加登屋のメモと写真…: 2016年5月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2016年5月アーカイブ

高田宏さん

清流出版 (2016年5月16日 14:14)

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弊社から2冊の本を刊行された。『出会う』『還暦後』、いずれも快著であった


・高田宏さんが亡くなられた。昨年の11月のことである。83歳、死因は肺がんであった。すでに半年ほど経ったことになる。実はもっと早く書きたかったのだが、つい書きそびれてしまった。僕は編集者としての高田宏さんのファンであり尊敬もしていた。高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人であった。若い頃から無類の酒好きで知られ、酒が入ると底なしだったと聞く。しかし、場の盛り上げ方に秀でていて、最高の話し上手で、聞き上手でもあったらしい。弊社の編集担当者だった臼井雅観君は、神田の路地裏のショットバーに誘われたことがあるという。杯を重ねるうち、常連客も交えての談論風発する楽しい酒になったようだ。

    自然が好きだから津々浦々の島巡りをするなど旅を愛した。旅のエッセイは自然派高田さんの面目躍如である。「読売文学賞」を受賞した『木に会う』など、その最たるもので、我々が忘れかけていた木と人間との関わりを、見て、歩いて、感じて、考えた、優しさに満ちた自然論である。樹齢七千年の縄文杉の下で一夜を過ごし、白山のブナ林を歩く。真冬の山里を訪ね、銀座の並木に思いを馳せ、能面師、木工師と対話する。そして、木とともにある文化、木とともにある生活、木とともにある生命とは、どういうことなのか、静かに語りかけてくるのである。また、大の猫好きでも知られ、自宅には常に数匹の猫が同居し、今度生まれる時には猫か樹木になると明言していたとか。八ケ岳山中に山小屋を持ち、よく独りっきりでこもって執筆に励んだ。だから社交好きのようでいて、孤独癖があり、見識が広く融通性のある人物のように見えて、ご自分に関しては結構頑固なほどの思い込みが強かったようだ。

・高田さんを世に知らしめたのは、あの伝説ともなった『エナジー』誌の編集長時代である。京都大学文学部仏文学科を卒業後、光文社に入社、その後、アジア経済研究所の雑誌編集を経て、1964年から11年間エッソ石油(現・エクソンモービル)広報部でPR誌『エナジー』の編集長をされた。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなった。高田さんは京大時代からの友人、SF作家の小松左京や、梅棹忠夫など京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、斬新な特集記事を組み、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。

    小松左京といえば、このところ日本列島で大地震が続いているが、映画化もされた著書『日本沈没』では、地震列島日本の今日と行く末を予知したような符合に驚く。日本列島沈没はあくまでも舞台設定で、地球物理学への関心はその後から涌いたものだという。しかし、そのために駆使されたのが当時やっと認知され始めた「プレート・テクトニクス」であり、この作品はその分野を広く紹介する大きな役割も果たした。この分野に関する作品中の解説やアイデアは修士論文に相当するとの声もあったほどだ。難民となって世界中に散った日本人を描く第2部の構想(仮題は『日本漂流』)もあり、下巻の最後に「第1部・完」と記されていた。下巻発刊後、長い間執筆されることはなかったが、2006年のリメイク版映画の公開に合わせ谷甲州との共著という形で出版されている。

    また、吹田市千里万博公園にある国立民族学博物館初代館長を務めた梅棹忠夫も印象深い。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えたことで知られる。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移した。僕の記憶に残っているのは、梅棹忠夫が世界各地で撮影した写真の中から自ら46点を選び、写真展「民族学者 梅棹忠夫の眼」を1982 年から2010年にかけて国内各地で開催したことだ。日本写真家協会会員でもあった民族学者・梅棹忠夫が、カメラ・レンズを通して「眼」をこらした世界は見る者の目を釘付けにした。

    例えばチベット系農耕民で、金沙江上流の大屈曲点ちかく、玉龍山(5950メール)の山麓、麗江にすむナシ族を梅棹忠夫は撮影している。古くから漢文化に接し、その影響をうけ独特の風俗、文化を保ち、奇妙な絵文字で書かれた「トンバ経」を伝えているという。また、イタリア共和国アブルッツォ・モリーゼ県チェルクエート村の写真である。年に一度の村祭の場面だ。お寺での儀式ののち、聖者の像、マリア様の像などが担ぎ出され、村の中を練り歩く。村びとは、老人も子どもも、その行列に加わる。となり村から、楽隊が雇われてきている。そんな知られざる世界を垣間見せてくれたのだ。

・話を戻すが、僕は高田宏さんの本を出したいと強く思った。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。その本とは、『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの自然の佇まい、旅先での何気ない人間同士の触れ合いを描いた数々のエッセイの中から、担当編集者の臼井君がページ数を決め選んで編んだもの。

    また、『還暦後』はその題名通り、高田さんが還暦過ぎて書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんは言う。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。

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『出会う』(1998年刊)


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『還暦後』(2000年刊)

・高田さんにこんな話を聞いたことがある。「60代半ばを過ぎれば、健康診断で数値が悪い個所が出て当然だ。だから再検査と称して、身体中を小突き回されるより、健康診断そのものを受けないことにしました」と。もし、病気が発症したとしても、淡々とそれを受け入れるというのである。だから「もし、半身不随とか車椅子生活を余儀なくされたとしたら、真っ赤な車椅子を買って動き回りたいもの」と楽しそうに語った。いかにも高田さんらしい発言だと感じ入った覚えがある。僕はリースの車椅子で、高田さんのように思い切った発想ができない。

    何度か高田さんの奥沢の自宅を訪れた臼井君によれば、書斎には木工の人間国宝、黒田辰秋氏のがっしりした大机が置いてあり、高田さんはそこで原稿執筆していたようだ。高田さんの家の猫たちは、大事にされているからだろう、20歳近い老いた猫が数匹いた。後で触れたいと思うが、高田さんの二男、高田雄太さんは猫を得意とするイラストレーターとして活躍中である。

・高田宏さんのプロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京都大文学部仏文科へ進む。大学に入って、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。僕も、若い頃、スティルネルに入れ込んだことがある。辻潤はじめ、松尾邦之助、大杉栄、石川三四郎、幸徳秋水、堺利彦、荒畑寒村など無政府主義や自由思想の本を片っ端から読んだものだ。わが師、椎名其二さんの影響が大きかった。

    高田さんは大学卒業後、編集者として光文社で少女雑誌、アジア経済研究所で『アジア経済』の編集に携わり、その後、エッソ石油でPR誌『エナジー』『エナジー対話』『エナジー叢書』『エナジー小事典』等の創刊、また、石油情報誌や社内報等の編集に携わり、28年9ヶ月を雑誌編集一筋に勤め上げた。若い頃に何ものにも従属しないと決めたとしても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならないのだ。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続けていく上で、有利に働いたといえよう。
    雑誌の企画を練るのには、知識が必要である。多種多様な本を読まなければならない。取材では多くの人と会い、日本各地を巡り歩くことになった。それによって広範囲の知識を得るとともに、個性的な人物や地方の自然・民俗・歴史に直接触れることができた。結果的に広い視野に立った大局観と独自の自然観や歴史観を培うことになった。

    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。

・高田さんのご紹介で弊社から本を出した方がいる。それが高田さんの京大時代からの親友、辻一郎さんである。辻さんは、『忘れえぬ人々―放送記者40年のノートから』(1998年刊) 、『父の酒』(2001年刊)、『私だけの放送史―民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)と都合3冊出させていただいた。辻さんは1933年、奈良県の生まれ。京都大学法学部卒業。新日本放送(現・毎日放送)に入社。主として報道畑を歩き、取材活動にあたる一方、報道番組の制作に携わった方だ。テレビ番組「若い広場」「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞している。毎日放送取締役報道局長、取締役編成局主幹を務めた後、大学教授となった。高田さんとの出会いが面白い。京大入学後の健康診断で相前後して並ぶことになった二人、話が弾んで親友となり、生涯の付き合いとなったというのだから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。

・ご子息についても簡単に触れておきたい。長男の高田尚平さんは、将棋棋士で七段。1962年の生まれだから54歳になられる。麻布の中高出の秀才。将棋はかなり特徴的であり、トップアマの中にも愛用する高田流と呼ばれる指し方が幾つかあるという。それが2冊の著書になっている。書名もズバリ『高田流新感覚振り飛車破り』(2000年刊)と『高田流新戦略3手目7八金』(2002年刊)である。いずれも毎日コミュニケーションズから刊行されている。アマチュア高段者のバイブルになっているそうだ。天才が群雄割拠するプロ棋士の世界。元将棋ペンクラブ会長の高田宏さんも泉下から、暖かく見守っているに違いない。

    二男の高田雄太さんは、前述したようにイラストレーターとして活躍中だ。猫を描くのを得意としており、個展もされている。『猫のしっぽ』という本では、文が高田宏、イラストが高田雄太で親子の共作を果たしている。雄太さんは、今年も「猫だくさん」展を開催された。猫の肖像画展といったところ。高田家で暮らしを共にした代々の猫たち。そしてご近所や友人の猫たち30数匹がモデルだそう。ハイパーリアリズムに近い細密な筆遣いで描かれた猫たち。柔らかい毛並みやヒゲ、硝子玉のように光る目はそれぞれの「猫生」のドラマを想像させ、楽しい。そしてなにより猫たちを深く慈しむ画家のこころが伝わってくる。そしてこれからは絵本に力を入れていきたいようだ。

    高田さんとは異なる道を歩むご子息だが、何ごとにもとらわれない、縛られないという生き方は父君のモットーを引き継いでいるように思われる。自分の信じた道を歩き、新たな新境地を開拓して欲しいと願っている。
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