心のどこかの風景-女性がおしえてくれること-

伝説の映画批評家、内田岐三雄について

 最近、必要があって、戦前の映画雑誌を資料として読むことが多いのだが、とても癖の強いユニークな文体を持つ映画批評家がいたことに気づく。たとえば、淀川長治がもっとも畏怖したと言われる、黄金期の『新青年』で「シック・シネ・シック」なる才気煥発な映画コラムを書いていた南部圭之助とか、吉原帰りに立ち寄った浅草のコヤで、偶然、『抱き寝の長脇差』を見て、天才監督山中貞雄を発見した岸松雄などである。

 

 その岸松雄の『日本映画人傳』(早川書房)は、往年の映画監督、脚本家、俳優たちの魅力的な素顔を描いた交遊録というか独特の味わいのあるポルトレ集で、私の愛読書のひとつである。その中に、ひとりだけ内田岐三雄という映画批評家が入っている。

 

 岸松雄が活き活きと描いたように、内田岐三雄はさまざまな逸話で彩られている伝説の映画批評家で、明治三十四年(一九〇一年)生まれ。幼少期から映画狂いが始まり、府立四中から一高に入る頃には、海外の映画雑誌を読み漁るようになった。すでに、当時、創刊一周年を迎えたばかりの「キネマ旬報」の同人になったというから、かなりの早熟である。

 

東京帝大法学部に入学し、やはり同じく映画狂だった飯島正と知り合い、意気投合、彼に「キネマ旬報」同人になるように勧めたのも内田岐三雄である。

飯島正も、その美しい回想録『ぼくの明治・大正・昭和』(青蛙房)の中で、「この偶然によって、ぼくの映画文筆の仕事の未来は、決定したのである」と書いているほどだ。

 

内田岐三雄は昭和五年から数年間、パリに遊学するが、当時、全盛をきわめたヨーロッパ映画、さらにシュルレアリストたちの手になる日本未公開の前衛映画を見まくったのは、大きな転機になった。松本俊夫さんが、戦後、まもない時期に、古い映画雑誌に載った内田岐三雄訳によるルイス・ブニュエル+ダリの『アンダルシアの犬』のシナリオをむさぼるようにして読んだと回想したエッセイを読んだことがある。

 

内田岐三雄は、小津安二郎のデビュー作『懺悔の刃』を高く評価したことで知られる。さらに、六作目の喜劇『肉体美』を絶賛し、「これは、監督小津安二郎の心境である。……それは、一種の<微笑まれたる侘しさ、やるせなさ>である」と書いた。これは、後期小津の名作群にもあてはまるような先見性を持った卓越した批評ではないだろうか。

 

小津自身も後年、「自作を語る」のなかで次のように語っている。

「当時の旬報に、内田岐三雄がこの作品に名文の批評を書いてくれてね、まだ覚えているよ。自分でも、映画はこういうふうにやればいいのだな、と見当がついて来たんだね」

 

 とりわけ、内田岐三雄の功績で特筆すべきは、あの伝説の女優、及川道子を清水宏に紹介し、清水の『不壊の白珠』でデビューさせたことだろう。数年前、フィルムセンターで、このサイレント映画を見たことがあるが、及川道子は眩いばかりに美しかった。

 

 最近、近所の古本屋で、その内田岐三雄の『欧米映画論』(昭和十年刊、書林絢天洞)を格安で見つけた。しかも、葦原英了への著者献辞付きである。

 第一章が「前衛映画」、第二章が「ルネ・クレール」、第三章が「アメリカ映画」、第四章が「欧米映画雑記」という構成になっており、第一章で取り上げられているアルベルト・カヴァルカンティの『時の外何物もなし』やジャン・ヴィゴの『ニースについて』などの論評は実際に作品を見ているから、その臨場感にあふれた記述には説得力がある。

 

しかし、この映画評論集で、私がもっとも心を惹かれたのは、「欧米映画雑記」の章である。これまで聞いたこともないようなサイレント時代のチェコやポーランド・ベルギー、スウェーデンなどの東欧、北欧映画の作品評が載っているのだが、内田岐三雄は、まるで、あたかも、その情景が眼の前に浮かんでくるように再現する、端倪すべからざる筆力があるのだ。

 

たとえば『トニシェカ』というカレル・アントン監督のチェコ映画の評論を読めば、田舎の村から都会に出て、娼婦に落ちぶれ、初恋の男とも別れさせられて、失意のどん底で息絶える薄幸のヒロインを演じたイタ・リナという女優のことが忘れられなくなってしまうだろう。この一文は、『視覚的人間』(岩波文庫)でベラ・バラージュがアスタ・ニールセンに捧げた熱烈なオマージュに匹敵すると思う。

 

私がサイレント時代の作品でもっとも見たいと思っている『エロチコン』という映画がある。伝説の女優ヘディ・ラマールがオール・ヌードになった問題作『春の調べ』で一躍センセーショナルな話題をさらったグスタフ・マハティの作品で、日本ではあまりにエロティックなために未公開となったと言われる幻の映画なのだが、内田岐三雄は、そのクライマックスを次のように書いている。

「……筋としては大したことはないのだが、前記の雨に降りこめられた小屋の内で娘と青年とが愛の一夜を過ごすという場面が、マハティー一流の大胆で徹底した、強烈な描写なのである。隣り合った二室のベッドの上で互いに転々反側して欲望に悶える二人の描写から遂に二人が抱き合い、それから二人の歓喜の姿が互いの頭部と顔のアップを以って現される、――という場面がこれで、これは『春の調べ』で妻が小屋に他の男を訪ねてから歓喜の一夜を送る場面と、正しく匹敵するものである。それから此の『エロチコン』で、も一つの大胆な描写があるのは、娘が男の胤を宿して、それを産み落とすときのものである。……主役の女に扮するのはチェコスロヴァキアの最大の女優と称せられるイタ・リナで、『春の調べ』のヘディー・キースラーの如くに豊麗な姿態をし、それに更に鋭い表情と、うずく様な肉欲をそなえた、演技も立派な素晴らしい女優である」

 

 この刺激的な一文を読めば、『エロチコン』という映画がますます見たくなるが、と同時に、ジャン・ヴィゴの名作『アタラント号』で別れたディタ・パルロとジャン・ダステがそれぞれのベッドでお互いのイメージを抱きあい、身悶えながら何度も寝返りを打つ姿をカットバックでとらえた官能的なシーンを思い浮かべないだろうか。

 もしかしたら、ジャン・ヴィゴは、『エロチコン』を見て、あの名状しがたいエロティックな情景を創造したのではないかと妄想に耽ったりもするのである。

 

 内田岐三雄は、終戦の年、松竹大船を辞めて、京浜地方の軍需工場に務めていたが、七月三十日、工場を休み、平塚の妻の実家にいた。空襲警報が鳴り、妻子だけを防空壕に避難させた内田は本を整理すると言って座敷に留まったが、そこへ爆弾が投下された。爆風で家は潰れ、その下敷きになった彼の上に敵機が猛烈な機銃掃射を浴びせて去った。享年四十四歳。

「大変惜しい男だった」と小津安二郎は嘆いたそうである。

 

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内田岐三雄著『欧米映画論』(昭和十年刊、書林絢天洞)

 

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松竹蒲田撮影所を訪れた内田岐三雄、左は談笑する田中絹代

エノケンの弟子としての内藤陳

 暮れも押し迫った十二月二十八日、内藤陳さんが亡くなった。新聞の訃報記事では日本冒険小説協会会長、『読まずに死ねるか!』シリーズの書評家としての活躍ぶりがクローズ・アップされていたが、たしかに「トリオ・ザ・パンチ」全盛期のコメディアンとしての彼を知るのは、恐らく私の世代ぐらいが最後ではないだろうか。 

 

 内藤陳さんがエノケン(榎本健一)の最期の弟子であったことは一部では知られているが、実際にどのような師弟関係にあったのかは不分明なままである。そこで、ふと、昔、『月刊イメージフォーラム』(一九八三年四月号)で「喜劇 笑いのアクション」という特集を組んだ時に、内藤陳さんのロング・インタビューに立ち遭ったことを思い出した。 

 

聞き手は初代編集長で内藤陳さんと親しいかわなかのぶひろさん、編集長の服部滋さんで、私はテープお越し要員みたいなものだったが、今、読み返してみると、エノケンと舞台への深い愛情が伝わってくる、出色のインタビューである。

 

たとえば、次のような発言には、当時の「MANZAI・ブーム」をクールに観察している内藤さんの視点が光っている。

「今のテレビ育ちのコメディアンの方は、恐らく徐々に全部駄目になっちゃうと思うんですよね。俺たちは舞台の空間を動き、蹴り、飛び上がりしてやったでしょう。毎日が客相手の舞台だから、毎日試行錯誤しながら、よりいいお笑いにもっていけるわけね。だって少なくとも毎日一回は駈け上がってサービスするとか、一回はその辺からボーンとジャンプして正座したまま坐るとか、遊べたものね。それはそのコメディアンが毎日稽古してるのと同じだからね。だから、未だにやれるんじゃない。」

 

 さらにエノケンの芸は継承されるのかどうかという問いに対しても。

「したいですね。したいけど残念ながら時代が悪いですね。……中略……親父がもっていた親父の笑いと僕のねらっているのとは違うけど、基本的な精神だけはね。それから、そんなカッコいいことを言ってるけど動けることも事実だっていう自信もあるしね。だから早くヨボヨボにならないうちにもっと頑張らなくちゃいけないんだけど、飲んべえだし、ものを食わないし、本が好きだし(笑)、なにしろコメディアンが本を読んでいると不思議に思われる時代だから(笑)」

 

 一九六〇年代当時、日劇ミュージックホールで人気絶頂だった「トリオ・ザ・パンチ」のコントにも、その精神は注入されていたとおぼしい。

「僕はだからもし(お客が)お判りにならなくてもいいと――、例えば、フィリップ・マーロウの台詞ね、それから007の動きね。それからジョン・フォードの西部劇の詩情、男の魂ね。ちょっとオーバーだけど、そういうものをひっくるめて映画的手法で演ってましたね。」

 

 このインタビューを終えた後、新宿ゴールデン街にある内藤陳さんが経営するバー「深夜プラスワン」に連れて行かれた。その後も何度か顔を出すようになったが、この時期の「深夜プラスワン」は北方謙三や矢作俊彦が常連でカウンターに居座っており、喧喧諤々の議論も日常茶飯事で、全国各地から冒険小説ファンが聖地巡礼のように集まる、一種の聖域のようなアウラが漂っていた。カウンターの中にはバイトでまだ学生だった坂東齢人がいて、並み居る作家たちに議論を吹っかけていたのをよく憶えている。後に『不夜城』で鮮烈なデビューを飾ることになる馳星周である。

 

 最後に内藤陳さんに会ったのは、二〇〇九年四月、新宿で開催された「イメージフォーラムフェスティバル」である。かわなかのぶひろさんの新作『酒場♯「汀」渚ようこ新宿コマ劇場公演「新宿ゲバゲバ・リサイタル」』が上映された時のことだ。この作品は、前年に、閉館が決まった新宿コマ劇場で念願のコンサートを実現させた歌手渚ようこさんの舞台裏を独自の視点で追ったドキュメンタリーである。内藤陳さんは、この舞台で十八番である西部劇の早撃ちコントを披露しているのだ。

 この上映の後に、かわなかさんと渚ようこさん、内藤陳さんのトーク、さらに渚ようこさんのミニ・ライブもあり、映画『連合赤軍・あさま山荘への道程』で流れた、「ここは静かな最前線」が聴けたのも嬉しかった。

 

 トークが終わって、ひさしぶりに会ったかわなかのぶひろさんに挨拶したところ、「これから打ち上げがあるからつきあわない?」と声をかけてくれたので、参加することにした。渚ようこさんとも初めて話したが、伝説のジャズシンガー安田南への憧れを滔々と語っていたのが印象的だった。遅れて来た世代である彼女は、林美雄の「パック・イン・ミュージック」はリアルタイムでは知らないものの、サブ・カルチュアが最も輝やいていた一九七〇年代への熱い想いがうかがえた。

 

 すっかり酔いが廻り、終電の時間も過ぎてしまって、これは長丁場を覚悟しなければならないな、と思ったところで、かわなかさんが「陳さんが待っているから、これから『深プラ』へ行こう」と言い出し、二十年ぶりぐらいに『深夜プラスワン』へ顔を出した。

この頃、内藤陳さんは、すでに食道ガンの告知をされていたはずだが、いたって、お元気な様子だった。昔のように、客を恐持てで諭すようなこともなく、カウンターの向こうで、グラス片手に柔和に微笑んでいた。

 その夜は、延々とゴールデン街のお店をハシゴする癖のあるかわなかさんとも、いつしかはぐれてしまい、最後は渚ようこさんの経営する「汀」に流れて、酔った勢いで、渚さんに「あなたは荒木一郎の「めぐりあい」と石原裕次郎の隠れた名曲「憎いあんちくしょう」をレパートリーに入れるべきです」などと話したのを憶えている。

 

 内藤陳さん独特のダンディズムあふれる笑いは、『月刊イメージフォーラム』でインタビューした時代には、すでに時流とは合わなくなっており、そのギャッップをめぐる絶望の深さが『深夜プラスワン』の経営や冒険小説への耽溺に拍車をかけたのかもしれない。

 その意味では、かわなかさんが撮った実験的ドキュメンタリー『渚ようこ「新宿ゲバゲバ・リサイタル」』は、内藤陳さんのコメディアン・舞台人としての最期の雄姿が見られる貴重な映像作品でもある。この映画は、この年の山形ドキュメンタリー映画祭でも上映され、好評を博したはずだが、以後、都内でも上映される機会が少ないようである。追悼の想いも込めて ぜひ、見てみたいと思う。

遅ればせながら矢島翠を追悼する

 今年も数多くの映画人の訃報に接した。八月三十日には、矢島翠が呼吸不全で亡くなっている。享年七十九。ああ、間に合わなかったという思いがこみあげてきた。

実は、数年前から、矢島翠の映画エッセイ集をつくりたいと思っていたからである。

 

新聞の訃報では、評論家の故加藤周一のパートナーであることばかりが強調されていて、名著『ヴェネティア暮し』(平凡社ライブラリー)を始めとする彼女の優れた仕事について言及したものはほとんどなかった。まともな追悼文すら出なかったのではないだろうか。

 

矢島翠は、『現代のシネマ・アントニオーニ』(ピエール・ルブロオン著、三一書房)、ルイス・ブニュエルの自伝『映画 わが自由の幻想』(早川書房)などの優れた翻訳者としても知られるが、私にとっては、なによりもまず、戦後最高の女性映画批評家であった。とくに、小川徹が編集長として辣腕をふるっていた一九六〇年代半ば頃の『映画芸術』では、ほぼ毎号のように映画評論を書いており、どれも読みごたえがあった。

 

この頃の『映画芸術』については、三島由紀夫の次の評言が正鵠を得ている。

「『映画芸術』という雑誌は全く面白い雑誌で映画をサカナにして、竹林の七賢人が、浮世離れのした高遠な議論を毎号やっている。浮世とは低俗なる大衆であり、その低俗なる大衆の無意識の部分を、知的に、あるときは社会科学的に分析して、とんでもない結論をみちびき出す。その結論がとてつもなく面白い。世間で悪評高く大コケにコケた映画がここでは傑作の折紙をつけられたりする。なまぬるい良識派の映画批評や、平和主義と見せかけながら政府の文化政策のお先棒をかついでいるような映画批評は、ここには見当たらない。」

 

恐らくは、小川徹自身の<文芸コンプレックス>のなせるわざでもあったのだが、六〇年代の『映画芸術』は、高名な文学者や哲学者、文芸評論家などによる<局外批評>が主流を占めていた。しかし、こうした<裏目読み批評>の大半は、その悪しき<政治主義>ゆえに、今となってはまったく読むに耐えるシロモノではない。だが、矢島翠の映画批評には、そうした時代思潮には左右されない、しなやかな知性と批評精神が脈打っており、今、読んでも、充分に刺激的なのである。

 

なかでも、吉田喜重とミケランジェロ・アントニオーニについての優れた論考が多かった。

たとえば、今、私の手許にある『映画芸術』(一九六七年八月号)は、「アントニオーニ 日本での9日間」という特集が組まれ、『欲望』の公開に合わせて来日したアントニオーニに、吉田喜重がインタビューした記事が載っている。これは、かつて吉田喜重が書いたアントニオーニ論を矢島翠がフランス語に訳してアントニオーニに送ったところ、彼がとても秀逸な批評であると高く評価したことから実現したものである。

 

矢島翠には『出会いの遠近法――私の映画論』(潮出版社)という映画評論集がある。追悼の思いもこめて、ひさびさに読み返してみたが、黒澤明、今村昌平、大島渚から若松孝二までを視野に入れて、日本映画における<母性信仰>を批判的に検証した「勤勉な巫女たち」がやはり圧倒的だ。

アントニオーニと吉田喜重の映像には<女の視線によるエロティシズムがふくまれている>という仮説から論をすすめる「現代映画にあらわれた性」も、フロイトや柳田國男の『妹の力』、吉本隆明の『共同幻想論』を自在に引用しながら、まったく晦渋さを感じさせない平易な語り口で、映画におけるセックスの主題を深く追求している。

 

なかでも「思慕の流れ――フランソワ・トリュフォーの世界」は、トリュフォーの映画における<女の顏>へのオブセッション、そして<トリュフォーの描く弱い男たちは、?棄てられた少年?の遠い記憶を、その内部にもっている」という指摘には深く啓発させられた。

 

「そして何も変わらなかった――ジョセフ・ロージーの世界」も、赤狩りでアメリカを追われたロージーの<独特の女性嫌悪>を読み解きながら、傑作『恋』を周到に分析したくだりには感嘆させられた。達意の日本語によって書かれた批評を読む悦びというものを味わった気がする。

 

 そういえば、幼少時から矢島翠と親交があり、名文家として知られた須賀敦子は『ヴェネティア暮し』の解説の中で、「対象を忍耐ぶかくじっくり見定める著者の、まれな教養と素質が、爽やかな理性に支えられてどの章にも光を放っている」と書いている。矢島翠の映画批評の魅力は、まさに、「まれな教養と素質が、爽やかな理性にささえられて」いるところにあるのだ。

 

 私は、一度だけ、矢島翠と言葉を交わしたことがある。もう、十五、六年ほど前になるが、ヴェネティア映画祭グランプリを獲った台湾の鬼才ツァイ・ミンリャンの『愛情萬歳』が公開された時のことだ。配給会社のプレノン・アッシュから劇場用パンフレットの編集を頼まれた私は、ぜひ、矢島翠に作品評を書いてもらおうと思った。

というのも、急激な高度成長を遂げた台北を舞台に、高級マンションをセールスする若い女性の空漠とした内面と凄絶な孤独を描いたこの傑作は、<愛の不毛三部作>を撮っていた頃のアントニオーニを、否応なく思い起こさせたからだ。

 

たしか、試写の後で、お茶に誘って、感想を尋ねた記憶があるのだが、その時に、矢島翠が、開口一番、言った言葉が忘れられない。

「アントニオーニじゃなくて、蔵原惟繕に似ているわね」

 

まったく意外な指摘だったが、考えてみれば、たしかにマレーシア出身で、台北に留学したツァイ・ミンリャンが描く無機的な都市景観と、ボルネオで生まれた蔵原惟繕が『憎いあンちくしょう』等で追求した観念至上的な愛のモチーフは、自分の居場所を<異郷>として眺めてしまう根無し草のような虚ろさ、コスモポリタンな感覚が漂っている点ではとても似ているという気がする。

 

 結局、矢島翠には作品評は書いてもらえなかったが、その代わりに彼女を深く尊敬していた故石原郁子さんが見事な批評を寄せてくれた。石原さんは、すでに『アントニオーニの誘惑――事物と女たち』(リュミエール叢書・筑摩書房)を上梓していたが、たしか、この著作は矢島翠に捧げていたはずだ。

 

 その後、矢島翠は、フランス映画社の完成披露試写の際に、足元がおぼつかない加藤周一を支えるようにして一緒に見に来ているのを、たびたび見かけたぐらいで、彼女自身、その頃は、もはや映画について書くこともほとんどなかったように思う。

 

『出会いの遠近法』はすばらしい映画評論集だが、長編エッセイが中心で、一九六〇年代の『映画芸術』に書かれた膨大な時評、作品評はまだ手つかずのままである。フェミニズムなどという言葉がまだ一般に認知されていなかった時代に、矢島翠は、<女であること>の甘えや虚栄を排し、自らの女性性を深く認識しながら、柔らかな批評言語を研ぎ澄まし、果敢に闘ったといえるだろう。その業績を決して忘れてはならない。

 

 

 

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矢島翠著『出会いの遠近法――私の映画論』(潮出版社)

 

 

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矢島翠(左)と小川徹

 

 

花田清輝の映画的思考とは何か

 毎年、暮れも押しせまり、十一月も半ばを過ぎると、喪中につき年賀欠礼のハガキが届くようになる。いたずらに馬齢を重ねるばかりだが、今年はとくに多いような気がする。そのなかに今年の五月、花田黎門さんの逝去を報せるハガキがあった。
 花田黎門さんは、花田清輝のただひとりの御子息で、著作権継承者でもある。レイモンという変わった名前は、むろん、レイモン・ラディゲからとられている。『自明の理』など初期の著作にはラディゲがよく引用されていたことが思い出される。

 私は、数年前、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』(小社刊)を編集した際に、一度、御自宅に出版の許諾のお願いも兼ねて、ご挨拶にうかがったことがある。
 花田清輝のエッセイによく登場する小石川の住宅街にひっそりとある瀟洒なご自宅で、黎門さんからお聞きした生前の花田清輝をめぐるエピソードがゆくりなくも記憶の底からよみがえってくる。 

 花田清輝の著作をもう四十年近く読み続けているが、まったく飽きることがない。折に触れて読み返すたびに、さまざまな刺戟を受けるのだが、そういう文学者はほかにそういるものではない。

 花田清輝には、ルネッサンスをモチーフにした『復興期の精神』のような掛け値なしの名著もあるが、映画のエッセイのほうが、一般には親しみやすいだろうという判断から私なりの視点で、『ものみな映画で終わる』をまとめたのである。その背景には、漠然と、この十数年、記号分析のような小賢しい映画批評やら、気色悪い多幸症的なグルメ趣味みたいな文章が跋扈し始めたことへの反撥もあったかもしれない。

 花田清輝の映画エッセイの魅力とは、G・K・チェスタートンやオスカー・ワイルドを思わせる諧謔と逆説、アイロニーに満ちた豊かな批評精神が息づいていることだ。この映画はこう見ろ、という教条主義や独断専行に走ることなく、ああでもない、こうでもないというふうに、一見、のらりくらりと逸脱を繰り返しながら、常に、読む側の視点を解放させ、不断に新たな<読み>を提示するような、のびやかな批評精神が、どんなエッセイにも見出せるのである。 

たとえば、クロード・シャブロルの『いとこ同志』と松竹ヌーヴェル・ヴァーグを比較した時評では、前者にある「敵を味方の眼でみるとともに、味方を敵の眼でみることを忘れないバルザック的なリアリズム」こそ、後者に欠けているものだという鋭い指摘はいまなお新鮮である。

 小林信彦さんとの論争のきっかけとなった映画時評では、「しかし、それにしてもシャブロルとヒッチコックとではくらべものにならない。一方は、やせたりといえども、ちゃんとした芸術家であるのに反し、他方は、デブの職人にすぎないではないか」などど、「カイエ」の<作家主義>を信奉する無邪気なシネ・フィルが読んだら卒倒しそうなことを平気で書いている。
 しかし、花田黎門さんにお話をうかがったところ、実は、花田清輝は、ヒッチコックが大好きで、テレビの『ヒッチコック劇場』などは毎週欠かさず見ていたそうである。

 小林信彦さんがデビュー評論「ヒッチコックと『二重の鍵』」で暗に批判した花田清輝の「ヒッチコックの張扇」という悪名高いエッセイがある。これなども、一見、ヒッチコックの無思想性を批判しているかのようだが、子細に読めば、「本来、娯楽というものは、エッセンスのかたちで示された、芸術にほかならない。したがって、娯楽作品の作り手たちは、否応なしに、かれの芸術家としての正体を、人眼にさらさなければならなくなる。」という一節などは、そのまま「娯楽奉仕の心構え」に殉じたヒッチコックへの屈折したオマージュとも読めるのである。  

『勝手にしやがれ』で、パリの街中を行き当たりばったりにさまようジャン=ポール・ベルモンドの歩行と、ディグレッションとしての自分の批評の在り方がまったく瓜二つであることを告白した「ベルモンドよ!」というエッセイも印象深い。花田清輝は、『勝手にしやがれ』のベルモンドの無造作な死にざまと、『灰とダイヤモンド』で、ズビグニエフ・チブルスキーが演じたテロリスト、マチェックの「最後まで、英雄主義の残滓がこびりついてはなれない」悲愴な死にざまを比較し、ベルモンドへの深い共感を語っていた。 

 ここで、あらためて『灰とダイヤモンド』を批判した「無邪気な絶望者たちへ」というエッセイが思い出される。しかし、花田黎門さんによれば、昔、公開時に、『灰とダイヤモンド』を一緒に見た記憶があり、その時には、深く感動していたそうである。恐らく、花田清輝は、当時の知識人たちが、『灰とダイヤモンド』をあまりにセンチメンタルに、あるいはロマンティックに手放しで礼讃する風潮に腹が立ち、あえて嫌われ役を買って出て、そのヒロイックな感傷性を批判する役割を演じたのかもしれない。

 花田清輝には、「イジワルジイサン」と称されるほど、老獪でひねくれた皮肉屋な面をことさら露悪的に誇示するところがあった。私は、その辛辣きわまりないアイロニカルなユーモアは、なんとなくロバート・アルトマンの映画に似ているなとずっと思っていた。
 すると、黎門さんは、父親とふたりで最後に見た映画がアルトマンの出世作『M★A★S★H』で、花田清輝は面白がって、大絶賛していたという。なんだか、すっかりわが意を得たりという気分になってしまった。

 黎門さんにお会いしたとき、息子の花田十輝さんの『お嬢様特急』という文庫本をいただいた。花田十輝さんはゲーム、アニメの原作者としては大変な人気作家らしく、花田清輝も漫画映画論をずいぶん書いていたし、やはり、血は争えないなと思ったが、黎門さんの話によれば、なんと「おじいちゃんの本は一冊も読んだことがない」そうである。

 奥様のお話では、花田清輝の著作権は、その花田十輝さんが引き継いだとのことである。

 

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『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』

ラディカルな映画史家としての竹中労

 最近、新作『明日泣く』の公開に合わせ、内藤誠監督の書き下ろしのエッセイ集『偏屈系映画図鑑』(キネマ旬報社)を編集した。内藤監督の東映時代を中心としたメモワールだが、打ち合わせの際、竹中労がプロデュースした山下耕作監督の『戒厳令の夜』のヨーロッパ篇を、実は、内藤監督が撮る予定だったという話をうかがい、急遽、竹中労をめぐる思い出を書き加えていただいた。  

 

 というのも、近年、若松孝二の『時効なし』(ワイズ出版)、中島貞夫の『遊撃の美学』(ワイズ出版)といった映画監督の聞き書きによる回想録を読むと、プロデューサーとして関わった竹中労への激越な批判がなされ、長年のファンとしてはちょっとやり切れぬような複雑な想いを抱いていたからである。

 伊藤大輔監督が撮るはずだった『祇園祭』をはじめとして、竹中労が製作に関わった映画はなぜか必ずトラブルに見舞われるのである。恐らく、彼が夢想する、あまりに常軌を逸した映画製作へのロマンティシズムは、映画の現場というリアリズムの前ではもろくも潰え去ってしまう運命にあるかのようなのだ。

 

 今年は、竹中労の没後二十年に当たる。最近、『KAWADE道の手帖・竹中労没後20年・反逆のルポライター』なるムックも出たが、今、若い世代にとって竹中労はどのようなイメージでとらえられているのだろうか。

 

 私が竹中労の名前を初めて知ったのは、一九六〇年代の終わり頃、『話の特集』に連載されていた「メモ沖縄」によってである。まだ返還前の沖縄に現地取材し、そのアメリカ軍基地に占領された生々しい実態を活写したアジテーショナルな文体にすっかり夢中になり、一時は、竹中個人が発行していた「蝶恋花舎通信」なる小冊子まで定期購読していたほどだ。

 

 そして、一九七〇年代に入ると、いよいよ『キネマ旬報』で竹中労の渾身のライフワークともいうべき怒涛の連載「日本映画横断」と「日本映画縦断」が始まる。竹中労のすべての著作のなかで代表作といえるのは『傾向映画の時代』『異端の映像』『山上伊太郎の世界』の<「日本映画縦断」三部作>(白川書院)と『鞍馬天狗のおじさんは――聞き書きアラカン一代』(ちくま文庫)に違いないが、私は、一九七一年に始まった連載「日本映画横断」も竹中労の筆が冴えわたった傑作だったと思う。 

 

 第一回の「『儀式』と斎藤龍鳳の死」に始まり、「大川博の死と東映任侠路線」「無残なり佐藤重臣!」「黒澤明★一時代の終焉」「天使の?誤爆?をめぐって」「『夏の妹』と創造社」「大島渚を撃つ!」といった刺激的なタイトルを並べただけでも、一九七〇年代初頭の映画界の混沌とした状況が浮かび上がってくるかのようだ。

 とくに『儀式』のカンヌ出品問題をめぐって大島渚をゴシップ風におちょくった映画評論家の佐藤重臣を「このあわれな糞袋、佐藤重臣よ!」などと最大級の罵倒を重ねながら、ユーモラスに笑殺しきった竹中ブシには、思わず爆笑してしまった記憶がある。

 

一方で、その盟友であったはずの大島渚が『夏の妹』で沖縄を矮小化して描いたために、筆鋒鋭く批判し、さらに、訣別にいたるまでが、刻々と毎号、誌上でドキュメントされるのである。それは、まさに<ケンカ屋・竹中>の異名をとる竹中労の真骨頂であった。

 

 この白井佳夫編集長時代の『キネマ旬報』は、ほかにも山田宏一の「シネ・ブラボー!」、小林信彦の「架空シネマテーク」、渡辺武信の「日活アクションの華麗な世界」などの滅法面白い連載が目白押しで、毎号、狂喜しながら読んでいたものである。

 

ところが、一九七七年、当時、「キネマ旬報」のオーナーであった大物総会屋・上森子鉄が、突然、竹中を<左翼過激派>と称して、「日本映画縦断」の打ち切りを宣言し、白井佳夫も編集長を解任されるという事件が起きた。いわゆる<「キネマ旬報」事件>である。

 

竹中労は上森子鉄を相手取って裁判に持ち込み、一九八七年にはようやく和解に至るのだが、その間、竹中が映画について書く機会はめっきり減ってしまった。

 

その後、一九八〇年代に入ってから不定期刊の映画雑誌『ムービーマガジン』に、竹中労の「映画街縦断」という連載が始まった。今、手許にあるバックナンバーを眺めると、竹中の<サヨナラ「上板東映」>という長編レポートが載っている。この今や伝説となっている名画座にはずいぶん通いつめたものだが、竹中労の苛烈極まりない怒号が舞台で飛びかった、このオールナイト上映会には私も立ち遭っている。

 

その後、竹中労が、私の視界に大きく浮上してくるのは、一九九〇年代に入ってからのテレビの深夜討論番組においてである。当時、すでに肝臓ガンに冒され、余命数ヶ月と宣告されていた竹中労は、さまざまな時局的なテーマについて熱弁をふるったが、かつての過激な挑発的言辞は鳴りをひそめ、まるで孤高の名僧の説教を聴いているような静かで説得力のある語り口に魅了された。

 

その頃、私はビデオ業界誌『AVストア』の編集長をしていたが、猛烈に竹中労に映画のエッセイを書いてほしくなった。テーマはなぜか内田吐夢と決めていた。『日本映画縦断』シリーズが頓挫してしまった後、竹中労が最後に準備をしていた映画の本は『内田吐夢・評伝』だったはずだから。 

 

原稿依頼をすると、竹中労は快諾してくれた。そして、原稿が出来上がると本人から電話があり、「もし、よければ、テレビ討論のある夜にテレビ局まできてくれないだろうか、その時に、少し映画の話をしよう」と言ってくれたのだが、私の方でどうしても都合がつかず、結局、ファックスで送ってもらうことにした。

 

届いた原稿は傑作『妖刀物語・花の吉原百人斬り』についての見事なエッセイであった。そして、レイアウトされた初校のゲラが戻った時に、なによりも驚いたのは、竹中自らが、改行の手前、末字が一字だけはみ出した個所などをすべて訂正して丁寧に送り込み、少しでも活字が美しく整然と見えるように細心の配慮がなされていたことだ。この人は、こういう繊細な美意識の持ち主なのだとあらためて深い感銘を受けたのだった。

 

この原稿を受け取ってから三か月後、一九九一年五月十七日に、竹中労は亡くなった。

間違いなく、この美しいエッセイは、竹中労の映画に関する絶筆であるはずだ。

 

『キネマ旬報』のアクチュアルな連載「日本映画横断」、そして『ムービーマガジン』の「映画街縦断」をはじめ、竹中労が映画について書いた膨大な原稿は未だに単行本未収録のまま手つかずになっている。  

 これまでの旧弊な日本映画史を刷新してしまったラディカルな<映画史家>竹中労の偉大な業績を、今後、次の世代にどのように伝えていくのか。それは私のような同時代に彼により多大な恩恵を蒙った者に課せられた責務でもあると思っている。 

 

 

 

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伝説のルポライター、映画史家だった竹中労

 

 

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竹中労の名著『鞍馬天狗のおじさんは――聞書アラカン一代』(ちくま文庫)

 

ジョーン・ディディオンによる<喪の仕事>

 ほんとうに久々だが、ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』(慶應義塾大学出版会)という新刊が出た。

 ジョーン・ディディオンといえば、カウンター・カルチャーが隆盛の兆しをみせていた一九六〇年代、サンフランシスコのヒッピーたちの生態を活写したニュー・ジャーナリズムの古典『ベツレヘムへ向け、身を屈めて』(筑摩書房)や、『60年代の過ぎた朝』(東京書籍)、そして『日々の祈りの書』(サンリオ)などの小説家として知られている。

 

 なかでも、ポーリン・ケイルの『今夜も映画で眠れない』、ノラ・エフロンの『ママのミンクはもういらない』などと共に「アメリカ・コラムニスト全集」の一冊として刊行された『60年代の過ぎた朝』(原著名は『ホワイト・アルバム』)は、ブラックパンサーの青年の警官殺し、『氷の上の魂』で時代の寵児となったエルドリッジ・クリーヴァーの訪問記、ドアーズのジム・モリソンのレコーディング風景、チャールズ・マンソン一家によるシャロン・テート惨殺事件などがスケッチされ、一九六〇年代アメリカの不穏な空気をもっとも鮮やかに伝えるコラム集として、ひときわ印象深い。

 

 しかし、『悲しみにある者』は、クールで鋭い時代観察者としての盛名を誇っていた彼女のそれまでの作品とはまったく趣きが異なる。

 ニューヨークのICU(集中治療室)で、一人娘のクィンターナが敗血症性ショックと肺炎で生死の境をさまよっているさなかの二〇〇三年十二月三十日、病院から帰宅して一緒に食事中の夫ジョン・グレゴリー・ダンが心臓発作に襲われて急逝する。そして、その翌年にはクィンターナが死去するのだ。

『悲しみにある者』は、ジョーン・ディディオン自らが主人公となり、愛する家族を相次いで失った耐え難いまでの喪失感とその心かき乱す悲哀の意味を、真摯に探究したノンフィクションなのである。

 巻頭で彼女は次のように宣言する。

 <この本で私がしようと思っているのは、その事の起きた後の時期の意味を理解することだ。私がそれまで抱いていた「死について、病について、蓋然性と巡り合わせについて、幸運と不運について、結婚と子どもたちと思い出について、悲しみについて、人々の命は尽きるものだという事実を扱ったり扱わなかったりする仕方について、正気であることの皮相さについて、そして命自体について」のいかなる固定観念をも解き放った、その事の起きた後の数週間、数か月間を理解することだ。>

 

 たとえば、ふたりの<死>の前後のなまなましい凄絶な記憶が喚起され、さらに、フラッシュバックのように、一九五〇年代の思春期、六〇年代、七〇年代の家族をめぐる甘美で至福に満ちた回想、情景が奔放かつ自在に流れ込んでくる。ジョーン・ディディオンの文体は、シュールレアリストのそれによく比較されるが、この本における「シークエンスをめちゃくちゃにし、今の私に浮かんでくる記憶のコマをすべて同時に読者に示す」ような独特のスタイルを自ら、映画の「編集室」に譬えているのは、むべなるかなと思う。

 

 というのも、ジョーン・ディディオンと夫の作家ジョン・グレゴリー・ダンの名前は、一部の映画ファンの間では、幾つかの話題作を手がけているシナリオライター・コンビとしてよく知られているからである。

 

 たとえば、バーブラ・ストライザンドが主演した『スター誕生』(76)、ジョン・グレゴリー・ダンの書いた小説が原作のロバート・デ・ニーロが主演した『告白』(81)、ロバート・レッドフォード、ミシェル・ファイファー主演の『アンカーウーマン』(96)と題名を挙げると、典型的なハリウッド作品が多いが、私がもっとも記憶に残っているのは、アル・パチーノが初めて日本で紹介された『哀しみの街かど』(71)という映画だ。

 

 ニューヨークを舞台に、中絶手術をして心身ともにボロボロになった少女(キティ・ウィン)とヘロイン中毒者の青年アル・パチーノが出会い、パチーノにひきずられるように彼女も麻薬の世界に堕ちていくという悲惨な話だったが、冷え冷えとした酷薄なニューヨークの風景をとらえたルックが目にしみるようで、当時、新鋭だったジェリー・シャッツバーグの監督作品としては、代表作『スケアクロウ』(73)よりも、私はこの小品のほうがはるかに好きだった。なによりも大都会の片隅で、怯えた小動物のようにちぢこまって生きているカップル、とくにキティ・ウインの繊細なカラス細工を思わせる透明感をたたえた美しい眼差しが忘れがたい。

 

『哀しみの街かど』は、一九七〇年代の半ば頃、名画座で出会って以来、その後、見ていないのだが、今、思えば、この孤独なカップルをみつめる独特のクールで親密な眼差しには、『60年代の過ぎた朝』などの一連のノンフィクションで、六〇年代カウンター・カルチャーの光と闇、若者たちの荒涼たる精神の内実をアイロニカルにとらえたジョーン・ディディオン独自のダブル・ビジョンが反映されていたような気がする。

 

『悲しみにある者』は二〇〇五年に刊行されるや、全米図書賞(ノンフィクション部門)を受賞し、ジョーン・ディディオンの著作としては稀有なことに大ベストセラーとなった。さらに、ディディオン自身が本書を劇化して、初演では彼女の親友ヴァネッサ・レッドグレーヴがヒロインを演じたことも大きな話題になった。その際の彼女のインタビューやヴァネッサの舞台の断片を、ユー・チューブで見ることができるが、老境を迎えても、ジャンルを横断して果敢に生きるジョーン・ディディオンの姿には感動を禁じ得ない。

 

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ジョーン・ディディオン著『悲しみにある者』(池田年穂訳・慶應義塾大学出版会)

 

エリザベス・ボウエンの『日ざかり』が映画になっていた

『新潮』の十一月号で長谷川郁夫の新連載「吉田健一」が始まった。長谷川郁夫は、今や伝説的ともいえる元小澤書店の社主であり、「ポエティカ」など吉田健一の著作を数多く手がけた編集者だった。すでに伊達得夫や堀口大学の優れた評伝の書き手としても知られているだけに、この特異な文学者の評伝はどうやら決定版という趣きさえ感じられる。

 

 吉田健一の小説では『金沢』『東京の昔』『瓦礫の中』が代表作として挙げられるが、私は『残光』(中央公論社)という短篇集が好きだ。

 種村季弘は名著『書物漫遊記』(筑摩書房)の中で、この短篇集の得もいえぬ魅力を絶妙な語り口で紹介しているが、吉田健一の「或る田舎町の魅力」という稀代の名エッセイを知ったのも、この種村のエッセイ集だったような気がする。

 

 しかし、私が、吉田健一のすべての仕事の中で最も敬意を表し、感嘆するのは、やはり翻訳だ。そして、その膨大な訳業の中から、あえてベスト三を選ぶとすれば、G・K・チェスタトンの『木曜の男』(創元推理文庫)、イヴリン・ウォーの『ブライズヘッドふたたび』(筑摩書房)、そしてエリザベス・ボウエンの『日ざかり』(新潮社)となる。

 

 なかでも六十年前に翻訳されたエリザベス・ボウエンの『日ざかり』は、古書市にもほとんど出ない入手困難な幻の本として有名だが、最近、ようやく、知人の好意で入手することができた。

 

 エリザベス・ボウエンは、近年、ミネルヴァ書房から『あの薔薇を見てよ』『幸せな秋の野原』(ともに太田良子訳)の二冊のミステリー短編集が刊行されて、一部で話題となり、その後、国書刊行会からも『リトル・ガールズ』『エヴァ・トラウト』『愛の世界』の長篇が<ボウエン・コレクション>全三巻として、すべて太田良子訳で刊行されるなど、さながら、小ブームとなっている感があるが、私は、エリザベス・ボウエンという作家の本質的な魅惑を知るには、やはり、まずは、この吉田健一訳の『日ざかり』と『パリの家』(阿部知二、阿部良雄訳・集英社文庫)を復刻すべきだと思う。  

 

『日ざかり』は、吉田健一のあとがきの見事な要約を借りれば、こんな小説である。

「これは恋愛小説であると同時に一種の戦争小説であり、そして又、一種の思想小説でもある。一人の中年の女と、思想的にナチ・ドイツに共鳴している英国の将校の恋愛は、この異常な取り合わせの為に本ものの、場合によっては清純に抒情的でさえある恋愛関係たるを少しも失っていない。又、一九四〇年当時の空襲化のロンドンと、そのロンドンでの生活の描写は、多少の環境の相違があるにもかかわらず、正確で切実である点で我々の戦時中の記憶を甦らせるに充分なものを持っている。それは或いは我々の体験と全然異なっているかも知れない。併し我々がそう感じないのは、それだけ自分の環境に忠実な作者の眼がそこに働いているからなので、我々はその眼を通して見ずにはいられなくさせるのである。死を前にしての張り詰めた心境に映る風景の<硝子越しに眺めたような>静寂は、我々にも無縁ではないはずである。」

 

 ステラという女とその恋人でドイツ側に情報を提供している英国の将校ロバート、それに、ステラに横恋慕している英国特務機関に務めるハリソンとの奇妙な三角関係のドラマであるが、とくに、ステラの寝室で、ステラとロバートとの間で交わされる恋愛と祖国愛をめぐる激しい言葉の応酬は、異様な迫力を帯びていて、胸に迫る。

 

 ところで、このエリザベス・ボウエンの『日ざかり』が、なんと映画化されていたのである。

 

 数年前、近所の小さなビデオ屋が閉店するので百円均一のバーゲンセールをやっていて、のぞいて見たところ、『デス・ヒート/スパイを愛した女』という聞いたこともないビデオを見つけたのだ。

 パッケージを眺めると、「マイケル・ヨークなど、ヨーロッパの演技派がスリリングに展開するロマンティック・ミステリー!」と惹句に謳われていて、原題が「The eat of the ay」。原作がエリザベス・ボウエンとある。かなり誤訳しているが、間違いなく「日ざかり」の映画化だった。

 思わず、狂喜してすぐさま購入したが、一九八八年のイギリス映画で、主演はパトリシア・ホッジ、マイケル・ヨーク、マイケル・ガンボンという実に地味なキャスティングで、監督のクリストファー・モラハンは全く知らないが、テレビのミニシリーズ『群衆の中の宝石』でエミー賞を受賞しているという。

 

 ステラを演じたパトリシア・ホッジは、ジュリー・アンドリュースを彷彿とさせる親密な雰囲気を発散させるイギリス女優で、なかなか魅力的だった。ロバート役のマイケル・ヨークは、あの独特の腺病質なオーラを放っていて、ひたすら懐かしかったが、ステラにストーカーのように執拗にまとわりつくマイケル・ガンボンが妙に哀切で泣けてくるような名演を見せる。

 なかでも、原作のクライマックスをなしている、ステラとロバートの恋愛と祖国愛をめぐる果てのないディスカッションが、みごとに再現されていた。

 

『デス・ヒート/スパイを愛した女』という映画が、ボウエンの原作のミステリアスな雰囲気をある程度、忠実に伝えることができた最大の功績は、脚本を担当したハロルド・ピンターのアダプテーションが卓越していたからだ。

 

 最晩年になってノーベル文学賞を受賞したハロルド・ピンターは、英国劇壇における重鎮として君臨していたが、映画の世界においても、ジョゼフ・ロージー監督とコンビを組んだ『召使』『できごと』『恋』などの名作のシナリオライターとしての仕事が際立っているのは言うまでもない。

 だが、私は、むしろ、こうした地味な未公開ビデオの中で、脚本家ハロルド・ピンターの名前を発見しては、ささやかな悦びを見出していた。

 たとえば、イアン・マキューアンの『異邦人の慰め』を映画化したポール・シュレイダー監督の『迷宮のヴェニス』は、クリストファー・ウォーケン、ヘレン・ミレン主演で、音楽がアンジェロ・パダラメンティのせいかデヴィッド・リンチ風なグロテスクな味わいのエロティック・サスペンスだった。

『海に帰る日』(86)という映画も忘れがたい。水族館で出会った書店に務める冴えない中年の男リチャード・ジョンソンと女流絵本作家グレンダ・ジャクソンが、水槽の亀を海に逃がそうと画策する。こんな地味なお話ながら、孤独な中年男女の相寄る魂の行方を繊細にとらえ、とくにグレンダ・ジャクソンの翳りを帯びた名演がすばらしかった。

 こうしてみると、つくづく、イギリス映画は、奥が深いのだと思う。

 

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吉田健一の名訳で知られるエリザベス・ボウエンの『日ざかり』

 

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『日ざかり』が原作の『デス・ヒート/スパイを愛した女』

渡辺温、及川道子、そして『アンドロギュノスの裔(ちすじ)』

 二年前、私が編集した虫明亜呂無のエッセイ集『女の足指と電話機――回想の女優たち』(小社刊)は意想外な好評を博し、数多くの書評が出たが、中でも読売新聞に掲載されたノンフィクション作家・黒岩比佐子さんの書評はとても印象深いものだった。 
 黒岩さんはとりわけ、虫明亜呂無が本書で何度も言及していた<忘れられた伝説の女優・及川道子>に興味をもったようで、その後、ブログでも、古書市で見つけた昭和八年発行の『婦人倶楽部』の附録「和装洋装流行見立大集」のモデルに及川道子が登場していることを発見し、嬉しそうに書かれていた(後に『古書の森 逍遥』(工作舎)に収録)。
 それを読んで、彼女のブログへコメントを送ったりしているうちに、及川道子と相思相愛だった夭折の天才作家、渡辺温にゆかりのある「ギャラリー・オキュルス」の存在を知った。お電話をすると、オーナーの渡辺東さんが「渡辺温と及川道子の資料ならお見せしますから、どうぞ、いらっしゃいませんか」とおっしゃってくださった。 

 高輪にある「ギャラリー・オキュルス」のオーナー渡辺東さんは、渡辺温の兄である探偵小説作家・渡辺啓助の御息女で、画家でもある。ちょうど、その前年に、『W,W,W,長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男 渡辺啓助、渡辺温、渡辺濟――「新青年」とモダニズムの影』というユニークな展示会を開催されており、お伺いした時に、素晴らしいカタログをいただいた。
 渡辺東さんは、薔薇十字社刊の『アンドロギュノスの裔』からインスパイアされた『アンドロギュノスの裔たち』というドローイングの作品集も出しており、叔父である渡辺温への深い想いがうかがえるが、実は、その時に、東京創元社から渡辺温の作品集が出るという話を聞いていた。
 そして、先日、ようやく創元推理文庫『アンドロギュノスの裔 渡辺温全集』が出来上がった。薔薇十字社版以外の単行本未収録の小説やエッセイを収めた決定版ともいえる。

 渡辺温は、大正十三年、プラトン社の映画筋書懸賞募集に応募した『影』が一等に入選、鮮烈な作家デビューを飾る。選者は谷崎潤一郎で、後に、渡辺温は『新青年』の編集者となり、昭和五年、原稿依頼で谷崎潤一郎宅に赴いた帰路、西宮市外夙川踏切で貨物列車に乗っていたタクシーが衝突し、急逝する。享年二十七。まさに奇しき因縁というほかない。

 この文庫版全集を繙くと、小説では、メランコリックな代表作『可哀想な姉』や溜め息の出るような名掌編『兵隊の死』などは、何度読んでも、見事というほかないが、あらためて、渡辺温と<映画>との深い関わりが見えてくる。 
 処女作『影』は、もともと映画のシナリオを想定して書かれており、誰もが指摘するようにドイツ表現派の代表作『カリガリ博士』の影響が濃厚で、谷崎潤一郎も、渡辺温と初対面の折に、その憂いに満ちた貌自体が、『カリガリ博士』の登場人物アランにそっくりであった証言している。ちなみに、当時、『新青年』の編集長であった横溝正史は、同じ『カリガリ』でも<眠り男>チェザーレのほうに似ていると語っている。

 映画をめぐるエッセイ、雑文が数多く収められているのも嬉しい。
 たとえば「想出すイルジオン]というエッセイでは、『プラーグの大学生』について「僕は未だ二重人格の話さえよく知らない年齢だったにも拘らず、ようやく<荒唐無稽>に対する変な嗜好が判然と働きかけて来た頃であったので、すっかりあの写真に引きつけられてしまったのである」と絶賛している。また、『最後の人』についても「フランク・ムルナウの燦然たる技倆は、ああした種類の器用さを誇る米国のどんな監督をも一蹴してしまったことと信ずる。映画技巧の上乗なる見本と云い得るものである」と指摘し、エルンスト・ルビッチの傑作喜劇『花嫁人形』を大好きな映画とも書いている。

幻想文学の作家・渡辺温についての最大級の賛辞は、やはり、江戸川乱歩の次の評言に尽きるのではないだろうか。
「私は身のほど知らずにもポーの名を僭しているものだが、渡辺温君こそ、われわれの仲間では最もポーの影響の感じられる作家ではなかったか。事実また、同君は熱心なポーの愛読者で、ポーの一行一行を味読し、理解している点、私など遠く及ばぬところであった」(『探偵小説四十年』)

 さらに、『少女』や『赤い煙突』といった佳篇には、<永遠の処女>と呼ばれた女優、及川道子との悲恋の翳が揺曳しているのは明らかである。当時、不治の病と言われた結核に冒された及川道子は、家族の猛反対に遭い、渡辺温と添い遂げることはできなかった。
 渡辺温の没後、及川道子は自著『いばらの道』(紀元書房・昭和十年刊)で次のように回想している。
「私は小学校の時分から、ずっと後に映画界に出るようになる迄、よい指導者として、またよき愛護者として、渡辺さんに、どれだけ御恩を受けているか知れません。――冬の真中にもなお、外套をもっていないということで、母の心を痛めさせたわたしが、音楽学校への受験写真には、立派な外套を着ているのも、その頃或る雑誌が懸賞でシナリオを募集した時、それに応じて一等に当選された渡辺さんが、懸賞の一部で私に買って下さった、思い出深い外套なのです。」

 このエピソードを、黒岩比佐子さんのブログに送付したところ、「悲恋、結核というと、徳富蘆花の『不如帰』に通じますし、<外套をプレゼントされた>エピソードを読むと泣けてきそうな気がします。彼女のことをもっと知りたくなりました」と返信にあった。

 私は手許に清水宏監督の『港の日本娘』ほか及川道子が主演した何本かの松竹作品のDVDがあったので、いずれ、折をみて、黒岩比佐子さんにもダビングして差し上げようと思っていた。
 ところが、黒岩さんは、二〇〇九年十一月に、膵臓癌であることがわかり、以後は、闘病生活を続けながら、ライフワークである『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)の執筆に専心する日々だった。その壮絶な記述をブログで目にすると、映画を見るような悠長な気分には到底、なれないだろうと思い、DVDを送ることは差し控えた。

 そして、黒岩比佐子さんは、『パンとペン――』を上梓し、二〇一〇年十一月十七日、亡くなられた。
 黒岩さんは、『パンとペン――』を書き上げる前に、及川道子の父、鼎が、明治期の社会主義者であり、堺利彦とは旧知の仲であったことを知ってとても驚いていた。
 私は、もし、黒岩さんが病に倒れなければ、いずれ、<忘れられた伝説の女優・及川道子の数奇な生涯>をめぐるノンフィクションが生まれたのではないかと夢想するのだ。

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 『アンドロギュノスの裔 渡辺温全集』(創元推理文庫) カバー装丁はコラージュ=西山孝司(Fragment)、デザイン=柳川貴代(Fragment)

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夭折の天才作家・渡辺温

 

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伝説の女優・及川道子

安田南 いま、いずこ

 前回、TBSの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のアナウンサーである林美雄さんのことを書いたが、もうひとり、一九七〇年代を駆け抜けていった、忘れがたいパーソナリティーがいたことを思い出した。伝説のジャズシンガー安田南である。

 

 先頃、『東京人』の3月号で「青春のラジオ深夜放送」という特集が組まれ、「『雑誌の時代』のラジオ」という一文で、山崎浩一が、FM東京の深夜番組「きまぐれ飛行船」のパーソナリティーだった安田南が「番組から謎の失踪を遂げてしまうのだ。そして、なんと三十三年たった今も、彼女の消息は杳として知れないのだという」と書いていた。

 そして、この一文に、坪内祐三が『本の雑誌』5月号の「読書日記」で噛みついたのだ。坪内さんは次のように書いている。

「近代ナリコさん栃内良さんに続いて山崎さんあなたもか。安田南はもう何年か前にガンで亡くなり、ガンで闘病中の彼女を励ますイベント(赤瀬川原平さんや秋山祐徳太子さんらも参加)の紹介記事が某大新聞に載ったというのに。……安田南は不思議なブラックホールなのだろうか。」

 

 この一節には、やりきれぬような、鈍い衝撃を受けた。そうか、もう、すでに安田南は亡くなっていたのか。

 

 一九七〇年代の半ば頃だったが、FM東京の月曜日深夜一時から三時まで、「きまぐれ飛行船」というステキな番組が始まった。パーソナリティーは、当時、小説家として活躍を始めたばかりの片岡義男で相方を務めたのはジャズシンガーの安田南だった。このふたりの、まさに、きまぐれというか、とりとめのない会話がなんとも魅力的で、当時、若者に媚びるような、あるいは説教じみたご託宣を語るディスクジョッキーが多かった深夜放送の中では、きわめて貴重な番組だった。まったく、役に立たない、無為そのものを目指すようなノンシャランな雰囲気は、格別なものがあった。

 

 安田南はすでに当時から、ある種、伝説的な存在で、原田芳雄の十八番(オハコ)である名曲「プカプカ」のモデルであることは広く知られていた。

 安田南は、原田芳雄と同じ俳優座養成所出身で、その後、自由劇場、黒テントの舞台にも立った。当時、『話の特集』の「世直し風流陣」という連載で、小林信彦さんが、黒テントの舞台で阿部定に扮した安田南が歌った「モリタート」(「マック・ザ・ナイフ」)を聴いてあまりのすばらしさに陶然となり、自分もジャズ歌手を目指す妄想にかられる、という爆笑もののエッセイを読んだ記憶がある。

 

 安田南は、『話の特集』や、当時、創刊されたばかりの『ワンダーランド』(『宝島』の前身だ)にも飾らない、乾いたトーンの魅惑的なエッセイを書いていて、のちに『みなみの三十歳宣言』(晶文社)に収められたのではなかったか。

 

 LPの『South』『Sunny』は、長い間、私の愛聴盤だった。スタンダード・ナンバー中心で、山本剛トリオがバックを務めているが、『Sunny』のなかに、「赤とんぼ」と「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」をカップリングしたナンバーがあり、安田南は、日本語の歌の方がよいのではないか、と漠然と思ったりもした。

 

 それは、初めて聴いた彼女の歌が、映画『赤い鳥逃げた?』の主題歌「赤い鳥逃げた?」と「愛情砂漠」(作詞・福田みずほ、作曲・樋口康雄)だったせいかもしれない。

 

 安田南が歌う「透かし彫りのように 街がきれいだ」「信じはじめたばかり 風がきれいだな」という「赤い鳥逃げた?」の一節、あるいは「ひとの心は水玉模様 いつも丸くて冷たいね はじけ散るのは夢ばかり」という「愛情砂漠」の一節などは、今、聴いても、心に沁み入ってくるような透明感のある哀しみと切なさ、抒情がある。

 

「きまぐれ飛行船」に出演していた最後の頃は、記憶があいまいなのだが、急に、安田南に連絡が取れなくなったのではなかったろうか。

 その頃、多分、一九七八年ぐらいだと思うが、安田南が、番組の中で、話している途中で、突然、号泣し始めたので、驚いたのを憶えている。たしか、愛猫が死んだばかりで、急に哀しみがこみあげてきたらしいのだが、数分間も、泣き続ける安田南を、そのまま受け止め、だまって聞いている片岡義男もなかなかすごいと思った。

 安田南の歌からもうっすらと感じとれる、繊細さ、傷つきやすさ、がはっきりと露呈した瞬間だった。

 

 そういえば、若松孝二監督の問題作『天使の恍惚』(1972)で、横山リエが演じたクラブ歌手、過激な革命戦士は、最初、安田南が演じる予定だったが、クランク・イン直前になって降板したという有名なエピソードがある。

 足立正生は『映画/革命』(河出書房新社)で、安田南は芝居ができないので降りてもらったと語っているらしいが、私が、以前、若松監督から直接、聞いた話では、安田南はシナリオを読んで、作品に対する激烈な批判文を突きつけ、自ら降りた、というのが真相ではなかったろうか。安田南は、俳優座養成所出身で、黒テントの舞台に何度も立っているのだから、演技ができないなどということはありえないからだ。

 

 結果としては、激しいセックスシーンがふんだんにある『天使の恍惚』は、若松監督の『秘花』などのピンク映画にも出ている横山リエこそふさわしかったようにも思える。なによりも、劇中で彼女が歌う「ウミツバメ」と「ここは静かな最前線」は、鮮烈でわすれがたい印象を残した。

 

 実は、最近、『天使の恍惚』のサントラ盤(ウルトラ・ヴァイヴ)を入手した。映画用音楽テープからの最新マスタリングとあるが、横山リエの歌う二曲と、中村誠一、森山威男という最強メンバーの第一期山下洋輔トリオが、すさまじいプレイを繰り広げ、絶頂期の日本のフリージャズと最前線の日本映画の奇跡的な遭遇を刻印する、すばらしいアルバムである。

 そして、この中に、「ウミツバメVer.2」(横山リエ+山下洋輔トリオ)という演奏が収められているのだが、歌っているのは、明らかに、横山リエではなく、安田南なのだ。

 恐らく、クランク・インの前に、御手合せのような感じで、吹き込んだ演奏だろうが、こんな日本のジャズ史上、貴重な音源が残っていたことに感謝したいと思う。

 

 荒涼としたメランコリックな味わいのある横山リエの歌唱と較べると、山下洋輔トリオの壮絶でダイナミックな即興演奏に対峙する安田南は、原曲のメロディアスなバラード風の旋律を完全に壊し、まるでオペラのアリアのような荘厳さで、朗々と歌い上げている。彼女のアルバムでは、聴くことのできない、ある意味では、演劇性を強く感じさせる、安田南の女優としての可能性を垣間見させる、すばらしい絶唱である。 

 

 この激しくも感動的なナンバーを聴いていると、安田南が主演した<幻の『天使の恍惚』>を見てみたかった、という想いに駆られてしまうのだ。

 

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 『天使の恍惚』のサウンドトラック盤(ウルトラ・ヴァイヴ)

原田芳雄、林美雄、そして「サマー・クリスマス」

 原田芳雄さんが亡くなって、そろそろ四十九日を迎えようとしている。

 ちょうど、追悼特集を組むことになった『キネマ旬報』(9月5日発売)から、「歌手としての原田芳雄」というテーマでエッセイを依頼され、さらに、『赤い鳥逃げた?』『祭りの準備』『父と暮らせば』『寝盗られ宗介』などの原田さんの代表作の撮影を担当した天才キャメラマン鈴木達夫さんにインタビューする機会もあって、否応なく、この稀有な映画俳優に想いを馳せることになった。 

 

 私のような日活でのデビュー作『反逆のメロディー』を封切りで見ている世代にとっては、原田芳雄とは、一九七〇年代という時代そのものを体現する存在であり、また、同時に、林美雄という名前と分かち難く結びついている。

 いうまでもなく、林美雄さんは、一九七〇年代の始めに、TBSの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティを務めていた伝説のアナウンサーである。

 

 林美雄さんが、当時、まったく無名だった荒井由実を発掘したこと、七一年の夏に封切られた藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』を熱狂的に擁護し、毎週のように映画で使われた石川セリの主題歌を流したのがきっかけで、翌年、レコードが発売され、歌手石川セリが誕生したこと、その石川セリをゲストに呼んだ際、たまたま井上陽水がパックに来ていて、その出会いから結婚に至ったこと、などなど数多の伝説的なエピソードには、事欠かない。

 

 緑魔子が歌う「やさしいにっぽん人」、石原裕次郎の「憎いあんちくしょう」、荒木一郎の「僕は君と一緒にロックランドに居るのだ」、『日本春歌考』で吉田日出子が歌った「雨ショポ」、『私が棄てた女』で流れた渡辺マリの「東京ドドンパ娘」、亀淵ユカの「ひとりぼっちのトランプ」etc、林さんのパックで聴いた、さまざまな歌の断片がよみがえってくる。

 

 原田芳雄さんも林パックの常連で、時おり酔っ払っては、当時、弟分だった松田優作を引き連れて、スタジオに乱入し、ギターの弾き語りで、「プカプカ」「愛情砂漠」などを熱唱していたことも忘れがたい。

 

 一九七五年の一月十九日、新宿厚生年金会館大ホールで、林美雄さんが、企画・プロデュース、司会を務めた「歌う銀幕スター、夢の狂宴」というイベントがあった。渡哲也、菅原文太、宍戸錠、藤竜也、中川梨絵、桃井かおりらが出演した、この今や伝説となっている一夜限りのコンサートは、演出が『青春の殺人者』でデビューする前の長谷川和彦で、構成が、先頃、急逝した脚本家の高田純だった。

 もはや、三十五年以上も前の舞台だが、中でも、もっとも強烈に記憶に残っているのが、原田芳雄さんが歌った「プカプカ」「早春賦」「黒の舟唄」であり、宍戸錠に日の丸の旗をすっぽりかぶせられた鈴木清順監督が朗々と歌った「麦と兵隊」だった。

 

 この幻のイベントの映像を、最近、見る機会があった。

 二〇〇二年に林美雄さんが胃癌で亡くなった後、彼を偲ぶ熱心なファンが自然発生的に集まり、「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」という名前で、毎年、林さんの誕生日である八月二十五日に「サマー・クリスマス」というささやかな呑み会を開いている。

 私も、いつの頃からか、この会に参加するようになり、これまで、林さんにゆかりのある日活ロマンポルノの名優・高橋明さんや女優の中川梨絵さんをゲストにお呼びしたこともある。

 

 そして、今年は、原田芳雄追悼ということもあり、林美雄夫人が秘蔵する、DVDに起こしたこの幻の『歌う銀幕スター 夢の狂宴』の映像を特別上映したのだ。

 原田さんは、『反逆のメロディー』で共演した佐藤蛾次郎が歌う「もずが枯れ木で」をはさんで、「プカプカ」「早春賦」「黒の舟唄」を歌っていたが、ほとんど記憶していた通りなので、われながら驚いた。

 

 原田芳雄の歌といえば、日活ニューアクションのアンチ・ヒーロー像をそのまま体現した男くさいブルースという印象が強いが、どちらかといえば、両性具有的な魅力がある。

 「プカプカ」にしても、途中から<あたい>という女性の語りに変化する瞬間、トーンがふっと柔らかくなるし、荒木一郎とデュエットした「ミッドナイトブルース」など、荒木一郎のほうが男性的で、精一杯、シャウトしているにもかかわらず、原田芳雄のほうが手弱女(たおやめ)風に耳に聴こえるのだ。

 

 鈴木達夫さんがキャメラを回した『寝盗られ宗介』で、越路吹雪ばりのドレスアップした女装姿で「愛の讃歌」を絶唱するクライマックスなど、そんな原田芳雄の倒錯的な魅力が一気に開花した名場面といえるのではないだろうか。

 

 今年の「サマー・クリスマス」のサプライズ・ゲストは、『祭りの準備』で原田さんの妹を演じた桂木梨江さんで、桂木さんは、『祭りの準備』の現場の想い出を切々と語ってくれたが、これには心底、感銘を受けた。

 

 封切り以来、久々に『祭りの準備』を見直すと、桂木さんの演じたヤクザにヤク中にされ、頭がおかしくなって帰郷した妹は、主人公の江藤潤の恋人・竹下景子よりもはるかに重要な役で、ちょうどフェリーニの『812』のサラギーナのような邪悪さとイノセンスを象徴するヒロインなのだった。

 鈴木達夫さんは、インタビューの中で、原田芳雄さんが、帰ってきた桂木梨江さんを無言で行水させる名場面は、その場で原田さんが思いついたアイディアだと語っていたが、桂木さんに聞いてみると、まさに、その通りだという。

 

 桂木さんは、「原田芳雄という兄貴のことを思う時に、バブルが始まった八〇年代以後ではなく、未だにさまざまな可能性をまさぐっていた一九七〇年代という時代のことをもっと真摯に考えなければいけないような気がします」と話していたが、私も深く同意したい。

 

 漠然と、数年前から『林美雄とパック・イン・ミュージックの時代』という本をつくりたいと思っていた。もちろん、林さん御本人は、亡くなってしまっているので、ちょうど、ジョージ・プリンプトンの『トルーマン・カポーティ』(新潮文庫)のように、林美雄さんと関わりのあったさまざまな有名・無名の方々に話を聞き、オーラル・ヒストリーの形で、林美雄と深夜放送というカルチャーが最も輝きを放っていた時代をとらえてみたいと考えていたのだ。

 そして、まず、最初にインタビューしなければと思っていたのが、原田芳雄さんだった。

 まさに、その矢先の突然の死であった。

 

 加藤泰監督の『遊侠一匹』の主題歌「何が意気かよ」の<何が意気かよ 気が付く時は みんな手おくれ 吹きざらし>という一節が身に沁みてくるようだ。

 残された時間も人間も少なくなってきている、とあらためて自分を鼓舞しているところなのである。

 

 

 

  

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『反逆のメロディー』

イヴリン・ウォー原作の幻の未公開映画

 うろ覚えだが、晩年植草甚一が、新聞かなにかの「無人島に本を持っていくなら何を選ぶか」というアンケートに答えて、当時、没後、刊行が始まったばかりの「吉田健一著作集」(集英社)を挙げていたのが印象に残っている。 

 かたや百科全書的な雑知識を誇るサブ・カルチュア・エッセイの大家、かたや英文学者にして快楽的で融通無碍な小説家であり、一見、ふたりにはまったく共通点はないようにも思える。

 

 ところで、植草甚一に「『衰亡記』などの初版を買った思い出」(『植草甚一読本』所収・晶文社)というエッセイがある。昭和十年に銀座の古本屋でイヴリン・ウォーの処女作『衰亡記』を買ったが、あまりに難解で、書いてあることが判らず、長い間、イヴリン・ウォー・コンプレックスにとらわれていたと告白している小文なのだが、ほかならぬ、日本で唯一人、イヴリン・ウォーを熱烈に擁護し、精力的に翻訳・紹介に努めたのが、吉田健一なのだった。

 もしかしたら、植草甚一は、イヴリン・ウォー・コンプレックスに重ねる形で密かに吉田健一という文学者にずっと敬意を抱いていたのではないだろうか。 

 

 私自身、もっぱら吉田健一訳でイヴリン・ウォーの小説に親しんできた一人である。優雅で残酷きわまりない『黒いいたずら』(白水社)、プルースト風の甘美で悲痛なノスタルジアが横溢する名作『ブライズヘッドふたたび』(筑摩書房)、爆笑必至の『ギルバート・ピンフォールドの試練』『スコット・キングのヨーロッパ体験』(集英社)と、どれも癖になるほどの辛辣なユーモアがあり、こういう強烈な毒を含む笑いは、アメリカの、たとえば、テリイ・サザーンのようなブラック・ユーモア作家とは本質的にレベルが違う。

 

 そういえば、テリイ・サザーンは、クリストファー・イシャーウッドと共に、イヴリン・ウォーの『囁きの霊園』(早川書房・吉田誠一訳)の映画化である『ラブド・ワン』(64)の脚本を書いているが、監督が生粋の英国人トニー・リチャードソンだけに、悪意たっぷりなハリウッド批判、アメリカ批判は冴えわたっていた。

 

『ラブド・ワン』を頂点に、イヴリン・ウォーの小説は、これまでたびたび映画化されている。だが、たとえば『ラースト夫人』(新潮社・二宮一次、横尾定理訳)が原作の『ハンドフル・オブ・ダスト』(88)は、原作の皮肉な笑いが消えてしまい、ありきたりな風俗映画となっていた。

 さらに、『ブライズヘッドふたたび』は『情愛と友情』(09)、また、晩年の代表作である戦争三部作『名誉の剣』までが、『バトルライン』(01)のタイトルで映画化されている(日本ではDVDスルーのみ)。前者は、エマ・トンプソン主演の『モーリス』風の文芸映画、後者は、ダニエル・クレイグ主演のアクションもの、とだいたい出来栄えについても想像がついてしまう。

 

 実は、イヴリン・ウォーの『衰亡記』を映画化した劇場未公開作品が、1970年代半ばにひっそりとテレビの深夜映画で放映されたことがある。『おとぼけハレハレ学園』という実にふざけた題名だったが、これが、なんというか抱腹絶倒の傑作なのだった。

 

『おとぼけハレハレ学園』は、無垢な青年ピーター(ロビン・フィリップス)が主人公で、さまざまな社会の矛盾、試練にさらされ、成長するという、ヴォルテールの『カンディード』の現代版みたいな物語である。ピーターは、オックスフォード大学に入学するが、女子寮を覗き見していた学生たちの悪戯で、キャンパスで素っ裸にされ、猥褻容疑の濡れ衣をきせられて、退学処分となる。

 

 彼は、ようやくローカルな私立学園に職を得るも、そこには、重婚の常習犯である体育教師やら、刑務所をいったりきたりしている小使いやら、あやしげな人物がうろうろしている。ある時、寄付額最高の長者未亡人である妖艶なジュヌヴィエーブ・パージュの色香にボーっとなり、誘惑されるままに、婚約するも、結婚式の前日、彼女の依頼でモロッコに飛ぶことになる。

 実は、彼女は国際的な売春業をビジネスにしており、ピーターは、捕まってしまい、刑務所に収監される。そこには、なぜか小使いと体育教師も投獄されている。ほうほうの体で、脱走するも、未亡人の奸計で、棺に入れられ、焼かれそうになる始末。

 とにかく、めまぐるしいばかりのテンポのよい語り口、主人公以外、全員が気が狂っているような、『不思議の国のアリス』を思わせるナンセンスで馬鹿馬鹿しいギャグが次々に飛び出し、ラスト、悪夢のような遍歴を経て、平原の果てに向って走り去ってゆく主人公に、思わず、『幕末太陽伝』の居残り佐平次を連想したものである。 

 

 今、私が、こんなふうに、30年以上も前に見た『おとぼけハレハレ学園』のストーリーを詳細に書けるのは、当時、この作品について、映画批評家としてデビューしたばかりの宇田川幸洋が『キネマ旬報』の「T?ムービー評」というコラムできちんと紹介していたからである。

 宇田川さんは、『おとぼけハレハレ学園』について、<もし場末の小さな映画館で出会ったら、狂喜して「ケッ作だ、ケッ作だ!」とふれまわりたくなるだろう、と想像できる奇妙な小品である>と書いているが、まったく同感で、宇田川さんとは、今でも、飲むと、この幻の未公開映画の珍品が話題にのぼることがある。

 

 ちなみに、当時、宇田川さんが、この連載で取り上げていた未公開劇場映画では、ジュールス・ダッシンの『夜明けの約束』、イエジー・スコリモフスキーの『ジェラールの冒険』、マルグリッド・デュラスの『冬の旅 別れの詩』(彼女の戯曲『ラ・ミュージカ』の映画化だ)、それにピーター・ブルック、リンゼイ・アンダースン、トニー・リチャードソンという豪華メンバーによるオムニバス『赤と白とゼロ』(69)などの傑作が目白押しで、このコラムは、本にまとめると貴重な資料になるのではないかと思う。

 

『おとぼけハレハレ学園』はジョン・クリシュというまったく無名の監督の作品だが、イーリング・コメディの伝統をはっきりと感じさせる才気煥発な演出がすばらしかった。ピーター役のロビン・フィリップスは、その後、チャールズ・ディケンズの『デヴィッド・カパーフィールド』の映画化である『さすらいの旅路』(71)のヒーローも演じているから、当時、こういうビルドゥングスロマンの主人公にぴったりだったのだろう。

 

『衰亡記』は、吉田健一も植草甚一も亡くなった後、1991年に、富山太佳夫訳で『大転落』の題で、岩波文庫から刊行された。とても、読みやすい優れた翻訳だったが、願わくば、吉田健一訳で読んでみたかったなとも思う。

 

 さらに、最近、新人物往来社から「20世紀イギリス小説・個性派コレクション」というシリーズが始まったが、マーガニータ・ラスキの『ヴィクトリア朝の寝椅子』、マックス・ビアボームの『ズリイカ・ドブソン』というあまりにも渋いラインナップの中にイヴリン・ウォーの『汚れた肉体』を見つけた。

 果たしてイヴリン・ウォー再評価の動きがあるのだろうか。

 

 

 

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『衰亡記』の題で知られていたイヴリン・ウォーの処女作『大転落』(岩波文庫)

 

 

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イヴリン・ウォーの未完となった回想録『少しばかりの学問』。吉田健一訳で読んでみたかった。

武満徹の映画エッセイ集『映像から音を削る』

 昨年の12月に、武満徹の生誕80年を記念し、Bunkamuraオーチャードホールで「武満徹トリヴュート?映画音楽を中心に?」なるイベントが開催された。大友良英と菊池成孔という今をときめくミュージシャンが映画音楽家・武満徹へのオマージュを捧げたコンサートである。 

 私は行けなかったのだが、友人の滝本誠さんに聞いたところ、素晴らしいステージだったという。

 

 プログラムを眺めると、菊池成孔プロジェクトで、フェリーニの『812』をモチーフにしたスコアがある。

 武満とフェリーニ? 

 菊池成孔は熱烈な『8 12 』フリークで、たしか、DVDのライナーノートで、生涯のベストワンと告白していたと記憶する。

 私も彼ほどではないが、1970年代にフィルムセンターのイタリア映画特集で初めて見て以来、夢中になり、一時、この映画にまつわる批評を探してきては読み耽ったことがある。

 

 その中で、最も印象に残ったのが、植草甚一の「僕は『812』を見て映画の<死>を思った。これ以上の映画はもう創られないだろうという確信である。」というフレーズと、武満徹の「映画『812』を見る。フェリーニは『812』を“実現”したことで偉大だ。」という冒頭から始まる「日録」の一節だ。この「日録」は、武満の第一エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)に収められているが、多分、菊池成孔も、この美しいエッセイに触発されたに違いない。 

 

 武満徹が透徹した美意識と詩的な直観、深い思索をたたえたエッセイの書き手であることは、つとに知られているが、映画についても、鋭い洞察に満ちた論考を数多く発表している。

 武満徹が、現代音楽の世界で国際的な評価を獲得しているのは言うを待たないが、もしかしたら、今後は、それ以上に、映画音楽家としての名声がいっそう高まっていくのではないだろうか。  

 武満は百本近い映画音楽を手がけているが、彼自身が、年間、三百本もの映画を見る無類の映画狂でもあった。

 

 その映画好きの武満徹の全貌が露わになったのは、いうまでもなく1983年に、ジャン=リュック・ゴダールの『パッション』で開館した六本木シネ・ヴィヴァンのプログラムで始まった蓮實重彦との連載対談であった。

 ミニシアター・ブームの幕開けを告げる、この劇場は、無くなってしまった今、思えば、セゾン文化の最後の残照といった印象があるが、なによりも映画ファンが、この対談に唖然としたのは、二回目のゴッドフリー・レジオの『コヤニスカッティ』、三回目のニキータ・ミハルコフの『ヴァーリャ!』をコテンパンに批判していることである。劇場用パンフレットで、当該の作品をあからさまに叩くというのは、まさに前代未聞で、当時、大笑いしながら読んだものである。

 

 実は、ニキータ・ミハルコフは、武満徹のお気に入りの作家なのだが、蓮實重彦氏の激しい罵倒に、やや腰が引けてしまい、知らず知らずのうちに、相槌を打っている風情なのも妙に可笑しい。 

 

 しかし、タルコフスキーの『ノスタルジア』、ゴダールの『カルメンという名の女』、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』『エル・スール』といった作品では、ふたりの呼吸もぴったりで、映画談議の愉しさが、読む者にも豊かな波動となって、生き生きと伝わってくる。

 この連載対談は、「映画と音の誘惑」「映画・夢十夜」というふたつの長めの対話と合わせ、『シネマの快楽』としてリブロポートから刊行され、その後は、河出文庫に入っている。

 

 武満徹には、もう一冊、『夢の引用』(岩波書店)という素晴らしい映画エッセイ集がある。これは雑誌『世界』に連載された長編の映画をめぐる随想をまとめたものだ。

 

「私にとって、映画は、夢の引用であり、そして、夢と映画は、相互に可逆的な関係にあり、映画によって夢はまたその領域を拡大し続ける。私の(映画に対する)興味は、鮮明で現実的(リアル)な細部が夢という全体の多義性を深めているように、映画においてもその筋立てより、物語に酵母菌のように作用してそれを分解するような、細部へ向う。だが、そうした細部、夢の破片をことばによって写しとるのは不可能である。それを可能にするのは、また、映画でしかない。」

 

 このように目の覚めるような卓抜な考察が鏤められた『夢の引用』は、武満徹のなかでも最も美しい著作といえるだろう。

 

 私は、今、武満徹の映画エッセイ集『映像から音を削る』(小社刊)を編集している。初めに、奥様の武満浅香さんにお電話をして、企画の趣旨を縷々説明し、何とかご了解をいただいたのだが、そのための条件として、この『夢の引用』からは一切、原稿を使わないでほしいとおっしゃられた。むろん、私も、当初から、ひとつの小宇宙をなしている『夢の引用』からは、まったく使うつもりはなかった。この瀟洒な本は「永年の映画仲間である妻へ、感謝をこめて」と献辞が入っていることからもわかるように、武満夫妻にとって特別な意味を持っているからである。

 

 私が、新たな視点で編集した『映像から音を削る』に収録した映画をめぐるエッセイは、前述の「日録」を含めた『音、沈黙と測りあえるほどに』のほかには、『樹の鏡、草原の鏡』『音楽を呼びさますもの』『遠い呼び声の彼方へ』『時間の園丁』(いずれも新潮社)を底本にしているが、いくつか単行本未収録の文章も収められている。その代表的なものが、「ひきさかれた『女体』の傷は殺された牛よりもいたましい――恩地日出夫への手紙」である。

 

 この『映画芸術』に発表された一文は、恩地日出夫監督が、『女体』のなかで牛を殺すシーンを撮影したために、マスコミから激しい非難を浴びた際に、武満が励ましたエッセイである。

 

 二十年ほど前、ビデオ業界誌の編集長時代に、恩地日出夫監督に原稿を依頼したら、「武満徹からの手紙」という題のエッセイをいただいた。原稿を受け取る際に、恩地監督が、当時、とくに「アンブローズ・ビアスにしたがって言えば、あなたは嘘つきであるより詩人の側に立つ人です……」というくだりに、いかに深く感動し、慰められたかと嬉しそうに語っていたことが思い出される。

 

 武満徹の映画音楽の代表作といえば、小林正樹の『切腹』、勅使河原宏の『砂の女』が挙げられるが、私は、恩地日出夫監督と組んだ『あこがれ』『伊豆の踊子』『めぐりあい』には、抒情派のメロディ・メーカーである武満徹の資質がもっとも表出されていると思う。そして、これらのみずみずしい青春映画こそは、恩地日出夫がまぎれもない詩人であることを明かす傑作だと思う。 

 

 

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武満徹の映画エッセイ集『映像から音を削る』(清流出版)

色川武大のサブカルチャー・エッセイの魅力

 内藤誠監督が二十四年ぶりに撮った『明日泣く』のゼロ号試写を見せていただいた。原作は色川武大の自伝的な短篇で、再会したばくち打ちの作家と訳ありの過去を背負うジャズピアニストの女の奇妙な交遊を軽快なタッチで描いている。まるで往年の東映のプログラム・ピクチュアのような無駄のないきびきびとした語り口に魅了された。

 

 色川武大が亡くなったのは一九八九年、まさに昭和の終わりの時期だが、その評価は、没後、ますます高まっているといってよいだろう。阿佐田哲也名義の『麻雀放浪記』は別にしても、『生家へ』『百』などの名短篇集は、たびたび復刻されているし、最近では、弟子を自称する伊集院静が色川をモデルにした『いねむり先生』も話題になった。

 

 私が色川武大という作家を知ったのは、一九七〇年代の半ば、雑誌『話の特集』で始まった『怪しき来客簿』によってである。たしか、虫明亜呂無の連作「ロマンチック街道」の終わったあとに始まった連載だったと記憶するが、まったく未知の名前ながら、埒外の畸人たちがぞくぞくと登場する不気味な世界にすぐさま魅惑されてしまった。とくに昭和初期の超人気スターだった二村定一を描いた「砂漠に陽は落ちて」とか無名の芸人たちをスケッチした「タップダンサー」などが強く印象に残った。

『怪しき来客簿』は話の特集から単行本になり、一九七七年度の泉鏡花文学賞を受賞している。

「外見や精神内容が人間の枠からはみ出した連中を作者は好んで書くが、その人たちは常に一枚の鏡をもっていて、作者の姿を映し出している。作者と対象が綯いまぜになって、きわめてリアルだが、幻想的でもある世界が現われてくる。」という初版の帯にある吉行淳之介の一文が、まさに、正鵠を射ている。

 

 しかし、私が色川武大という作家の凄み、底知れない魅力を知るのは、映画、芸人、ジャズ、流行歌、落語といった<街の中の雑物>、サブカルチャーに関するエッセイを愛読するようになってからである。

 

 小説家でエンタテインメント・エッセイの名手といえば、小林信彦さんだが、小林さんの名著『日本の喜劇人』(新潮文庫)の解説が色川武大で、これはほとんど名人同士のエールの交歓のようなものである。色川は次のように書いている。

「実を言うと、私も、自分の故郷ともいうべき喜劇人の世界について、自己流に記してみようとずいぶん長いこと思っていた。この『日本の喜劇人』を一読してその考えを捨てた。小林さんと私は、小説の方でも、まァ同業者であり、あざとくいえばライヴァルのようなもので、こんなふうなことはなまなかな気持で記したくはないのだが、この本は新鮮且つ鋭敏、完璧である。日本の喜劇人を記してこれ以上のものができようとは思えない。」

 

 だが、その後、色川武大は同じテーマで『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)という名著を書いてしまう。この本と偏愛するジャズのスタンダード・ナンバーを語り尽くした『唄えば天国ジャズソング――命から二番目に大事な歌』(ちくま文庫)は、何度、読み返したか知れない。

 

 色川武大のサブカルチャー・エッセイの魅力は、資料に逐一当たったりせず、永い時間をかけて培われた膨大な雑知識と記憶の赴くままに、好きな芸人や歌について果てもなく饒舌に耽っているかのような、そのジャズのインプロヴィゼーションを思わせる無手勝流の奔放な語り口にある。

 それは、少年時代から、浅草の芝居小屋や映画館に入り浸り、森川信やシミキン(清水金一)の舞台をナマで見ていたり、戦時下、ヒロポン中毒だった山茶花究と博奕場で出会い、懇意になったり、といった色川自身の特異な体験のすべてが、文章に自ずと浸透し、血肉化されているからにほかなるまい。 

 

 しかも、小林信彦さんが、エノケン、ロッパ、森繁久彌といった正統派の超一流の喜劇人のポルトレを戦後史の中に位置づけ、見事に描き出したのに対し、色川武大が『なつかしい芸人たち』で好んで取り上げるのは、「馬鹿殿さま専門役者の小笠原章二郎」であり、「超一流になれなかった原健策」であり、「デブをトレードマークにした岸井明」であり、「アノネのオッサンこと高勢実乗」といった今や忘れられたマイナーなB級、C級の芸人ばかりなのが嬉しい。

 

 とくに、迷セリフ「アーノネ、オッサン、ワシャ、カナワンヨウ」で知られる高勢実乗は、夭折の天才監督・山中貞雄の『丹下左膳餘話・百萬両の壺』のクズ屋や、伊丹万作の『国士無双』の贋者に負けてしまう剣豪の名人、『東京五人男』のヤミでもうけた地主などが、強烈に印象に残っている。だが、色川武大はこういう映画史に残る有名作ではない、高勢実乗が出演した凡作、珍作を浴びるほど見ているに違いない。

 

『なつかしい芸人たち』には、戦前、高勢実乗が画面に出ただけで、映画館の子供たちが、いっせいに、彼のセリフに合わせて、アーノネ、オッサン――、と合唱し、ゲラゲラ笑った光景が記されているが、色川武大のエッセイは、彼自身の私的な記憶がそのまま、ある時代特有の大衆文化や世相の猥雑な空気や匂いまで鮮やかにすくいとっているところが、ほんとうにすごいと思う。

 

 高勢実乗は、奇行の多い伝説的な変人、奇優だったようだが、色川武大は、「私は高勢実乗のことを主人公にして小説を書きたいと以前から思っており、折々に古い映画人を取材して廻っている。それで、未だに小説化する自信がない。」と書いている。これが、ぜひ、読んでみたかった。

 

 小林信彦さんは、色川武大が亡くなった際、二つの追悼文を寄せている。その中で、「それにしても、色川武大が、<街の中の雑物>を大胆にとり入れた真のポップ文学を成立させずに終わったのは残念である。」「色川はこういう<軽い>世界に命をかけた人だった。もう少し生きていれば、こうした世界をとり込んだ、<純文学>を書いたはずである。」と書いているが、高勢実乗を主人公にした小説などは、まさにとびきりの<ポップな純文学>の傑作になったのではないだろうか。

 

 私は、一度だけ、色川武大を真近に接したことがある。一九八〇年代の半ば頃だったが、有楽町の読売ホールで<シミキン映画祭>なるものが開催された。喜劇役者清水金一(シミキン)の評伝の刊行を記念したイベントだったと思うが、その会場で会った作家の長部日出雄さんに誘われて呑みに流れ、たしか、銀座の文壇バー「まり花」に入ったら、カウンターに色川武大が坐っていたのだ。長部さんは見たばかりの『シミキンの無敵競輪王』や『シミ金のオオ!市民諸君』の感想を熱心に語り、それを色川武大が笑って聞いていたように記憶している。

 私はと言えば、畏怖すべき作家が目の前にいるので、ひたすら、緊張し、黙ってふたりの会話を拝聴しているだけであった。

 

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 色川武大の名著『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)

草森紳一ふたたび

 近所の書店をのぞいたら、草森紳一の新刊『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』(本の雑誌社)が平積みされてあったので、ちょっと驚いた。
 草森紳一さんが亡くなったのは2008年3月だから、すでに3年以上が経過しているのに、続々と新刊が出されるのは、未だに単行本未収録の膨大な原稿が眠っているということなのだろう。
 いずれにせよ、一昨年、亡くなった平岡正明と同様、没後に、新刊が陸続と刊行されるというのは、それぞれ熱烈なファンの編集者が存在するからにほかなるまい。

 私も、このふたりの書き手には十代で出会って以来、心底、夢中になり、一時は、新刊が出るそばから買っていた時期がある。
 とくに、草森紳一は、中国文学の素養をベースに、百科全書的ともいうべき知識を柔軟に駆使しながら、風俗、写真、絵画、イラストレーション、文学、音楽、ファシズム、コマーシャル、書、とあらゆるジャンルを自在に横断する、<雑文>の書き手として、眩い存在だった。

 あれは、たしか1970年代半ば、学生の頃だが、当時、定期購読していた「日本読書新聞」に赤瀬川源平の『素朴の大砲――画志アンリ・ルソー』(大和書房)の書評が出たことがある。その紹介の仕方が、あまりに水際立った、購買意欲を刺激する魅惑的なものだったので、どうしても欲しくなってしまい、当時ですら7千円もした大著を、アルバイトをして、買った思い出がある。

 中野重治ではないが、「素朴」というのは、草森紳一の批評を解くキーワードのひとつであったように思う。評論家としてのデビュー作は1964年の『美術手帖』に発表した「幼童の怪奇」というアンリ・ルソー論だった。

 草森紳一には、そのほかにも、中国の天才詩人・李賀、永井荷風、副島種臣などをテーマに、永い時間をかけて、じっくりと対象をめぐって考察し、彫琢を重ねた大著が多い。しかし、私にとっては70年代に書かれた『ナンセンスの練習』(晶文社)、『底のない船――悪食病誌』(昭文社)、『軍艦と草原――分別と無分別』(九藝出版)、『印象』(冬樹社)といった雑文集に思い入れがある。
 誰かが、草森さんを<日本のロラン・バルトだ>と喝破していたが、むべなるかなと思う。

『記憶のちぎれ雲』は、雑誌『クイック・ジャパン』に連載されたもので、草森紳一が婦人画報社の『メンズ・クラブ』編集者時代に出会った真鍋博、古山高麗雄、田中小実昌、中原淳一、伊丹十三をめぐるスケッチ的な回想だが、私は、これは、草森さんの新境地だなと思い、毎月、興奮しながら読んでいた。

 若者向けのサブカル誌に元祖サブカルチュア評論家が自伝的メモワールを載せるという妙味もさることながら、言葉の真の意味でのサブカルチュアがもっとも輝いていた時代への挽歌のような哀調のトーンが底に流れているのが、なんとも魅力的であった。
 とくに、離婚寸前にあった伊丹十三と川喜多和子を描いたくだりなど、ふたりの関係をみつめながら、思考をめぐらす草森紳一自身の眼の在り処が太い描線として機能し、一篇のフィクションを読んでいるようでもあり、さらに60年代という時代の豪奢な寂寥感のようなものまでが、浮かび上がってくるのである。

 やはり、草森紳一も時代の子であったのだなと思わせるのは、川喜多和子のポルトレを描く際に、両親である川喜多長政、かしこ夫妻の東和映画の黄金時代に言及した箇所である。
 慶應義塾大学では、中国文学を専攻しながらも、ミステリー研究会に所属していた彼は、実は、映画監督志望で、東映の助監督試験を受けるも、面接の際に、大川博社長と喧嘩になり、落とされた、と自筆の履歴にある。

 しかし、草森紳一は、大勢の人間を傍若無人に動かせるマキャベリスト的な資質が必須の映画監督には、一番、向かないタイプの含羞の人であると思う。

 私は、一度だけ、草森紳一に会ったことがある。90年代の始め、編集長を務めていたビデオ業界誌の『A?ストア』で、なるべく業界的ななまぐさい話題とは一切無縁なコラムを好きな書き手に書いてもらっていたのだ。

 映画監督志望が挫折してしまった反動なのかどうか、草森紳一には、映画評論が意外に少ない。私が読んだ範囲では、『軍艦と草原』所収の「緑の道のオートバイ――『イージー・ライダー』の起承転結」と「無残の磁場――三國連太郎の官能的体系」ぐらいである。
 なかでも、この三國連太郎論は出色で、三國を阪東妻三郎、三船敏郎、辰巳柳太郎の系譜におき、そこに共通するのは<素朴の魂をのこして大人になってしまった人間の悲哀である。その悲哀が、見るものを攻撃してくるのであり、いわば失われた素朴なるものへの鎮魂の役割を果たすのであり、……三國連太郎は、この素朴なるものの魂のケイレンを表徴する演技が、よくできるような気がしてならないのである。>と喝破している。
 恐らく誰も指摘していないユニークな卓見で、この論考を読むと、草森紳一は、映画評論家としても優に一家を成すことができたのではないかと思えるほどだ。

 草森さんとは、終の棲家となった門前仲町の駅前にあった喫茶店で待ち合わせ、受け取ったのは、『グローリー』という南北戦争をテーマにした映画の原稿だった。
 どんな内容だったかは、忘れてしまったが、雑談しているうちに、なぜか、どちらともなく、軽く一杯、いきましょうということになり、午後も早い時間なのに、近くの蕎麦屋で二、三時間飲んでしまった。
 ふだん、書き手と、初対面で、そのまま酒になるという体験はほとんどなかったので、鮮烈に記憶に残っているのだが、草森さんとはジャズ、ミステリー談義、それと植草甚一、花田清輝の魅力という話題で、かなり盛り上がった。恐らく、彼も、このふたりは、<雑文宇宙の大家>として、私淑していたのではないかと思う。
 
 草森さんは、私が老け顔のわりに、意外に年齢が若いことを知ると、「あんた、ちょっと、高平(哲郎)に似てるね」と呟いたことを、よく、覚えている。

 高平哲郎は、言うまでもなく晶文社の創設者のひとり小野二郎の義弟で、60年代の後半、学生時代から晶文社に出入りし、植草甚一、小林信彦のカルチャー・エッセイの発掘、ジャズ関係の翻訳本の編集者として活躍していた。恐らく、草森さんの『ナンセンスの練習』も、彼が手がけたのであろう。

 私が編集者になってしまったのも、生意気盛りのこの時代に、晶文社の本と、草森さんが常連執筆者だった雑誌『話の特集』を耽読していたからには違いないから、この草森さんの言葉は、素直に嬉しかったのである。

 草森さんの訃報を聞き、しばらく、手許にある彼の雑文集を再読したりしていたが、漠然と、彼の映画エッセイ集をつくろうかと夢想したりもした。しかし、膨大な原稿を探す労力を考えると、いささか、しんどい作業になるなと逡巡していたところ、なんと、近々、若い編集者によって、草森さんの映画エッセイ集が上梓されるのだと言う。

 そのなかには、どうやら、私が依頼した『グローリー』のエッセイも収録されるらしい。
 括目して、待つことにしよう。


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草森紳一著『軍艦と草原――分別と無分別』(九藝出版)


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草森紳一著『底のない船――悪食病誌』(昭文社出版部)

レナード・コーエンとアラン・ルドルフ

 最近、レナード・コーエンがスペインのアストゥリアス皇太子賞の文学部門を受賞したという記事をネットで見つけた。
 レナード・コーエンは、かつて<カナダのボブ・ディラン>などと称された伝説的なシンガー・ソングライターで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコ、ジョニ・ミッチェル、女優のレベッカ・デモーネイほか数多くの女性たちと浮名を流したドン・ファン的な猟色家としても知られる。
 なんといっても、あの独特の低い艶をおびた<声>は一度、聴いたら忘れようもない。

 1970年代のはじめ頃、集英社から出ていた薄いクリーム色のカバーの「現代世界の文学シリーズ」は、私が偏愛していた叢書で、フィリップ・ロスのケッサクなマスターベーション小説『ポートノイの不満』や、アラン・シリトーの『屑屋の娘』、アイリス・マードックの『鐘』、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』など面白い小説が目白押しだったが、なかでもひときわ異色なのは、レナード・コーエンの『嘆きの壁』だった。
 ただし、ジェイムズ・ジョイスばりの内的独白や意識の流れ、奔放なまでの言語実験が駆使された、この難解きわまりない小説は、当時、生意気盛りのティーン・エイジャーにはまったく歯が立たなかった。 

 その頃、レナード・コーエンの歌はスクリーンからも聴こえてきた。  
『М★A★S★H』(70)で一躍、時代の寵児となったロバート・アルトマンの異色西部劇『ギャンブラー』(71)だ。
 この映画では、大胆にもレナード・コーエンのファースト・アルバム『レナード・コーエンの唄』から「シスターズ・オブ・マーシー」、「ストレンジャーズ・ソング」「ウィンター・レディ」の三曲だけが使われている。

 語りによる回想録『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)によれば、アルトマンは、『雨に濡れた舗道』(69)をヴァンクーバーで撮影中に、マリファナでぶっ飛びながら、このレナード・コーエンの傑作アルバムを擦り切れるほどに聴き惚れ、いつか自分の映画に使いたいと夢想していたのだという。

 若き日のレナード・コーエンのややしわがれた、呟くような繊細な歌声は、『ギャンブラー』の阿片中毒の娼館の女将ジュリー・クリスティーの絶望と憂いを宿した眼差しや、子供のように走り回る、ウォーレン・ベイティの滑稽きわまりない、雪の中の幻想的な決闘シーンと絶妙なまでにマッチしていた。
 
 この『ギャンブラー』をオールタイムベスト10に選んでいるのが、アルトマンの愛弟子アラン・ルドルフである。
 このふたりの映画作家の師弟関係は、ちょうど鈴木清順と大和屋竺のそれのように、微妙に屈折していて興味深い。一見、師匠のほうが達観、老成の境地に至っているかに思えるが、実は、対抗的な弟子のほうから深い影響を受けていたりするのだ。
 
 複数の男女がメランコリックな性愛の輪舞を繰り広げるアラン・ルドルフの幻のデビュー作『ロサンゼルスそれぞれの愛』(77、テレビ放映のみ)は、LA版『ナッシュビル』の趣があり、呪われた作家ナサニエル・ウエストの悲痛な名作『孤独な娘』をパロディにしたような『チューズ・ミー』(84)は、80年代のアメリカ映画が持ち得たもっともファニーで、エロティックな恋愛映画の一本である。

 豊潤で優美なエロティシズムをたたえた<女性映画>の名匠マックス・オフュルスは、ロバート・アルトマンがもっとも私淑していた映画作家だが、性愛をアイロニカルに眺めるアルトマン作品にはエロスはやや希薄であり、むしろ、弟子のアラン・ルドルフのほうにこそ、オフュルス的な艶やかな放蕩の匂いが色濃く感じられる。

 ジャンル神話破壊の究極の一本であるアルトマンの『ロング・グッドバイ』(73)への返歌のような探偵映画をアラン・ルドルフはのちに撮っている。なぜか日本では劇場未公開で、ビデオでのみ発売された『探偵より愛をこめて』(90)である。 

 私立探偵のハリー(トム・ベレンジャー)は、謎の美女(アン・アーチャー)から愛人(なんと歌手のニール・ヤングだ!)の浮気調査を依頼されるが、ハリーは、まちがって違う男を追跡しはじめる。やがて、この男は二つの名前とふたりの妻をもつトンデモナイ重婚野郎であることが判明する! 
 いっぽうで、ハリーと同棲している女が探偵見習いのステラ(エリザベス・パーキンス)にハリーの素行調査を依頼するが、やがて、ハリーと失恋の傷を抱えたステラは惹かれ合い――。

『探偵より愛をこめて』は、ストーリーのみを取り出せば、これまで無数につくられてきたハードボイルド探偵映画のクリシェだけを丹念に拾い集めて出来上がったような通俗映画には違いない。
 しかし、冒頭から、街中のあらゆる場所でキスを交わす若いカップルをとらえながら、レナード・コーエンの名曲「エイント・ノー・キュア・フォー・ラブ」が流れ出した瞬間、一気に画面全体が湿潤を帯び、濡れそぼり、淫風が吹きぬけていくような甘美な錯覚を覚えるのだ。

 深い翳りをおび、渋さを増したレナード・コーエンの歌が、あたかも、トム・ベレンジャーとエリザベス・パーキンスの奇妙にトンチンカンで切実な<愛の渇き>を癒やすための、対症療法のように、変奏され、リフレインされるのである。

『探偵より愛をこめて』では、もうひとつ、ビリー・ホリデイの最晩年の名盤『レディ・イン・サテン』の絶唱で知られる名曲「恋の味をご存じないのね」が、さまざまなバリエーションで使われている。<喪失感と失意、苦いメランコリーの意味を知らないあなたは、まだ、愛を知らないのよ>というサビの一節を、アン・アーチャーやトム・ベレンジャーが、突然、調子っぱずれな声で歌い出すので、思わず笑ってしまう。

 地味なスタンダード・ナンバーを、これほど洒脱なアレンジで再活用したのは、アラン・ルドルフと名コンビを組むソングライター、マーク・アイシャムの手腕によるものだろう。この映画のサントラCDは愛聴盤で、何度、繰り返し聴いてもまったく飽きることがない。

 いずれにせよ、あまりに誘惑的で、あまりに催淫的なレナード・コーエンの歌の魅惑がもっとも美しく結実した『探偵より愛をこめて』は、永く記憶されてよい隠れた傑作である。

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若き日のレナード・コーエン

 

 

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アラン・ルドルフの隠れた傑作『探偵より愛をこめて』のビデオ

 

伝説となった湯布院映画祭のマキノ雅広特集

 ここのところ、東映名誉会長の岡田茂、長門裕之、と日本映画の黄金時代を担った映画人の訃報が続いている。 
 先日、『キネマ旬報』の岡田茂追悼特集のために、鈴木則文監督に話を伺う機会があった。実に愉しい取材で、あらためて鈴木則文という映画監督の人間的な魅力に触れた思いだったが、そういえば、鈴木監督には、かつて、1991年の湯布院映画祭・マキノ雅広監督特集の際に、インタビューしそびれてしまったなあということを思い出した。

 地元の有志による映画祭の草分けである湯布院映画祭の長い歴史の中でも第16回のマキノ雅広特集は、そのゲスト陣の豪華さ、派手やかさにおいて、今や、伝説となっているといっても過言ではないだろう。

 実は、その当時、『AVストア』というビデオ業界誌の編集長をしていた私は、マキノ雅広監督の絶妙な語り口を生かし、インタビュー形式で、名著『マキノ雅弘自伝 映画渡世』(平凡社)のビデオ版を作れないだろうかという夢のようなことを考えていた。その夢想めいた企画を、社長が面白がって、やってみようという話になった。

 すぐさま、マキノ監督の自宅に伺い、企画の趣旨を説明すると、ご快諾をいただいた。ちょうど、その年の湯布院映画祭で、生誕八十周年を祝って大規模な「マキノ雅広特集」を開催するというので、まずは、私が陣頭指揮を執り、プロのスタッフを使って、この映画祭の模様を完全ドキュメントすることになった。

 前夜祭のパーティの感動的な光景は、今でも鮮やかに脳裏に浮かんでくる。
 最後のお礼の挨拶で、マキノ監督が「親の代から、四つの時から、ヤクザな家業と言われ、人の家の前で頭を下げて撮影させていただいて、道路でやったら、ヤクザに怒鳴られ、殴られて、それでもカメラだけは大事に持って逃げた――」と滔々と幼少期のつらい思い出を語りだすと、にぎやかな会場は水を打ったように静まり返った。
 そして、最後に、声をふりしぼるようにして、「日本映画には情感しかないんです。どうか、皆さん、日本映画を見てやってください」と切々と訴えるマキノ監督は、まるで後光が射しているかのように神々しかった。割れんばかりの拍手が沸き起こり、その時、会場にいた全員が泣いていた。

 翌日は、映画評論家・山根貞男さんの司会で、マキノ監督とその弟子である岡本喜八、笠原和夫、澤井信一郎、鈴木則文さんによるシンポジウムが開かれたが、とっておきの爆笑エピソードが次々に披露され、あれほど腹を抱えて笑ったトークというのは、それ以前にも以後も記憶にない。
 当時、こんな超豪華メンバーが一堂に会するのは東京では絶対に不可能であり、さっそく、各人にマキノ監督の魅力についてお話を伺ったのだが、終始、マキノ監督の車椅子をひいていた鈴木則文さんには、なかなかゆっくりインタビューをする時間がとれなかったのだ。

 このマキノ特集の最大の目玉は、東宝の『次郎長三国志第八部 海道一の暴れん坊』をニュープリントで上映したことだった。マキノ雅広監督の代表作であるこのシリーズの中でも最高傑作といわれた『海道一の暴れん坊』は、ラストで、森繁久彌演じる森の石松が闇討ちにあい、つぶれた片目が開いて、御詠歌が流れる中、無念の表情を浮かべて絶命する瞬間の名状しがたい無常感は忘れられない。

 このインタビューで、私が最も印象に残ったのは、笠原和夫さんの「マキノさんのヒューマニズムの奥底にあるのは、大正アナーキズムだ」という言葉だった。<マキノ監督七年周期説>というのがあり、マキノ監督は七年ごとにスランプに陥るそうなのだが、その鬱がきわまった時には、「泉鏡花を思わせるような極端な耽美主義に沈潜することがあり、その時のマキノさんは溝口健二を越えている」とまで笠原さんは語っている。

 たしかに、湯布院映画祭で上映された作品のなかには、『待って居た男』、『鴛鴦歌合戦』といった娯楽映画のエッセンスのような明るく軽妙洒脱な逸品もある。
 しかし、いっぽうで、『海道一の暴れん坊』のラストや、大友柳太朗と千原しのぶが、破滅的な狂気の愛に殉じる『仇討崇禅寺馬場』、それに、やはり大友柳太朗が、領主に恋仲だった丘さとみを奪われて復讐の鬼と化し、全身に九十九の刀傷を背負って帰郷する『港まつりに来た男』には、奈落の底を垣間見るような深いメランコリーと悲愴美が感じ取れるのである。

 当時は、笠原和夫さんの言葉に大いに刺激され、大正アナーキズムという視点から眺めると、ビデオ版『映画渡世』は、かの名著とは違った色合いが出せるのではないかなどと妄想はふくらむばかりであった。
 しかし、やがて、バブル崩壊で、ビデオ業界も急速に冷え込み、数年後には会社が倒産の憂き目にあって、結局、私の手元には、この湯布院映画祭の膨大なビデオ映像だけが残った。
 93年にはマキノ雅広監督も逝去された。
 
私は、あのマキノ監督の感動的なスピーチを含めて、この貴重な証言が満載のドキュメントはなんとか散逸だけは避けたいと思った。そこで、当時、立命館大学に設立されたばかりのマキノ映画研究室に、そっくり寄贈することにしたのである。

 いつしか、ゲストで登壇した岡本喜八監督、笠原和夫さんも鬼籍に入られてしまった。 
 年はめぐり、五年前、東映から『マキノ雅弘と高倉健』DVDボックスが発売された。
 その特典映像として「映画監督・マキノ雅弘 91湯布院映画祭マキノ雅弘監督特集記録」が収録されることになった。一時間ほどに編集されたバージョンだが、幻の湯布院映画祭マキノ特集が、こんな理想的な形でよみがえったことは嬉しくてならなかった。

 そういえば、湯布院映画祭が終わった直後に、『AVストア』でも、誌面をリニューアルして、「マキノ雅広特集」を組み、愛弟子である岡本喜八、澤井信一郎両監督の対談を企画したことがある。たっぷり二時間あまり、それぞれ、東宝、東映という異なった撮影現場における師匠マキノ雅広監督の作品の魅力を縦横に語っていただいたが、これは実に刺激的な読み物であった。
 当時、『キネマ旬報』編集長だった植草信和さんが、これを読んで、「よく、こんな豪華な対談ができたね、うらやましい」と語っていたのが思い出される。

 実は、この対談は、ページの都合で、そのほんの一端しか採録できなかったのがずっと悔やまれてならなかった。今もそのテープは手許にあるのだが、どこかの媒体で、完全誌上採録ができないだろうか。今となっては、きわめて貴重な映画史的な資料だと思う。

 

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『第16回湯布院映画祭・マキノ雅広監督特集』のパンフレット

 


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DVDボックス『マキノ雅広と高倉健』(東映)に特典映像として収録されている「映画監督・マキノ雅弘 91湯布院映画祭マキノ雅弘監督特集記録」

伊丹十三にとって<映画>とは何だったのか

 二年前、私が編集した今野勉さんのメモワール『テレビの青春』(NTT出版)のエピローグで、今野さんが、「伊丹十三は、テレビの仕事を続けていれば死ななかったのはないか、伊丹は稀にみるテレビ人だった、と今にして思う」と書いていたくだりがずっと気になっている。

 最近、是枝裕和監督に取材でお会いした際にも、その話題になった。周知のように、是枝さんは、今野さんたちが立ち上げたテレビマンユニオンに憧れて入社し、数々のドキュメンタリーを作った後、映画監督になっている。今回、是枝さんが、テレビマンユニオン時代に、後に著作権をめぐって裁判沙汰にまで発展する伊丹十三製作総指揮、黒沢清監督『スウィート・ホーム』のメーキングをつくったことを初めて知ったが、彼もやはり「伊丹さんはなによりも優れたテレビ人でしたよね」と語っていた。

 今、私の手元には『話の特集』の1983年7月号に掲載された「特権的映画学講座」と題された蓮實重彦と伊丹十三の対談がある。この対談は、かねてより蓮實重彦さんの映画批評に心酔していた伊丹さんのたっての願いで実現したものである。
 その頃、『監督 小津安二郎』を刊行したばかりの蓮實重彦は、小川徹が<ウルトラ・スーパー批評家>と命名したように、絶大な影響力を誇っていた。万田邦敏が彼を教祖として崇拝するシネフィルたちを、アイロニーを込めて<ハスミ虫>と呼称したのもこの頃であった。
 当時、私は、この対談を読んで、まるで夏休みの宿題を提出した中学生が先生に褒められて狂喜しているような、ほほえましい印象を受けた。だが、一方で、ニコラス・レイの『北京の55日』をはじめ数多くの映画の現場を体験している伊丹十三ともあろう人がこれほど無邪気なハスミ虫になってしまってよいものだろうかと思ったものだ。

 伊丹さんは、その翌年、84年に『お葬式』で監督デビューする。『お葬式』は『キネマ旬報』のベストワンを始め、映画賞を総なめにして、興収十五億を超える記録的な大ヒットとなった。しかし、伊丹さんがもっとも称賛を期待したであろう蓮實さんは、最初の試写の際、本人の前で作品を酷評し、以後、ふたりが言葉を交わす機会はなかった。

 当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、伊丹さん自身の執筆になる『お葬式』の製作ノート(のちに加筆されて『「お葬式」日記』の題で文藝春秋より刊行され、ベストセラーとなった)を掲載するために、経堂にあった伊丹さんのマンションに何度かうかがった。その時に、もっともよく出る話題は、当時、蓮實重彦さんが絶賛していた商業映画デビューしたばかりの黒沢清であり、周防正行だった。

 伊丹映画は、『お葬式』をのぞいて、批評家筋からは、必ずしも好意的な評価は得られなかったが、とくに第三作『マルサの女』以降は、周到なマーケティングと時代感覚を武器にことごとく大ヒットし、混迷する日本映画界で、自他ともに認める唯一のヒットメイカーとして揺るぎなき存在となっていった。
 伊丹さん自身も、ふっきれたように批評よりも興行成績を重視し、ひたすら<当たる>映画を撮り続けることが、低迷する日本映画界の復権につながると思い込もうとしていたように見える。

 あれは、91年ごろだったろうか。当時、私は『AVストア』というビデオ業界流通誌の編集長をしており、『あげまん』(90)がビデオ化されたのを機に、ひさびさに伊丹さんにインタビューすることになった。私は『あげまん』はまったく生理的に駄目だったので、映画の内容云々ではなく、ちょっと意地悪く<映画と批評>というテーマをめぐってズケズケ聞いたように記憶している。伊丹さんはもはや無邪気なシネフィル的言説は封印していたが、逡巡しながらもひとつひとつ言葉を選ぶように誠実に答えてくれたように思う。
 後で立ち会っていた東宝の宣伝部の女性が、今回の取材の中で一番、面白かったです、と言ってくれたのがせめてもだった。
 思えば、インタビューした場所は、後に伊丹さんが自死することを選んだ彼の六本木の事務所だった。

 さて、晩年、伊丹十三さんは、たびたび公の場で、映画監督こそは、それまでの自分のすべてのキャリアを統合できる天職である、と語っていたが、ほんとうにそう信じていたのだろうか。
 伊丹さんが、そう発言する時に、偉大な父である映画監督・伊丹万作をつねに意識していたことは間違いないだろう。
 しかし、私は、伊丹さんの映画には、伊丹万作作品が持つ軽妙洒脱、諧謔味あふれる、かわいた諷刺精神は見出せなかった。だが、彼の初期のエッセイとテレビマンユニオン時代につくったドキュメンタリーには、間違いなく、同様のエスプリを感じ取ることができるように思う。

 たとえば処女作『ヨーロッパ退屈日記』の冒頭に、「これは本当に映画だろうか」というエッセイが入っている。
これは、1960年代のはじめに、ロンドンのナショナル・ギャラリーでジャン・ヴィゴの『アタラント号』と『新学期・操行ゼロ』の二本立てを見た時の感想で、少し長いが引用する。
「およそ天才の創った映画を見ていると、それ以前のコンヴェンショナルな作品に対して、これは本当に映画だろうか、という問いをなげかける作者の言葉が聞こえてくるように思われます。これはとても重要なことです。なぜなら、映画の世界ほど新しい実験の困難なところはなく、実験のないところに新しい伝統の生まれてくる道理がないとするならば、われわれは古い主題の巧妙なヴァリエイション、古い枠の中でのテクニックの高度の洗練、といったものに幻惑され、同化されないために、常に<これは本当に映画だろうか>という問いを心の中に持ち続けることが必要であると思われるからです」
 これは、恐らく、日本人によって書かれた最初期のジャン・ヴィゴについての、そしてきわめて秀逸な批評であると思う。蓮實批評に出会うはるか以前に、伊丹さんの審美眼は際だっていたことが了解されるのである。
 花田清輝も『女たちよ!』のピーター・オトゥールに関するエッセイを絶賛し、庄司薫の小説の過小評価と並べて、「批評家には同時代の才能がわからない」と嘆息していたことが思い出される。

 テレビマンユニオン時代の作品では、二日酔いの精神状態をユーモラスに映像化した怪作など彼の薀蓄エッセイそのままの面白さだが、今でも鮮烈に記憶に焼き付いているのは、伝説の蒸気機関車D51を描いた『遠くへ行きたい』である。
 レポーターをつとめた伊丹さんは、最後の走行となるD51を必死に撮ろうとする鉄道撮影マニアやマスコミの混乱ぶりを密着取材する。そして、ラスト、雪原のはるか遠方にD51が見えた瞬間、視点が切り替わり、D51の側のカメラから、一斉に無数のファインダーをむけている不気味な群衆を映してエンドとなる。その皮肉たっぷりな批評精神は見事であった。 

 映画俳優としても、記憶に残る作品は枚挙にいとまがない。なかでも、加藤泰監督の『男の顔は履歴書』で、伊丹さんは医師安藤昇のイノセントな熱血漢の弟を演じているが、韓国人・真里明美との悲恋の果てに銃弾に倒れ、ふたりが折り重なるように死んでいく哀切に満ちた美しいシーンは忘れられない。

 私は、これから、伊丹十三が再評価されるとすれば、映画監督としてではなく、エッセイスト、映画俳優、テレビマンとしての仕事ではないだろうかという気がするのだ。

 

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 伊丹十三さんの最初のエッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』 

 

 

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 伊丹十三氏 

幻の未映画化シナリオをめぐって

映画アットランダム 第二十一回

幻の未映画化シナリオをめぐって


 先日、作家の小林信彦さんから電話をいただいた。
 最近、私が編集した大島渚監督のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(小社刊)には「衰退というタイトル―小林信彦」という人物スケッチが入っており、小林さんは懐かしそうに大島監督にまつわるさまざまな思い出を語っておられた。
 
 なかでも、小林さんが、大島監督と出会った頃に、いきなり映画を監督しないかと口説かれたという話を伺って、ああ、これは、昔、『話の特集』に書いていた『チンコロ姐ちゃん』のエピソードだなとピンときた。

「一九六一年秋のスケッチ」と題された、そのエッセイは、後に小林信彦さんの傑作バラエティ・ブック『東京のロビンソン・クルーソー』(晶文社、1973年刊)に収められたが、私が小林さんのコラムの無類の面白さを初めて知ったのも、この『話の特集』の「世直し風流陣」という連載だった。

 そのエッセイによれば、当時、松竹を退社し、創造社をつくったばかりの大島監督は、富永一朗の漫画『チンコロ姐ちゃん』の映画化をすすめていたという。石堂淑朗が書いたシナリオは『シナリオ』誌にすでに発表されていたが、その頃、小林さんは『映画評論』に後の『世界の喜劇人』の原型となる「喜劇映画の衰退」を連載しており、「喜劇映画について長い評論の書ける男なら、監督もできる」が持論の大島監督は、小林さんに白羽の矢を立てたというわけである。
 結局、演出は田村孟に決まり、小林さんは石堂と一緒に旅館にこもり、シナリオを手伝うことになるのだが、そこで起こるスッタモンダの爆笑エピソードが軽妙な筆致で回想されている。  

 実は、最近、近所の古本屋で偶然、この石堂淑朗の『チンコロ姐ちゃん』のシナリオが載った『シナリオ』誌を見つけた。一読し、かなりハチャメチャで猥雑な魅力をもったホンだと思ったが、どうみても、『悪人志願』という呪われた怪作を一本だけ撮った観念偏重型の田村孟の資質とは水と油で、これはいかに手を加えても実現不可能な企画であっただろうと思う。

 今、私の手元に『喜劇・マリリン・モンロー・ノー・リターン』というシナリオの第一稿がある。
 企画・中島正幸、原案・内田栄一、脚本・山崎忠昭、夏文彦、黒木和雄、監督・黒木和雄とあるが、もちろん、黒木和雄監督のフィルモグラフィーには、こんな作品は存在しない。ちなみに、企画の中島正幸とは『飼育』から『少年』に至る60年代の大島渚作品を手がけたプロデューサーである。 

 この映画化されなかった幻の作品の顚末については、私が編集した山崎忠昭さんの遺稿集『日活アクション無頼帖』(ワイズ出版)に詳しく書かれているが、題名は、1970年頃、直木賞作家・野坂昭如が歌ってヒットした「マリリン・モンロー・ノー・リターン」からとられている。<この世はもうじきオシマイダ>というおどろおどろしいイントロから始まるこの歌は、昭和元禄などと呼ばれた当時の世相とマッチし、世紀末風の厭世的な歌詞と、野坂のシラケきったニヒルな歌いっぷりが評判となっていた。

 山崎忠昭さんの本によれば、『男はつらいよ』の大ヒットで意気上がる渥美清のマネージャーの発案で、アートシアターで『日本の悪霊』(70)を撮ったばかりの黒木・中島コンビで松竹大船で一本撮れることになった。しかし、内田栄一が書いた第一稿が<イヨネスコやベケット顔負けの難解な不条理劇>になってしまい、急遽、手直しを依頼されたのだと言う。助っ人で参加した夏文彦さんは、後にゴールデン街のお店から借金をしまくり、黒木和雄監督の『竜馬暗殺』を完成させてしまったという伝説を持つルポ・ライターであった。

 このホンを読むと、近づいてくる男が次々に死んでいく疫病神のようなヒロイン、ミナコの魂の遍歴という主題もさることながら、破天荒なブラック・ユーモアと幻想的なタッチ、甘やかな抒情が溶け合った奇妙な味わいがあり、『とべない沈黙』の黒木監督にはぴったりの素材に思えた。

 黒木和雄監督は、晩年には『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』の<戦争レクイエム三部作>を撮り、遺作となった『紙屋悦子の青春』も高く評価された。もちろん、これらの秀作には、戦後民主主義を全身で受け止めた昭和ひとケタ世代である黒木監督の真摯でヒューマンな反戦のメッセージが謳い上げられている。だが、ホンネをいえば、黒木監督には、生涯、どうしても撮りたかった映画、お金が集まらず、ずっと二十年来、頓挫していた幻の企画があったはずだ。

 それは『スクラムトライ(山中貞雄伝)』と題された夭折の天才映画監督・山中貞雄の伝記映画で、すでに、私が『月刊イメージフォーラム』の編集者時代に、感想を聞きたいからと、その第一稿を黒木監督から手渡されているのだ。
 当時、1980年代前半だったと思うが、ロカルノ映画祭で山中貞雄特集が組まれ、黒木監督に、レポートを書いてもらったのだが、黒木監督は、映画の冒頭に使うために、その会場の模様を16ミリで撮影してきたはずで、その断片を見せてもらった記憶がある。

 その頃、ちょうど『月刊イメージフォーラム』に連載していた『日活アクション無頼帖』で、山崎さんが『マリリン・モンロー・ノー・リターン』の始末記を書いていたこともあり、久々に、御三方が集まり、一緒に飲もうということになった。 
 ゴールデン街のお店を何軒もハシゴし、高歌放吟(夏文彦さんは酔うと必ず甲高い声で高倉健、小林旭の歌を絶唱するのだ!)、黒木監督も涙を流しながら笑い、唱和していたことが思い出される。

 その御三方も、今や、すべて鬼籍に入られてしまった。
 いつか、<映画化されなかった幻のシナリオ集>というものをまとめてみたいと夢想することがあるが、その際には、石堂淑朗の『チンコロ姐ちゃん』と黒木和雄監督のこの二本のシナリオは、ぜひ、入れたいと思う。

 

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石堂淑朗の『チンコロ姐ちゃん』のシナリオが掲載された『シナリオ』誌(1961年3月号)

 

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黒木和雄監督で企画された幻のシナリオ『喜劇・マリリン・モンロー・ノー・リターン』の第一稿台本

ドナルド・リチーのアンダーグラウンドな戦後史

  数年前、ドナルド・リチーの『The Japan Journals 1947?2004』が一部の映画関係者の間で話題になったことがある。
 数多くの映画人、とくに三島由紀夫との交友を赤裸々に回想していることなどがゴシップ的な興味を惹いたようだが、特異な映画人による戦後カルチャー史としても抜群に面白いし、翻訳する価値は十分あると思われる。

 ドナルド・リチーは、まずなによりも、日本映画黄金期の巨匠たちを逸早く海外に紹介した映画研究者として知られている。ニューヨークのジャパン・ソサエティに永年勤務していた平野共余子さんによれば、あのスーザン・ソンタグもリチーには深い尊敬の念を抱いていたらしい。

 たしかに『小津安二郎の美学――映画の中の日本』『黒澤明の映画』(どちらも社会思想社文庫)といった著作が、海外における日本映画研究に多大なる貢献を果たしたことは言うを俟たない。しかし、私がドナルド・リチーを心底、すごいと思うようになったのは、こうした一連の日本映画研究ではなく、それ以前に書かれた三冊の評論集によってである。

 敗戦の翌年、進駐軍とともに「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」の記者として来日したドナルド・リチーは、1950年に『現代アメリカ芸術論』(早川書房)を上梓している。この本は<戦後アメリカ文化の啓蒙書>という体裁をとりつつも、訳者あとがきで加島祥造が書いているように「審美的な芸術性への志向と、商業主義への反逆」が底流にある。苛烈なディズニー批判などはその最たるものだ。
 たとえば『わが心にかくも親しき』を「これまでのうちで最悪の作品の一つだといえよう。極端に感傷的な物語で、ディズニーはそれ故、ここでは単に金を儲けているにすぎない」と激しく糾弾している。自由と民主主義を標榜する楽天的な<アメリカニズム>のシンボルであったディズニー作品を、リアルタイムで、これほど悪しざまに罵倒した批評は皆無であろう。

『現代アメリカ芸術論』の白眉は、ジョン・フォード、アルフレッド・ヒッチコックと並べてプレストン・スタージェスを論じた「アメリカの三人の監督」という章である。
 リチーは、当時、『結婚五年目』と『殺人幻想曲』の二本しか公開されていなかったプレストン・スタージェスの作風について「マーク・トウェイン的であり、そして偶像破壊的であり、しかし、それはまた、アメリカ人が直面する非常に興味深い道徳問題の一つを摑んだものである」「彼のユーモアには二つの主流、すなわち諷刺(サタイヤ)とペーソスがあり、彼の最上の作品には両者が均等にいりまじっている」と精妙に分析し、代表作『サリヴァンの旅』についても、「極端に苦い諷刺と子供のように物悲しいユーモアをもち、そのためにいまなお記憶されている」とその魅力を見事に言い当てている。
 
 ドナルド・リチーは、一時帰国した後、1956年に『現代アメリカ文学主潮』(英宝社)を書いた。一見、戦後アメリカ文学の通史を装った、この本の中で、リチーの筆が最も躍動し、生彩を放っているのは、<スリー・マイナー・ノベリスト>と副題にあるナサニエル・ウェスト、ポール・ボールズ、カーソン・マッカラーズという三人の作家を論じた章である。
 この三人に共通するのは、近親相姦や同性愛など、当時タブー視されていた倒錯的な主題を好んで取り上げ、聾唖者や精神薄弱者、あるいは肉体的な欠損を抱えた畸形的なキャラクターたちがひしめく、グロテスクで甘美な悪夢的世界を造型したことである。
 たとえば、ナサニエル・ウェストの『孤独な娘』について「トマス・ウルフの全作品よりも価値あるものなのである」「ウェストもまた彼自身の同胞を余りに愛する故の厭世家であった。……彼のなしえたことと言えば、彼自身の理想主義を裏返しにし、アメリカ人たちを、実際にそうであるよりもさらに酷い、恐ろしい存在として眺めることだった。彼らを愛せないとしたら、すくなくとも彼等を憎むだけのことはやりえたわけだ」と書く。  
 これは呪われた作家ウェストの優れた素描であると同時に、リチー自身のアメリカへのアンヴィヴァレントな感情の表白とも読めるのではないだろうか。

 ちょうど、この翌年、ドナルド・リチーは『この焦土』(新潮社)を発表している。占領軍の白人将校たちと日本の有閑夫人たちの愛欲模様を、あたかも『蝶々夫人』のパロディのような諷刺的なタッチで描いた風俗小説である。当時、花田清輝が「占領軍に対する批判では、三島由紀夫の『女は占領されない』よりも、この作品のほうがはるかにシンラツかもしれない」(『近代の超克』あとがき)と評価しているのが興味深い。

 かつて、大島渚が「映画史上の革命的な作家たちをその生涯のピークをなす作品においてとらえた文章は私にとって十分以上に革命的だった。作品が達した高みに対する限りなき尊敬と賞賛とそのような作品をつくる作家であるがゆえに彼らが受けなければならなかった運命の苛酷に対する痛憤と同情は、抑制された筆致の下でも鮮烈極まりない詩となって喨々(りょうりょう)と鳴りひびき私の胸を打ったのだ」と絶賛した『映画芸術の革命』(昭森社)は、映画批評家としてのドナルド・リチーの精髄が味わえる。『戦艦ポチョムキン』から『ルイジアナ物語』に至る10本の映画史上の名作を解説しながら、一貫して真のアヴァンギャル精神とは何かを追求した評論集である。 

 なかでもジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』を論じた章では、この名作についての最も優れた考察としてジェイムズ・エイジーの批評をたっぷりと引用し、さらに自らのユニークな知見を重ね合わせている。このふたりの『操行ゼロ』論を読むと、カルトムーヴィーの傑作『狩人の夜』の脚本家でもあったエイジーとドナルド・リチーは極めて資質が似ていると思う。

 数年前に『ドナルド・リチー作品集』(ダゲレオ出版)というDVDボックスが出て、アヴァンギャルドな実験映画作家ドナルド・リチーの全貌が明らかになった。セロニアス・モンクを思わせるピアノ・ソロが印象的な(作曲は武満徹だ)、アントニオーニ風のアンニュイとゲイ・テイストあふれる『熱海ブルース』、ピクニックにやってきた三人の親子が一人の男を食べ尽くす『五つの哲学的寓話』などを見ると、そのおぞましくもグロテスクなユーモアにしばし茫然となる。

 ドナルド・リチーは、将来、海外への日本映画の紹介者としてではなく、『スコーピオ・ライジング』のケネス・アンガーに匹敵する、エロスとタナトスに憑りつかれたアンダーグラウンドな作家として再評価されるだろう。

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 『JAPAN JOURNAL,S 1947-2004』

 

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花田清輝が高く評価した小説『この焦土』

 

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 大島渚も絶賛した映画論の代表作『映画芸術の革命』

  

ニコラス・ローグの時代

 最近、ネットで、英国の映画情報誌『タイム・アウト・ロンドン』が発表した英国映画業界人が選ぶ「イギリス映画ベスト100」という記事を見つけた。ちなみにベストテンは下記の通りである。

 

1位『赤い影』(73、ニコラス・ローグ)

 

2位『第三の男』(49、キャロル・リード)

3位『遠い声、静かな暮らし』(88、テレンス・デイビス)

4位『ケス』(69、ケン・ローチ)

5位『赤い靴』(48、マイケル・パウエル&エメリック・ブレスバーガー)

6位『天国への階段』(50、M・パウエル&E・ブレスバーガー)

7位『パフォーマンス/青春の罠』(69、ニコラス・ローグ&ドナルド・キャメル)

8位『カインド・ハート』(49、ロバート・ヘイマー)

9位『ifもしも……』(68、リンゼイ・アンダーソン)

10位『トレイン・スポッティング』(96、ダニー・ボイル)

 

 テレンス・デイビスの郷愁に満ちた地味な佳作『遠い声、静かな暮らし』の3位というのは驚くが、さらに意外なのは、ニコラス・ローグの『赤い影』が、かの有名な『第三の男』を押さえてベスト・ワンに選ばれていることだ。ローグは7位に、ドナルド・キャメルと共同監督の『パフォーマンス/青春の罠』まで入っている。イギリスでは未だに根強い人気を誇っているのだろうか。

 

 

 そういえば、今やほとんど映画ファンの間でも話題にならないが、かつて日本でも<ニコラス・ローグの時代>と呼べる一時期があった。

 

 

 フランソワ・トリュフォーの『華氏451』やリチャード・レスターの『華やかな情事』の撮影監督として知られていたニコラス・ローグが、一部の映画ファンに注目されたのは、『WALKABOUT 美しき冒険旅行』(70)からである。

 

『美しき冒険旅行』は、72年にロードショーではなく、ひっそりとスプラッシュ(二本立てで一週間のみ)公開された。私も70年代の半ば頃、池袋文芸坐の<陽の当たらない名画祭>で初めて見て、深い衝撃を受け、その後、名画座にかかるたびに追いかけた記憶がある。

 オーストラリアの原野に放り出されたイギリス人の少女(ジェニー・アガター)と弟が、アボリジニの少年と出会い、言葉が通じないままに旅を続ける。原題の「WALKABOUT」とは、アボリジニの部族に伝わる、少年がたった一人でオーストラリアの奥地を旅する成人儀礼のことである。未開と文明が衝突、融和し、そして悲劇が起こる。ローグは、この一見、メルヘン風な冒険譚をグロテスクで残酷な寓話として昇華させた。

 

 もう五・六年前になるだろうか。当時、『狩人の夜』など数多くのカルト・ムーヴィーを手がけていたユニークな配給会社ケーブル・ホーグの根岸邦明さんに直談判し、『美しき冒険旅行』をリバイバルすることになった。チラシ・解説もすべて私が書き、初公開時に、角川文庫から出ていたP・J・マーシャルの原作も清流出版から復刻してもらった。

 

大ヒットとまではいかなかったが、若い世代にも熱狂的なファンが生まれたようで、ニコラス・ローグのささやかな復権にはなったかと思う。

 

 ニコラス・ローグは、カメラマン出身らしく、錯綜した意識をジグソー・パズルのようにコラージュさせた痙攣的な映像美が麻薬のような陶酔感をもたらしたが、今、見直すと、その音楽の卓越したセンスに感嘆してしまう。 

 

 

『美しき冒険旅行』の音楽は、先頃亡くなったジョン・バリーで、この天上的なまでに美しいスコアは一度、聴いたら忘れられない。ジョン・バリーの知られざる傑作のひとつである。

 

『赤い影』も、ピノ・ドナジオの甘美きわまりない旋律が、この水の迷宮ベニスを舞台にしたオカルト・サスペンスを強烈に印象づけた。

 

『ジェラシー』(80)の公開時に、音楽的に、私がもっとも驚いたのは、全篇に装飾的に響き渡るキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」でも、冒頭、クリムトの「接吻」の絵にかぶさるトム・ウェイツの「ブルースへようこそ」でもなく、ラスト、宿命の女テレサ・ラッセルのクローズアップの後、画面が溶暗し、聴こえてきたビリー・ホリディの「イッツ・ザ・セイム・オールド・ストーリー」だった。

 

 当時、私はいっぱしのジャズファンではあったが、このビリー・ホリデイの歌はまったく聴いたことがなかった。スタンダード・ナンバーでもなんでもなく、恐らくビリーが吹き込まなければ、永久に忘れ去られたであろう当時の小唄のひとつにすぎない。

『ジェラシー』にはビリー・ホリデイの絶唱ともいうべき名曲「アイル・ビー・シーイング・ユー」も使われているのだが、インパクトの点では、断然、こちらが鮮烈で、<これも、いつもと同じありふれたお話しよ>と終わった恋を苦い諦念をこめて歌うビリーの声は実に若々しい。恐らく絶頂期のコロンビア時代かと当たりをつけて、レコード屋で探し回った挙句、数年後、ようやく高価な輸入盤セットの中にこのナンバーを見つけた時の興奮は忘れられない。

 

もし、私が、映画史上の名ラストシーン・ベスト3を選ぶとすれば、必ず入れたいと思うのがニコラス・ローグの『地球に落ちてきた男』(76)である。地球に漂着し、永遠に歳を取らない宇宙人デヴィッド・ボウイがアル中となり、テラスで酒浸りになっている。そこへ、アーティ・ショウの「スター・ダスト」が流れ出し、酔いが廻ったデヴィッド・ボウイがゆっくりと頭をうなだれると被っていた帽子が大写しになり、エンド・クレジットが重なるのだ。

 

 

『地球に落ちてきた男』を封切りの際に、がら空きの劇場で見て、こんなキャンプなエンディングは唯一無比だなあと深く感動してしまったのだが、数年後、『月刊イメージフォーラム』で、ジャズ評論家大和明さんの「映像のジャズメンたち」という連載を企画した。

 

 

大和明さんはビリー・ホリデイ研究では世界一といえるほど膨大な資料を持っていたが、打ち合わせで、お宅に伺った際に、『ジャミン・ザ・ブルース』(44)という短編映画のビデオを見せてもらった。

 

このジャズミュージシャンの演奏をとらえたドキュメンタリー映画は、冒頭、二重丸の黒い模様が映り、ジャズメンの名前が流れ出す。やがて、その二重丸が上に動くと、その下からテナーサックスをくわえたレスター・ヤングの顔が現れ、「ミッドナイト・シンフォニー」を吹き出すのだ。つまり、二重丸はレスター・ヤングのトレード・マークであるポークパイ・ハットだったわけだが、『地球に落ちてきた男』のラストシーンは、明らかに、この『ジャミン・ザ・ブルース』の冒頭シーンを反転させたものだった。ジャズに造詣が深いニコラス・ローグならではのオマージュだったに違いない。

 

ニコラス・ローグは、大作『ユリイカ』(82)が製作トラブルに見舞われ、日本では『錆びた黄金』の題でビデオ発売になってしまったが、この頃から、作品もやや精彩に欠け、やがて新作もほとんど公開されなくなってしまった。

 

 

ちなみに、「イギリス映画ベスト100」では、『美しき冒険旅行』が61位、『ジェラシー』が70位に選ばれている。

 

私も、デビュー作『パフォーマンス/青春の罠』から『ジェラシー』までのニコラス・ローグは、世界のトップレベルにあったし、とてつもなく魅力的だったと思う。

  もういちど、スクリーンで、ニコラス・ローグの映画に再会したいと切に願っている。

 

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ニコラス・ローグの伝説的なデビュー作『WALKABOUT美しく冒険旅行』

 

 

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 『地球に落ちてきた男』のデヴィッド・ボウイ

「荒木一郎・アフター・ダーク」

 先日、小沢信男さんから新刊『本の立ち話』(西田書店)を贈っていただいた。
 小沢信男さんは、周知のように、学生時代に花田清輝に見出された作家で、半世紀にわたって新日本文学会に在籍し、そこで出会った作家たちを回想した『通り過ぎた人々』(みすず書房)は、みずみずしい名著である。以前、私が、このメモワールを「図書新聞」で書評し、また『ものみな映画で終わる/花田清輝映画論集』(小社刊)を編集したことが御縁となって、新著が出るたびに、贈っていただいている。 

 小沢さんはポルトレ(人物スケッチ)の名手で、『本の立ち話』にも佐多稲子、長谷川四郎、川崎彰彦といった作家の見事なスケッチが収められているが、『通り過ぎた人々』で最も印象に残ったのは菊池章一という文芸批評家だった。
 慶応大学出身で、いつもベレー帽をかぶって小脇にフランス語の原書を抱えていたという、このほそおもてで垂れ眼、長身痩躯の人物は、戦時下に女優の荒木道子らと劇団を創設して、治安維持法にひっかかり、留置場にぶちこまれてもいる。   
 やはり、戦時下、社会思想研究家だった父親が投獄されるという過酷な時代を描いた映画『母べえ』の原作者、野上照代さんも若き日のダンディな菊池章一にすごく憧れたと『蜥蜴の尻っぽ とっておきの映画の話』で述懐している。
 
『通り過ぎた人々』で、小沢信男さんは、さりげなく、この時期に、菊池章一と荒木道子は結婚し、生まれたのが荒木一郎だったと書いているが、恐らく荒木一郎の父親の名前が活字で明かされたのは、この本が初めてではなかったろうか。

 私のような一九六〇?七〇年代に日本のポップスを浴びるほど聴いて育った世代にとって、荒木一郎とはなによりも不世出の天才シンガー・ソングライターである。

 たとえば、ビート・ジェネレーションの聖典、アレン・ギンズバーグの長篇詩「吠える」の諏訪優訳に、奔放で大胆なロックのリズムの曲をつけた大作「僕は君と一緒にロックランドに居るのだ」は、今、聴いてもまったく古びてはいない。
 恩地日出夫監督の名作『めぐりあい』(67)の冒頭に流れる、荒木一郎が歌った主題歌「めぐり逢い」(作詞も荒木一郎、作曲は武満徹だ!)は、日本の映画音楽史上、もっとも抒情的で美しいスコアである。

 荒木一郎は、映画俳優としても、その存在感は突出していた。
 前回のコラムで、私的な大島渚作品のベスト3に挙げた『日本春歌考』(67)でも、大学受験のために上京した高校生に扮した荒木一郎のぶっきらぼうで不穏な佇まいは、引率の教師を演じた伊丹十三をはるかに凌駕するほど魅力的だった。

 さらに、荒木一郎は、中島貞夫監督の『893愚連隊』(67)、『現代やくざ/血桜三兄弟』(73)といった東映のヤクザ映画、村川透監督の初期日活ロマンポルノの傑作『白い指の戯れ』(72)でも、時には飄々としたチンピラ、時には深い鬱屈を抱えた青年をリアルに演じて忘れがたい印象を残した。

 七〇年代の半ば頃、名画座で見た『スキャンダル夫人』という珍品がある。かつてマスコミを賑わしたデヴィ夫人の愛人スキャンダルと六〇年安保をテーマにしたエロティックな映画で、監督は鬼才武智鉄二だった。全編がキワモノというか前衛舞台劇のような趣向で、荒木一郎は、たしかヒロインのビデ夫人(!)の愛人だった津川雅彦の役を演じていたと思う。この頃は、荒木自身がスキャンダルに巻き込まれ、音楽業界からパージされていたから、なにやら破れかぶれといった風情の不思議な迫力を感じさせた。

 数年前、ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーで「ICHIRO ARAKI アフター・ダーク」と題した荒木一郎の映画祭を企画したことがある。この特集では、ぜひ『スキャンダル夫人』を上映したかったのだが、八方手を尽くしても遂にプリントが見つからなかった。まさに曰くつきの幻のカルト映画といえようか。

 この荒木一郎映画祭は、新聞でも取り上げられて一部で話題になり、レイトにもかかわらず、プログラムを追うごとに、とくに若い女性が目立って増えてきた。その評判を聞きつけたのかどうか、急遽、楽日に、荒木一郎本人が来場することが決定した。

 当日は、私が司会で、一時間ほどトークを行ったが、還暦を過ぎているにもかかわらず、ジーパン、ジージャンにサングラスというスタイルで颯爽と荒木一郎が登場した瞬間、若い女性で熱気ムンムンの場内から一斉に溜め息がもれたのを思い出す。

 ちなみに特集のタイトルは、荒木一郎が書いた小説『ありんこアフター・ダーク』(河出書房新社)をもじったものである。この書名自体が、カーティス・フラーの名盤『ファイブスポット・アフター・ダーク』のもじりであるのはいうまでもない。

『ありんこアフター・ダーク』は、渋谷のジャズ喫茶にたむろする高校生の眼を通して、東京オリンピック前夜の東京を描いたジャズ小説で、直木賞候補にもなった。
「ところが選考委員の五木寛之が作品に嫉妬しちゃてさ、結局、落ちたんだよ」と荒木一郎は苦笑気味に語っていたのを覚えているが、あながち嘘とは思えない。『ありんこアフター・ダーク』は、政治的メッセージをしのばせた五木寛之のセンチメンタルなジャズ小説よりもはるかに優れた傑作だった。

 荒木一郎は、他にも処女作である『シャワールームの女』や(大和書房)『雨の日にはプッシィ・ブルースを』(河出書房新社)といった洒落たミステリー、ハードボイルド小説を書いているが、いつ頃からか、ぷっつりと書くのをやめてしまった。

 音楽活動のほうは、最近、久々にライブを行ったようだが、名曲「ジャニスを聴きながら」「空に星があるように」「君に捧げるほろ苦いブルース」を聴くたびに、その歌詞のリリックな美しさには、あらためて感嘆してしまう。 

 荒木一郎の特異で詩的な言語感覚はどこからくるものなのか、ずっと謎だったのだが、最近、近所の古本屋で、菊池章一の『戦後・文学の五十年』(武蔵野書房)という大部の本を格安で見つけた。
 自伝的な回想をまじえながら、花田清輝の『復興期の精神』、大岡昇平の『酸素』、長谷川四郎の『目下旧聞篇』、大西巨人の『迷宮』などを子細に論じたこの評論集を拾い読みしていると、荒木一郎という天才の裡には、間違いなく、この<戦時下に、ベレー帽をかぶり、フランス語の原書を抱えていた、反骨のダンディ>の血が流れていることを、しみじみと実感したのだった。

大島渚、あるいは<強靭なセンチメンタリスト>

 今、大島渚監督のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(仮題・小社刊)を編集している。
 私は、ずっと以前から大島渚監督の書いたものを、ある視点でまとめてみたいという思いを抱いていた。

 私が映画を意識的に見始めた一九七〇年代の初め頃には、大島渚はなによりも難解をもってなるアート・シアターを代表する映画作家であった。当時、地方に住む高校生にとっては、『絞死刑』『少年』『新宿泥棒日記』『東京戦争戦後秘話』といったATGの大島作品は名のみ知るだけで、その映画を実際に見る機会はまったくなかった。だから、『儀式』も封切りでは見ていない。
 その代わり、当時、朝日新聞に連載されていた「わが思索わが風土」というコラムで大島渚が書いていた文章は愛読しており、スクラップしておいた。それゆえ、私にとっては、大島渚という名前は映画監督である前に、まず優れたエッセイストとして深く印象づけられたのだった。

 この連載コラムは、ほかに武満徹、小田実、武田泰淳、吉田健一などの錚々たる面々が執筆しており、後に朝日新聞社から単行本として出版されたが、たぶん、大島の単著には収められていないはずである。

 この大島のコラムの第一回目には次のような気になる一節がある。
「私はふと、指折り数えてしまう。死ぬまでに、あと何本の映画をつくれるかと。私はあと一年で四十になる。五十までの十年間に十本。それから六十までに五本。六十から、いくつで死ぬかしらないが、割合長生きするつもりであと五本。合計二十本。しかしそれは甘い計算だ。」

 まさか、大島自身、一九九六年に脳出血で倒れ、その後、過酷な闘病生活を強いられることになろうとは想像だにしなかったであろうが、自分の映画作家としての将来を冷静に見通した予見的な文章である。

 その後、私は、名画座や特集上映会で大島の全作品を追いかけるようにして見たが、当時、よく「西のゴダール、東の大島渚」と喧伝されたようなラディカルで難解、かつ政治的で前衛的な映画作家というイメージとは、やや異なる感想を抱くようになった。

 私は大島渚作品でベスト3を選ぶとすれば、『愛と希望の街』『日本春歌考』『少年』を挙げたいのだが、とくにデビュー作『愛と希望の街』と『少年』は、硬質な抒情と強靭なセンチメントが溶け合った名作ではないかと思っている。

 大島渚はデビュー当時から、戦後日本映画の苛烈な批判者として自らを位置づけ、先行世代を全否定するような言説を常に表明し続けていたが、その積極的な発言とは裏腹に、彼自身の資質の根底にあるのは、この<センチメント>ではないかと私は考えているのだ。

 大島渚の初期の著作には『戦後映画・破壊と創造』(三一書房)、『魔と残酷の発想』、『解体と噴出』(芳賀書店)、『体験的戦後映像論』(朝日新聞社)、『同時代作家の発見』(三一書房)といった挑発的な書名が目立つが、その中には、大島のセンチメントが滲むような秀逸なエッセイも少なからず含まれている。

 先頃、四方田犬彦の編集で『大島渚著作集』全四巻(現代思潮新社)が刊行されたが、名高い『「眠れる獅子?松竹大船」を批判する』『それは突破口か?/日本映画の近代主義者たち』といった論考がほぼ網羅され、<戦後日本映画の革命児>としての大島渚のイメージを補強する内容になっていると思われる。

 しかし、今回、私がクローズアップしたいと考えたのは、このような人口に膾炙した<強い、ラディカルな大島渚>のイメージではなく、<繊細で心優しいセンチメンタリスト>としての側面なのである。

 その大島渚のセンチメントがもっともあらわに表出されているのが追悼文である。
 なかでも伝説的な<武闘派の映画評論家>として知られた斎藤龍鳳の追悼はこのうえなく美しい。
 たとえば、次のような、独特の呼びかけるような調子には、その深い哀しみを帯びた<声>の所在がはっきりと感じとれるのだ
「龍鳳よ、斎藤龍鳳よ。
ぼくは確かに君の叫びを聞いたよ。君の叫び声を聞いたよ。
君の叫びは、ぼくたちの時代の無念さを伝えていた。
映画批評などを書いて生きねばならなかった君の無念さを伝えていた。
それは君が自分の生活を語った文章にあったような美しくも悲しい響きだった。」

 また、一九九三年六月に、くも膜下出血により急逝した盟友・川喜多和子さんの葬儀で読まれた弔辞も、あたかも慟哭するような痛切な<声>の響きが忘れがたい印象を残す。

 私は、この斎藤龍鳳の追悼文と川喜多和子さんの弔辞こそは大島渚によって書かれたもっとも感動的な文章ではないかと密かに思っている。したがって、本書に、このふたつの追悼文を収めることは、当初から考えていたことである。

 そして、本書の企画内容を夫人で女優の小山明子さんに説明し、ご快諾をいただいたのだが、電話で話している際に、小山さんが、ふと「そういえば、森川英太朗さんが亡くなった時に、大島が読んだ弔辞もとても感動的だったわ」とおっしゃった。
 森川英太朗は、大島監督と同様に、<松竹ヌーヴェル・ヴァーグ>を牽引したひとりで、武家社会の非合理を糾弾した時代劇『武士道無残』を一本撮っただけで、映画界を去って行った伝説の映画監督である。

 小山さんの言葉が気になって、その後、手を尽くしたところ、ご遺族と連絡が取れ、大島監督の弔辞を入手することができた。

 私は、今回、初めて知ったのだが、森川英太朗と大島渚は京都二中の同級生で、野球選手としてならした森川は、大島監督の永年の大親友だったのだ。
 森川は大島から一年遅れで、松竹京都撮影所に入社し、大島が松竹退社後につくった創造社に一時、在籍していたが、その後、電通に入り、最後は母校である慶應義塾大学で教鞭を執っていたのだ。 
 この森川英太朗の葬儀で読まれた弔辞は、活字化されるのは、今回が初めてだが、やはり斎藤龍鳳、川喜多和子の追悼文に匹敵するような心を打つすばらしいものである。

 大島渚は、その弔辞の最後で、森川英太朗が助監督時代に同人誌に発表した「壬生浪」というシナリオに触れている。ちょうど、その前に『御法度』の最初の製作発表が行われたために、新撰組を描いたその幻のシナリオとの奇しき因縁に言及しているのだが、この弔辞を読んだ直後、同じ一九九六年二月に、大島渚はロンドンで脳出血に倒れるのである。

 恐らく病魔に襲われる直前に書かれたこの感動的な弔辞を含め、単行本未収録の貴重な文章が数多く収められたこのエッセイ集は、大島渚の未知なる魅力が発見できるはずである。

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『東京戦争戦後秘話』撮影中の大島渚監督

 

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『武士道無残』の現場を訪れた大島渚監督(左)と森川監督(左から二人目

田中路子と<国辱映画>『ヨシワラ』、そして『蝶々夫人』

 数年前、古本屋の均一台で、背表紙もとれたぼろぼろの『私の歩んだ道―滞欧二十年―』(朋文社)という本を見つけて、狂喜してしまった。伝説のオペラ歌手・田中路子の回想録なのだ。

 田中路子は著名な日本画家田中頼璋を父に持ち、一九三〇年、二十一歳の時にウィーンの土を踏む。渡欧の表向きの理由は<音楽研究>だったが、真の原因は斎藤秀雄との不倫だった。以後、<恋多き女>としてヨーロッパの社交界に君臨し、数々の浮名を流す。大富豪のレストラン王マインル、ドイツの国民的俳優、演出家デ・コーヴァと相次いで結婚し、オペラ歌手・映画女優として活躍した。戦後は渡独した無名時代の小澤征爾、若杉弘をはじめ新進音楽家たちを手厚く庇護するパトロンとしても知られた存在であった。

 自伝には、天衣無縫の性格を反映するかのように、あけすけなまでに華麗な男性遍歴が語られている。なかでも、<私の終生の恨事>と述懐する、『ヨシワラ』で共演した早川雪洲と深い関係になり、宝石や毛皮のコートを質入れまでして貢いでしまう顚末は、早川のあまりのジゴロぶりに爆笑してしまう。しかも、この映画に出演したため、彼女は国賊呼ばわりされ、父親の絵を買った者が絵を焼き払うという異様な事態にまでなった。『ヨシワラ』は、戦前は上映禁止となり、敗戦の翌年、ひっそりと公開されている。

 この自伝を読んで、しばらくして、フィルムセンターの「ドイツ・オーストリア名作選」で田中路子の小特集が組まれ、「田中路子の帰国風景」「田中路子の音楽夜話」といったTV番組とともに、ようやく問題作『ヨシワラ』を見る機会を得た。
 
『ヨシワラ』は、しばしば<国辱映画>の代名詞として語られる作品である。
 たとえば、『ぼくの採点表1』で双葉十三郎は「デタラメの極み。しかも、下品でいやらしく、西欧人が日本の遊郭を眺めるときの最も卑しい視線が感じられる。失笑するより立腹したくなる非常識さ。見るに耐えない大ゲテモノである。」と最大級の罵倒を浴びせている。

 しかし、はたして『ヨシワラ』は、そんなにひどいゲテモノ映画なのか。
 たしかに、日清戦争前夜を背景に、吉原に身売りした小花(田中路子)とロシアの海軍将校との恋愛を描く、この映画は、主役以外は、ほとんど西欧人が不似合いなチョンマゲ・キモノで登場し、一見、フジヤマ・ゲイシャ・サムライの異国趣味を強調した『蝶々夫人』の俗悪なパロディのようだ。
 だが、監督のマックス・オフュルスは、マックス・ラインハルト門下の逸材で、舞台・オペラ演出でも際立った才能を発揮した演出家である。オフュルスは、ウィーン国立音楽学校を卒業し、二十三歳の時にグラーツの市立オペラ劇場で『蝶々夫人』でデビューし、華々しい脚光を浴びた田中路子のことを知らないはずはない。田中路子は全篇、フランス語で台詞を喋り、美しい歌も聴かせるのだ。
『ヨシワラ』は、ビア樽のお風呂で入浴する芸者たちをレヴュー仕立てにするなど、唖然とするような珍景もあるが、『蝶々夫人』と同じく、愛に殉じた女の悲劇を主題にしているのである。

 とりわけ、ロシア将校と小花が、車夫早川雪洲の人力車に乗って逢引するシーン、久々の再会の歓びに打ち震える田中路子の表情には、オフュルスの晩年の名作『たそがれの女心』で、愛人との馬車での密会がようやく叶ったダニエル・ダリューが失神せんばかりに、歓喜に身をゆだねる場面と同じく官能的なエモーションの脈動を伝えてくる。
 娼館で、ふたりが旅行のゲームに興じながら、書き割りの背景が瞬時に変化していく場面も、『忘れじの面影』でジョーン・フォンティーンとルイ・ジュールダンが逢瀬を重ねる遊園地のシーンをすぐさま想起させる。

 そして、狂恋のあまり、早川雪洲が小花を襲い、娼館から外へ、急な坂道へと追いつ追われつするふたりをダイナミックなクレーンによる移動撮影でとらえたクライマックスは、まさにマックス・オフュルスの超絶技巧が如何なく発揮され、めまいを覚えるようだ。

 このようなオフュルスの絢爛たる演出を見ながら、私は三谷礼二さんの伝説的なオペラ『蝶々夫人』の舞台を思い出していた。

 三谷礼二さんの『蝶々夫人』は鈴木清順監督に捧げられていた。したがって、その演出も突然、障子がいっせいに奥に倒れて真っ赤に染まったり、絶妙なタイミングで真紅の幕がステージを覆い尽くしたり、桜の花が狂ったように乱舞したりする、まったく意表を突いたものだった。
 いっぽうで、蝶々夫人が初めて登場する場面などは、背後の大鏡の衝立が一斉に分割されて、乱反射状態となり、まるで『上海から来た女』の迷宮の間のような幻惑感を覚えたものだ。
 鈴木清順+オーソン・ウェルズのようなバロック的で映画的な舞台というのが、私なりの三谷オペラの見立てだったのだが、もしかしたら、三谷礼二さんのオペラ演出に一番近いのはマックス・オフュルスだったのではないか。
 そういえば、『蝶々夫人』の舞台には、『輪舞』をはじめオフュルス作品のトレードマークといえるメリー・ゴーランドが印象的に登場していた。『ヨシワラ』で芸者たちが余興で使う扇子にしても、三谷版『蝶々夫人』での使われ方ときわめて似ているのだ。
 三谷さんは、敗戦時に『ヨシワラ』を見たことがあったのだろうか。 

 三谷さんの遺稿集『オペラとシネマの誘惑』(小社刊)には、「紹介状だけでうかがった私のために、お赤飯を炊いて待っていて下さり、チェリビダッケのリハーサルへ連れて行って下さるなど、人の面倒を見ることの素晴らしさを、感動的に教えてくださった。」と田中路子への感謝を述べた印象的なくだりがある。

 田中路子はナチスの勃興にために亡命する直前のトーマス・マンやシュテファン・ツヴァイクとも交友があったという。こういう日本人女性が、つい、この間まで生きていたというのは不思議な気がする。

 そして、<国辱映画>の汚名を着せられた『ヨシワラ』にしても、マックス・オフュルスの<自己犠牲を強いられる特異な女性映画>の系譜に置きかえてみると、まったく違った貌がみえてくるはずである。
 それにしても、『ヨシワラ』前後の、アメリカに亡命する以前のマックス・オフュルスの作品の全貌がつかめないのは残念なことである。

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田中路子著『私の歩んだ道?滞欧二十年』

 

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『ヨシラワ』に出演した田中路子

 

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三谷礼二さんの伝説的な舞台『蝶々夫人』

清水宏の美しい遺作『母のおもかげ』

  先日、日本映画専門チャンネルから電話があり、三月の特集番組「ハイビジョンで蘇える 日の当たらない名画・名作たちに協力してほしいという。
 この企画は、昨年、私も参加したキネマ旬報の増刊『オールタイム・ベスト・映画遺産200・日本映画篇』の中からDVD化されていないレアな作品を九本ピックアップし、放映するというもの。
 評論家の上野昂志さんが選んだ『甲賀屋敷』、それに黒沢清監督の選ぶ『桜の代紋』、篠崎誠監督の選ぶ『われ幻の魚を見たり』とか、通常の教科書的な日本映画ベスト・テンには絶対に選ばれないであろう意表を突くマイナーな作品ばかりが並んでいる。

 私が選んだのは、清水宏監督が大映で撮った遺作『母のおもかげ』(59)である。十数年前、京橋のフィルムセンターで偶然見て、深く心を揺さぶられた映画だった。

 清水宏は小津安二郎と同じ1903年生まれの松竹出身の映画監督である。小津や溝口健二、山中貞雄が「天才」と呼んだと言われ、近年、とみに再評価が高まっている。

 たしかに、戦前の清水宏の作品、たとえば、『有りがたうさん』(36)、『按摩と女』(38)、『簪』(41)を見ると、小津の厳密で、堅牢に構築された画面とは対極にあるような、自然光を生かした大胆なロケーション撮影と作為がまったく感じられない人物たちののびやかな躍動感に驚かされる。<早過ぎたヌーヴェル・ヴァーグ>と称されるのもむべなるかなと思う。

 清水宏は、戦後も、前回のコラムで紹介した、相米慎二監督が日本映画ベスト3に選んだ『小原庄助さん』(49)などの名作を撮っているが、晩年は、小津、溝口の神格化された絶大な評価の高さと較べると、<忘れられた巨匠>扱いではなかったろうか。

 清水宏の真骨頂は、子供たちの自由奔放な魅力を生き生きと描き出す、その尋常ならざる手腕にあった。『風の中の子供』(37)、『蜂の巣の子供たち』(48)を見ると、子供の世界を描かせたら世界一ともいっても過言ではないとすら思える。

『母のおもかげ』は、母を病いで亡くし、水上バスの運転手の父親(根上淳)とふたり暮らしの少年・道夫が主人公である。父に縁談が持ち上がり、小さな少女を連れた新しい母(淡島千景)が家にやってくる。少年は、美しい継母への仄かな思慕と、それゆえに湧き起こる亡くなった実母への後ろめたさの感情の間を揺れ動く。

『母のおもかげ』を見ながら、私は同じ年につくられた二本の映画を思い出した。
一本は、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59)である。道夫がよるべない思いを抱えて隅田川河畔を徘徊する場面は、パリの街中をあてどなく彷徨する、いかようにも世界と折り合えないアントワーヌ・ドワネル少年(ジャン=ピエール・レオ)が体現した全き弧絶感と瓜二つのように思えたのだ。

 もう一本は大島渚監督の『愛と希望の街』(59)である。『鳩を売る少年』という原題を持つ、この大島の処女作は、鳩の帰巣本能を利用して、同じ鳩を何度も売るという<犯罪>に手を染めざるを得ない極貧の少年が主人公である。渡辺文雄がライフルでこの鳩を射殺する、あまりに有名なラストシーンによって、この大島のデビュー作は永遠の生命を得た。

『母のおもかげ』でも、やはり道夫が母の形見である鳩を後生大事にしている設定がキー・ポイントになっている。
 ある日、道夫は、少女が誤って鳩を逃がしてしまったことを知るや、激昂し、部屋中を追い回して、執拗に折檻を加える。「お兄ちゃん、ごめんなさい」と絶叫し、懇願する少女を無視して、延々と殴打し、果ては少女の耳を噛んで傷つけてしまう道夫の残酷さは、『愛と希望の街』の伝説のラストシーンに優に匹敵するほど、衝撃的である。

 この凄惨きわまりない光景をなすすべもなく見つめたまま、耳をふさぎ、茫然と立ちすくむ継母・淡島千景の困惑と絶望感がないまぜとなった表情を、決して忘れることはできない。

『母のおもかげ』は、清水宏の古巣である伝統的な松竹大船調メロドラマの骨法を遵守するかのように、見事に感動的な大団円を迎えるが、この異様なまでに壮絶な迫力に満ちた折檻シーンは記憶の底に深く沈殿することになる。

 恐らく、当時、三益愛子主演で大ヒットした大映の<母もの映画>の一本として企画されたとおぼしい『母のおもかげ』は、清水宏という偉大な子供映画の名匠が放った、このうえなく美しい<白鳥の歌>であるといえるだろう。
 そして、また、『母のおもかげ』は、淡島千景という戦後を代表する大女優の美しさがもっとも眩い光沢を放っている稀有な一本だと私は確信している。

 一昨年、森繁久彌が亡くなった際に、「キネマ旬報」の追悼特集のために、淡島千景さんにインタビューする機会があり、名コンビだった森繁さんの思い出を語っていただいた。淡島さんは、さすがに代表作『夫婦善哉』(55)の記憶はとても鮮明で、爆笑エピソードには事欠かなかったが、合間に、さりげなく、この『母のおもかげ』のことを聞いてみると、まったく記憶にないという答えが返ってきた。

 その時は、いささか落胆してしまったが、考えてみてれば、当時は、まさに日本映画の黄金時代であり、年間十数本の主演作を撮っていた淡島さんが、そんなプログラム・ピクチュアの小品を憶えているはずもないのである。

『母のおもかげ』は、たぶん、プロの映画批評家でも見ている人は少ないはずである。この極めつきの幻の映画を、この機会に、ぜひ、ご覧になっていただきたいと思う。

 

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清水宏監督『母のおもかげ』

 

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『母のおもかげ』を撮影中の清水宏監督(右) 

相米慎二監督が選んだ「日本映画ベスト3」

 前回、高峰秀子さんのささやかな追悼を書いていて、ふと思い出したのは、相米慎二監督のことである。相米さんは、2001年の9月9日、つまり、アメリカで同時多発テロが起きた9・11の二日前に亡くなったので、ひときわ鮮明に記憶に残っているのだ。
 そのせいか、毎年、9・11が近づくと、ああ、そろそろ相米さんの命日だなと、自然に連想が働いてしまうのである。

 相米さんとは、別に、それほど親しかったわけでもないのに、訃報を聞いた時には、なぜか説明のつかない、すさまじい喪失感に襲われ、通夜、告別式と出てしまった。
 告別式では、当時、まだ、かろうじて元気だった今村昌平監督が、愛弟子である長谷川和彦がとても世話になったこと、『魚影の群れ』がいかに素晴らしかったかを、淡々と弔辞で述べていたのが記憶に残っている。あ、そうだ、大勢の参列者のなかにTBSの伝説的な深夜放送パック・イン・ミュージックのDJだった林美雄さんを見つけて、なつかしさのあまり、思わず声をかけたことを思い出した。
 林さんもその翌年、胃癌で亡くなってしまったのだ。まさに往時茫々。

 高峰秀子さんと相米慎二監督とはまったく接点はないが、なぜか、私の中ではひと連なりの記憶として残っている。
 それはなぜか。
 最初に相米さんと会ったのは、東京国際映画祭のヤング・シネマ部門で『台風クラブ』がグランプリを受賞した時だから、1985年だったと思う。受賞記念として、『月刊イメージフォーラム』で、編集長の西嶋憲生さんと一緒に相米監督にインタビューをしたのである。

 当時から、インタビュアーをはぐらかすのが得意で、韜晦をもってなると言われた相米さんだったが、この時は、かなり率直に自分の少年時代や映画界入りの経緯、自作について語ってくれたように思う。
 インタビューが終わって、四谷三丁目の居酒屋で飲んだ後、飲み足りない風情の相米さんを誘って、私の行きつけの新宿区役所脇にあったジャズ・バー「シネ・スマイル」に流れた。
「シネ・スマイル」のママである加納とも枝さんは、当時でも、毎週、数本の新作を見るような筋金入りの映画狂で、新宿ゴールデン街でも一目置かれるようなユニークな女性だった。
 私も永年の常連で、とも枝さんが2003年に亡くなった時には、私の責任編集で『シネマの快楽に酔いしれて』(小社刊)という遺稿集をつくったこともある。

 とも枝さんは、映画関係の客がやってくると、一種の通過儀礼というべきだろうか、ノートに今まで見た映画のベスト3を書かせるという不思議なクセ(?)があった。  
 この晩も、とも枝さんは、相米さんに、ぜひ、書いてくれとせがんだが、私が、「この人はそんなこと、絶対しないよ」と言うと、相米さんは「いや、書くよ」と言って、その場でさらさらと「邦画、洋画のマイ・ベスト3」を書いたのだった。
 もはや、相米さんが洋画ベスト3に何を挙げたかは、忘れてしまったが、かろうじてフェリーニの『カビリアの夜』だけは憶えている。
 そして邦画のベスト3は未だに鮮明に記憶に残っている。次の三本である。

 『小原庄助さん』(清水宏監督)
 『たそがれ酒場』(内田吐夢監督)
 『女が階段を上る時』(成瀬巳喜男監督)

 私は、この渋い三作品の連なりを見て、相米さんは、ほんとうに映画を知っている、深く愛している監督だなと思った。
 とくに高峰秀子の匂い立つような色香が忘れがたい『女が階段を上る時』は、私も成瀬のなかでもっとも愛する映画だけに、我がことのように嬉しかった。 

 当時、相米さんは、沈滞した日本映画界の最前線を疾走する鬼才としての評価はゆるぎないものがあった。とくにトレード・マークともいわれる<ワンシーン=ワンショット>の長回しを駆使したダイナミックな演出で知られ、デビュー作『翔んだカップル』に始まり、『ションベン・ライダー』『台風クラブ』といった子供を主人公にして寓話的な拡がりをもった作品が高く評価されていた。

 ただ、私は、むしろ『ラブホテル』や『魚影の群れ』のような大人を主人公としたドラマをもっと見たいと思っていた。まさに、成瀬のような、陰翳に富む古典的な恋愛映画を撮れる監督だと漠然と思っていたのだ。
 後年、『あ、春』で、寺島純子、藤村志保といった大女優たちを悠然と動かしているその見事な演出を見るにおよんで、ああ、やはり、相米さんは成瀬巳喜男の後継者になれる器だなと思った。

 その後、相米さんの『雪の断章』のアクロバティックな冒頭シーンの撮影を取材するために、東宝の砧撮影所に行ったことがある。キャメラマンが何台ものクレーンに次々に乗り移りながら撮影している異様な光景を眺めて、これは、まるでマックス・オフュルスの『快楽』を思わせる、などと記事に書いたことを覚えている。

 最後に相米さんに会ったのは、亡くなる一年ぐらい前、私が編集したロバート・アルトマン監督の『クッキー・フォーチュン』のパンフレットのために、インタビューしたときである。
『クッキー・フォーチュン』のキャメラは、かつて相米さんの『お引越し』の撮影を担当した栗田豊通さんである。
 栗田さんは、70年代に単身渡米して、アメリカ映画のインディーズ・シーンで腕を磨き、アラン・ルドルフの『トラブル・イン・マインド』『アフター・グロウ』などを経て、ついに、巨匠アルトマンの撮影監督を務めるまでに至ったわけだが、その独特のルックの魅力を語ってほしいという思いもあった。

 相米さんは、今のアメリカの風土や人間をまるごと描けるのは、クリント・イーストウッドとアルトマンしかいないこと、とくにアルトマンが女性のシナリオライターを好んで使う理由として、成瀬巳喜男と水木洋子の関係を例に引きながら、「女の肌ざわりみたいなものがほしいんじゃないかな」と語ったのが強く印象に残っている。
 ほかならぬ相米さん自身が、女性のシナリオライターをよく使っていたのだ。やはり、女の肌触りがほしかったのだろうか。

 相米さんは、遺作となった『風花』を『浮雲』に比較されるのを嫌がっていたそうだが、やはり、それも韜晦というべきだろう。

 成瀬巳喜男と高峰秀子の名コンビによってつくられた日本独特の<女性映画>の系譜は、相米慎二の死によって、途絶えてしまったのではないかというのが私のきわめて悲観的な見立てなのである。

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相米慎二監督

一枚の白バックの高峰秀子

 大晦日の夜、ほろ酔い気分のところに、突如、高峰秀子さんの訃報が飛び込んできたので、しばし茫然となる。肺がんを患っていたようで、享年八十六。
 ああ、ついに来たか、という暗然たる思いと同時に、すっかり酔いも醒めてしまい、手許にあった『浮雲』のビデオを見直し、元旦は、彼女の傑作メモワール『わたしの渡世日記』を読み返して過ごした。

 生前、高峰秀子さんと交友があったオペラ演出家の故・三谷礼二さんは、「永遠の夢と詩」という素晴らしいジュディ・ガーランド論(『オペラのように』所収・筑摩書房)で、「『スタア誕生』は、モーツァルトの四大オペラ、シェイクスピアの四大悲劇に匹敵し得る人類財産と私は信じる。」と書いている。ひさびさに再見した『浮雲』も、高峰秀子という女優の美しさがほとんど神々しさの域に達した、稀有な<人類財産>のひとつだとつくづく思った。

 まさに昭和という時代そのものをシンボライズする、この偉大な女優について、私ごときが云々するなど、まったく烏滸がましいが、ふいに、昔、高峰秀子さんと、ささやかな仕事上のお付き合いがあったことが思い出されたのだった。

 もはや、四半世紀も前のことになるが、1980年代の後半、映画雑誌『月刊イメージフォーラム』の編集を辞めてから、一時、映画の世界を離れていたことがある。
 なにをしていたかといえば、『一枚の繪』という美術雑誌の編集部に籍を置いていたのである。
 当時は、映画ジャーナリズムの裏側や人間関係の嫌な面も見えてきて、心身ともにぼろぼろになっていた時期でもあり、もはや、映画の世界には戻れないかもしれないという漠たる不安もあった。
 かといって、まったく予備知識なしに飛び込んだ美術業界も、実は、映画界以上におどろおどろしく面妖で、こんな胡乱な世界にはそう長くはいられないという思いは常にあった。

 結局、当時、私がだらだらと、数年間も『一枚の繪』という雑誌にとどまっていたのは、桂ゆきさんと岸田今日子さん、そして高峰秀子さんの魅力的な連載エッセイを担当していたゆえではなかったかという気がする。
 当時は、ファックスはまだ、ほとんど普及しておらず、編集者は、著者に直接会って、原稿を受け取っていた。
 新宿余丁町に住んでいた桂ゆきさんは、いうまでもなく、戦後日本を代表するアヴァンギャルド画家であり、お宅に伺い、「夜の会」の盟友だった花田清輝や岡本太郎、埴谷雄高などのゴシップ話を聞くのが楽しみでならなかった。
 岸田今日子さんも、赤坂の自宅マンションに伺って、見たばかりの映画や舞台、彼女が出演した増村保造の傑作『夫が見た』『卍』の話題が出ると、つい長居することもしばしばだった。ちなみに、この時の連載『妄想の森』は、後に文藝春秋から単行本になり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。

 しかし、高峰秀子さんだけは、当時、すでに芸能界引退を宣言し、人前に出ることはまずなかったし、私も連載が終わるまで、一度も、会うことはかなわなかった。原稿はいつも速達の封書で届いた。
 それでも、時おり、会社に、高峰さんから原稿の確認で電話がかかってくることがあった。たまたま私が取って、あの独特のエロキューションで「高峰ですけど、編集部の高崎さん、いらっしゃる?」などと自分の名前が呼ばれた時には、ほとんど、一日中、夢見心地だった。

 もしかしたら、昔の映画仲間と呑んだ時に、自慢げに、そんな話をしたことがきっかけだったのかもしれない。ある日、ユーロスペースの代表・堀越謙三さんから電話がかかってきた。当時、彼は、<ゴダールの再来>と呼ばれた鬼才レオス・カラックスの問題作『汚れた血』を配給していた。その彼が急遽、キャンペーンのために、来日することになった。   
 堀越さんによれば、カラックスは熱狂的な成瀬巳喜男ファンであり、ついては、その数々の名作でヒロインを演じた伝説の女優・高峰秀子に会うのを熱望しているのだという。そこで、私は、乞われるままに、高峰さんの住所と電話番号を教えたのである。

 しばらくして、堀越さんから、無事に高峰秀子さんと一緒に食事をする機会を持つことができ、その際に、流暢なフランス語を話す高峰さんに、カラックスは、当時の恋人ジュリエット・ビノシュと大感激していたという話を聞いた。
 後に、堀越さんがプロデュースしたカラックスの超大作『ポンヌフの恋人』の破滅的な堕ちていくカップルには、たとえば、『浮雲』で、腐れ縁の果てに南方へと向った森雅之と高峰秀子のふたりの残響がかいま見えるはずである。

『わたしの渡世日記』には、昭和26年、家族との軋轢などで精神を疲弊させてしまった高峰さんが、映画の仕事をすべて擲ち、半年間パリに遁走して、自分を見つめなおすというくだりがある。恐らくフランス語は、この時期に覚えたのであろう。
 戦前から、天才子役として活躍するも、多くの家族を扶養しなければならず、小学校にもまともにいけなかった高峰秀子という女優の比類なき聡明さにはただ驚くばかりである。

 それゆえだろうか、『わたしの渡世日記』には、ところどころ、いささか埃っぽい日本映画界、映画人への複雑な呪詛めいた言葉が書き連ねてあるのが気にかかる。戦後は、文壇、画壇の大家たちのマスコットのような存在となり、谷崎潤一郎や志賀直哉、梅原龍三郎などとの優雅な交遊が、楽しげに回想されているのとは、際立って対照的だ。

 しかし、レオス・カラックスや最近、亡くなった台湾の天才監督エドワード・ヤンの熱烈なオマージュを例に引くまでもなく、成瀬巳喜男監督とのコンビによって生み出された名作群は、彼女が崇拝していた梅原龍三郎やら荻須高徳の作品などとは比較にならない、普遍的な<世界遺産>であることは疑い得ない。私は、高峰さんは、生前、そのことを、どこまで自覚していただろうか、と思うことがある。 

『わたしの渡世日記』を再読して、もっとも印象に残ったのは、「イジワルジイサン」と題された成瀬巳喜男を追想した章である。ガンで再入院が決まった成瀬を自宅に訪ねた高峰さんは、別れ際に、成瀬から、「ほら、約束のあれ(傍点)も、やらなきゃね」という謎めいた言葉をかけられる。
 あれ(傍点)とは、成瀬がひそかに念願していたという、<高峰秀子が主演で、装置も色もない、一枚の白バックの前で芝居だけを見せる映画>のことである。

 松竹蒲田時代に「小津はふたりいらない」と撮影所長に言われ、追われるように東宝に移籍して、数多くの小市民映画の名作を放った成瀬が、最後に夢想していた高峰秀子主演の、この究極の<女性映画>を、ぜひ、見てみたかったと思う。

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『浮雲』撮影スナップ 高峰秀子、森雅之の演技を見守る成瀬巳喜男

映画批評家としての山川方夫

 今、山川方夫のエッセイ集『灰皿になれないということ』(仮題・清流出版刊)を編集している。山川方夫は、1930(昭和5)年生まれ。戦後の「三田文学」を復興させた名編集長であり、江藤淳に「夏目漱石論」を書かせて批評家デビューさせたことはよく知られている。何度か芥川賞候補にもなり、作家としても最も脂が乗っていた1965(昭和40)年、不慮の交通事故に遭い、夭折してしまった。まだ34歳という若さであった。

 私が山川方夫という作家を知ったのは、1970年代に入ってからで、当時、古書店にはよく冬樹社版の『山川方夫全集』全五巻が揃いで並んでいたが、貧乏学生にはあまりに高価でなかなか手が出なかった。
 ようやく、端本を見つけて、まず入手したのは、ショートショート集『親しい友人たち』が収められた巻だったように思う。
 一読し、驚嘆した。
 今でも『待っている女』『赤い手帖』『夏の葬列』『クリスマスの贈物』といった名品を時おり、読み返すことがあるが、そのたびに、その清冽で哀切な抒情に深く胸を打たれる。
 中編でも『愛のごとく』『街のなかの二人』『煙突』といった作品は忘れがたい。

 山川方夫はそのあまりに悲劇的な早逝ゆえに、いまだに伝説のマイナー・ポエットとして一部の熱狂的なファンを擁するが、私は、かつて村上春樹の『中国行きのスローボート』という短編集が出た時に、山川方夫の再来ではないかと思ったことがある。
 それほど、(今では想像もつかないだろうが)初期の村上春樹にはマイナーで清冽なイメージが漂っていたのである。
 当時は、アドレッセンスの翳りを繊細な硬質で抽象的な言葉によって浮かび上がらせる独特の文体も、ふたりの親和性を強く感じさせたものである。

 本来であれば、言葉の真の意味での<青春文学>である山川方夫の主要作品は、手軽で安価な文庫本で読まれるべきだが、ほとんど絶版状態であり、数年前に出た筑摩書房版の全集も法外な高価格なため、とうてい若い世代には手が届かない。
 そこで、山川方夫の魅力を幅広い世代に知ってもらいたいと思い、エッセイ集を編むことにしたわけである。というのも、彼のエッセイ、批評はその小説世界と不可分なものと思えるからである。

 文芸評論では、江藤淳、石原慎太郎、曾野綾子といった同世代の作家のスケッチがあり、なかでも印象深いのが「中原弓彦について」というエッセイである。
 これは中原弓彦こと若き日の小林信彦の幻の処女長編小説『虚栄の市』の跋文で、「彼のユーモアが、他人へのサービスというより、もっと自己本位なものであること、つまり、彼のいっさいは、ときには相手の存在さえ見失うほどの怒りであり、いいかえれば、彼自身のおびえへのそれほど激情的な固執なのだ」というくだりは、今でも充分に通用する卓抜でリアルな指摘である。

 とりわけ、私が今回のエッセイ集でクローズ・アップしたいと考えたのは、映画評論である。
 たとえば、よく知られている「目的を持たない意志」というアラン・レネの『二十四時間の情事』とピーター・ブルックの『雨のしのび逢い』を比較した論考がある。
 これは、脚本・原作者であるマルグリット・デュラス論でもある。
 とくに『二十四時間の情事』のヒロインを批判し、「女は、正確に彼女の観念の中でしか生きていない、生きようとしてもいない。その女の自己愛的な偏執を、戦争によって失われた愛、汚された無実、という焦点にしぼり、あらゆる映像をそのために配置した」とまことに手厳しい。しかし、アラン・レネの審美的映像ばかりが称賛されるこの作品を、このような意想外な視点で抉り出した批評は稀であり、また、その苛烈な批判には、作家としての山川方夫のモラルと信条が賭けられているのだ。

 ミケランジェロ・アントニオーニを論じた「『情事』の観念性」でも、当時、<愛の不毛>などと持て囃されたアントニオーニの問題作を俎上にのせている。ここでも、
「彼にとって愛はおたがいのあいだの<信頼>ですらなく、他者と自分とを一つにくるむような<錯覚>でも<誤解>でもなく、したがって、そこにどんな連帯の夢想もよろこびも保証してはくれない。……つまり、いっしょに理由のない個々の存在としての自分に耐えることの、その仲間意識以外に、人間は人間とは結ばれえない。『情事』においてアントニオーニが描いたのは、要するに、以上のような<人間たちの風景>であるにすぎない。」と、アントニオーニの解釈の悪しき文学性、固定観念を批判している。
しかし、そのいっぽうで、
「この映画の主要人物のすべては、ほとんどいつも<一人きりの目>をしている。そして、まるで未知の異様な物体をながめるように、ときどきまじまじと相手をみつめなおす。――かれらは、まるで床に撒かれた小豆粒の一つ一つのように、それぞれが単独な「個」でしかなく、いくつかの「物」としてたがいに存在しているのにすぎない。かれらにとっては<愛>もまた、その<物>と<物>の関係を越えるものではない。」
 と、誰も試みたことのないアントニオーニ作品の独創的な<読み>を提示してもいるのだ。

 その山川方夫の映画批評の最高傑作ともいえるのが「増村保造氏の個性とエロティシズム」という長編エッセイである。
 この論考において、山川は、増村保造の初期の傑作『妻は告白する』の若尾文子について次のように書く。
「僕は、彼女のもつ一切のものが動員され綜合され、あの<彩子>という人妻とぴったりとかさなりあい、そこになまなましい一人の<女>がむき出しにされているのを見た。あの画面には女そのものの裸体が、強烈なエロティシズムとともに動いていた。僕たちはそこに呼吸のとまるほどなまなましく、美しい一人の女を見たのである。」
 冷静な論理の運びと迸るような熱狂的なオマージュがめざましく共存する、この見事な批評は、ある意味で望みうる映画評論の極北ともいえるのではないかと思う。
 
 山川方夫という稀有な作家の内面世界を深く理解する上でも、これらの映画評論はきわめて重要ではないかと私はひそかに確信しているのだ。

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夭折した作家、山川方夫

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アラン・レネ監督『二十四時間の情事』

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ミケランジェロ・アントニオーニ監督『情事』 

 

 

ロマン・ギャリをめぐる断章

 昔から、ずっと気になっている一本の映画がある。『夜明けの約束』(70)というジュールス・ダッシン監督の作品で、主演はもちろんメルナ・メルクーリだ。当時の『映画評論』誌で作品評を読んだ記憶があるのだが、未公開作品の扱いで、どうやら字幕入りのままオクラになったらしい。
 なぜ見たいのかといえば、これがロマン・ギャリの自叙伝の映画化だからである。

 ロマン・ギャリは、1914年リトアニア生まれのロシア系ユダヤ人で、十四歳の時に女優だった母親に連れられフランスに移住。戦後は、外交官として世界各地に赴任する傍ら、小説家として盛名を馳せる。ゴンクール賞を受賞した『自由の大地』は、ジョン・ヒューストンによって映画化されている。

 ロマン・ギャリという名前が映画史と深く交錯するのは、何といってもジーン・セバーグという神話的な女優との結婚によってである。後にロマン・ギャリ自身、ジーン・セバーグ主演で『ペルーの鳥』(68)、『殺し』(71)と二本の映画を監督している。

 実は、『ペルーの鳥』は、私が中学生の時に見て、初めてエロティシズムというものを強烈に意識した映画だった。ほとんどストーリーらしきものはなく、全篇が仮面劇というか淫らな白日夢のような印象で、ジーン・セバーグのヌードしか記憶には残っていない。

 最近、この映画の原作である短篇『ペルーの鳥』が『フランス短篇傑作選』(山田稔編訳・岩波文庫)に収められているのを知って、読んでみたが、まさにエロティックで幻想的なコントだった。
 この短編集の編者である山田稔が偏愛する作家ロジェ・グルニエのエッセー集『ユリシーズの涙』(みすず書房)には、パリの路上で、愛犬ユリシーズを連れて散歩するグルニエに親しげに声をかける晩年のロマン・ギャリが登場する。ユリシーズの死が近いことを知ると、ギャリがむせび泣いてしまうくだりがなんとも印象的だ。

 ロマン・ギャリのジーン・セバーグへのほとんど妄執のような狂恋を強く感じたのは、学生時代に『白い犬』(角川文庫)を読んだ時である。
 ワッツの暴動、パリの五月革命を背景に、人種差別主義者によって黒人だけを襲うように調教された<白い犬>を象徴的に使ったポリティカルな寓話といえるが、ビバリーヒルズに住むロマン・ギャリ自身が語り手であり、元妻のジーン・セバーグほかも実名で登場する異様な迫力をもつノンフィクション・ノベルである。

 この小説は、後に鬼才サミュエル・フラーによって映画化されている。その『ホワイトドッグ/魔犬』(82)は、ジーン・セバーグをクリスティ・マクニコルが演じているが、あまりに力不足な感じは否めなかった。なによりも原作に色濃く立ち込めていたロマン・ギャリの黒人への複雑で混濁した感情やヒロインへの屈折した眼差しがまったく欠落しているのだ。
 
 十数年前、セバーグの波瀾に満ちた生涯を描いた『ジーン・セバーグ/アメリカン・アクトレス』というドキュメンタリーが公開されたことがある。この中に、ロマン・ギャリがジーン・セバーグ主演で撮った『殺し』の撮影風景が映っているのだが、ふたりとも、どこか虚ろげな表情を浮かべているのが妙に気にかかる。『白い犬』が書かれたのも、恐らく、この頃ではないかと思われる。

 映画は、FBIがブラック・パンサー党を支持したジーン・セバーグに対して危険分子の烙印を押して、徹底的に監視し、盗聴し、果てはブラック・パンサー党の代表者の子供を妊娠しているというスキャンダラスな情報をマスコミに流し、彼女を精神的な破滅へと追いやったことを克明に証言している。
 セバーグは、晩年は鬱病と、薬物依存による症状に苦しんでいたが、おたがいに再婚した後も、ロマン・ギャリは、最後までジーン・セバーグが住むパリの自宅周辺を徘徊していたとされる。

『アメリカン・アクトレス』で、ジーン・セバーグと最後に話したとされる友人の女性が語っているエピソードが興味深い。
 彼女によれば、1979年、『ある女の恋』(79・コスタ・ガブラス監督、ロミーシュナイダー主演・未公開)という自分たちの結婚生活を赤裸々に描いたロマン・ギャリの原作の映画を見て、激しく怒り、動揺し、錯乱状態となって失踪してしまったのだという。

 その十日後、ジーン・セバーグは、パリの自宅近くの車の中で死んでいるのを発見される。睡眠薬の過剰摂取による自殺とされたが、死因は未だに謎につつまれたままである。
 そして、その一年後、ロマン・ギャリは、セバーグの後を追うようにして自殺した。

『ジーン・セバーグ/アメリカン・アクトレス』は秀逸な構成になっていて、冒頭はジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(60)のラスト、ギャングに撃たれたベルモンドがよろめくように倒れこむ、あのパリの街頭風景をそっくりそのまま主観移動のカットで再現している。
 そして、ラストは、あの「最低ってなに?」とつぶやくパトリシア役のジーン・セバーグの謎めいた表情のクローズ・アップでエンド・マークが出る。

 私は、『勝手にしやがれ』のこのジーン・セバーグの名状しがたい瞳のクローズ・アップを見るたびに、映画史上、最も恐ろしいファム・ファータール(運命の女)は、このパトリシアというヒロインではないかと思うことがある。

 この『勝手にしやがれ』という伝説的な栄光を背負った映画に出演した瞬間に、アメリカ・アイオワ州のスモール・タウンに生まれたジーン・セバーグという女優の運命は激変し、そして、おそらく、この女優に生涯、魅せられてしまったロマン・ギャリというコスモポリタンな作家の数奇な運命も定まってしまったのだ。

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 ロマン・ギャリ『白い犬』

 

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 『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグ

 

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 『勝手にしやがれ』の伝説的なラストシーン

 

ジョニー・マーサーをめぐるささやかなアメリカ映画史

 

 先日、『ジャズ批評』誌から「ぜったいジャズ入門」というアンケートが届いた。
 そのなかに「これからのジャズ・ファンにすすめたいこの一枚」という設問があり、あれこれ悩んだ末に、クリント・イーストウッド監督の『真夜中のサバナ』のサントラ盤を挙げることにした。

 クリント・イーストウッドは、以前、このコラムで取り上げたウディ・アレンと同様、アメリカ映画界でもっともジャズに造詣が深い映画作家である。
 以前にも、チャーリー・パーカーの伝記映画『バード』、セロニアス・モンクのドキュメンタリー『ストレイト・ノー・チェイサー』を撮っており、監督デビュー作である『恐怖のメロディ』(原題は『プレイ・ミスティ・フォー・ミー』)もエロール・ガーナーの名曲「ミスティ」が重要な役割を果たしている。

 『真夜中のサバナ』は、イーストウッド作品としては珍しいユルユルの失敗作だが、サントラ盤は超傑作なのだ。というのも、この映画は、アメリカ南部のジョニー・マーサーの邸宅で実際に起きた殺人事件を描いたノン・フィクションが原作であり、全編にわたって、当代一流の歌手たちによるジョニー・マーサーの名曲をふんだんに聴くことができるからである。
 K・D・ラングの「スカイラーク」、娘のアリソン・イーストウッドの「降っても晴れても」、ダイアナ・クラールの「真夜中の太陽」、ほかにローズマリー・クルーニー、カサンドラ・ウィルソン、はてはクリント・イーストウッド自身が「アクセント・トビュアテ・ポジティヴ」なる地味なナンバーで渋い咽喉をきかせている。

 ジョニー・マーサーは、ジョージ・ガーシュイン、コール・ポーター、アーヴィング・バーリンとともに20世紀アメリカを代表するソング・ライターだが、彼らの偉大なキャリアと比較すると、ややマイナーで親しみやすい作風を持っている。それに映画との関わりがとても深いのも私が偏愛する理由のひとつである。

 ジーン・ネグレスコ監督のミュージカル映画『足ながおじさん』(55)に流れる「ドリーム」や「サムシングス・ガッタ・ギヴ」は、作詞・作曲ともにジョニー・マーサーだが、彼の持ち味はロマンティシズムにあふれた作詞の領域でもっとも発揮された。
 シャンソンの名曲「枯葉」(原詩はジャック・プレヴェール)に英語の詩をつけたのも彼である。

 ジョニー・マーサーのスタンダード・ナンバーは、最初、映画音楽として発表されたものが多く、中でも一番有名なのは、オットー・プレミンジャー監督の『ローラ殺人事件』(44)の主題歌「ローラ」である。ジーン・ティアニーが謎めいたファム・ファタールを演じた、この名作は、以後、ハリウッドが量産したフィルム・ノワールの原型の一本となった。

 1960年代に入ると、作曲家ヘンリー・マンシーニとのコンビによる名曲でその名前は一躍、ポピュラーなものとなる。ブレイク・エドワーズ監督の『ティファニーで朝食を』(61)の主題歌「ムーン・リヴァー」、『酒とバラの日々』、そしてスタンリー・ドーネン監督の『シャレード』の主題歌の、思わず口ずさみたくなるほど美しい旋律は、一度、聴いたら忘れようもない。

 私がジョニー・マーサーのもっとも愛聴する名曲「フールズ・ラッシュ・イン」を初めて聴いたのも、やはり映画の中だったような気がする。
 昔、新宿厚生年金ホールの裏手の辺りに黙壺子アーカイブスという小屋があった。
 ここでは伝説の映画評論家・佐藤重臣の解説付きで非合法のアンダーグラウンド・フィルムが常時かかっていて、ノーカット版のジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』(70)やジャン・ジュネの唯一の監督作品『愛の唄』(64)と並んで定番だったのが、ケネス・アンガーの『スコーピオ・ライジング』(63)だった。
 ヘルス・エンジェルたちのオートバイへのメタリックな愛とドラッグ幻想をシャッフルしたこの異様な傑作で、もっとも印象的に使われていたのがリッキー・ネルソンが、当時、ヒットさせたこの曲だった。
 もともとはクルーナーと呼ばれていた若き日のフランク・シナトラがヒットさせたスロー・バラードで、シナトラが切々とこの歌を歌うテレビ映像を、映画の中で、そのまま効果的に使ったのが、ヴィンセント・ギャロが監督・主演した『バッファロー66』である。
 
 ジョニー・マーサーが手がけた恐らく最後の映画音楽は、ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(73)である。
 アメリカン・ニューシネマの末期に、アルトマンは、この傑作によって、ハンフリー・ボガートに象徴される伝統的なハリウッドの探偵映画のジャンルを見事に葬送してしまった。
 この映画で、全編に流れるジョン・ウィリアムスのジャージーなナンバーはどれも忘れがたいが、とくにジョニー・マーサーの臓腑に深くしみわたるような哀愁をおびたメランコリックな詞がすばらしい。
 映画のラストで、当時、原作のレイモンド・チャンドラーのファンを大激怒させたシーンがある。主人公の探偵フィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)が、かつての親友であったテリー・レノックスを射殺してしまうのだ。
 そして、メキシコの並木道を遠ざかっていくフィリップ・マーロウの後ろ姿に、「ハリウッド万歳!」の陽気なメロディがけたたましく鳴り響く。

 この途方もなく明るいナンバーは、ハリウッド黄金期に、バズビー・バークレー監督のミュージカル・コメディ『聖林ホテル』(38)のためにつくられたものだ。作詞はもちろん、ジョニー・マーサーである。全員が真っ白なスーツを着て、何十台ものジープに分乗したベニー・グッドマン・オーケストラがこの曲を演奏しながら、道路を疾走するシーンが印象的で、まことに能天気なハリウッド讃歌である。

 ロバート・アルトマンは『聖林ホテル』のベニー・グッドマンの音源をそのままコラージュのように使っている。
 アルトマンは、ハリウッドが夢の象徴として楽天的に信じられていた時代をシンボライズする、ジョニー・マーサーのナンバーをアイロニカルに引用し、いっぽうで、<夢の終わり>の確認と苦い幻滅、深い喪失感を表現した彼の最晩年の詩作によってテーマを鮮明に浮かび上がらせ、ハリウッドへの<長いお別れ>を告げることができたのだ。

 

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ジョニー・マーサー

 

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『真夜中のサバナ』のケヴィン・スペーシー

 

フランス映画社の復活、そして川喜多和子さんのこと

『ゴダール・ソシアリスム』を試写で見た。今年八十歳を迎えるジャン=リュック・ゴダールの新作である。まったく予備知識もなしに見たので、凄まじい音響と大胆きわまりない色彩の氾濫にただ呆然とするばかりだった。  
冒頭、地中海を航行する豪華客船の映像に、「お金は社会のもの」、「水と同じ?」という男女の会話がかぶさる。<社会主義>というよりも爛熟した高度資本主義の末期のごとき光景が、ゴダール流の奔放なモンタージュによって明滅し、通常の劇映画のダイアローグではなく、夥しい、さまざまな文学作品、映画の断片がたたみかけるように引用され、ぽつんと断ち切られるように終わる。
まるでゴダール版『資本論』とでも呼ぶべきだろうか。

映画の後で、配給元であるフランス映画社社長の柴田駿さんに、何人かの評論家たちと一緒にお茶に誘われ、とりとめのない感想を述べていると、ふっと故・川喜多和子さんのことが思い出された。
柴田さんの最愛、最強のパートナーであった副社長の川喜多和子さんが、クモ膜下出血で亡くなったのは、一九九三年の六月七日だった。享年五十三。
和子さんが急逝された前後から、ミニシアター・ブームの余波で買い付け価格が高騰し、ゴダールを含め、本来ならば、フランス映画社が配給すべきアート系の映画が湯水のごとく公開されたが、やがてバブルが終わると同時にブームも終息してしまった。
 
最近ではフランス映画社の配給作品もめっきり少なくなり、いささかさびしかったが、今年は、ベルギーのアベル&ゴードンの『ルンバ!』と『アイスバーグ!』、百二歳になるポルトガルの巨匠マノエル・デ・オリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』、それに『ゴダール・ソシアリスム』と公開ラッシュで、完全復活した感があり、嬉しい限りである。

川喜多和子さんのことが一瞬、脳裡をよぎったのは、かつてフランス映画社の試写を見ると、その後で和子さんにビールをごちそうになり、見たばかりの映画について好き放題に感想を言い合うという至福の時間をなんども過ごしたからだ。
 
私のような一九七〇年代に映画を本格的に見始めた世代にとっては、川喜多和子という名前は、あまりに神々しい存在だった。とくに七六年から始まったフランス映画社の<傑作を世界からはこぶ[バウ・シリーズ]>第一弾、ジャン=ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』とジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』が公開された時の衝撃は忘れられない。
ジャン・ルノワールの『ピクニック』、カール・ドライヤーの『奇跡』、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』、ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』etc、まさにめまいが起きそうなラインナップであった。

その後、私は『月刊イメージフォーラム』の編集部に入り、川喜多和子さんと初めてじっくり話す機会を持ったのは、鈴木清順特集を組んだ時である。
周知のように、一九六八年、和子さんが主宰するシネクラブ研究会が企画していた鈴木清順作品三十七本連続上映会に、日活が突如、貸し出しを拒否し、そのことへの抗議行動に端を発して、日活の社長から「わけのわからない映画を作る」という理由で鈴木清順が契約を破棄されるという事件が起きた。いわゆる<鈴木清順問題共闘会議>が結成され、その先頭に立って闘ったのが川喜多和子さんだった。

清順特集の企画の話をすると、和子さんは嬉しそうに「ええ! 清順をやるの! 全面協力するから何でも言ってよ!」と興奮口調で、なつかしそうに<鈴木清順問題共闘会議>時代の思い出を話してくれて、沢山の貴重な写真も貸してくれた。

それまで、天の上にいてはるかに仰ぎ見るような存在だった川喜多和子さんが、身近に感じられるようになったのは、それ以来のことである。
その後、私は、一時期、映画の世界を離れたこともあったが、そんな時でも、たとえば、ゴールデン街の酒場などで、ばったり会うと、気軽に声をかけてくれた。映画雑誌媒体にいるからというような利害関係で付き合い方を変えるような人ではなかったのだ。

あれは、一九九〇年の年末だったろうか。突然、和子さんから電話がかかってきた。
「今度、ジャン・ルノワールの『黄金の馬車』をやるんだけど、劇場プログラムに作品評を書いてくれる人、だれかいないかしら?」という問い合わせだった。
私は、しばらく考えて、オペラ演出家の三谷礼二さんの名前を挙げた。三谷さんは生涯のベストワンに『河』をあげるほどのルノワール信者だったし、このコメディア・デラルテをベースに持つルノワールの傑作を論じるには、舞台芸術を熟知している三谷さんが適任だと思えたのだ。当時、三谷さんは病魔に侵されていたが、「整然の中のでたらめさが眩しい傑作」というエッセイはすばらしいものだった。三谷さんは、翌年三月に亡くなったので、これが最後の映画評論となった。

やはり、この頃だったと思うが、川喜多和子さんをめぐる、ひときわ印象に残っている出来事がある。
開館したばかりの渋谷の東急文化村のジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』の封切り初日にでかけたところ、東急に向かう途中で、和子さんから声をかけられた。やはり、『オープニング・ナイト』がお目当てだという。 
映画狂の和子さんは自社作品で忙殺されていても、これはという作品は必ず初日に見ていたのだ。「一緒に見ようよ」ということで、並んで坐り、タイトルが映りだしたあたりで、和子さんは画面のピントが微妙にずれていることに気づく。と、「あ、ダメだ!」と小声で叫び、ぱっと席を立って、走って外へ出た。しばらくして画面は正常になり、和子さんも戻ってきた。和子さんは、見終わった後で、映写ミスがいかに映画鑑賞にとって致命的かを延々と語り、「じゃあ、またね」と手を振って去っていった。
私はといえば、まるで、ゴダールの『男性・女性』で、サイズを間違えて上映しているのに気づき、走って映写室に飛び込み、猛烈に抗議するジャン=ピエール・レオみたいだなと、感嘆してしまった。

川喜多和子さんが亡くなった時に、小冊子が編まれ、そこに大島渚監督の弔辞が掲載されている。そのなかに、鈴木清順問題共闘会議時代にふれて、「その時あなたは、映画の自由、自由の映画を求める者たちのジャンヌ・ダルクでした。」という印象的な一節がある。
この弔辞は、大島渚によって書かれた文章のなかでもっとも感動的なもので、私は、全文を引用したいという誘惑を抑えきれない。
大島渚がここで述べているように、「世界のオーシマ」となるきっかけは、柴田駿さんと川喜多和子さんのフランス映画社が、六八年にジャン=リュック・ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』と交換で、『絞死刑』の海外配給をはじめたからにほかならない。

その大島渚も今、病床にある。
ミニシアター・ブームの先鞭をつけたフランス映画社の歴史をきちんと纏めるべき時期が来ているような気がする。

 

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●12月18日(土)より、日比谷 TOHOシネマズ シャ
ンテにて公開、全国順次
●ジャン=リュック・ゴダール監督作品「ゴダール・ソシアリスム」
(C)フランス映画社

 

<愛の欠如を描く詩人>クロード・シャブロルを追悼する

 9月12日、クロード・シャブロルが死去した。享年八〇。
 シャブロルは、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーとともに<ヌーヴェル・ヴァーグの三羽烏>と称されたが、生前、ゴダールやトリュフォーのように、数多の研究書や評伝・評論集が翻訳・刊行されていたわけでもなく、日本ではきわめて不遇な扱いを受けていた映画作家ではなかったかと思う。
 シャブロルは、生涯に五五本もの映画を撮ったにもかかわらず、未公開作があまりに多いことも、日本におけるその評価を曖昧にさせている原因であるかにみえる。

 私自身、シャブロルの作品をスクリーンで見たのは十数本にすぎない。デビュー作『美しきセルジュ』(58)が正式に日本で劇場公開されたのも、たしか1999年だったはずだ。初期の代表作『いとこ同志』(59)がリヴァイバルされたのも、その頃である。

 私が、最初に封切りで見たシャブロル作品は『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』(72)だった。下ネタ満載のあまり笑えないドタバタ喜劇で、ヌーヴェル・ヴァーグの鬼才がなんと馬鹿馬鹿しい映画を撮るのだろうと呆れた記憶がある。その後、70年代には、シャブロルの映画は一本も公開されていないはずだ。

 私にとってシャブロルの評価が一変したのは、70年代後半に名画座で何度か見た『女鹿』(67)と、当時、飯田橋の日仏学院で時折、英語字幕つきで無料上映されていた一連の日本未公開のミステリー映画に出会ってからである。
『不貞の女』(68)、『野獣死すべし』(69)、『肉屋』(69)、『血の婚礼』(73)と題名を挙げてみるだけでも、思わず背筋がゾクゾクッとするような傑作ばかりだ。
 おもに、当時、愛妻だったステファーヌ・オードランが主演しているが、とりわけ『肉屋』を見た時には、めまいのような深い衝撃を受けた。
 一見、平穏で、牧歌的な田舎町を舞台に、オールドミスの小学校の女教師(オードラン)とインドシナ戦争帰りの肉屋(ジャン・ヤンヌ)との出会い、奇妙に親密な関係が淡々と描かれ、その背後では、若い娘、幼女ばかりを狙ったおぞましい連続殺人事件が次々に起こる。
 のどかな崖下でのピクニックのシーンで、少女が食べているサンドイッチに、突然、血が一滴、二滴としたたり落ちてくる。一瞬にして、名状しがたい恐怖と美で画面が凍りついてしまうのだ。 
 そして、あの忘れがたい、息を呑むようなラストシーンにいたると、なぜか、ゆくりなくも坂口安吾の『不連続殺人事件』の最後の美しい一行が想起された。  

 シャブロルの盟友トリュフォーはヒッチコックにインタビューして名著『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)を著わしたが、恋愛の狂気を描かせたら天才のトリュフォーも、ヒッチコックにオマージュを捧げたミステリー映画はどれも書き割りめいた絵空事の脆弱さを露呈させてしまっている。

 いっぽうで、シャブロルは、批評家時代にエリック・ロメールと共著で、フランスで最初にヒッチコックの研究書を上梓したが、理不尽にも犯罪に手を染めてしまう人間存在の深い闇を鋭くえ