2022.08.24辻協さん

前列左より藤森武さん、辻協さん、僕、臼井雅観君

・過日、陶芸家・辻協さんの遺作展「てふてふ」のご案内を頂いた。辻清明・協さんご夫妻の長女・辻けいさんからであった。けいさんは、1953年東京の生まれ。多摩美術大学美術学部デザイン科卒業、多摩美術大学大学院美術研究科を修了している。山形県山形市に本部を置く、東北芸術工科大学の教授を歴任された方である。辻清明さんの豪華本を弊社から刊行した経緯から、僕はけいさんとお近づきになったのだが、これまでも清明さんの銀座での遺作展など、何度かご案内を頂いたことがある。協さんの案内状にはこう書かれていた。
《辻協さんは、日本における女性陶芸家の草分け的存在でした。粉引手などの一風ある優美な造形の器を作られ、また伴侶である日本陶芸界の巨匠、辻清明氏と共に美食家でもありました。
一昨年の「辻協遺作展」の際、長女のけいさんが山形から取り寄せた紅花を会場に生けました。展覧会最終日、その紅花からアゲハ蝶が姿を現わしました。弊廊での感動的な羽化の場面は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出されます。
本展は、前回のアゲハ蝶誕生の感動から、サブタイトルを「てふてふ」と名付け、辻協さんが意欲的に取り組まれていた「蝶=てふてふ」をモチーフにされた器を中心に展覧いたします。(後略)》

辻協遺作展 案内状より(写真はすべて臼井雅観)

僕はこの案内状を読んで俄然興味を魅かれた。辻清明さんの造形作品や所蔵品については、弊社刊行の豪華本『独歩―辻清明の宇宙』の制作過程を知る立場から多少の知識はあったが、協さんの造形作品についてはまったくの不案内であった。それに最終日にアゲハ蝶が羽化したというのは、まさに「事実は小説より奇なり」を地でいくような話であり、不思議な因縁を感じたからだ。蝶々がデザインされた器とは、一体どんなものなのか、現物を見てみたかったこともある。会場の「柿伝ギャラリー」(新宿で大人の道草を。がキャッチフレーズ)は、新宿駅に隣接した安与ビル内にあり、分かりやすいのも魅力であった。

蝶をモチーフにした作品群

・辻協さんの経歴について簡単に触れておこう。昭和5年、東京の生まれ。同27年、東京女子美術専門学校(現・女子美術大学)洋画科卒業。「新工人」の会員となり、ガラス板に漆を塗って彫刻する独創的な作品を多数制作する。同28年、辻清明さんと結婚する。結婚をきっかけに作陶に取り組み始め、多摩連光寺の丘陵に登り窯の陶房を築く。同45年、女性初の「日本陶磁協会賞」を受賞。平成20年、死去(享年77)。主な著書に『肴と器と』辻清明と共著(講談社)、『存分に恵みの食卓』(文化出版局)など。また、パブリックコレクションとしては、東京国立近代美術館、米国アートコムプレックス美術館、英国ヴィクトリア&アルバート博物館などに収蔵されている。

清流出版刊(2010年8月1日)

ちなみに豪華本『独歩―辻清明の宇宙』の写真はすべて、土門拳の愛弟子として知られる藤森武さんが撮影したものである。『独歩―辻清明の宇宙』は結構、難産の末に生まれた本であった。というのも、藤森さんが前々から辻清明さんの陶芸作品をカメラに収めていたのだが、急逝したことにより、撮影作業は途中で頓挫していたのだ。作品集の刊行は藤森さんのたっての願いでもあり、僕は、なんとか形に出来ないものか思案していた。そこで奥様の辻協さんに当たってみると、刊行に前向きなことが分かったので、中断していた豪華本企画を進めることになった経緯がある。

・春まだ浅い3月、僕と担当編集者の臼井雅観君、写真家の藤森さんらと辻協さんにご挨拶するため、東京・多摩丘陵のご自宅へと伺うことになった。ご自宅は京王線の聖跡桜ヶ丘駅からタクシーで15分ほどの距離で、山の中腹に傾斜を利用して建てられた立派なお住まいであった。玄関前にはちょっとした野外パーティも開けそうな広い庭があり、竹林がある奥まった場所には薪を燃料にした登り窯があった。敷地全体には、桜の木を中心とした植栽がなされ、自宅から小道を少し下ったところには、立派な茶室も設えられているといった凝りよう。見事なお住まいであった。

雑誌でも取り上げられた協さんの器

辻協さんにお会いしたとき、将来、清明さんの陶芸作品を展示する「辻清明美術館」を造りたい意向をお持ちなことが分かった。僕はいいお話だと思った。美術館ができ常設展示がなされれば、年間通じて多くのファンが訪れる。本を置いて頂き、販売をしてもらうこともできる。僕の夢は膨らんだ。打ち合わせを終えて帰る際、協さんは一人ひとりに一枚の葉書をくれた。表には墨痕鮮やかな達筆で名前と、朱色で「立春」の文字が認められていた。裏には辻清明さんが描いた干支の鼠(墨と金)と赤い落款が押され、陶房の住所、電話番号も入っており、粋な名刺代わりだった。しかし、好事魔多しとはよくいったもの。辻清明さんが逝去してからわずか4ヶ月ほど、後を追うように協さんが逝ってしまった。これには僕もショックを受けた。しかし、ここで放り出すわけにもいかない。当時、東北芸術工科大学教授だったけいさんや、お弟子さんたちのご協力を得ながら、編集作業を進めたのである。

アゲハ蝶が羽化した紅花

・もともと僕は草花や昆虫にそれほど興味はない。犬猫など動物への関心も薄い。しかし、美しい造形作品や絵画を始め、クラシック音楽やジャズには心動かされる。協さんがこれほど蝶をモチーフに、多くの造形作品を制作してきたことにまず感動を覚えた。こんな小さな蝶が、それほど芸術作品として魅力ある対象となれるものなのか。最初は不思議に思えた。ところが近くで見ると、蝶々を形作るために付いた手の跡、指の跡が残っている。作品が生き生きと今に息づいているように感じた。僕は魅力の一端に触れた思いがした。このワクワク感は音楽を聴く時の至福の時間と似ている。地震を想定してのことらしく、平面展示がなされていたが僕は一向に気にならなかった。小品がとはいえ実にバラエティに富んでいて楽しめたのである。

 実は僕が帰った後、臼井君はもうしばらく残っていた。会場でけいさんから興味深い人を紹介されたという。その小柄な老人が大塚で「なべ家」を営むという福田浩さんであった。福田さんは1935年、東京の生まれ。早稲田大学文学部卒業。「三到」にて修業後、家業を継いで「なべ家」主人となった方だ。『江戸料理百選』(共著)、『料理いろは包丁』(共著)、『日本料理由来事典』(共著)、『豆腐百珍』などの著書がある江戸料理研究の重鎮である。どうして協さんの個展にいらしていたのか、臼井君は話を聞いて理由が分かったという。辻清明さんは安倍公房氏やドナルド・キーン氏など、親しい文化人をご自宅に招き屋外パーティをよく楽しんだ。蕎麦打ちを始め、当日の料理一切を仕切っていたのがこの福田氏だったというのである。これを聞いてさすがに僕も驚いた。選りすぐりの器類に日本料理の重鎮が仕切った日本料理を味わう至福の時。こんな裏方さんがいたればこそ、宴は大いに盛り上がったのも頷ける。僕もお会いしたかったが、こういうこともある。ご縁があればいつかお会いできるかもしれないと思っている。