三の評伝を書かないのか、とても残念に思っている。青森の下北半島に生まれた川島雄三は、明らかに長部さんも自ら属する太宰治、寺山修司という<東北のモダニズム>を体現する特異な系譜に位置する人物であるはずだからである。

 そういえば、今年は、川島雄三の没後五十年にあたる。

 

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今村昌平編『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の一生』(ノーベル書房)

「ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」――大島渚追悼


 一月二十一日、大島渚監督の通夜に行く。築地本願寺での映画監督の葬儀に出席したのは、二〇〇一年の相米慎二監督以来のことである。車椅子の鈴木清順、篠田正浩、山本富士子、山田洋次、北野武などの顔が見えて、さながら戦後の日本映画史を支えた映画人が一堂に会したような感があった。

焼香の後で、小山明子さんに、「一昨年、大島さんの『わが封殺せしリリシズム』をつくれたことを嬉しく思います」とお声をかけると、小山さんが隣に立っている息子の武、新さんに、「パパの最後の本をつくった方よ」と話されたので、恐縮してしまった。

 

その訃報以来、大島渚という映画監督の偉業については、ざまざまな人がさまざまな視点で語っているが、ここでは、あくまで私が自分の眼で見た大島さんの印象、思い出を書いてみたい。

 

最初に大島渚監督の姿を見たのは、たしか、一九七〇年代の半ばごろ、当時、先鋭的だった自主上映組織「カトル・ド・シネマ」の最後の上映会が四谷公会堂で行われた時で、『儀式』の上映の後、大島さんをゲストに主催者側とのティーチ・インが開かれた。当時は『白昼の通り魔』や『絞死刑』『日本春歌考』などの大島作品が名画座にかかることは稀で、ホールでの自主上映で見るほかなかったのだ。最初に主催者代表が、『儀式』を批判しつつ、なぜ最終上映に大島作品を選んだのかを説明したが、続く、大島さんの激烈な反批判に、彼らはまったくグーの音も出なかったという記憶がある。 

 

この時に、激烈でポレミークな論客としての大島渚というイメージが、強く印象づけられたのだった。

 

次に、大島さんとじかに会ったのは、『月刊イメージフォーラム』に入った直後の一九八二年である。大島さんは『戦場のメリー・クリスマス』のクランク・インを控えており、ロケ地であるラロトンガ島に出発する直前に、編集部でロング・インタビューを行ったのだ。聞き手はダゲレオ出版代表の富山加津江さんと編集長の服部滋さんで、私は隅の方でただ黙って聞き入っているだけであった。

この時は、さながら大島さんの独演会という様相を呈し、にこやかに、『戦場のメリー・クリスマス』が実現するまでの経緯を、ほぼ三時間、まったく淀みなく語っていた。このロング・インタビューは、『戦メリ』の公開時に出た増刊号『それでもまだ君は大島渚が好きか!?』に収録されたが、大島さん自身は、ゲラに目を通す機会はなかったはずである。

私は、テープ起こしをしながら、その発言が一言一句、まったく訂正する必要のない完璧な原稿として完成されていることに、ただ、驚嘆するばかりだった。こういう稀有な人物は、私が知る限り、詩人の谷川俊太郎さんだけである。

 

このインタビューの際に、強く印象に残ったことがある。富山加津江さんが、大島さんの発言に反応して、ふっと笑ったのだが、大島さんが、突然、激昂し「笑うな!」と大声で叫んだのである。その場が、一瞬、凍りついたようになり、次の瞬間、大島さんは、なにごともなかったように、また、にこやかに笑いながら、話し始めたのだが、あの一瞬の憤怒に満ちたような一喝は、いったいなんだったのだろうと思う。

それは、明らかに、『朝まで生テレビ』での視聴者を意識した上でのパフォーマティブな「バカヤロー!」発言とは次元が違う異様な迫力に満ちていた。

 

しばらくして、私は、ふと、『同時代作家の発見』(三一書房)に収められた「『仁義なき戦い=深作欣二』という卓抜な大島さんのエッセイを思い出した。

 

大島さんは、昔、アテネ・フランセ文化センターの全作品連続上映で、ある学生から、「ヤクザ映画を一回撮ってみたらどうですか?」と質問された際、「その時私の体をつんざいた理不尽な怒りの記憶は、今も私のなかになまなましい」と書いている。そして、「それはどういう意味ですか?」と語気荒く言い返し、激情に駆られて、その学生と言い合いになってしまい、最後には、「私はヤクザ映画を撮らないのではなく、撮れないのだ!」と強弁したままにもの別れとなった気まずい顚末を振り返っている。

 

当時、ATGとの提携による一千万映画の映画つくりに疲れ果て、なんらかの方向転換を模索していた大島さんにとって、その学生の質問は最大級の好意的な申し出であるかもしれないと、一応、理解を示しながら、しかし、と大島さんは次のように書く。

「あの時、私にはその好意がわかっていたのだ。しかしそれは好意であるだけに私の窮境へグサリと突き刺さるものだった。痛さに私は飛びあがったのだ。そして、跳ねた。ありとあらゆる論理の鎧で身を守ろうとした。それはボロボロの新聞紙の鎧であったけれども。」

 

私は、一昨年、大島渚とは、一般に知られたラディカルな戦後日本映画の変革者としての貌とは別に、過敏なまでのセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持った芸術家であるという視点からエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)を編纂した。しかし、さらに裏を返せば、大島さんは、その自ら封印した柔らかでリリックな部分に触れられそうになると、制御しがたい理不尽な怒りが込み上げてくるという実にやっかいな映画作家でもあったのだと思う。

 

その後、大島さんには、一九九〇年ごろ、私が編集長をやっていたビデオ業界誌『A?ストア』の創刊号でもインタビューをしているが、その時には、ビデオ・レンタル全盛時代の映画作家の悲惨と不幸をユーモアたっぷりに語ってくれた。さらに、デビュー当時に熱烈に擁護した花田清輝や斎藤龍鳳のことを懐かしげに回想していたことなども思い出される。

 

小山明子さんは、テレビで、最後に大島さんが大好きだったお酒を唇にしめらせて飲ませたエピソードを語っていたが、私も一度だけ、大島さんと酒席をともにしたことがある。

 

あれは、やはり、一九九〇年の真夏の暑い時期だったと思う。新橋にあるTCC試写室でヨリス・イヴェンスの『風の物語』の試写があり、見終わって出口のところで映画評論家の松田政男さんに声をかけられた。そして、そのうしろには大島監督がいて、なぜか、三人で新橋のガード下の汚い居酒屋に流れたのだ。大島さんは洒落た絣の和服を着ていたと思うが、当時、大島さんはテレビのワイドショーに出まくっていた時期だから、周りの昼間から酒を飲んでいる労働者風の男たちがびっくりしていたのをよく憶えている。

冷奴をたのみ、生ビールを何杯も飲み干しながら、見たばかりのヨリス・イヴェンスの新作をこき下ろす大島さんがなんとも痛快であった。ちなみに、この時は、大島さんに奢っていただいた。

 

大島さんは、その生涯に膨大なインタビュー、発言を残しているが、今、私がもっとも強く印象に残っているのは、かつて読売新聞の林玉樹が、「同じ松竹大船育ちで、自己完結的な世界をつくる山田洋次に対して、大島さんは自分に不便なもの、夾雑物と格闘するタイプである」と指摘したのを受けた、次の言葉である。

「ひと口でいうと、ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」

 

 大島映画が甘美な自己陶酔とはほど遠い、独特の居心地の悪さ、挑発性を秘めているのは、見る者が、この大島さんの<悶え>に共振するせいなのだと思う。

 


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大島渚著『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)

映画狂のミステリ作家、小泉喜美子の思い出

 

 ハリウッドを舞台にした傑作小説を三冊選ぶとすれば、ナサニエル・ウエストの『いなごの日』(角川文庫)、スコット・フィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』(角川文庫)、それにバッド・シュールバーグの『何がサミイを走らせるのか?』(新書館)を挙げることに異論はないだろう。

 

 最近、必要があって、『何がサミイを走らせるのか?』を再読し、その訳者あとがきの小泉喜美子さんのマニアックな解説にほとほと感心させられた。小泉喜美子さんは都会的な洒落たミステリ作家として知られていたが、私は、むしろアーウィン・ショーをはじめとする英米の現代小説、ミステリの優れた翻訳家として親しんでいた。なかでも、かつて植草甚一が「こんなにも謙虚な推理作家はいままでいなかった」と絶賛したP・D・ジェイムズの出世作『女には向かない職業』(早川ポケミス)は名訳で、私のお気に入りの一作だった。

 

 その『女には向かない職業』がかつて映画化され、日本で上映されたことがある。といっても一般封切りではなく、一九八二年、まだ焼失する前の京橋フィルムセンターの「現代イギリス映画の展望」という特集での一度だけの上映だった。

 当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、このきわめて珍しい作品を、ぜひ翻訳者である小泉喜美子さんに見てもらい、批評を書いてもらおうと考えた。

 

  たしか、フィルムセンターで待ち合わせた際には、やはりミステリ通の映画評論家である渡辺祥子さんも一緒だったと思う。見終わった後で、三人で歓談した記憶がある。

残念ながら、映画の出来はイマイチだった。とくに小泉さんは、ヒロインのコーデリア・グレイの魅力がまったく描けていないことが不満だったようで、作品評でも次のような鋭い指摘をしている。

「原作にはない子供の登場などもその一例だが、最たるものはコーデリアが妙な個人感情に負けてこの事件担当をオリたいと依頼主に申し出、そのあと、彼とベッドをともにするという挿話をつけ加えたのは珍。およそこんなことをする女性ではないというふうに描かれているところが原作の一番の特色なのに!……中略……彼女がプロの(卵の)私立探偵としてあくまで冷静非情に事件に対処する立場でいながらなおかつ、女として、人間としての感情を投影せざるをえないところが映画では表現されていない。P・D・ジェイムズの描いたコーデリアの内面は単なる父性や異性への思慕ではなく、もっと大きな人間性に根差した悲痛な怒りとでもいうようなものである。」

 

 小泉さんから原稿を受け取る際には、赤坂の自宅マンション近くのホテルのラウンジを指定された。午後もまだ早い時間だったが、ビール、そしてウィスキーを注文し、すでに赤ら顔でちょっと酔っている感じであった。ちょうど、内藤陳さんと一緒に住んでいた時期だったと思うが、酔うにしたがい、レイモンド・チャンドラーが生んだ私立探偵フィリップ・マーロウを自分の恋人のように連呼する半面、当時、ベストセラーが次々に映画化されていたある日本のミステリ作家を「ホテルマンあがりのつまんない奴!」と罵倒する始末で、こちらは、ただひたすら黙って拝聴するだけだった。

 

今でも思い出すのは、私が、当時、忘れられていた伝説の映画監督プレストン・スタージェスのことを話題にすると、眼を輝かせて、「小林信彦さんがよく書いているけど、戦後のあの頃は、小林さんだけじゃなくて、東京のオマセな高校生はみんなプレストン・スタージェスの『結婚五年目』と『殺人幻想曲』に夢中になったものよ!友だちの河野基比呂がとくにすごく詳しいわよ、原稿を頼んでみたら?」と教えてくれたことである。あの頃、河野基比古はテレビ東京「木曜洋画劇場」の解説を務めていたが、映画音楽に強い映画評論家という印象だった。思えば、河野基比古は、小泉さんの前夫、生島治郎と早稲田の同級生でもあった。

 

その後、小泉さんとお会いする機会はなかったが、時おり、編集部に電話がかかってきたり、出たばかりのエッセイ集『やさしく殺して』(鎌倉書房)を送ってくれたりした。その頃、生島治郎がベストセラー『片翼だけの天使』のモデルとなった女性と再婚したことがニュースになり、小泉さんが、その配偶者を非難するような手記を女性誌に発表したため、生島治郎から絶交されたという話を伝え聞いた。当時、粋とソフィスティケーションを信条とする小泉さんらしからぬ振る舞いだなと思ったのを憶えている。

 

小泉喜美子さんは、ずっと生島治郎の影を引き摺っていた気がする。その後、内藤陳さんとも別れ、一九八五年、新宿のゴールデン街の酒場の階段から酔って転落し、脳挫傷を負って、意識が戻らぬまま急逝してしまった。享年五十一。

当時から、築地生まれのチャキチャキの江戸っ子で、銀座をこよなく愛した小泉さんが何故、もっとも似つかわしくないゴールデン街で亡くなってしまったのかといぶかしく思う人は多かった。

 

小泉喜美子という作家については、ふたつの優れたポルトレが残されている。

ひとつは戸板康二の『あの人この人――昭和人物誌』(文春文庫)に入っている「小泉喜美子の博識」で、生前、小泉さんを娘のように可愛がっていた戸板康二の深い愛情が伝わってくる滋味深いエッセイである。

 

もうひとつは、関川夏央のエッセイ集『水のように笑う』(双葉社)に収められた「あるミステリー作家の思い出」という印象深いスケッチである(関川は、今のような居丈高な文芸評論家ではなく、初期の屈託した自虐的なコラムを書いていた頃が一番良い)。関川は、次のように書いている。

「彼女は東京人のわがまま、孤独、粋好み、華やかさへの傾斜、すべてを持っていた。男たちを愛したが、日常生活をともにいとなむのは不得手そうに見えた。マーロウに憧れ、いつもコートの広い背中に頬を押しあてていたいという感じがあった。しかし、酒の入った霧の夜にしかそのようなかりそめの充足はあり得ないのだ、ということも彼女は知っていたと思う。いつもどこかにかすかな不幸がちらついて見えるひとだった。酒と酒のもたらす数瞬の高揚に殉じたという気がした。」

 

小泉喜美子さんの没後、『ミステリ歳時記』(晶文社)、『ブルネットに銀の簪』(早川書房)と続けてエッセイ集が刊行されたが、私が書いてもらった『女には向かない職業』の映画評は、たぶん、どちらにも収められていなかったと思う。

 

小泉さんが亡くなって十年後に、私はプレノン・アッシュのプレストン・スタージェス映画祭の企画に関わることになったが、その際にも、ふと、彼女がもし生きていたら、『サリヴァンの旅』や『レディ・イヴ』についてどんな感想をもっただろうか思わずにはいられなかったのである。

 

あくまで私的な小沢昭一・考

 十二月十日、小沢昭一さんが亡くなった。享年八十三。十年ほど前に前立腺がんが見つかり、治療を続けていたことは知っていたが、それでも今、何とも形容しがたい喪失感に襲われている。

  それは、多分、私が初めて名前を覚えた喜劇人が小沢昭一さんであったせいかもしれない。

 

  一九六一年、私が小学校に入ったばかりの頃に、NHKの日曜夜八時から『若い季節』が始まった。淡路恵子が社長の「プランタン化粧品」を舞台に繰り広げられる洒落たコメディで、毎週楽しみに見ていた。この会社の社員にはハナ肇とクレイジー・キャッツ、ダニー飯田とパラダイス・キング、黒柳徹子、いつも白いタートルネックのセーターを着ている古今亭志ん朝などがいて、皆が行きつけの小料理屋の板前が渥美清だった。

今、考えでも信じがたいような豪華なメンバーである。そして小沢昭一さんは、たしかケチクマという渾名で、ケチでいつもぶつぶつ文句ばかり言っている若手社員を演じていた。その偏屈な、アクの強い、嫌われ者みたいな独特のキャラクターが毎回面白くてならず、子供心にも強烈な印象として焼き付いたのだった。

 

思えば、当時は、土曜の夜にNHKの『夢で逢いましょう』を見て、日曜日の夕方には民放の『てなもんや三度笠』と『シャボン玉ホリデー』を続けて見た後、『若い季節』にチャンネルを合わせるという黄金のルーティンが出来上がっていた。私のエンターテインメントに対する<基礎教養>は、この小学生の時に熱中したテレビドラマ、バラエティによって形成されたのは間違いない。

 

次に小沢昭一に出会ったのは、一九六九年に刊行された『私は河原乞食・考』(三一書房、のちに岩波現代文庫)である。ストリップから大道芸、香具師、ホモセクシュアル、落語など後の「日本の放浪芸」研究につながる私的な芸能論ともいうべき小沢さんの最初の著作であった。

この本を読んだきっかけは、その頃、毎週欠かさずに聴いていた永六輔の深夜放送「パック・イン・ミュージック」の影響が大きい。永六輔は、当時、熟読していた雑誌『話の特集』に「芸人その世界」を連載中で、「パック」にも小沢昭一をゲストに呼んで、この本を絶賛していたからだ。

 

たしか、中学校の卒業文集に「差別される芸について」などという身の程知らずの文章を書いたのを憶えているが、大半は、この小沢昭一さんの本の受け売りだったと思う。土台、中学生に理解できる本ではなかったのだが、そんないっぱしの芸の通人気取りのティーンエイジャーに、冷水を浴びせたのが、一九七二年に出た小林信彦さんの『日本の喜劇人』である。

 

当時、まさにむさぼるようにして読んだこの本には「上昇志向と下降志向」という章があり、渥美清と小沢昭一が対照されて論じられているのだが、次のような一節に、高校生だった私は心底驚いたのだ。

 

「ディテールにおいては鋭いものをもちながら、このエッセイ集(『私は河原乞食・考』)が、もう一つ私に迫らないのは、こういうところである。

『……新劇は新劇の伝統をまず作り上げることが急務でありましょう。しかし、それはそれとして、やはり、日本人のわれわれは、日本の伝統芸能に関心が向かざるを得ない。……。』

 この<それはそれとして>というのが、どうしてもわからない。

<新劇>人としての小沢昭一がいる。一方に、伝統芸能に心を寄せる小沢昭一がいる。これをつなぐのが、<それはそれとして>では、マズいのではないか。河原乞食・伝統芸能――それらを意識した小沢昭一が、<新劇>(でなくてもいい。芝居でいい)のなかで、どういう演技を見せるかということによって、私たちは、小沢昭一の、<それはそれとして>といったアイマイなものではない方向を初めて知りうるのである。

 小沢昭一の下降志向――ストリップや見世物やホモへの偏執――が、ある種のスノビズムやノヴェルティ(新奇さ)やモダニズムの裏返し(ブロードウェイ・ミュージカルへの憧れが、一転、大阪の角座の漫才に変る!)でないことは、よく納得できる。だが、小沢昭一には、どんなに下降しようとしても、しぜんに上昇してしまうようなところがある。

 一方、渥美清は、いくら上昇しても、彼の内部の、白骨が散らばっている眺めから、自由になれないところがある。

 昭和四十四年に、小沢が『私は河原乞食・考』を出版し、渥美が『男はつらいよ』で再起したのは、ほとんど、象徴的といってもいい。」

 

『日本の喜劇人』が掛け値なしの名著であるゆえんは、こういう厳しくも鋭い本質的な考察が、さりげなく随所に散見されるところにある。

 

  別段、小林信彦さんの指摘を内心で受け止めたわけではなかろうが、以後の小沢昭一さんの仕事を見渡すと、映画出演がめっきり減り、新劇俳優としては、劇団『芸能座』、『しゃぼん玉座』を主宰するいっぽうで、ライフワークのCD・DVD『日本の放浪芸』シリーズを纏め上げ、『放浪芸雑録』、『ものがたり 芸能と社会』(新潮社)などの大著を次々に物し、近年は、まるで市井の民俗学者のような風格と面影があった。

 

『日本の喜劇人』のほぼ三十年後に書かれた小林信彦さんの傑作評伝『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)の巻末に、小林さんと小沢昭一さんの「渥美清と僕たち」という、まさに見巧者同士による至高の芸談ともいうべき対話が載っているのは、一種、感動的でさえある。

 

  結局、俳優としての小沢昭一の魅力を探ろうとすれば、一九五〇年代後半から六〇年代の初頭につくられた日活のプログラム・ピクチュアになるのではないだろうか。  

  中平康の『牛乳屋フランキー』のライバルの牛乳配達屋、川島雄三の『貸間あり』の万年浪人生、『幕末太陽傳』の貸本屋・金蔵、『しとやかな獣』の金髪のインチキ歌手、主役では西村昭五郎の『競輪上人行状記』の競輪狂いの果てに寺を失ってしまう破戒僧などが、すぐさま思い浮かんでくる。

 

  数年前だったか、ラピュタ阿佐ヶ谷で「春原政久特集」が組まれた際に、小沢さんは主演作の『猫が変じて虎になる』が上映されると知るや、何度も通いつめたという話をきいたことがある。私は、テレビの『若い季節』と並行して撮られていた、この時代の小沢さん主演の喜劇映画をほとんど見ていないので、ぜひ、どこかの名画座でまとめて特集上映してほしいものだ。

 

  そういえば、この頃、小沢昭一さんが「やっときたか!」と欣喜雀躍した企画がある。川島雄三監督が小沢昭一主演で、山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』を映画化するという話である。すでにシナリオも完成しており、傑作『しとやかな獣』と同様に、主人公の社宅の一室からキャメラが一歩も出ないという実験的な作品になるはずであった。

  しかし、周知のように、一九六三年、川島監督の急逝により、『江分利満氏の優雅な生活』は、代わりに岡本喜八監督がメガホンをとって、小沢さんではなく、小林桂樹の主演で映画化された。

 

  今では、『江分利満氏の優雅な生活』は、岡本喜八監督の代表作として、その評価はゆるぎないものになっているが、それでも、私は、時々、川島雄三と小沢昭一のコンビによる幻のヴァージョンも、ぜひ、見て見たかったな、と思う。

 

 

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小沢昭一著『私は河原乞食・考』(岩波現代文庫)

イタリア映画の魅惑 あるいはマルコ・フェレーリ讃

ようやく企画・編集を手がけた吉岡芳子さんの『決定版!Vivaイタリア映画120選』(清流出版)が出来上がった。

佐藤忠男さんの日本映画、中条省平さんのフランス映画に続く国別のムーヴィーガイド・シリーズの第三弾だが、当初から、イタリア映画バージョンをつくるならば、吉岡芳子さんに執筆してもらうことは自明だった。

吉岡芳子さんとは、『月刊イメージフォーラム』の一九八四年十二月号の「現代イタリア映画を<発見>する」特集で、登場していただいて以来のおつきあいである。吉岡さんは、フランス映画社が『一九〇〇年』(76)、『カオス・シチリア物語』(84)などの傑作を立て続けに紹介し、一時、<イタリア映画社>などと呼ばれていた時代から、イタリア映画の字幕スーパーではすでに第一人者であった。以来、フェリーニ、ベルトルッチ、マルコ・ベロッキオ、エルマンノ・オルミといったイタリア映画界の巨匠たちすべての作品の字幕を手がけてきた。

 

吉岡さんは、映画批評家ではないが、長年培ったイタリア映画への真率な情熱では並ぶものがいないし、その信仰告白にも似た愛情あふれる作品解説はどれも読みごたえがある。 

ネオ・レアリズモの端緒とされるルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(42)からベロッキオの『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09)まで、ここに厳選された120本の作品を見れば、間違いなく、ひとかどの<イタリア映画通>になれるはずである。

 

作品選択に関しては、フェリーニほかの巨匠の作品はほぼ網羅されているが、吉岡さん自身の好みも自ずとはっきり出ていて、なかでも特筆すべきは、マルコ・フェレーリの映画が六本も入っていることだ。『最後の晩餐』(73)、『バイ・バイ・モンキー』(77)、『マイ・ワンダフル・ライフ』(79)、『町でいちばんの美女 ありきたりな狂気の物語』(81)、『未来は女のものである』(84)、『I LOVE YOU』(86)と題名を書き写すだけでも、マルコ・フェレーリという特異な映画作家の魅力が伝わってくるようだ。  

 

二〇〇一年から〇二年にかけてフィルムセンターで開催された大規模な特集「イタリア映画回顧展」でも、『猿女』(64)、『男と5つの風船』(68)というマルコ・フェレーリの未公開作品が二本入っていたが、これは恐らく作品選定委員の一人だった吉岡さんの尽力によるものだろう。

『猿女』は、胡散臭い山師ウーゴ・トニャッツィが、救貧院で見つけた体中が体毛で被われた女(アニー・ジラルド)を使って見世物にし、金もうけのショーを始める。ふたりは結婚し、女はやがて妊娠、毛むくじゃらの赤ん坊を生み落として、死んでしまうが、男は彼女の遺体を博物館から盗み出し、ふたたび見世物にするというお話。まるで『フリークス』のトッド・ブラウニングがフェリーニの『道』をリメイクしたら、こうなると妄想したくなるグロテスクな寓話なのだが、広場に集まった大群集の前で、アニー・ジラルドが突然、「ラ・ノビア」を歌い出すシーンに、不思議な感銘を受けたのを憶えている。

 

『男と5つの風船』も、お菓子工場主のマルチェロ・マストロヤンニが、婚約者カトリーヌ・スパークが風船を膨らませるのを見て、興味を覚え、風船に破裂するまでどれぐらい空気をいれられるかというオブセッションに憑りつかれる奇怪な話だ。やがて、乱痴気騒ぎの果てに、マルチェロは自宅のマンションの窓から投身自殺を遂げてしまう。

妊娠したカトリーヌ・スパークが異様に美しかったのが強く記憶に残っているが、フェレーリの映画では、一見、終末的でデカダンな世界を描いていても、澄み切った独特の明るさがあり、奇をてらったような難解さはまったくない。

 

八〇年代のフェレーリのミューズだったオリネラ・ムーティの妊婦姿がひときわ印象的な『未来は女のものである』という題名通り、フェレーリの映画は、すべて<未来は女のものである>というモチーフを飽くことなく語ってやまない。

 

ウーゴ・トニャッツィは、まさに、フェレーリの哲学を体現している奇特な俳優で、初期の『女王蜂』(63)では、豊満な若妻マリナ・ブラディの過剰な性欲に翻弄され、精力を吸い尽くされて、疲労困憊の果てに衰弱して死んでしまう夫を悲哀たっぷりに演じていた。ラスト、彼の葬式で喪服姿のマリナ・ブラディのどこか充ち足りないような不穏な表情のクローズアップがなんと無気味であったことか。

 

『最後の晩餐』では、ウーゴ・トニャッツィは美食家の料理長を演じている。社会的地位のある四人の男たちが、パリ郊外の古い屋敷に集まり、娼婦を呼んで、たらふく食べ、放縦きわまりない酒池肉林の果てに死んでいく壮絶な話であった。

 この映画は、二十歳の頃、公開時に見て、スカトロジーやら何やらが盛り沢山で、とても面白かった記憶があった。だが、中年になってからあらためて見直すと、比較にならない凄絶なまでの感動に襲われてしまった。若い時には深く味到することができない種類の作品というのがあって、『最後の晩餐』は、まさにその筆頭に来る映画ではなかろうか。

 

私が愛聴するアルバム『マルコ・フェレーリの映画/フィリップ・サルド作品集』でも、とりわけ『最後の晩餐』のメランコリックなナンバーは、何度、聴いても決して飽きることがない。この体の芯の奥底にじかに響くような官能的な旋律に比肩するのは、カルロス・ダレッシオのもの憂いピアノ・ソロによる『インディア・ソング』のスコアぐらいではないだろうか。

 

 このアルバムには、もう一曲、スタン・ゲッツのアルト・サックスが自在にブローする抒情的なナンバーが入っていて、ずっと気になっていたのだが、最近、ようやく、その作品を中古ビデオで見つけた。

『ピエラ 愛の遍歴』(83)という映画で、原案はなんとアルベルト・モラヴィアの最後の妻であった『不安の季節』のダーチャ・マライーニである。

幼少時から、男関係に自由奔放な母親エウジェニア(ハンナ・シグラ)に嫉妬と羨望、そして反撥を感じながら成長した娘ピエラ(イザベル・ユペール)の心理的な葛藤をラフなタッチで描いている。ピエラはやがて女優の道を歩む。

マルコ・フェレーリの映画では、浜辺で女たちが佇んでいるイメージが繰り返し現れるが、この作品でも、無人の海辺で、この母娘がお互いの服を脱がし合い、全裸のままに抱き合うというラストシーンが印象的である。

『ピエラ 愛の遍歴』では、冒頭からスタン・ゲッツの「枯葉」が軽快に流れ出し、思わず、陶然となってしまった。スタン・ゲッツは、この大スタンダード・ナンバーを数えきれないほど吹き込んでいるが、この映画で聴ける「枯葉」は彼のベスト・パフォーマンスといってよい。

 

『黄金の七人』に代表されるイタリアン・シネ・ジャズとはまったくコンセプトが異なるオーソドックスな音楽もさることながら、マルコ・フェレーリの映画は、もっともイタリア的な野放図さを感じさせながらも、いっぽうで、既存のイタリア映画のイメージを軽々と越えていくコスモポリタンな魅力が強烈にある。

 マルコ・フェレーリは一九九七年、七十歳で亡くなってしまったが、未公開作品も数多くあり、その全貌はいまだに謎めいているのだ。

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吉岡芳子著『決定版!Viva イタリア映画120選』(清流出版)

大和屋竺という映画作家がいた時代

 前回、急逝した若松孝二監督のことを書いているうちに、若松プロが生んだ天才的な映画作家、大和屋竺(あつし)さんのことを思い出してしまった。

 大和屋竺さんが食道癌で亡くなったのは一九九三年の一月十六日だから、もうそろそろ没後二十年になる。 

 

あれは、七、八年ぐらい前だったろうか、なにかの試写の後で、中原昌也からヘンな外人を紹介されたことがある。「ジム・オルークといって、大和屋竺の熱狂的なファンなんですよ」と言われて、その時は、そんなタランティーノをさらに過激にしたような日本映画オタクがいるのかとちょっと驚いたが、実はロック・バンド「ソニック・ユース」のメンバーでもある高名なミュージシャンで、後に若松孝二に師事し、『実録・連合赤軍 あさま山荘へ道程』の音楽を担当したのは周知の通りだ。

 

ジム・オルークならずとも、大和屋竺が若松プロ時代に撮った『裏切りの季節』(66)、『荒野のダッチワイフ』(67)、『毛の生えた拳銃』(68)の三本のピンク映画を見れば、世界にもまったく類のない特異な映画作家がいたことに驚くだろう。

ときどき、私も、未知なる才能に溢れる映画に出会うと、これは、まるで大和屋竺みたいだ、と呟くことがある。たとえば、エドワード・ヤンの傑作『恐怖分子』を初めて見たときには、真っ先に『裏切りの季節』を思い浮かべたりもした。

 

私が最も偏愛する大和屋作品は、『毛の生えた拳銃』で、麿赤児と大久保鷹のトンチンカンな殺し屋コンビと、彼らの標的たるアンニュイたっぷりな吉沢健が渋谷の街で交差する場面などが、ふいに断片的に記憶に甦ってきたりする。ハープシコードをアクセントに使った中村誠一と森山威男の白熱したプレイが圧倒的に素晴らしく、これは日本映画史上、もっとも過激なフリー・ジャズ・シネマでもある。

 

大和屋さんのエッセイがまた見事なのであった。日本映画史上、これほどの名文を書く映画作家はかつていなかったのではないかと思えるほどだ。

たとえば、大島渚の『白昼の通り魔』や加藤泰の『みな殺しの霊歌』の批評などは、同時代の映画批評家よりもはるかに深い洞察と鋭い知見に満ちていた。マキノ雅弘の『次郎長三国志』シリーズと『性賊(セックスジャック)』の語り口を比較した「大深刻は、大軽薄に裏づけよ」という独創的な若松孝二論にも唸ったおぼえがある。

今でも思い出すのが、一九七七年初頭、当時、高い評価を受けていた日活ロマンポルノが大きな曲がり角を迎えた時期の「キネマ旬報」に載った「鎖国の至福、ロマンポルノ的なるものをめぐって」という論考の次のような一節である。

 

「ロマンポルノという造語の妙は、字義上の矛盾を敢えてくっつけて一緒にしたところにあるようだ。もともとポルノグラフィーという奴は人類の絶望の所産であり、イメージ上の暗黒部分にわだかまっていたものだった。誰がポルノグラフィーを見てロマンティックな気分になぞなれるものか。……中略……おそらく、その破滅の一撃の後にくるロマンポルノ系作家たちの悪戦苦闘は、このポルノグラフィーのもつ、恐るべき凍結性――ぎりぎり裸形の人間存在が、いかに不動のものであるかを知り、動かざること山の如きにそれをいかに動かすかということにかかっているのだろう。」

 

ロマンポルノの内部から発せられた鋭い批判で、当時、読んでいても、大和屋さん自身の呻き声を聴くような思いがしたものだった。実際、シナリオライターとしてロマンポルノ作品を手がけていた大和屋さんは、『愛欲の罠』(73)以後、新作を撮れずにいたし、八〇年代に入っても、インチキプロデューサーに騙されるなど、辛酸をなめてばかりいたのであった。

 

その頃、『月刊イメージフォーラム』の編集者になったばかりの私が、まず、思ったのは、テーマはなんでもよいから、大和屋竺に原稿を書いてもらうことだった。

 

大和屋さんの没後、荒井晴彦、竹内銃一郎、福間健二の編集によって纏められた遺稿集『悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集』(ワイズ出版)の目次を眺めると、一九八〇年代の前半に書かれた文章の大半は、私が依頼したものであることに気づく。

たとえば、「カメラを持った裸の少年」は、伊藤高志の実験映画『SPACY』『BO?』を見て、論じてもらったエッセイだが、大和屋さんはとても興奮し、とくに伊藤高志が、尊敬する松本俊夫さんの九州芸工大の秘蔵っ子であることを知ると、我がことのように喜んでいたのを覚えている。

 

鈴木清順監督の『カポネ大いに泣く』を特集した際には、「ドン・キホーテよ、永遠に 鈴木清順・未映画化シナリオをめぐる断章」を書いてもらった。「これらは清順さんといっしょに脚本を作り夢を見続けたわれわれ、具流八郎とその残党の、青春時代の産物である。」と自ら書いているように、資料としても貴重である。

 

大和屋さんから原稿を受け取った時には、その後、いつも安い居酒屋でビールを一緒に飲んだ。笑顔が素敵な人で、その日本人離れした仙人のような風貌には思わず見入ってしまうようなところがあった。

当時、同誌に「日活アクション無頼帖」を連載していた山崎忠昭さんが書いていたエピソードが思い出される。その頃、山崎さんのホンで、台湾を舞台に、猿の脳ミソを好んで食する美食家たちが、猿の霊に祟られて、狂ってしまい、やがて人間の脳ミソを喰わずにはおれなくなるという恐ろしい因果話を、大和屋さんが撮る、という企画があったのだという。

一緒に飲みながら、そのホンの話題になると、大和屋さんは、うれしそうにディテールの構想を話し始めるので、こちらは頭がクラクラしてしまうのだったが、当然のことながら、このトンデモナイ奇想に満ちたお話は、実現せず、幻の企画となった。

 

その頃、『ツィゴイネルワイゼン』を成功させ、時代の寵児であった荒戸源次郎が主宰するシネマ・プラセットで、大和屋竺監督、小泉今日子主演で『スウィング』という映画が企画され、私は、たしか浦沢義雄が書いたシナリオを読んだ記憶があるのだが、あれはどうして駄目になってしまったのだろうか。

 

<幻の映画>といえば、山崎忠昭さんは、早稲田の「稲門シナリオ研究会」で大和屋さんの先輩にあたるが、山崎さんによれば、大和屋さんがシナ研時代に監督した『一・〇五二』という作品があるらしい。これは「血液をテーマにしたアヴァンギャルド映画で、血液銀行、屠場、デモ、血を売る人々の群れなど、血に関する赤のイメージがめまぐるしく氾濫する圧倒的な迫力篇」であったそうである。脚本は後の具流八郎のメンバーで、『ツィゴイネルワイゼン』を書く田中陽造だった。

話をきくと、ジョルジュ・フランジュの『野獣の血』という傑作ドキュメンタリーを思い起こさせる。そういえば、昔、日仏学院でジョルジュ・フランジュの『壁にぶつけた頭』を見た時にも、どこか不穏なモノクロの映像が大和屋竺に似ているなと思ったものである。

 

近い将来、大和屋竺DVDボックスが出るとしたら、ぜひ、この幻のアヴァンギャルド映画を特典映像で付けてほしいものだと思う。

 

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大和屋竺さんの遺稿集『悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集』(ワイズ出版)

若松孝二をめぐる個人的な追想

 十月十七日、若松孝二監督が交通事故で急逝という知らせに、しばし茫然となる。癌を二回も克服した並はずれた強運の持ち主だったはずなのに、まさか、こんな意想外な形で亡くなってしまうとは。

運命というものの酷薄さ、理不尽さに思いをはせるほかない。

 

若松孝二のような半世紀近くにもわたって日本映画の最前線に屹立し続けた伝説的な人物については、その映画に出会った時代によって、さらに世代ごとにまったく違った相貌をみせるはずである。

ここでは、あくまで私の世代から見た若松孝二のことを語ってみたい。

 

私が学生だった一九七〇年代の半ば頃、若松孝二の名前はすでに映画ファンの間では鈴木清順と同様に、神格化された存在だった。若松プロの同伴批評家ともいうべき平岡正明の著作を愛読していたこともあり、当時、映画研究部に入部したばかりの私は、さっそく、『性賊(セックス・ジャック)』(70)と『処女ゲバゲバ』(69)の二本立てを企画し、当時、若松プロがあった原宿のセントラルアパートに現金を持って、フィルムを借りに行った。  

その時、応対したのは眼鏡をかけた若い痩せぎすの男で、「いまどき、学園祭で若松のピンクをやるんだ?」なんて皮肉めいたことを言われたのを覚えているが、その男は、もしかしたら、荒井晴彦ではなかったろうか。

 

その頃、若松孝二監督は過激な問題作『天使の恍惚』(72)を撮って以後、シラケ気分が蔓延する時代との緊張関係が途絶え、やや失速状態にあったように思う。当時、私は、新宿昭和館地下で、『(秘)女子高生課外サークル』(73)、根津甚八が映画デビューした『濡れた賽の目』(74)などの彼の新作を見ているが、同時代の神代辰巳、田中登といった日活ロマンポルノの傑作と較べると、どうしても見劣りしてしまう気がした。

 

そして、時はめぐり、一九八二年に、私は『月刊イメージフォーラム』の編集部に入るのだが、入社早々に任されたのが、若松孝二監督の自伝『若松孝二・俺は手を汚す』の膨大なテープ起こしの作業だった。

その当時、若松さんは、何度目かの黄金期を迎えていた。『水のないプール』(82)でコンビを組んだ脚本家・劇作家の内田栄一さんと意気投合し、雑誌の版元であるダゲレオ出版の代表、富山加津江さんの発案で、内田栄一さんが聞き手となり、若松さんの語り下しによる自伝を、急遽、『水のないプール』の公開に併せて、刊行することになったのだ。

 

若松監督は、だいぶ後になって、もう一冊、『時効なし』(小出忍、掛川正幸編・ワイズ出版)というやはり語り下しの自伝を上梓しているが、この急ごしらえの『俺は手を汚す』のほうが、内田栄一という絶妙な聞き手のせいもあって、粗削りな分、彼の肉声が活き活きととらえられていると思う。

 

この自伝には、昭和三十九年に、『裸の影』という原爆症の女の子を描いた<社会派>の問題作でスキャンダルを引き起こし、「その後でやった作品の撮影中に、俺、二人役者さんを殺した」というショッキングな記述がある。

アメリカ映画の『手錠のままの脱獄』のヒントを得た作品で、会津若松の奥の温泉場でロケ中に、手錠をしたまま二人の脱獄囚を演じた役者が渓流に足をとられ、行方不明となり、亡くなってしまうという不慮の事故だった。遺体が発見されたのは、東京オリンピックの開会式の十月十日で、若松さんは、以後、仕事がまったく手につかず、廃業も考え、酒浸りになり、役者の亡霊の幻覚を見ることもしばしばだった。

 

ある日、亡くなった役者の母親が若松さんを訪れ、「うちの息子は好きな映画で死んだんだ、本望だ。あなたがいくらやけくそになっても、うちの息子が帰ってくるわけじゃない。あなたがいい仕事をすることによって、うちの息子も浮かばれるんだから」と言ってくれたお蔭で、若松さんは、ふたたび監督をやる気になった。

 

この事故については、当時、週刊誌や新聞にも大きく取り上げられ、私の田舎の福島で起きたことでもあり、東京オリンピックという一大イベントとも重なって、子供心にも、鮮烈に記憶に残っていた。映画は八〇パーセントほど撮り終えていて、撮り足せば完成するが、若松さんは、それだけは絶対やめてほしいと会社に言って、世に出さなかった。 

 

若松さんは、毎年、ふたりの遺体が見つかった十月十日がめぐってくると、その日は、酒を一滴も飲まず、供養をすると語っていたが、それは、多分、最晩年まで遵守されたはずである。

 

『月刊イメージフォーラム』時代には、ビデオカメラを渡して、好きなものを撮ってもらう「体験的ビデオ論」という連載にも出てもらった。若松さんは、ちょうど、その頃、たしか御茶の水のホールで開催されたパレスチナの難民を支援するイベントを撮ろうと言い出し、私も同行することになった。その日は、早朝から会場に詰めていたので、途中で、つい、うとうとしてしまい、若松さんに「眠ってたら、ダメじゃないか!」と頭をげんこつでゴツンと叩かれたのを覚えている。

 

問題はその後で、原稿をお願いしたところ、「俺が今、これから喋るから、あとはおまえが適当に書いとけ」と言われてしまい、すっかりビビッてしまった。仕方なく、必死で、資料を読み込み、ずいぶん話していないことも補足してなんとか原稿に仕上げ、恐る恐る、当時、たしか千駄ヶ谷にあった若松プロの事務所に持って行ったら、「うん、よくまとまってる」と褒めてくれた。

この時の「ビデオはプライベートなメディアだ」という一文は、『若松孝二・全発言』(平沢剛編・河出書房新社)に収録されているはずである。

 

プロデューサーを務めた『赤い帽子の女』の特集号の時には、監督の神代辰巳さんと対談してもらい、私がテープ起こしをして原稿にまとめた。このときは、終始、上機嫌で、まったく資質が違う神代さんと、「ワカちゃん」「クマさん」と呼び合いながら、互いを尊敬しあっているふたりの語り口がとても面白く、楽しい仕事だった。

 

最期に若松さんに会ったのは、それから四半世紀も過ぎて、「キネマ旬報」の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』特集、『キャタピラー』特集でそれぞれインタビューをした時である。もちろん、若松さんは私のことなど忘れていたが、私は、なによりもその鮮やかな復活ぶりがうれしかったし、ひさびさに話を聞きながら、若松孝二のような真にラディカルなインディーズ・スピリットを持った映画作家が、いかに今の日本映画界に必要とされているかを、ひしひしと実感したのだった。

 

今、追悼の思いで『俺は手を汚す』を読み直してみて、あの東京オリンピックの時に起きた不幸な事故が、意外に若松孝二の作品に深い影を落としているのではないかと思えてきた。「俺は手を汚す」という題に込められた幾重にも屈折した真情、そして、とくに、近年の作品には、さまざまな無念を抱えた<死者>たちへの鎮魂の眼差しが色濃く漂っているからだ。

 

大島渚監督は、かつて川喜多和子さんへの弔辞の中で、「世界はまだあなたを失ったことの大きさを知らない。……日本はまだ、あなたがいないことの空白が埋めようもないことを知らない」と呼びかけた。この痛切な言葉は、そのまま盟友である若松孝二監督にもそっくりあてはまるのだ。

 

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 若松孝二監督の自伝『若松孝二・俺は手を汚す』(内田栄一編・ダゲレオ出版)

ピーター・ブルックの幻の傑作『蠅の王』

 最近、必要があってイギリスの<フリー・シネマ>のことを調べるために、アマゾンで『長距離ランナーの遺言/映画監督トニー・リチャードソン自伝』(河原畑寧訳・日本テレビ)を買い直した。

それにしても、金井美恵子の『小春日和』、色川武大の『離婚』をそれぞれ前田陽一、森崎東の演出で二時間ドラマに仕立てた辣腕プロデューサー山口剛さんが、定年前に配属された日本テレビ出版局から出した一連の映画本のクオリティはほんとうにすごい。

本書以外に、『ビリー・ワイルダー・イン・ハリウッド』(モーリス・ゾロトウ著、河原畑寧訳)、『追放された魂の物語 映画監督ジョセフ・ロージー』(ミシェル・シマン著、中田秀夫・志水賢訳)、『スクリプター 女たちの映画史』(白鳥あかね他、聞き手・桂千穂)と見事なラインナップだ。

 

<フリー・シネマ>は同時代のフランスの<ヌーヴェル・ヴァーグ>やアンジェイ・ワイダ、ムンクらの<ポーランド派>と比較すると、過小評価されているきらいがある。ひとつは、批評家時代のフランソワ・トリュフォーの「イギリス映画は映画的ではない」という独断に満ちた否定的な言辞が、そのまま公理のごとく受け取られてしまったことが挙げられるだろう。

もうひとつは、<フリー・シネマ>が主に一九五〇年代の後半に興った<怒れる若者たち>、いわゆるジョン・オズボーンの戯曲『怒りを込めて振り返れ』に端を発するアングリー・ヤングメンと呼ばれたイギリスの若手作家の原作に依拠したためでもあったと思われる。

 

たしかにフリー・シネマの旗手トニー・リチャードソンの長篇デビュー作はオズボーンの『怒りを込めて振り返れ』(59)であり、彼は、その後もアラン・シリトー原作の『長距離ランナーの孤独』(62)、シーラ・ディレニー原作の『蜜の味』を監督している。彼がプロデュースしたアラン・シリトー原作、カレル・ライス監督の『土曜の夜と日曜の朝』(60)、さらに、デイヴィッド・ストーリーの原作を映画化したリンゼイ・アンダーソンの『孤独の報酬』(63)を加えれば、フリー・シネマの代表作の大半は<怒れる若者たち>の映像化だったことになる。

 

しかし、映画と文学は決して対立概念ではないし、むしろ、その相補的な関係こそ考察すべきであり、フリー・シネマもたんなる同時代の文学の映画化としてでではなく、その底流にはイギリス映画独自のドキュメンタリズムの伝統が流れていたことも見逃してはならないだろう。

 

この時代のイギリスの文学と映画を考える上で注目したいのは、フリー・シネマと微妙に距離を置きながら、特異な仕事をしたピーター・ブルックだ。

かつてイギリス劇壇で<神童>の名をほしいままにしたピーター・ブルックは、マルグリッド・デュラスの『モデラート・カンタービレ』を映画化した『雨のしのび逢い』(60)、ペーター・ヴァイスの戯曲が原作で、映画史上最も長いタイトルの『マラー/サド』(67)ほか数本の映画を撮っている。

私は、映画作家としてのピーター・ブルックについては、今一つ評価が曖昧なのだが、昔、輸入ビデオで見た『蠅の王』(63)だけは、文句のない傑作だと思う。

かつてルイス・ブニュエルが映画化を熱望したといわれるウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は、ハリー・クック監督のリメイク版が一九九〇年に公開されているが、これはまったく原作の深い象徴性、寓意性が骨抜きにされてしまった駄作であった。

 

ウィリアム・ゴールディングは<無垢の喪失>というテーマを生涯、オブセッションのように執拗に描いた作家で、デビュー作『蠅の王』はその代表作としてあまねく知られている。

イギリスが原子爆弾の攻撃を受け、疎開先に向かう少年たちを乗せた飛行機が故障し、孤島に漂着する。そこで、ラーフという理性的な少年が率いるグループと、ジャック率いる野生の豚を狩る蛮行に夢中なグループが出来上がり、やがて、内なる獣性に目覚めた少年たちは凄惨な殺戮のゲームを始める。

 

ピーター・ブルックは、いわば『十五少年漂流記』のグロテスクなパロディともいうべきゴールディングの原作の言葉を忠実に生かしながら、突然、ハッとするような彼独自のイマジネーションを喚起させるシーンを創造している。

 

たとえば、海岸で松明を燃やし、少年たちが踊りながら、次第にトランス状態に没入していく呪術的な不気味なイメージは忘れることができない。

さらに、顔や全身に入れ墨のような装飾を施し、「豚を殺せ!豚を殺せ!」と絶叫しながら狩に奔走する少年たちを見ていると、『地獄の黙示録』で、河を上り詰めてカーツ大佐の王国にたどり着いたウィーラード大尉が、突然、仮面のような化粧を施した現地民たちの一群を目撃する異様な光景が思い浮かぶ。恐らく、フランシス・コッポラは、ピーター・ブルックの『蠅の王』を見ていたのではないだろうか。

 

 イギリスの模範的な子供たちが大自然の野生の脅威に遭遇するというヴィジョンは、ニコラス・ローグの衝撃的なデビュー作『WALKABOUT 美しき冒険旅行』(70)にもひそかに反響しているように思う。あの映画における砂と岩山が広がるオーストラリアという空間は巨大な孤島というイメージがあった。

 

 後に、ノーベル文学賞を獲ったウィリアム・ゴールディングは、昔から、私が偏愛する作家で、ネアンデルタール人の視点で人類の滅亡を描いた『後継者たち』、アンブローズ・ビアスの『アウルクリーク橋の出来事』と同じ手法で(つまり、ロベール・アンリコ監督の『ふくろうの河』だ)、一人の漂流する男が波間にある岩の上で延々と内的モノローグを繰り広げる『ピンチャー・マーティン』など奇想に満ちた面白い小説を書いているが、一冊だけあげるとすれば、『自由な顚落』だろうか。 

『自由な顚落』は、世俗的な成功を収めた画家が自分が自由意思を失った時期を探究するという、ゴールディングの中ではもっとも私小説的な色彩の濃い小説で、その苦さ、痛切な味わいはわすれがたい。ちょっと『つぐない』の原作であるイアン・マキューアンの『贖罪』に似た感触がある。

できれば、絶頂期のジョセフ・ロージーかニコラス・ローグに映画化してほしかった作品でもある。

 

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ピーター・ブルック監督『蠅の王』

スーザン・ソンタグと蓮實重彦の微妙な対話

 草森紳一、平岡正明のように没後、その著作が次々に刊行されるのは稀有なことだが、二〇〇四年に亡くなったスーザン・ソンタグものそのひとりといえそうだ。講演・エッセイをまとめた『同じ時のなかで』(NTT出版)が刊行され、その後も、二〇一〇年には、ソンタグの十四歳から三十歳までの日記を息子が編纂した『私は生まれなおしている――日記とノート 19471963』(デイヴィッド・リーフ編、河出書房新社)、二〇一二年には、最初に書かれた長篇小説『夢の賜物』(河出書房新社)が出ている。翻訳はすべてソンタグと生前から交友関係の深かった木幡和江氏である。

 

 晩年のスーザン・ソンタグは、9.11直後に、ブッシュ政権の対外政策を痛烈に批判して日本でも話題になったことがあるが、やはり、大江健三郎との往復書簡とか、主に政治的なテーマにからめて語られることが多かったような気がする。

 

 ひさびさに、スーザン・ソンタグの著作『私は生まれなおしている』を読んでみて、若き日の同性愛にまつわる、あからさまで切迫したトーンの記述が延々と続くのに驚かされたり、また、「性的な欠乏感と知的な<欠乏感>は似ている」といったアフォリズムめいた言葉が強く印象に残った。

 

 今、スーザン・ソンタグが若い世代にどんなふうに読まれているのかは知らない。しかし、一九七一年に、彼女の『反解釈』(竹内書店、のちにちくま学芸文庫)の翻訳が刊行された時の目の覚めるような衝撃は、今も鮮やかに思い浮かべることができる。

一九七〇年代とは、間違いなく、スーザン・ソンタグがアメリカを代表する文化英雄として熱狂的に評価され、競って読まれた時代であった。

 私は、『反解釈』を、たしか数年後に古本屋で入手したのだと思うが、「模範的苦悩者としての芸術家」と題されたパヴェーゼ論、「ミシェル・レリスの『成熟の年齢』」といった未知なる作家論は言うに及ばず、「ブレッソンにおける精神のスタイル」「ゴダールの『女と男のいる舗道』」などの映画評論、「惨劇のイマジネーション」という『地球防衛軍』から『ラドン』までを俎上に載せた空想科学映画論などはとてつもなく刺激的だった。

そして、なんといっても「<キャンプ>についてのノート」という画期的なエッセイは、何度、読み返したか、わからない。

 

当時は、今野雄二、金坂健二、小野耕世といった同時代のアメリカ映画、アメリカ文化を論じる批評家の評論をよく読んでいたが、『反解釈』を読むと、彼らの評論が、明らかにソンタグのキャンプ論の受け売りであったり、下敷きにしていることがわかって苦笑したことを覚えている。

 

冒頭の「反解釈」というエッセイには、「最良の批評とは(まことに稀少なものだが)、内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である」とし、その好個の例として、アーウィン・パノフスキーの「映画における様式と媒体」、ロラン・バルトの「ラシーヌ論」と「ロブ=グリエ論」、アウエルバッハの「ミメーシス」、ヴァルター・ベンヤミンの論文「短編作家論――ニコライ・レスコフの作品をめぐって」、マニー・ファーバーの映画批評などが挙げられている。

 

また、当時の私は、次のような一節にも心ひかれた。

「すぐれた映画は必ずわれわれを、解釈の欲求から完全に解放してくれるところの直接性をもっている。キューカーやウォルシュやホークスやその他かぞえきれない昔のハリウッド映画監督の作品には、トリュフォーの『ピアニストを撃て』や『突然炎のごとく』、ゴダールの『勝手にしやがれ』、アントニオーニの『情事』、オルミの『いいなずけ』などのようなヨーロッパの新進監督の最良の作品に劣らず、このような反象徴的、解放的な性格がまさしく存在する。」

 

「透明――これこそこんにち芸術において、また批評において、最高の価値であり、最大の解放力である。透明とはもの自体の、つまりあるものがまさにそのものであるということの、輝きと艶を経験することの謂いである。これが、たとえばブレッソンや小津安二郎の映画の、あるいはルノワールの『ゲームの規則』の、偉大さにほかならない。」

 

今なら、こういうエッセイは、ちょっと気のきいたシネ・フィルであれば、似たようなことを書くことは可能かもしれないが、スーザン・ソンタグが、すでに一九六四年に、こういう挑発的な論考を書いていたことの決定的な新しさは記憶に留めておきたい。

 

ロラン・バルトやロブ=グリエの名前が引かれていることから、当時、隆盛を誇っていたフランスのヌーヴェル・クリティックの影響も当然、あったには違いない。

 

ここで、もうひとり、一九七〇年代に、同じように、内容よりも形式を重視する、表層批評をマニフェストに掲げて登場した蓮實重彦の名前が浮上してくる。

実は、意外に知られていないが、伝説の文芸誌『海』の一九七九年七月号で、創刊十周年記念・特別対談として、スーザン・ソンタグと蓮實重彦が対談しているのだ。

 

この「メタフォアの陥穽」というテーマで行われた対談は、今、読んでもめっぽう面白い。というのも、当時、『映画の神話学』『映像の詩学』を上梓したばかりで、まさに、向かうところ敵なしのカリスマ的存在であった蓮實さんが、唯一、ここではソンタグの前でタジタジになっているからである。

そうなってしまった原因は、明らかに蓮實さんにある。

こんな不用意な屈折した社交辞令のような発言で対話を始めてしまったからである。

 

「今日、こうしてソンタグさんとお話しできるのは、大変嬉しいことだと思います。というのは、もう十年以上昔になりますが、ソンタグさんの『反解釈』という著作の翻訳が出たときに、私がこの『海』という雑誌で書評をしたことがあるからです。私の漠然とした記憶では、たぶん、少し悪口めいたことを言ったんじゃないかという気がします。その悪口というのは、もちろんあの書物の中に書かれている内容に関したものではなくて、当時、ソンタグさんの評判が日本ではあまり高かったので、たぶん一種の嫉妬のようなものから、一種のソンタグ神話批判めいたものを書いたわけです」

 

と語り、さらに、彼女がその若さと美貌から<アメリカ前衛芸術界のナタリー・ウッド>と喧伝された例を引いて、現代における神話的イメージについて言及したのだが、これがソンタグの次のような怒りを買ってしまったのだ。

 

「今日の対話のはじまり方は、私にとって、考えうる最も不幸なはじまり方です。一つには、私が出来るならばまったく関わりたくないと思っているまさにそのことを、蓮實さんの今ご発言は、促進するというか、永続させることに加担するものであるように、私には聞こえるからです。……私の著作に関する書評で、私にまつわりついていたイメージゆえに、あるいは私がすでに有名になり過ぎていたがゆえに批判的な立場を取ったとおっしゃいましたが、そういうものなかったら取らなかったであろう立場を、そういうものゆえに取ったというのであれば、私にとっては考えられないことですし、また、批判すべきことでもあると思うのです。」

 

 こうして極めて不穏なムードで始まった対話は、たとえば、<複製>と<複数性>という主題の意味を取り違えたりするなど、最後までギクシャクした感じが抜けきらなかった。だが、フローベールの『ブーヴァールとペキッシュ』とスーザン・ソンタグの小説『死の装具』を<宇宙論的な死のヴィジョン>という視点で比較した議論などはとても面白いし、批評家ではなく小説家としてのソンタグを積極的に顕揚するあたりに、蓮實さんらしいシニカルなイヤミさが際立っている。

 

実は、この『海』の対談は、熱狂的なハスミファンの編集者によって纏められた河出書房新社の『映画狂人』(河出書房新社)シリーズにも収められていない。もしかしたら、蓮實さんのほうで単行本化したくない理由があるのかもしれないが、一九七〇年代から八〇年代にかけて、紛れもなく日米を代表する批評家であったふたりの微妙な緊張を孕んだダイアローグは、今でも充分に読まれる価値があると思う。

 

 

 

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スーザン・ソンタグ著『同じ時のなかで』(NTT出版)

『ライク・サムワン・イン・ラブ』を見て、J・V・ヒューゼンを想う

イラン映画の名匠アッバス・キアロスタミが日本を舞台に撮った新作『ライク・サムワン・イン・ラブ』という題名を聞けば、ジャズ・ファンなら、すぐさま、ジョニー・バークの作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲した同名のスタンダード・ナンバーを思い起こすだろう。

映画の中では、もと大学教授のタカシ(奥野匡)が、デリヘル嬢の女子大生明子(高梨臨)を自宅に呼んだ際に、レコードをかけるシーンで、デューク・エリントンの「ソリチュード」に続いて、エラ・フィッツジェラルドの名唱ともいうべき「ライク・サムワン・イン・ラブ」が聴こえてくる。

 

映画では意表を突くラストシーンに、ふたたびこの曲が流れるのだが、エラのスローなバラードは、不意打ちを食らって呆然とする観客をやさしく慰撫するような、不思議な鎮静作用があり、あらためて、スタンダード・ナンバーの偉大さに思いをはせることになる。

  

ジミー・ヴァン・ヒューゼンは、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュインのような二十世紀を代表する巨人ではないが、以前、このコラムで取り上げたジョニー・マーサーと同様、アメリカのポピュラー音楽の歴史には欠かせない名ソング・ライターである。

 

 黄金期のハリウッド映画と深い関わりがある点でも、ジョニー・マーサーとJ・V・ヒューゼンはとても似ている。

「ライク・サムワン・イン・ラブ」も、もともと『ユーコンの美女』(44)という日本未公開の西部劇の中で、ダイナ・ショアが歌って大ヒットした曲である。

J・V・ヒューゼンは、フランク・シナトラとは、彼の無名時代からの大親友で、トミー・ドーシー楽団の座付き歌手だった若き日のシナトラが歌った「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」などは、ジャズ・シンガーが必ずレパートリーに加える不朽の名曲といってよい。

 

『珍道中』シリーズをはじめパラマウントでビング・クロスビーが主演した映画にも数多くの佳曲を書いており、『我が道を往く』(44)の中の「星にスイング」は、アカデミー主題歌賞を受賞している。その後も、作詞家のサミー・カーンとのコンビで、フランク・シナトラが劇中で歌った『抱擁』(57)の「オール・ザ・ウェイ」、『波も涙も暖かい』(59)の「ハイ・ホープス」はオスカーを受賞している。六〇年代に入っても、『パパは王様』(63)の「コール・ミー・イレスポンシブル」と、トータルで四度もアカデミー主題歌賞を受賞した作曲家は、もしかしたら、J・V・ヒューゼンだけかもしれない。

 

そして、「ライク・サムワン・イン・ラブ」「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」と並んで、私がもっとも好きなジミー・ヴァン・ヒューゼンの名曲に「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」がある。

「夢の残滓だけでもとっておくべきだった。恋がこんなに冷たい雨の日に変わってしまうなんて……」というジョニー・バークの詞がなんとも切ないトーチ・ソングの代表作である。

 

私は、これまで「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」を、ローリンド・アルメイダとのデュオによるサミー・デイヴィス・ジュニアの軽妙洒脱なヴォーカル、アン・バートンの絶唱、そして名盤『フライト・トゥ・デンマーク』に収められた、デューク・ジョーダンのしっとりしたピアノトリオなどで愛聴してきたが、このナンバーが生まれたのは、一九五三年初演のブロードウェイ・ミュージカル『フランドルの謝肉祭』である。

 

『フランドルの謝肉祭』は、フランソワ・ロゼー主演、シャルル・スパーク脚本、ジャック・フェデール監督の往年のフランス映画『女だけの都』(35)を翻案したミュージカルで、台本・演出を手がけたのは、なんとあの天才喜劇映画監督プレストン・スタージェスなのだ。

 

一九五三年といえば、プレストン・スタージェスは、もはや奇跡と呼ばれた栄光のパラマウント時代をとうに過ぎて、二十世紀フォックスで『殺人幻想曲』(48)、『バシュフル・ベンドのブロンド美人』(49)を撮ったものの、タイクーン、ダリル・D・ザナックから興行的に失敗作とみなされ、契約も更新されず、長く苦しい失意の日々を送っていた時期だった。

 

厳密には、プレストン・スタージェスは、プロデューサーからジョージ・オッペンハイマーとハーバート・フィールズの台本の改訂を依頼され、演出も引き継いだだけだったようだが、この『フランドルの謝肉祭』という舞台がアメリカでのスタージェスのほぼ最後の仕事であるのは間違いない。

 

主演のドロレス・グレイは、当時のスタージェスを「優雅だけれど独裁的だった」と次のように回想している。

「彼は舞台の仕事から長らく遠ざかっていたせいか、私たちにどう動いてほしいのかまったく判っていませんでしたね。……彼は絶えず新しいページを私たちに持ってきて、ずっと台本を書き直していたわけですけれど、私たちみんなに対してどんどん専制的になることで、ご自分の恐怖心を隠していたようです」

 

 しかし、プレストン・スタージェスの懸命な直しは効を奏さず、この『フランドルの謝肉祭』は、わずか四日間で打ち切られてしまう。一方で、主演のドロレス・グレイは、この舞台でトニー賞の主演女優賞を受賞し、彼女が舞台で歌った挿入歌「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は、永遠のスタンダード・ナンバーとして今なお歌い継がれている。

 

ドロレス・グレイは、一九四六年、『アニーよ銃をとれ』のロンドン公演で主役を演じ、帰国後、この舞台に出演したのだが、以後、МGMと契約、スタンリー・ドーネンの『いつも上天気』(55)で映画デビューを飾り、さらに、ヴィンセント・ミネリの『バラの肌着』(57)にも出演し、本格的な女優になっていくのである。

女優の魅力を最大限に引き出す名人であったプレストン・スタージェスは、生涯、最後にこの<呪われた舞台>でドロレス・グレイという女優を誕生させたといってよいかもしれない。

舞台で彼女が歌った「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は残念ながらレコード化された形跡はない。そのかわり、五六年に録音した『ウォーム・ブランディ』というバラード中心のアルバムが残されている。ドロレス・グレイはジュリー・ロンドンをさらに甘くしたようなエロティックなハスキー・ヴォイスで、夜中に聴いていると病みつきになりそうな魅力がある。

私は、時々、この悩ましいバラード集を聴きながら、プレストン・スタージェスの数奇な運命を想ったりしている。

 

 

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ドロレス・グレイの悩殺的なアルバム『ウォーム・ブランディ』

周防正行とユニット・ファイブの時代

 先日、雑誌『清流』のために、新作『終(つい)の信託』を撮った周防正行監督にインタビューをしてきた。

『終の信託』は、終末医療の現場で一人の女医の決断が引き起こす事件の顚末を描いた作品で、これまでの明るい大衆的なエンターテインメントを志向してきた彼の映画とは異なり、まるでポーランドのキェシロフスキを思わせる渋く沈鬱なダークなトーンの画面が印象的で、ヒロインを演じた草刈民代のハードなベッドシーンまであるのには驚いた。

 

 思えば、周防さんが、こういう<濡れ場>を撮ったのは、デビュー作『変態家族・兄貴の嫁さん』(84)以来ではないだろうか。

 周防さんも、その話題に触れると、「なんだか撮り方を忘れちゃって」などど苦笑していたが、そういえば、私が最初に周防監督にインタビューしたのは、もはや、三十年近く前のことになる。 

 

 周防正行監督の『変態家族・兄貴の嫁さん』は、全編のカットが小津安二郎の映画へのオマージュに終始するという恐るべき大胆不敵なピンク映画で、初号試写を見た蓮實重彦さんが、当時、『話の特集』で連載していた「シネマの扇動装置」で大絶賛したことから、その名前が一挙に映画ファンの間で広まったことはよく知られている。

 

 当時、私も、早速、新宿の歌舞伎町にあったピンク映画の封切館に見に行った。すると、『変態家族・兄貴の嫁さん』が始まると同時に、熱狂的ハスミファンと思しき数人の若い女性グループがどかどかと入ってきて、映画が終わると、回りの中年男たちの怪訝そうな視線を浴びながら、さっと出ていくフシギな光景を目撃している。

 

 この時代は、前年に、黒沢清監督が『神田川淫乱戦争』(助監督に周防さんがついている)を撮るなど、ピンク映画が異常な熱気に包まれていた時代で、私も、ずいぶん見ているが、なかでも、<ユニット・ファイブ>と呼ばれた若い映画監督の集団の存在がとても気になっていた。

 

 そこで『月刊イメージフォーラム』の一九八年五月号で「現代日本映画の座標」という特集を組み、彼らにインタビューを試みたのだ。座談会のメンバーは、磯村一路、福岡芳穂、水谷俊之、米田彰、周防正行の五人で、皆、高橋伴明監督の助監督出身である。

当時、高橋監督がディレクターズ・カンパニーへの参加を機に、高橋プロを解散したので、五人で青山に事務所をつくり、活動拠点にすると抱負を語ってくれた。ユニット・ファイブは、私とほぼ同世代ということもあり、彼らのつくるピンク映画は当時、すでに退潮気味であった日活ロマンポルノよりもはるかに刺激的であった。

 

 ユニット・ファイブのメンバーの中では水谷俊之監督『視姦白日夢』(83)にもっとも衝撃を受けた。コピー機セールスマンの男(山路和弘)の日常を描いた作品で、男が、次第に妄想と現実の区別がつかなくなり、無人の高速道路で、全裸の妻をナイフでメッタ刺しにして殺害する幻想シーンなど、劇場のスクリーンで見ていて、思わず、めまいが起きそうになったほどだ。 

 

 その当時のピンク映画では、高橋伴明監督の『襲られた女』(81)が一部で絶賛されていた。しかし、私は、このロベール・アンリコの『冒険者たち』へのオマージュともいうべきパセティックな青春映画に感銘を受けつつも、全共闘世代特有の、あまりにホモ・ソーシャルで過剰なセンチメンタリズムが気になってもいたので、『視姦白日夢』の水谷俊之こそ、自分と同世代の感受性をもっともヴィヴィッドに体現する映画作家ではないかと思えたのだ。

 

明らかに、ユニット・ファイブでは水谷さんと周防さんが、高橋伴明監督のウェットなセンチメンタリズムからもっとも無縁な、乾いたポップで同時代的な感覚を濃厚に感じさせ、いわゆる当時の流行語でいえば、<ポストモダンな感覚のピンク映画>がようやく出現したように思われた。

 

ほかのメンバーの作品にも触れておこう。

福岡芳穂監督では『凌辱!制服処女』(85)という作品が強く印象に残っている。

 

米田彰監督の作品では『虐待奴隷少女』(83)が忘れがたい。この映画は、山路和弘が、白痴の女の子を引き受けたものの、最後に棄ててしまう悲惨な話だったが、これは、驚くべきことに、フェリーニの『道』(54)のザンパノとジェルソミーナの関係のあからさまな変奏なのだった。

米田監督は、座談会でももっとも寡黙で、ほとんど発言しなかったような記憶があるのだが、とてもシャイな方だった印象がある。

それにしても、「虐待奴隷少女」の濃密なセンチメンタリズムは師匠・高橋伴明以上で、いまどき、こんな反時代的な情趣纏綿たる作品を撮る監督がいるのかと驚き、逆に感動したのを覚えている。

 

磯村一路監督では、中年の不倫のカップルの行方を追う『愛欲の日々 エクスタシー』(85)が鮮烈だった。まるで<愛の不毛>を謳った初期のミケランジェロ・アントニオーニを思わせるような、独特のアンニュイの感覚が画面を覆い尽くしているのだ。さらに、主人公たちと対照的に、最後に心中を遂げる無邪気な若いカップルが登場するが、このエピソードは、明らかに山川方夫の傑作ショートショート『赤い手帖』にインスパイアされたものであった。

磯村監督は、愛欲を怜悧なまなざしでとらえている点では、ユニット・ファイブの中は最も成熟していた映画作家だったといえるかもしれない。

 

後年、磯村監督は、田中麗奈主演の『がんばっていきまっしょい』(98)で大ブレイクし、青春映画の旗手のごとく賞揚されたが、私は未だに、彼の最高傑作は、この『愛欲の日々 エクスタシー』だと思っている。

 

周防正行監督は、その後、『ファンシイダンス』(89)、『シコふんじゃった』(92)、『Shall we ダンス?』(96)、『それでもボクはやってない』(07)と寡作ながら、大ヒット作、ベストワン作品を連打し、文字通り、日本映画界を代表する映画監督になったのは周知のとおりである。

 

あれは、十数年ぐらい前だっただろうか、銀座の映画館で小津安二郎をめぐるイベントがあり、出かけたところ、偶然、席が隣あわせとなったのが周防さんで、その後、有楽町のガード下の飲み屋で一献、傾けたことがある。

 

久々に会った周防さんは、長いスパンで大きな予算の大作を続けて成功させているヒットメイカーとしての自負を漲らせていたが、その時、たとえば、たまには、五千万円ぐらいの低予算で、『変態家族・兄貴の嫁さん』のような、作り手の勝手・わがままし放題の映画を撮ってみるのは、いかがですか?と訊いてみた。

どんな返事が返って来たのかは忘れてしまったが、新作『終の信託』を見ながら、従来のエンターテインメント志向から社会派的な主題に徐々に移行しながらも、周防さんなりに筋を通した映画つくりをしているな、と心強く思った。 

 

『変態家族・兄貴の嫁さん』は、もはや、周防さん自身が所有している35ミリのプリントしか存在しないらしい。ぜひ、機会があれば、スクリーンで上映してもらいたいものだ。

 

 

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周防正行監督の新作『終りの信託』のパンフレット

武田百合子の映画エッセイについて

あれは、一九八〇年代の始め頃だったと思う。新宿で飲んでいて終電もなくなり、かなり酔った私は、ゴールデン街の「ラ・ジュテ」の階段を上がっていった。ふらふらとでカウンターに坐ると、隣には妙齢の美しい女性がひとりいて、ママの知代さんとなにやら話している。美貌に似合わず、脳天に突き抜けるような甲高い声が印象的で、その会話の断片から、どうやら渡辺兼人さんの写真展『既視の街』のオープニングの帰りらしいことはわかった。朦朧とした状態で、「兼人さんは私も知っていますけど、彼の写真はいいですよね」などと話に割って入り、しばらく悦に入って喋っているうちに、その女性は、「ガハハ」と大声で笑いながら、「ところであんた、誰?」とまじまじと私の顔を見た。

 

その時、私もやっと目の前にいるサングラスをしたその眼の大きい女性が、武田百合子さんであることに気づいたのだ。

すでに、『富士日記』と『犬が星見た―ロシア紀行』を読んではいたから、何やら、一気に、本の感想やら、武田泰淳の『富士』がいかにすごいかとか興奮気味にまくし立ててしまったことを覚えている。酔っていたとはいえ、この畏怖すべき女性と、束の間でも歓談できたことは、私のささやかな至福の記憶となっている。

 

その十年後ぐらいに、『A?ストア』で武田花さんに原稿を頼んで以来、親しくなり、酒席をともにする機会が増えた。ある時、その夜の「ラ・ジュテ」の出来事を話すと、私はまったく覚えていないのだが、花さんは、隣のテーブル席で完全に酔いつぶれて寝ていたのだという。

 

エッセイストというか作家、武田百合子さんの絶大なる人気というのは、没後二十年近くたってもまったく衰えることがない。金井美恵子、川上弘美、小川洋子といった錚々たる作家からのリスペクトもさることながら、今では、夫たる武田泰淳よりも声名を集めているといえるかもしれない。

しかし、武田泰淳の最晩年の著作『上海の螢』『めまいのする散歩』が、百合子さんの口述筆記によって、ひと際、味わい深いものになっていることは、特筆しておかなければならないだろう。

 

なかでも、私は『遊覧日記』(ちくま文庫)、『日々雑記』(中公文庫)に現れる映画に関する記述に心ひかれる。

たとえば『日々雑記』には、池袋の文芸坐地下劇場の「推理映画シリーズ 松本清張大会」に通い詰めた日々のことが書かれている。

ある日、『砂の器』の途中で、トイレに立った百合子さんが、ついでに売店で食べ物を物色していると、カメノコ半纏で赤ん坊を背負い、ゴム長靴をはいた小柄のおじさんが寄ってきて、「おねえさん、早く入らなくちゃ。これから丹波哲郎がしゃべるところがはじまるとこだから、急いで入らなきゃ」と教えてくれる光景の絶妙なおかしさはどうだろう。

 

休館する前の文芸坐地下劇場のあの独特のくすんだ雰囲気をこれほど見事にとらえた文章を、私はほかに知らない。

 

『日々雑記』には、花さんと厚生年金の裏手にあったアートシアター新宿で『フリークス』を見に行った際、「角刈り頭の御所人形みたいにつやつやした顏」で紺青色の運動着の上下を着たサンダル履きの男が、上映前の口上をはじめるスケッチがある。

「『フリークス』と併映のアメリカのミュージカルものは、マザコン故に五度も結婚した男が作ったのです、整然とした振付は軍隊の行進を真似て作ったのです、と静かな口調で簡潔な説明を加える。映画のことを話しだした途端に、本当の知識人、学究の人、といった雰囲気の口のきき方になった。……佐藤重臣のような人のことを<映画の子>というのだろう。」

 

 もうひとりの「映画の子」である小川徹から電話がかかってきて、百合子さんは、『映画芸術』の仕事を手伝う。その後、新橋の「敗戦後の外食券食堂のような店で一人前五百円のすきやき」を御馳走になる件は、次のように描かれている。

「O氏は、<人間ちゃんとしっかり食べとかなくちゃ>をくり返し、ひっきりなしに鍋の中かきまわしては、黒くなるほど煮え震えている肉を、自分の分までせっせとくれたり、嗄がれ声を張り上げて卵のお代わりを頼んでくれたりするので、私は十二分のもてなしをうけているなと、満足した。……御馳走さまでした、と立ち上がり、二足三足歩きだすと、相当大きな平べったい物体が倒れる音が背後でした。ビニールの丸椅子もろとも、O氏が仰向けに床に転がっていた。一瞬、ああ、こうしてOさんは死んでしまうのだ、と思った。」

 

一九六〇年代末期のアングラ文化を謳歌した『映画評論』の佐藤重臣、そして<裏目読み批評>で一時代を劃した『映画芸術』の小川徹というふたりの伝説の編集者については、これまで、さまざまな人たちが論評しているが、私は、『日々雑記』に収められた、このふたつのポルトレほどユーモラスで、美しく、哀切で、胸を打つものはほかにないと思っている。

 

 熱狂的なファンは、すでに知っていると思うが、武田百合子さんには、膨大な数の単行本未収録のエッセイが残されている。天衣無縫などと称されるが、実は細心周到な物書きであった百合子さんは、生前、雑誌掲載時の原稿については単行本に収録する際に厳密な加筆、訂正を施し、完璧を期す作業を怠りはしなかった。

 

 したがって、本人の推敲を経ていない原稿に関しては、単行本化できないということになっているのだ。

 

 私が、以前から、気になっているのは、一九八〇年代のはじめ頃に『話の特集』に連載されていた「テレビ日記」と、文芸誌『海』で連載されていた「映画館」というエッセイである。

 

「テレビ日記」は、私は、まったく読んだ記憶がなく、なんとなく森茉莉の『ドッキリチャンネル』のようなものを想像している。

「映画館」は、『二百三高地』『氷壁の女』『フィッツカラルド』、文芸坐の「陽の当たらない名画祭」で見た『ストレイト・タイム』『ボーダー』の二本立てなど、実にバラエティに富んでいる。

なかでも、浅草の東京クラブで見た『ファイヤー・フォックス』『アニマル・ラブ』『殺しのドレス』の三本立ては、映画のみならず、とくに『アニマル・ラブ』を見ながらの観客の反応をヴィヴィッドに再現する筆致が、爆笑ものだ。

百合子さんは東京クラブを出て、仁丹搭近くのお好み焼き屋に入り、そこで見かけた高校生カップルをさりげなくスケッチしてふいに終わる。

 

<映画>と<生活>がそのまま地続きであるような、この素晴しい連載エッセイをいずれ、本で読んでみたいものだ。そういえば、昭和モダニズム建築の粋と称された浅草の東京クラブという名画座を知っている世代は、もはや少数派ではないだろうか。

『遊覧日記』には、このモスラの形状を思わせる東京クラブを背後から撮った武田花さんの写真が収められている。

 

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 武田百合子『日々雑記』(中公文庫)

プレストン・スタージェス再考

 以前、紹介した日本スカイウェイの「巨匠たちのハリウッド」シリーズから、「プレストン・スタージェス傑作選」DVD―BOXが発売される。

『偉大なるマッギンティ』(40)『凱旋の英雄』(44)『崇高なとき』(44)というあまりにもシブい三本セットだ。

今や、プレストン・スタージェスの映画は『レディ・イヴ』(41)『サリヴァンの旅』(42)、そして『モーガンズ・クリークの奇跡』(44)までがワンコインDVDで見られる。なんとも便利な時代になったものだと思う。

 

 プレストン・スタージェスという映画作家をめぐっては、さまざまな思い出がある。

あれは、亡くなる数か月前だから、一九九三年の初めごろだったと思うが、突然、川喜多和子さんから電話がかかってきた。

「河原畑寧さんから聞いたんだけど、高崎さん、プレストン・スタージェスの輸入ビデオをいっぱい持ってんだって? 今、うちでやってるハル・ハートリーが大好きらしいんだけど、私、一本も見てないのよ。今度、貸してね」

 当時、アメリカでは一九三〇?四〇年代の古いロマンティック・コメディが低価格ビデオで出始めていて、私は仕事で渡米した際に、スタージェスのビデオをまとめて買ったりしていたのだ。

 

 川喜多和子さんが、プレストン・スタージェスの映画を見ていないのは、意外だったが、スタージェスの映画は、日本では、敗戦直後の占領下に『結婚五年目』(42、『パーム・ビーチ・ストーリー』)と『殺人幻想曲』(48)の二本しか封切られなかったから、昭和十五年生れの彼女が見ていないのは無理もないかなと思った。

 

 私見では、プレストン・スタージェスの映画にもっとも熱狂したのは、昭和七年から十年ぐらいに生まれて、ティーンエイジャーだった占領下時代にアメリカ映画を狂ったように見た世代にほぼ限定されている。つまり、小林信彦、三谷礼二、蓮實重彦さんといった方々である。

 

 私がプレストン・スタージェスの名前を初めて知ったのも、高校時代に読んだ小林信彦さんの『笑う男・道化の現代史』に収められた「アメリカ的喜劇の構造――非常識な状況の笑い」というエッセイからである。以来、私は、このアンチ・キャプラと称された伝説のアメリカの喜劇映画監督のことが気になってしかたがなかった。

 

 たとえば、その頃に読んだジャック・ケルアックの『路上』には、『サリヴァンの旅』の魅力的な名シーンの言及があるし、サンリオSF文庫から出ていたゴア・ヴィダルのハリウッドの内幕を描いた怪作『マイロン』(『マイラ』の続編)にもプレストン・スタージェスとおぼしき人物が登場していた。

 漠然と、アメリカの戦後文学の鬼才たちにとっても、プレストン・スタージェスという映画作家は、半ば、伝説のような存在なのではないかと思った。

 

 決定的だったのは、古本屋で見つけたドナルド・リチーの『現代アメリカ芸術論』(早川書房)だった。この一九五〇年に刊行されたアメリカ文化啓蒙書の中で、リチーは「プレストン・スタージェスの映画は、現在、製作される最上の喜劇であるばかりでなく、それは、また、社会批判としても最上の作品である。……もしもアメリカ映画に輝かしい希望があるとすれば、それはプレストン・スタージェス、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・フォードだ」とまで絶賛していたのだ。

 

 そんなこんなで、一九八五年、私は『月刊イメージフォーラム』でプレストン・スタージェスのささやかな特集を組んだ。マニー・ファーバーの「プレストン・スタージェス・ハリウッドの成功神話」という高名な論文の翻訳を掲載し、三谷礼二さんに「P・S、アイ・ラブ・ユー」という美しいプレストン・スタージェスへのオマージュを書いてもらった。三谷さんは、まさに、占領下で見ることができなかった幻のアメリカ映画の代表としてスタージェスの映画を挙げ、アメリカで一度だけ、テレビで見た『サリヴァンの旅』の感動を、あたかも、昨日見たかのように、ディテール豊かに回想していて、深い感銘を受けた。

 

この特集の時、私は、無謀にも、小林信彦さんにプレストン・スタージェスの評伝を書いてくれないかと依頼している。初めてにもかかわらず、小林さんとは延々と長電話で話したが、結局、手許にプレストン・スタージェスに関する資料が少ないのと、日本未公開の作品の大半を見ていないという理由で断られてしまった。小林さんは、当時、アメリカにいる友人に頼んで、テレビ放映されたスタージェスの映画を録画してもらっていると話していたのを覚えている。

しかし、このスタージェス特集はまったくといってよいほど反響がなかった。当時、日本でも恐らく海外でもプレストン・スタージェスは忘れられていた存在だったのである。

 

時はめぐって、川喜多和子さんが急逝した直後、当時、「エルンスト・ルビッチ生誕100年祭」を成功させたプレノン・アッシュの城戸俊治さんから「いよいよ、プレストン・スタージェスをやりたいので、作品選びに協力してほしい」という電話があった。

 

私は、この夢のようなプレノン・アッシュの暴挙(?)にすっかり狂喜してしまい、まず、『モーガンズ・クリークの奇跡』『凱旋の英雄』のようなカゲキすぎるクレイジーな作品は、あえてはずし、結局、正統派というか模範的というか、『サリヴァンの旅』『レディ・イヴ』『パーム・ビーチ・ストーリー』(旧題『結婚五年目』)の三本をピックアップした。

 

さらに、キネマ旬報に企画を持ち込み、封切りに間に合うように、ドナルド・スポトーの評伝『プレストン・スタージェス――ハリウッドの黄金時代が生んだ天才児』(森本努訳)を編集したりもした。実は、翻訳に着手した頃に、ダイアン・ジェイコブスの『七月のクリスマス――プレストン・スタージェスの生涯と芸術』という決定版の評伝を入手したのだが、もはや、手遅れだった。ドナルド・スポトーは、スタージェスの女性関係を異様なまでにゴシップ的に探索するいっぽうで、『レディ・イヴ』を失敗作と断じるような致命的な映画オンチぶりを自ら暴露しているので、ちょっと問題がある評伝なのだ。

 

プレノン・アッシュは連続して『アメリカン・ドリーマー』というスタージェスのドキュメンタリーをレイトショーで公開するなど頑張ってくれたが、「プレストン・スタージェス祭」と銘打たれた特集は一部では話題になったものの、大ヒットとは言い難く、後が続かなかった。

当時、プレノン・アッシュの城戸俊治さん、篠原弘子さんと、よく、これが成功したら、「スクリュウボール・コメディ映画祭」をやりたいね、などと話し合っていたものだったが。

 

今回、DVD化された『凱旋の英雄』は、実は、その特集でやろうと思っていた極め付きの一本であった。

『凱旋の英雄』は、花粉症のために海軍に入隊できなかったエディ・ブラッケンが酒場の給仕に身をやつしており、たまたま知り合った軍人たちが制服と勲章を貸してくれて、彼らと共に故郷の町に凱旋するや、エディは英雄と祭り上げられ、次期町長に推薦されてしまう、というあまりに不謹慎でブラックなコメディである。

 この映画は、アメリカの幾つかの州で上映禁止となったが、フランク・キャプラが戦意高揚のプロパガンダ映画をつくっていた戦時下で、こんなアイロニカルで辛辣な諷刺喜劇を撮っていたプレストン・スタージェスは、やはり、特異な映画作家というほかない。

 占領下政策として、戦争中につくられた全盛期のプレストン・スタージェスの傑作が日本で公開されなかったのは、故なきことではないのだと思う。

 

私は、フランク・ダラボンの『マジェスティック』(01)とクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』(06)を見ていて、主人公が田舎の町に列車で凱旋するシーンが、『凱旋の英雄』の同工の場面をカット割りまでほぼそっくりに再現しているのに気づいて、驚いた記憶がある。

 

アメリカのダークサイドを乾いたタッチで笑殺するプレストン・スタージェスの喜劇は、決して甘やかなノスタルジアの対象ではなく、つねにみずみずしい、謎めいた魅力を放っている。

 

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『プレストン・スタージェス傑作選』DVD?BOX(日本スカイウェイ)

映画的な作家、武田泰淳の凄みについて

 今秋、中央公論新社から刊行される『ニセ札つかいの手記 武田泰淳異色短篇集』の編集を手伝っていることもあり、ここのところ、武田泰淳の全集を読み直している。

あらためて、スゴイ作家だなあと感嘆するほかないのだが、今年、生誕百周年を迎える武田泰淳について、表立った大きな再評価の動きがないのは、いささかさびしい。

 

武田泰淳は、『ひかりごけ』や『風媒花』『蝮のすゑ』『異形の者』といった作品から、どうしても<戦争><革命>といった気宇壮大なテーマに取り組んだ難解な作家、<第一次戦後派を代表する巨人>いうイメージが流布してしまっていて、結果、敬して遠ざけられる存在になっているような気がしてならない。

 

私自身は、数年前、『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』(小社刊)という映画エッセイ集を編集したせいもあるが、武田泰淳といえば<映画>のイメージと深く結びついている。なにしろ、最初に読んだ武田泰淳の小説が『白昼の通り魔』だったからである。

あれは、一九七〇年代の半ば頃だったが、四谷公会堂かどこかの自主上映会で、初めて、大島渚監督の『白昼の通り魔』を見て、いささか興奮してしまった。そして、大島監督の本を読むと、「原作は、文学的にはだれ一人認めていないけれど、武田泰淳のすごい傑作だと思います。この傑作に対する感動が出発点になっているんです」という発言があった。そこで、ぜひ、原作を読んでみたいと思い、古書店を探し回ったが、なかなか見つからず、偶然、手にした『映画芸術』一九六六年三月号に、原作の短篇がまるまる収録されていたので、狂喜してしまった。 

一読し、映画とはまた異なった深い感銘を受けた。

小説は篠崎シノの手記という体裁をとっているが、映画の中で、通り魔の英助、彼の妻となる倉マツ子先生、シノの心中相手の村長の息子・源治と、シノとの間で交わされる際立って印象的なダイアローグは、すべてほぼそのまま原作通りで、というより原作ではさらに異様な凄みを帯びて迫ってくるのだ。

大島渚の映画は、それまでの長回し主体ではなく、細かいショットを積み重ね、ハイキーのモノクロ映像がフォトジェニックで美しくモダーンだが、武田泰淳の原作は、もっと方言のもつ猥雑な可笑しみ、諧謔が生かされ、初期の深沢七郎の「ポルカ」ものを彷彿させるような土俗的でフォークロア的な黒いユーモアが溢れているのだった。

 

『誰を方舟に残すのか』も奇妙な短篇である。はるか昔、テレビの土曜洋画劇場で『二十七人の漂流者』というアメリカ映画を見たことがあり、印象に残っていたのだが、前半は、この『二十七人の漂流者』の映画批評としても読めるのだ。映画は、ヒッチコックの『救命艇』とよく似たワンセット・ドラマで、豪華船が沈没して、一艘の救命ボートに大勢が乗り込み、人数が多すぎて転覆してしまうために、船長のタイロン・パワーが老人、女性、怪我人と、弱い者から容赦なく海に放り出す。

武田泰淳は、極限状況下で露わにされるエゴイズムとモラルの相克をめぐって入念な考察に耽り、一転、後半では、ノアの方舟におけるノアと三人の子セム、ヤム、ヤペテを登場させ、「旧約」創世記談義を開陳するのだ。

 

極限状況モノといえば、『「ゴジラ」の来る夜』は、いよいよゴジラが上陸するというときに、資本家とその美人秘書、労組の指導者と天才的な脱獄囚、宗教家と『ゴジラ』映画のグラマー女優による特攻隊が編成される。彼らは無人の病院にたてこもり、なぜか互いに殺し合いを始めるというSFである。武田泰淳は、その数年前に、水爆投下のボタンを押した人物の戦争責任をモチーフに『第一のボタン』という同工のSFを書いている。

 当時、花田清輝は、「科学小説」というエッセイにおいて、H・G・ウェルズやスウィフトと比較しながら、この作品の文体を強く批判し、「『第一のボタン』のなかに霧のようにただよっていた仏教的ニヒリズムが薄れてしまうと、水爆投下後の風景のような、惨憺たる廃墟があらわれたというわけだ」と皮肉まじりに書いている。しかし、ドタバタ喜劇のタッチで、第三時世界大戦前夜の不安をアレゴリカルに描く、この諷刺的なSFは、むしろファルスの精神を顕揚した花田好みの作品のはずで、もっと高く評価されてよいと思う。

 

『空間の犯罪』は、『流人島にて』(篠田正浩が映画化した『処刑の島』の原作)などに連なる一種の復讐譚である。不具者の八一がヤクザの親分黒岩に侮辱され、「ガスタンクにでも登ってみろ」という自分に投げかけられた言葉を呪詛のように受け止める。以後、高い所に上るという不可能事に思いをめぐらす主人公が、ガスタンクの頂上に上り詰め、下界の黒岩に向けて絶叫するクライマックスは圧巻である。高所恐怖症者の末期に眼に映じた下界の街の光景は壮麗な幻想と悪夢に彩られ、まるで、エドガ・アラン・ポーやG・K・チェスタートンの瞑想的な恐怖譚を思わせる。武田泰淳は、創意豊かな<幻視者>なのだ。

 

武田泰淳は「映画と私」というエッセイで、幼少期に映画と出会い、「そのしびれるような魔力から逃れることができなかった」と告白しているが、自作の映画化作品についてはどう思っていたのだろうか。一人娘で写真家の武田花さんによれば、家の中ではほとんど話題に出た記憶がなかったそうだ。

大島渚の『白昼の通り魔』をのぞいては、内田吐夢の『森と湖のまつり』も、吉村公三郎『貴族の階段』も、熊井啓の『ひかりごけ』も成功しているとは言い難い。

 

一番、気にかかるのは、相米慎二監督が撮りたかった『富士』のことだ。たしか、『台風クラブ』が東京映画祭ヤングシネマで受賞した直後から、名コンビの田中陽造が脚本を書いていたはずで、あの名状しがたい巨大な傑作と格闘し、呻吟したものの、結局、完成をみなかったとも伝え聞いた。

いつだったか、新宿の酒場「ブラ」で、武田花さんら数人と一緒に呑んでいたら、離れた席に田中陽造さんがいて、誰かが武田花さんを紹介したところ、したたか酔っていた田中陽造さんが、一瞬、直立不動の姿勢になり、恐縮したように挨拶していたのが妙に可笑しかった記憶がある。その時、陽造さんの武田泰淳への深い尊敬のようなものを感じたのだ。

 

相米慎二監督と最後に会ったのは、ロバート・アルトマンの『クッキー・フォーチュン』のパンフレットのためにインタビューした時だった。アルトマンの描くアメリカの風景の話から、相米さんが、なぜか、ふいに「武田花さんの写真は、いいよなあ。すごくいい」と呟いた。その翌年、相米さんは急逝してしまうのだが、生前、武田花さんと相米さんが一緒に呑む機会をつくれればよかった、と悔やまれてならない。

武田泰淳、最晩年の畢生の大作『富士』の映画化は、たぶん、永遠に幻の企画のままであろう。

 

 

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『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』(清流出版)

名キャメラマン萩原憲治の日活映画史

 先日、衛星放送の「チャンネルNECO」で「日活創立100周年スペシャル」という特番があり、その連動企画として「キネマ旬報」で、日活を代表する名キャメラマン、萩原憲治さんにインタビューする機会があった。

 実は、萩原憲治さんにお会いするのは、二度目である。数年前、ラピュタ阿佐ヶ谷で「日活ロマンポルノ名作選」特集を企画し、曾根中生監督の『わたしのSEX白書・絶頂度』(76)を上映した際、脚本を書いたスクリプターの白鳥あかねさんのトークの司会を務めたのだが、その時に同作のキャメラを担当した萩原さんもいらしていたのだ。あまりに若々しいので驚いたが、萩原さんも、その時のことを覚えておられて、しばし、日活映画談議に花が咲いた。

今、あらためて萩原憲治さんのフィルモグラフィを眺めると、自分の私的な日本映画史の中でいかに日活映画が大きな位置を占めているのかを実感する。

 

萩原憲治さんは、大映出身で、後に鈴木清順作品で知られる峰重義のチーフを務めていたことから、峰重義に就いていく形で、戦後、製作を再開した日活に昭和二十九年に入社している。

キャメラマンとして一本立ちしてからは、日活黄金期の屋台骨を支えたスターのひとり、吉永小百合の映画を撮った西河克己と斎藤武市によく就いた。

私が、初めて見た萩原キャメラマンの作品は、多分、『愛と死をみつめて』(斎藤武市監督・64)だ。東京オリンピックの年に封切られたこの映画は、当時の大ベストセラーの映画化で、小学生だった私も超満員の熱気あふれる映画館で見た記憶がある。たしか、ヒロインの大島道子(吉永小百合)が病院の中で、夜、錯乱した女性患者に脅かされる場面があって、モノクロ画面の異様な暗さと相まって、なぜか恐怖映画のワンシーンのように子供心に強く印象に残っている。

渡哲也が主演した、舛田利雄監督の『嵐を呼ぶ男』(66)は、もちろん、石原裕次郎の大ヒット作『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督・57)のリメイクで、後年、オリジナル版を見たが、この渡哲也版のほうが、はるかに洗練されて、モダーンな感じを受けた。とくにドラム合戦のシーンで渡哲也の後方から滑らかに回り込むようなキャメラの動きにゾクゾクっとしたことを覚えている。

 

私の中学から高校にかけては、ちょうどアメリカン・ニューシネマが席巻した時代に重なる。生意気さかりで、ご多聞に漏れず『卒業』『俺たちに明日はない』『明日に向って撃て!』などの話題作に夢中になり、一時、日本映画は蚊帳の外という感じになった。ニューシネマの中では、フランク・ペリーの『去年の夏』(70)がとても好きだった。二組の若い男女のひと夏の悲痛な経験が、パセティックに描かれ、当時、角川文庫で出ていたエヴァン・ハンターの原作にも感動した。

 

その翌年の八月に封切られた藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』(71)は、明らかに『去年の夏』にインスパイアされた物語だった。当時、この映画を深夜放送「パック・イン・ミュージック」で絶賛していた林美雄さんの影響もあり、まったく観客が入っていないガランとした映画館で見た時の新鮮な衝撃は今も忘れられない。 

何といっても、初めて萩原憲治というキャメラマンの名前を深く記憶に刻み込んだ映画だった。早朝、虹がかかった、朝もやにけぶるひと気のない湘南の浜辺をバイクで疾走する広瀬昌助、強姦されて、破れた衣服を投げ捨て、海に入っていくテレサ野田の裸身の美しさ、ギラギラと照りつける眩い陽光、どのシーンをとってみても、それまで見た日本映画とはまったく異なる、白々としたあの時代のざらついた空気のようなものがいやになるほどリアルにとらえられていた。  

なかでも、広瀬昌助とテレサ野田が海に浮かんでいるシーンは、水に浸かったキャメラが絶えず不安定に揺れ動き、彼らの鼓動がそのままダイレクトに伝わってくるようであった。

萩原さんによれば、あのシーンは、アリフレックスのキャメラをビニールに包んで、水が入らないように細心の注意を払い、水面下ぎりぎりに据えて必死で撮り続けたのだという。

 

萩原さんは、『八月の濡れた砂』を最後に、日活が一般映画の製作を中止することを知っていただけに、<これが、最後の映画だ>と自分に言い聞かせ、万感の思いを込めてワンカット、ワンカットを撮っていたと述懐している。

たしかに、石川セリの主題歌とともに、湘南の海をただようヨットを空撮でとらえたラストシーンには、夏の終わり、日活映画の終焉をつげる挽歌のようなトーンが漂っていた。

 

その後、日活はまもなく、ロマンポルノを始動させるのだが、当初、萩原さんはテレビの仕事が来なくなると言われて、初期のロマンポルノの数作は変名で撮ったのだという。だが、ベテランのキャメラマン姫田真佐久の進言もあって、すぐに実名でクレジットすることにしたという。

萩原さんのロマンポルノ作品では、田中登監督の『牝猫たちの夜』(72)が、ひときわ印象に残っている。新宿を舞台に、風俗嬢の桂知子と吉沢健の腐れ縁のような奇妙な愛欲関係をスケッチした作品だが、ふたりが、陽炎のゆらめく中、ゴールデン街の都電の線路跡をふらつく白昼夢のような光景や、新宿西口の無人のビル街で佇み、コンクリートの路上に胎児のように横たわる吉沢健をとらえたラストなど、その独特のひんやりとした空気の感触、寂寥感は、忘れがたい。

曾根中生監督の『わたしのSEX白書・絶頂度』の工事現場の虚ろな喧騒や、加藤彰監督の『OL日記・濡れた札束』(74)のオールド・ミス中島葵のくたびれかけた裸身を執拗にとらえたショット、飛行場でのヒモとの別れのシーンなど、どれも揺れ動く不安や心理を繊細にとらえるキャメラワークが脳裏に焼き付いている。

 

鈴木清順監督のもっともポピュラーな代表作『けんかえれじい』(66)は、最初、ヒットメイカー斎藤武市監督が撮る予定だったが、新藤兼人のホンが自分に不向きだと断り、急遽、清順監督がメガホンをとることになったのだという。萩原さんの師匠・峰重義がキャメラを担当した鈴木清順の青春もの『悪太郎』(64)は、画面も古典的で端正な構図で統一され、見事な完成度を誇っている。しかし、硬派な熱血漢の少年南部騎六(高橋英樹)が、北一輝と出会って、昭和の暗雲の世界に突入していく破天荒な『けんかえれじい』の魅力とは<世界と自己とが未分化にあるアドレッセンスの混沌を、生々しい夢幻性をもって描き出したことにある>(渡辺武信)のであり、萩原さんのキャメラは、この永遠にみずみずしい青春映画の傑作の神話性をたしかに支えていると思う。 

 

 一九七〇年代の後半ぐらいから、銀座にあった名画座の老舗並木座では、毎年初夏になると、風物詩のように『けんかえれじい』と『八月の濡れた砂』の二本立てがかかった。ここの定番である小津、溝口、成瀬、黒澤といった巨匠の古典ではなく、かつての私のような洋画一辺倒に走りがちな若い世代に向けた日本映画の入門篇として、この二本立てほどふさわしいものはなかったのである。

その記念すべき二本が萩原憲治というキャメラマンが撮った日活映画であったことが、今や、とても象徴的なことのように思えるのである。

 

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藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』のDVD(日活)

 

 

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鈴木清順監督の代表作『けんかえれじい』のDVD(日活)

加藤泰を愛した女たち あるいは袴塚紀子さん追想

 先日、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニング「昭和の銀幕に輝くヒロイン・桜町弘子」特集で、桜町弘子さんのトークショーがあり、満員札止めの中、上映作品『車夫遊侠伝 喧嘩辰』と加藤泰監督にまつわる数多の感動的なエピソードが語られたという。

桜町弘子といえば、加藤泰作品のヒロインとして、まず、第一に挙げられる名女優だが、支配人の石井紫さんによれば、桜町さんは近所の高円寺にお住まいで、彼女の行き付けの喫茶店に、特集のチラシが置いてあるのを見つけて、度々、来場されるうちに、トークが実現したのだという。

 桜町弘子さんは、近々、池袋の新文芸坐で始まる加藤泰特集でも、トークをするらしい。これまで、あまり人前には出ない方という印象があったのだが、敬愛する加藤泰の映画を語り継ぐのだという、強い意志のようなものを感じる。 

 

ここで、私は、ゆくりなくも、加藤泰の映画を心の底から深く愛したもうひとりの女性を思い出す。袴塚紀子さんのことだ。

袴塚さんとは、多分、一九七〇年代の後半に知り合ったのだと思うが、当時、すでに仲間内の映画ファンの間でも、熱狂的な加藤泰ファンとして知られており、『明治侠客伝 三代目襲名』を二十回以上、見ているという伝説(彼女は熱烈な鶴田浩二ファンでもあった)があった。   

 

袴塚さんは、その頃、たしか、独立してプロダクション映芸を立ち上げた小川徹の『映画芸術』編集部にいたと思う。といっても、当時の『映芸』は隔月刊がやっとで、経営的にも青息吐息な状態であったはずだから、給料をもらっていたとは思えないし、恐らくボランティアのようなものだったに違いない。

 

袴塚さんは、小川徹好みの「女性が感じるロマンポルノ」みたいなイロモノ記事や批評は一切、書かなかったが、好きな監督の撮影現場ルポには必ず登場していた。むしろ、それを書くために、『映芸』に身をおいていたのではないかとすら思えるほどだ。

今、手許にある『映画芸術』のバックナンバーを眺めると、一九七七年の六・七月号には「特報! 十年の歳月夢の如し 目の当たり見た奇想天外!清順演出の20日間」と題された鈴木清順の『悲愁物語』のレポートが載っている(これは数人の執筆者で書き分けたようだ)。

そして七七年の八・九月号が「加藤泰『陰獣』強行撮影の30日間」という『陰獣』のルポルタージュ、八一年二月号は「加藤泰『炎のごとく』ロケのぞき記」というレポートである。八五年二月号の「山下耕作 やくざ映画は復活するか」は、『修羅の群れ』の撮影現場での山下耕作監督へのインタビューが中心である(袴塚さんは加藤泰と同様、山下耕作の大ファンで、とくに『博奕打ち・いのち札』を熱愛していた)。

 

どれも、とても読み応えがあるが、たとえば、『炎のごとく』の現場ルポでは、一見、自分の思い入れを抑制した客観的な記述で現場でのやりとりを淡々と再現している。しかし、その合間、合間に監督や役者のインタビューを挟むことで、とくに、菅原文太や佐藤允から過去の加藤泰作品の印象や感想を引き出すことによって、加藤泰と役者たちとの親密で信頼感に溢れた関係が自ずと浮かび上がってくるのである。

 

一九八五年、加藤泰が急逝し、私は在籍していた『月刊イメージフォーラム』でささやかながら追悼特集を組んだ。その際に、キャメラマンの丸山恵司、鈴木則文監督らの追悼文と合わせて、袴塚さんにはグラビアページを加藤泰の映画の名科白で構成してもらった。当時、まだビデオはそれほど普及していなかったから、ほとんど彼女自身の記憶に頼るか、シナリオからの採録だったはずだが、実際には、シナリオは参照する程度であったと思う。 

 

たとえば『喧嘩辰』からは「俺ァな、何処でもいいんだ。このオレが俺のまんま、誰でもね、俺のまんまだ、真直ぐに生きていける所を探してやって来たんだ」という内田良平の泣かせる名科白が引用されていた。

『男の顏は履歴書』からは「先生、これだけは信じて。私が愛したと言えるのは先生だけよ。サヨナラ」「マキ、マキ、何かが間違ってるよ。何かが間違ってるよ」という安藤昇と中原早苗の切なくなるような白熱した科白の応酬が引かれている。

『三代目襲名』からは、「わかってくれ……阿呆な男や、しゃけど、わいはそういう生き方しか出来へんねん」という鶴田浩二の苦い諦念に満ちた科白。

 そして、『みな殺しの霊歌』からは、「だがな、俺には我慢出来ないんだ。お前達は寄ってたかって、一番キレイなものをメチャクチャにこわしやがった」という極めつけの佐藤允の科白が採られている。

 こうやって、忘れがたい名科白を書き写しているだけでも、フツフツと加藤泰の映画独特の熱く迸るような情感のうねりが目に浮かぶようである。

 

『みな殺しの霊歌』は、マンションの一室でブルーフィルムを見ていた五人の有閑マダムが集金に来たクリーニング屋の少年を部屋に引き入れて輪姦し、少年はショックのあまり投身自殺を遂げる。そして少年を弟のように可愛がっていた佐藤允が女たちを次々に惨殺していくのだ。この日本映画史上もっとも謎めいた畸形的なノワール・メロドラマの傑作については、袴塚さんとも何度か語り合った記憶がある。 

 

 うろ覚えだが、袴塚さんは奈良女子大学の英文科出身で、卒論のテーマは『ライ麦畑でつかまえて』と『みな殺しの霊歌』を比較したものだったという話を本人から聞いたことがある。

 

 イノセントなものを守ろうとする潔癖なモラルを饒舌な独白体に仮託したサリンジャーの永遠のロングセラーと、イノセントなものを汚されたことへの理不尽なドス黒い憤怒を描いた悪夢のような加藤泰の映画とは、一見、相反するかにみえて、双生児のように似ているというのが、彼女独自の見立てなのだった。

 こういうユニークな視点をもつ彼女なのに、いわゆる映画批評に手を染めることはなかった。これみよがしに映画に託して自己を語るという安易な自己主張を嫌い、ただの映画ファンであればよいといった潔く自己韜晦しているフシがあった。

 

 私が、最後に、編集者として、袴塚さんと一緒に仕事をしたのは、一九九六年に、キネマ旬報社から出たデイヴィッド・シップマンの『ジュディ・ガーランド』である。

彼女の語学力には定評があり、当時、ジュン・フォード関連の翻訳を一手に引き受けていた故・高橋千尋さんが彼女に翻訳チェックを依頼していたのは有名で、ふたりの共訳である『映画のクォート事典 いつか、どこかで、このセリフ』(ハリー・ホーン著・フィルムアート社)でも、袴塚さんに、誤訳を逐一指摘されたと、高橋千尋さんから直接、伺ったことがある。そこで、私は彼女にこの大部の評伝の翻訳を依頼したのだ。

 

『ジュディ・ガーランド』は、二段組み五百ページを超える大著だけに、翻訳作業は大変だったはずだが、輸入盤のジュディのCDを何十枚も購入して、丁寧に聴き込み、この不世出の天才エンターティナーの生涯を追体験しようとしていた。

 今、思い起こしても不思議なのは、訳者あとがきとプロフィールを書くことを頑なに拒んだことだ。なんとか、説得してあとがきは書いてもらったが、プロフィールは載せられなかった。彼女の異常なまでの匿名への意思は何だったのだろうか。

 

 その後、しばらく、袴塚さんとは会う機会はなかったが、数年前、突然、彼女の訃報が届いた。友人たちと遺品の整理をし、映画関係の資料は、神保町の矢口書店に一括して引き取ってもらったが、とくにフレッド・アステアの資料の膨大さには、思わずめまいがしそうだった。

 

二年ほど前だったか、酒席で関本郁夫監督が、ぽつりと「袴塚は、映画に殉じちゃったのかなあ」と呟いていたことが思い出される。一九七〇年代の終わり頃、今はなき伝説の名画座、上板東映で「関本郁夫オールナイト」というイベントがあり、袴塚さんはその司会を務めていたのだ。関本監督への偏愛も、当初は、恐らく、彼が加藤泰の助監督を務めていたことが理由の一端であったはずだ。

加藤泰の映画は、永遠に語り継がれていくだろうが、その決して安寧ではなかった晩年の仕事をまるで私淑した弟子のように克明に記録し続けた袴塚紀子さんのことも永く心に留めておきたいのだ。

 

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加藤泰の呪われた傑作『みな殺しの霊歌』のDVD(松竹)

 

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袴塚紀子さんが翻訳したデイヴィッド・シップマン著『ジュディ・ガーランド』(キネマ旬報社)

ジャズで踊って、または幻のタップ映画『舗道の囁き』

最近、戦前の日本のジャズソングが静かなブームになっている。「君恋し」「アラビヤの唄」「私の青空」で知られる日本最初のジャズ歌手二村定一の評伝が二冊も出ているし、二村定一、ディック・ミネ、川畑文子、岸井明などのアルバムを復刻した『ニッポン・モダンタイムズ』シリーズ、昭和初期のマイナーレーベルのSP盤を復刻した『ニッポンジャズ水滸伝』シリーズも売れているらしい。

 

 このブームの発火点となっているのは、明らかに、色川武大の傑作短篇集『怪しい来客簿』(話の特集)や『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)などの一連の芸人を描いたサブカルチュア・エッセイ集、そして瀬川昌久さんの『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』(清流出版)である。

 

とくに瀬川昌久さんの『ジャズで踊って』は、大正末期に日本に渡来したジャズが、戦前の昭和モダニズム文化の中でいかに豊かに開花したかを貴重な資料を駆使して描いた類例のない名著で、前述のふたつのCD復刻版シリーズも瀬川さんが監修をされている。

 

『ジャズで踊って』は、一九八三年にサイマル出版会から上梓されたが、直後に版元が倒産したため、長い間、入手困難になっていた。当時、古書店で見つけて、愛読していた私は、清流出版に企画を持ち込み、瀬川さんの私的メモワールやエノケン劇団のくだりを大幅に加筆していただき、二〇〇五年に増補決定版として復刻することができた。

 

 サイマル出版会版の表紙は川畑文子、小杉勇、杉狂児が主演の音楽映画『うら街の交響楽』(一九三五年)だったが、復刻版のカバーは、瀬川さんとご相談して、本書でも言及されている、戦前の昭和モダニズムの粋ともいうべきミュージカル映画『舗道の囁き』(一九三六年)で中川三郎とベティ稲田が踊っているワン・シーンをあしらったものにした。

 

『舗道の囁き』は、数奇な運命をたどった幻の映画である。加賀まり子の父親で戦後、大映のプロデューサーとして活躍した加賀四郎が、昭和十一年、自ら独立プロを興し、加賀ブラザース第一回作品として製作した日本初の本格的なタップ映画なのだ。加賀四郎は、RKOのドル箱であったフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの陽気なミュージカル映画が大好きで、若手のトップダンサー中川三郎と人気ジャズ歌手ベティ稲田を起用した本作は、日本版アステア&ロジャース映画を目指したとおぼしい。

 

ストーリーは、本家と同様に、まことに他愛ないボーイ・ミーツ・ガールもの。アメリカ生まれのジャズ・シンガー、ベティ稲田が鳴り物入りで来日し、成功を収めるが、悪徳興行師にギャラを持ち逃げされ、たちまち淪落の淵に沈む。そんな時に彼女は失業中のバンドマスター中川三郎と出会う。お互いに惹かれ合うが、紆余曲折があって、中川はバンドの再起をかけたコンクールに応募すると、ベティ稲田も駆けつけて、見事、コンクールに優勝する。

 

『舗道の囁き』の監督・主演は松竹の大スターだった鈴木傳明である。加賀四郎は、当時、松竹の城戸四郎撮影所長と衝突し、岡田時彦、高田稔とともに松竹を飛び出した鈴木傳明を、この作品に抜擢したのだが、公開直前になって、松竹サイドから圧力がかかり、結局、製作時には一度も上映されないまま、葬り去られてしまったいわくつきの作品なのだ。

実は、終戦後の昭和二十一年に、『思い出の東京』という題名で、松竹の配給でひっそりと公開されたことがあるのだが、その後は、プリントの所在すらわからなくなってしまっていた。

 

先日、秦早穂子さんの『影の部分』の出版パーティでお会いした映画評論の重鎮・佐藤忠男さんに、『舗道の囁き』という作品をご存知かどうかお尋ねしてみたが、大部の日本映画史を書かれている佐藤忠男さんもまったく聞いたことがないとおっしゃっていた。

 

ところが、その『舗道の囁き』のプリントが、一九九一年にカリフォルニアのUCLAで発見された。そして、京橋のフィルムセンターに寄贈された際に一度だけ上映されたが、その後は、ほとんど見る機会のない、まさに伝説の映画なのである。

 

『舗道の囁き』を見て、驚くのは、天才タップダンサーと言われた中川三郎(当時、なんと十九歳!)のソフィスティケートされたタップの妙技であり、ベティ稲田の独特のフレージングを利かせたジャズソングの数々である。

たとえば、中川三郎に援けられたベティ稲田が、彼のアパートで一夜を過ごした翌朝、食事の用意をしながら、ふいに「ブルー・ムーン」を口ずさむと、それに合わせて中川が突然、タップを踊り出すシーンなどは、まさに、アステア&ロジャース映画を彷彿とさせる愉しさである。

なによりも、巻頭から、ふたりのデュエットで何度もリフレインされる服部良一作曲の主題歌「舗道の薔薇」がすばらしい。音楽担当の服部良一は、戦前、すでに、松竹歌劇団の笠置シズ子と組んだ一連のジャズ・ナンバーで圧倒的な名声を得ていたが、『舗道の囁き』の洗練された数々のナンバーとアレンジを聞いていると、<日本のジョージ・ガーシュイン>という瀬川昌久さんの形容句がなんら誇張ではないように思えてくる。

 

その幻のタップ映画『舗道の囁き』を、七月一日(日)、午後二時から、ザムザ阿佐ヶ谷で、瀬川昌久さんのトーク付きで上映することになった。私は、昔から、瀬川昌久さんの監修・解説で日本のミュージカル、ジャズ映画の歴史的なアンソロジー、いわば日本版「ザッツ・エンターテインメント!」がつくれないものかと夢想しているのだが、今回、ようやく、その端緒となるイベントが実現できそうである。

当日は、瀬川さんの発案で、加賀四郎の長男で大映、松竹でプロデューサーをされていた加賀祥夫さん、中川三郎の長女で女優、タップダンサーの中川弘子さんにもゲストで登場いただく予定である。

 

日本のジャズ評論の最長老である瀬川昌久さんは、学習院初等科から東大法学部まで、ずっと三島由紀夫の同級生で、三島とは最晩年まで家族ぐるみの親密な交流があった。私は、折に触れて、瀬川さんから三島由紀夫をめぐる回想を伺ったことがあるが、とても興味深い。  

三島自身、一九五〇年代に初めてニューヨークへ行った際の旅行記『旅の繪本』(新潮社)の中で、当時、富士銀行のニューヨーク支局にいた瀬川さんの案内で、夜な夜な、「ウエスト・サイド・ストーリー」の初演ほか、ブロードウェイの芝居を観まくった刺激的な日々のことを、実に愉しげに回想している。

 

私が、瀬川昌久さんを心底、うらやましいと思うのは、一九五三年、カーネギーホールで、チャーリー・パーカーとビリー・ホリデイの生のステージを聴いていることだ。ジャズにしろ映画にしろ、同時代で出会うことの特権、かけがえのなさというものがあり、そういう稀有な体験した人の言葉こそ、今、もっとも読まれるべきである。

そろそろ、瀬川昌久さんの『ジャズで踊って・戦後篇』を、まとめなければと思っているところなのだ。

 

 

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 ★瀬川昌久さんの名著『舶来音楽芸能史・ジャズで踊って』(清流出版)

 

 

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★幻のタップ映画『舗道の囁き』のタップシーン

バザン、ウォーショウ、そして西部劇

 時おり、無性に西部劇が見たくなることがある。手もとにこれという作品がなかったので、アマゾンでチェックしたところ、なんとバッド・ベティカーの『七人の無頼漢』(56)の輸入版DVDが七百円ぐらいで売っているではないか。さっそく注文して見てみたが、噂にたがわぬ素晴らしさだった。

 

バッド・ベティカーの『七人の無頼漢』という西部劇が神話的な輝きを帯びて語られるのは、むろん、アンドレ・バザンが『映画とか何か? その社会学的考察』(小海永二訳・美術出版社)の西部劇論の中で「模範的西部劇『七人の無頼漢』」という一章を割いて詳細に論じているからである。

バザンは次のように書いている。

「『七人の無頼漢』に感心したからといって、わたしは、バッド・ベティカーが最も偉大な西部劇監督だと――その仮説を完全には否定しないが――結論しているわけではなく、ただ、この映画はわたしが戦後見た中で恐らく最もすぐれた西部劇だと、結論しているにすぎない。この作品に匹敵しうるのは、ただ『裸の拍車』と『捜索者』とだけだ」

 

 このバザンの有名な一節を呪文のように唱えながら、『七人の無頼漢』は、ずっと、長い間、見てみたいと思っていた<幻の西部劇>だったのだ。バッド・ベティカーについては、三十年ぐらい前、テレビで放映された『決闘コマンチ砦』(60)を見て、深い感銘を受けたことがある。

ちょうど、その頃、『月刊イメージフォーラム』で「ハリウッドの神話学」という特集を組んだ際に、当時、ヘラルド・エースでニコラス・ローグの『ジェラシー』『赤い影』の宣伝をやっていた寺尾次郎さんのアイディアで、『カイエ・デュ・シネマ』のバッド・ベティカー・インタビューを翻訳してもらい、掲載したことも懐かしく思い出される。

 

 たとえば、アンドレ・バザンは、<超西部劇>という概念を生み出し、<自らが西部劇にすぎないことを恥じ、美学的、社会的、道徳的、心理的、政治的な、また、エロチシズムの次元での補足的な興味によって、要するに、このジャンルの映画に固有のものではないが、それを豊かにするように思われる何らかの価値によって、自己を正当化しようと努力している西部劇>と定義づけ、その典型として、『真昼の決闘』と『シェーン』を挙げている。

 

バザンの影響を受けた批評家時代のジャン=リュック・ゴダールがアンソニー・マンの『西部の人』を論じた「超人(スーパー)・マン」というエッセイも、「おそらく西部劇には三種類しかない」それは「イメージによる西部劇、思想による西部劇、イメージと思想による西部劇だ」といった爽快な独断が小気味よいが、こういう幅広い視野と深い射程をもったユニークな西部劇論は、日本では、なかなかお目にかかることがない。

 

では、本国アメリカではどうなのかといえば、バザン、ゴダール以前に、まさに「西部の人」という独創的な西部劇論を書いたロバート・ウォーショウという映画批評家がいたのだ。

 

一九六三年一月号の『映画評論』に植草甚一の「ロバート・ワーショーの西部劇論――むこうの批評を読むということ・5」というエッセイが載っている。恐らく『植草甚一スクラップ・ブック』シリーズにも収められていないこの地味な文章がずっと気になっていたのだが、植草甚一は、次のように書いている。

「……そしてこのときまた頭に浮かんできたのがロバート・ワーショーというアメリカのすぐれた映画批評家が一九五四年三・四月号に「パーティザン・レビュー」誌に発表した『西部の人』という西部劇論であった。これほどピンときた西部劇論は、ぼくの読書範囲のなかでは、かつていちどもなかったのである。ワーショーはジェイムズ・エイジーとともに戦後の映画批評家のなかでは群をぬいた存在であったが、一九五五年の三月に三十七歳で死んでしまった。それから七年たった一九六二年の春に、彼の評論がまとめられ、ライオネル・トリリングの序文つきで『直接的経験』と題して出版された。……とにかく、ワーショーの西部劇論を八年まえに読んだ時は、ちょっと唸ったが、いまでも面白いので、ここで取りあげたくなった」

 

 続いて、「ギャング映画と西部劇は、アメリカ映画のなかで、もっとも成功した特殊なタイプのものであり、ガンをもった人間が登場し、これらの人間の肉体的な一部となったガンと、ガンを使うときの身構えが、視覚上の中心となり、またエモーションをあたえる原動力となる点で、ふたつのタイプは共通しあっている」という印象的な冒頭から入っていき、「西部の男に見られるメランコリーは、人生はイバラの道をゆくようなものだという認識から発生してくるし、その孤独な生きかたは、ギャングのように環境によって左右されるものでなく、完全なものでありたいとねがう生まれつきの体質から来るものなのだ」という意想外な指摘がなされる。

 

さらに、「馬が走る荒野のなかで、ガンが視覚化されたモラルの核心となり、暴力の可能性をはらみながら物語が展開していく。だが、ここで気がつくことは、荒野にも、走る馬にもモラルがあるということだ。このことは西部劇が発展するにしたがい複雑なかたちをとるようになるが、要するに<開かれた世界>であることを、このような風景が語りはじめる」

 

 こんな調子で、創意あふれる知見をおりまぜながら、西部劇独特の魅力が悠然たるトーンで語られていくのだが、まったく、見事なものである。

 アメリカには、ヴァルター・ベンヤミンやジョージ・オーウェルの衣鉢を継ぐように、映画のようなポピュラー・カルチャーを、深い含蓄と愛情、傑出した才筆によって、つまり、ノーマン・ポドレッツのいう<芸術しての論文記事>に仕立て上げるジャーナリスティックな才能の系譜がある。

 

私は、漠然と、一九七一年に翻訳が出たスーザン・ソンタグの『反解釈』(竹内書店)あたりが、その先駆だと、ずっと長い間、思い込んでいたのだが、彼女のいわゆる<キャンプ的感受性>を秘めたエッセイは、映画批評の分野では、すでに一九五〇年代において三人の批評家によって実現されていたのだ。

それは、『エイジー・オン・フィルム』のジェイムズ・エイジーであり、のちに『否定的空間(ネガティブ・スペース)』をまとめるマニー・ファーバーであり、そして『直接的経験』を書いたロバート・ウォーショウなのだ。

『直接的経験』のなかで、ロバート・ウォーショウは、幾度か、T・S・エリオットの詩とハンフリー・ボガートのギャング映画を同時に、何の矛盾もなく愛することの意味を問うている。

 

一九五〇年代後半に、プレストン・スタージェス復権の論文「スタージェスの成功神話」を書いたマニー・ファーバーと同じ年に生まれ、サイレントコメディの偉大さを広く知らしめた傑作エッセイ『喜劇の黄金時代』を書いたジェイムズ・エイジーと同じ年に亡くなった、この夭折の映画批評家ロバート・ウォーショウの唯一の著作『直接的経験』を、日本でなんとか翻訳できないかと思う。

 

生硬で晦渋なアカデミックな理論書などよりも、エイジーやファーバー、ウォーショウの映画評論の古典的な名著を翻訳することこそ、今の疲弊した日本の映画ジャーナリズムにとって大きな刺戟となるはずである。 

 

 

 

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アンドレ・バザンが戦後最高の西部劇と絶賛したバッド・ベティカーの『七人の無頼漢』

日活ロマンポルノ考 堀英三という映画記者がいた

 今年は、映画会社の日活創立100周年に当たり、その一環として、五月には、都内の劇場で、「生きつづけるロマンポルノ」と銘打ち、蓮實重彦、山田宏一、山根貞男の各氏が選ぶ日活ロマンポルノ三十二作品の特集上映が行われる。

 

先日、「キネマ旬報」の<ロマンポルノ特集>の取材で、元日活のプロデューサー・成田尚哉さんに話を聞く機会があった。

成田さんとは世代が近いせいもあり、日活ロマンポルノを最初期から見ている者同士でもあって、往時を振り返りながらのリアルな言葉には、深く共感するものがあった。

 

とくに、セレクトされた三十二作品を見ながらの、次のような感想が強く印象に残った。

「……ピックアップされた、社会的に評価された傑作、秀作といわれる作品だけがロマンポルノではなくて、愚作、珍作、失敗作をぜんぶひっくるめたゴッタ煮のような膨大な作品そのものが僕にとってのロマンポルノなんです。ロマンポルノが撮影所を中心に、人々が映画作りをしたあるエロティックな運動体であったことは間違いないし……、だから、もうロマンポルノを神話化、神格化するのは勘弁してほしいと思っています。」

 

最近、若い世代の映画ファンと話していて、話が通じにくいなと思うのは、最初からロマンポルノを<作家主義的>な見方で特権化し、評価の定まった一部の映画作家・作品のみを顕揚する傾向が目立つことである。なかでも、気になるのは、当時、いかにロマンポルノが、社会的にも不当な差別や偏見に晒されていたかという<現実>があっさりと捨象されてしまっていることだ。

 

そのことで、今、思い浮かぶ、ある光景がある。

二〇〇六年の五月に、ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーで<田中登特集>が組まれた。支配人の石井紫さんの大英断によって実現した名企画で、私はチラシの解説と、三度にわたる田中登監督のトークの司会を頼まれた。

初日に、『(秘)女郎責め地獄』が上映され、主演の中川梨絵さんも来場されて、監督と三十年ぶりの再会を果たし、田中登監督も上機嫌だった。トークが終わって、近所の居酒屋で打ち上げをしていると、一橋大学で映画を勉強しているという女子大生がつかつかとやって来て、映画の感想を述べた。そして、その後ろには、私とほぼ同世代の女性が立っていた。

彼女は、挨拶すると、次のように話し始めた。

「一九七〇年代、私が学生の時に、田中さんの映画の評判は深夜放送などで伺っていて、ずっと見たかったのですが、当時は、女性がロマンポルノの上映館にひとりで見に行くのはとても勇気のいることで、不可能でした。今日は、娘が監督の映画を見に行くというので、無理やり付いてきました。三十数年ぶりに願いがやっと叶いました。映画、とてもすばらしくて感動しました」

 

田中登監督は、彼女の感想を黙って聞いていたが、ちょっと涙ぐんでいたように記憶している。

彼女の発言は、まさに、当時の、とくに女性の映画ファンの心情を代弁していた。ロマンポルノは、若い女性が気軽に見に行けるようなものではなかったのである。

一九七二年のことだが、『一条さゆり・濡れた欲情』『白い指の戯れ』の演技で、伊佐山ひろ子がその年の「キネマ旬報」主演女優賞を受賞するや、ポルノ女優を選出するなどけしからんと、ロートルの映画評論家が選考委員を降りてしまったという笑えないエピソードがあった時代なのだ。

 

成田さんは、日活ロマンポルノは、「朝日新聞で大きく取り上げたりしていたので、一般に認知されて」云々と語っていて、当時の記憶があざやかに甦ってきた。

 

日活ロマンポルノを最初期から熱烈に擁護する映画批評家は何人かいたが、当時、もっとも大きな影響力を持っていたのは、TBSの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティ林美雄さんと、朝日新聞の堀英三という映画記者であったと思う。

 

一九七〇年初頭、私はまだ高校生だったが、その頃が、もっとも熱心に雑誌、新聞の面白そうなカルチャー記事を丹念にスクラップしていた時期で、そのスクラップは今も手許にある。なかでも、朝日新聞の堀英三の記事には注目していた。

私が、堀英三という名前を初めて知ったのは、たぶん、一九七二年の八月、三大紙で初めて日活ロマンポルノを絶賛する批評を目にしたときである。その作品とは藤田敏八監督の『八月はエロスの匂い』だった。

 

「藤田敏八監督、久びさの作品である。やや観念的ではあるが、現代日本社会への洞察と予見に満ちた秀作だ」という冒頭の一節も印象的だが、この批評の眼目は、実は次に引用する最後のくだりにある。

「なお、最近の日活映画の好調ぶりはすばらしい。いわゆる日活ロマンポルノのうち、取上げたのはたまたまこの作品が最初だが、たとえば、今年はじめ公開された神代辰巳監督の『濡れた唇』などは、ここ数年の青春映画の中の傑作の一つである。」

 

 さらに、驚いたのは、この批評が出たすぐ後の夕刊の「芸術」欄に、今度は、堀英三の手になる「秀作つづく日活ロマンポルノ」と題したレポートが載ったことだ。

 

 その冒頭を引用してみよう。

「『濡れた唇』『濡れた欲情』『牝猫たちの夜』『(秘)女郎市場』『白い指の戯れ』『牝猫の情事』など、日活はこの一年間驚くべき集中度で秀作を発表し、同時に神代辰巳、田中登、曾根中生、加藤彰、村川透、藤井克彦、小沼勝、山口清一郎らの若手監督を誕生させた。このような現象は、六〇年前後の大島渚監督ら松竹大船ヌーベルバーグ、六七、八年の小川紳介監督ら独立プロ作家の集中的出現以来のことである。」

 さらに、日活ロマンポルノが性の階層性を鮮烈に浮き彫りにしたことを鋭く指摘して、次のように断言する。

「性だけで人間を描けないのは当然だが、逆に性抜きでは決して人間のすべてを語ることができないとすれば、日活ロマンポルノが、日本映画の未開のトビラをあけ放した意味は大きい」。

 

当時、三大紙でももっとも良識を謳われた朝日新聞に、一記者による、このような挑発的なロマンポルノ礼讃の記事が載ったこと自体、かつてないほどの驚きをもって受け止められたのではないかと想像される。

 

堀英三は、その前後にも、『水俣一揆/一生を問う人々』を完成させた土本典昭へのインタビューと作品評、森崎東監督のインタビュー、原正孝の『初国知所之天皇』、『フェリーニのローマ』の作品評、それに、藤田敏八、金井勝などの映画人の動向をレポートする「映画 ある状況・ある情熱」という連載を手がけているが、これらの記事は、今、読んでも、充分に刺激的だ。 

 

しかし、出る杭は打たれるというか、そのあまりに先鋭的な仕事ぶりが朝日新聞社内で問題視されたようで、その後、しばらくして、堀英三は、朝日新聞本体から、「朝日ジャーナル」編集部へ異動となったという話を聞いた。その後の、彼の消息は知らない。

いずれにせよ、以後、堀英三のようなラディカルな姿勢で果敢に時代と対峙した新聞の映画記者が現われることはなかったように思う。

思えば、「朝日ジャーナル」記者であった川本三郎が、映画化されたメモワール『マイバックページ』で描かれた、朝霞自衛官殺害事件に関連して逮捕されたのも、この時期で、まさに激動の時代だった。

川本三郎さんは、はたして、堀英三とは、深いつきあいがあったのだろうか。

 

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 「生きつづけるロマンポルノ」(C)日活

5/12()よりユーロスペースほかにて全国順次公開

マックス・オフュルスの方へ

 マックス・オフュルスをめぐっては、以前、このコラムでも<国辱映画>『ヨシワラ』を取りあげたことがあるが、私がもっとも心酔し、敬愛する映画作家のひとりだ。

マックス・オフュルスについて書かれたもののなかで、私が、ひと際、印象に残っているのは、植草甚一による『輪舞』『快楽』の批評(『映画だけしか頭になかった』所収・晶文社)の一節である。 

 

「……こういう彼の名前に関連しておかしかったのは『快楽』のタイトルを見ているときであった。

『輪舞』のときと同じようにタイトルはあっさりしているなと思いながら見ていると、二度目にオフュルスの名前が出たときOphülsと書いたUの字のウムラウトが白絵具で消してあるのに、消しかたが下手なのでボンヤリと残っているのである。本当はこう書くのであるが、フランスの活字ではウムラウトのついたUを使うには不便だし、発音はなくても同じなので、いつのまにかOphulsとなってしまったわけである。つまらないことを書き立てているようだが、ぼく自身そうは思っていないのは、Hがなくなったり、ウムラウトが消えてしまうところに亡命映画作家としてのある種の悲しみに触れるような気がするからである。」

 

 こういうフシギな発想、さりげないディテールの記述にこそ、植草甚一の特異な審美眼、映画批評の精髄があるのだと思う。実際、日本でマックス・オフュルスを、その豪奢な装置や流麗なキャメラ・ワークなど<テクニック主義>的な側面から分析した批評家は植草甚一をおいてほかにいない。

 

以前、「フィルムネットワーク」で秦早穂子さんにインタビューした際に、新外映時代に配給した、マックス・オフュルスの遺作『歴史は女で作られる』(55)を試写で見た植草甚一があまりに熱狂し、大絶賛するので、これは当たらないなと直感したら、案の上、大コケしてしまったと苦笑しながら、お話しされていたのを憶えている。

 

 最近、日本スカイウェイから出ているDVD?BOX「巨匠たちのハリウッド」シリーズが、一部の映画マニアの間で話題になっている。エルンスト・ルビッチ、ダグラス・サーク、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、ジョン・ヒューストンといった錚々たる顔ぶれで、しかも、日本未公開作品を中心にピックアップしているのがミソである。

 

 このシリーズで、近々、「生誕百周年記念マックス・オフュルス傑作選」が出る。『笑う相続人』(31)『永遠のガビー』(34)『無謀な瞬間』(49)という、ちょっと信じられないようなプログラムである。

 

『無謀な瞬間』は、オフュルスが亡命先のハリウッド時代に撮った最後の作品で、窮地に陥った人妻ジョ