加登屋のメモと写真…: 2014年12月アーカイブ
加登屋のメモと写真…
2014年12月アーカイブ

清川 妙先生

清流出版 (2014年12月18日 14:40)

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清川 妙先生と会食、歓談の幸せ。御茶ノ水・山の上ホテル別館。同席しているのは松原淑子(右)と秋篠貴子(左)の両名。平成23(2011)年7月。

・我が敬愛する清川妙先生がお亡くなりになられた。93歳という長寿を全うされたが、わが清流出版にとっては大きな痛手である。先生には、月刊『清流』の立ち上げ時から大変お世話になった。月刊『清流』創刊以来、「古典鑑賞」「映画評論」「手紙は愉し」「季節のことのは」……等々、いろいろのテーマで誌面を飾っていただいた。人生においての悲しみや寂しさに対処する方法を自ら編み出し、それを実践してこられた方でもある。この写真を見ると、懐かしさに胸が張り裂けそうになる。御茶ノ水・山の上ホテル別館で会食をした時のものである。山の上ホテルは、先生が『万葉集』や『枕草子』など古典の講座でよく使われていたお馴染みのホテルだ。同席しているのは松原淑子(右)と秋篠貴子(左)の両名。

・逆算してみると、清川先生が72歳の時、僕は初めてお会いしたことになる。月刊『清流』のレギュラー執筆者になっていただいたのである。先生のお嬢様の佐竹茉莉子さんも、月刊誌、単行本のライター・著者としてフル回転していただいている。お二人のご協力がなければ、清流出版の今日はなかった! と言っても過言ではない。本当に残念である。それにしても先生の生き様はお見事のひと言。おいくつになられても執筆欲は衰えることなく、90歳を超えてもいくつかの連載を持ち、日々原稿執筆を続けていた。こうした前向きに生きる姿勢は、多くの方々に生きる勇気を与えてくれた。長寿社会を明るく生きる知恵がいっぱいつまったエッセイ集が何冊も刊行されている。もちろん、ご専門の古典文学についての執筆やご講演も続けてこられていた。『源氏物語』『枕草子』『徒然草』『万葉集』……テーマは無尽蔵のようにあり、嬉々として取り組んでおられた。

・人生にはいい時も悪い時もある。襲ってくる試練とどう向き合ったらいいのか、日々悩みながらも歩き続けるしかない。僕も最近になって知ったのだが、先生ご自身子供の時から片目しか見えていなかったとか。そして初めて授かったご子息は、耳が不自由だった。先生は真正面からこの現実に対処しようとする。千葉県市川市国府台にある唯一の国立の特別支援学校(聾学校)、現在の筑波大学聴覚特別支援学校近くに引っ越ししたのだ。日常生活でも手話会話でなく、言葉で話せるよう家族みんなが協力したという。そんな途方もない道のりをコツコツと努力し、ご子息はちゃんと会話ができるようになり、後年、聾学校の先生になっている。このご子息との生活をつづった手記「聞こえない葦」は雑誌『主婦の友』に掲載され、40歳で文筆活動をスタートさせることになる。 この原稿を読んだ『主婦の友』編集長は、先生の文章を高く評価し、これからも物書きとして生きていけるだろうといったという。

・順風満帆に思えた先生を大嵐が襲ったのは73歳の時である。僕が初めて先生にお会いして2年目のことである。先生のご主人は高校の校長を務めた後、定年退職され、それからは好きな旅行を楽しんでいた。清川先生は仕事が忙しかったので同行は叶わないことが多く、ご主人はしょっちゅうひとりで旅をしていたらしい。1994年秋、運命のその日も旅行会社のツアーに参加し、温泉旅に出掛けた旅先でのことだった。その夜、ご主人は露天風呂に入っていて心不全をおこし、そのままあの世に旅立ってしまわれたのだ。ここで根拠のない推論を述べさせて頂く。ご主人がお亡くなりになった温泉は、紅葉が鮮やかな明神館ではなかったのか、と……。明神館の女将は、清川妙先生の講義を聴くため、「私も毎月、上京して、山の上ホテルへ行って聴いております」。ただならぬ因縁…。その後、僕と妻は数回、扉温泉・明神館へ行っている。

・その後、御嬢様の佐竹茉莉子さんに確認したところ、僕の推測は間違っていたようだ。ご主人が亡くなられたのは、新潟県の長野県境に近い秋山郷の温泉宿だったとか。鈴木牧之の著になる『北越雪譜』でお馴染みの豪雪地帯である。不謹慎ながら僕にはとてもうらやましく思える。錦繍に彩られた秋山郷。ひなびた温泉宿で露天風呂に入っている。至福の刻を味わいながら、そのまま天に召されるなんてそんな逝き方があっていいものか、と……。それにしても、ご主人は素晴らしくハンサムだったようで、清川先生は連れ合いが美男子であることをよく自慢されていた。僕のかつての職場、ダイヤモンド社の上司であった森友幸照さんの奥様は、高校時代清川先生のご主人に教わったという。だから美男子ぶりは、間近に接していたから良くご存じだった。森友夫人は、美男子のご主人に教わった結果、教職を志すところとなり、御茶ノ水女子大学卒業後、同じ教職の道を歩んでいる。

・話を元に戻そう。清川先生のご不幸は連鎖するように続く。主人の葬儀に駆けつけたご子息の顔色の悪さが気にかかった先生は、一度病院で検査をしてはと薦める。ご主人が逝って2か月後、ご子息は病院で精密検査を受けて、末期のすい臟がんと宣告される。余命は半年ほどと医師に聞かされた。1995年、残された時間の少ないご子息を看病している最中に、先生もまたがんに侵されていることが分かる。かなり進行している胃がんだった。すぐに胃の3分の2を切除する。幸いにも再発はしなかったものの、ご子息は医師の告げた通り半年ほどで天国へと旅立った。先生の胃がんの手術が成功して10日目、ご子息が49歳の若さで天に召されたのだった。
 この体験を通して清川先生は心に期するものがあったという。明日どうなるかは誰にもわからない。今日という日が明日もやってくるとは限らない。今日やれることは明日に延ばさない。お礼の手紙は思いついたらすぐに書く。楽しいと思えることはすぐにやる。そうして毎日を過ごしていると、自分に残された時間がとても愛おしく思えてきたのだという。寂しさや不安と付き合っていることが何とももったいない。どうせ人間の頭は一つのことしか考えられないなら、前向きのことだけで頭をいっぱいにしておきたい。そう思うことにし、行動することにしたのだという。

・僕はそんな時期に、市川市国府台の先生のご自宅を訪ねた。悲嘆の涙も乾かない悲しみの底にありながら、先生は、気丈に振る舞われていた。蔵書の山に囲まれ、古典の世界がすぐ目の届く範囲内にあった。最愛のお二人の喪失感から必死に乗り越えようとする健気な姿勢が、僕は胸に響いてきた。僕は何と言ってお慰めしたらよいのかと、途方に暮れていた。救いの手を差し伸べてくれたのが先生だった。これからも執筆意欲をさらに高めて、「古典」「映画」「手紙」等々、書きたいテーマはいくらでもあるから、これからも清流出版とお付き合いしていきたいと言ってくれたのである。この言葉を聞いた時、僕の方がかえって元気を出しなさい、と勇気をもらった気がしたものだ。「乗り越えられたのは、こうした仕事があったからです。締め切りに追われ、原稿を書いている間は、悲しみを忘れることができました。好きなこと、打ち込めるものを持っているのは幸せなこと。肉体的な老いとは真剣勝負です。なすがままに任せたらそれで終わり。私はきれいに歩こうと自分に言い聞かせて、一歩一歩足を前に出すことにしたの」。先生はなんという強い心の持ち主であろうか、僕はつくづく感じ入るばかりだった。

・先生の凄いのはすぐに行動を起こすこと。悲しみへの見事な対処法を示したエピソードがある。近くの小さなレンタルビデオ店で毎日1本ずつ昔の名作映画を借り、仕事の合間を縫って映画を観ることにしたのだ。映画が始まった途端に、頭は仕事頭に切り替わる。不安や寂しさという感情は誰もが持っているもの。それらをまったくなくすことはできない。でも、そればかりを考えていると、いつのまにか不安頭や寂しさ頭になってしまう。それはとてももったいないことだ。自分が大好きなこと、時間を忘れさせるようなものを見つけることで、不安や寂しさを克服できることに気づかれたのだ。
 実は先生は、10年にわたってある女性雑誌で映画評論の連載をしている。弊社から刊行させていただいた『名画で恋のレッスン――こころのシネマ・ガイド』はそれを元に編集構成したものだ。結局、弊社からは、この『名画で恋のレッスン』(1995年)を含め、4点出させていただいたことになる。『古典に読む恋の心理学』(1996年)、『出会いのときめき――花、旅、本、愛する人たち』(2002年)、『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』(2008年)。いずれも清川先生の人となりが横溢した素晴らしい本である。もっともっと単行本を出させていただきたかった。

・清流出版の先生の担当編集者は、ことごとく清川先生の謦咳に接することによって鍛え上げられ、編集者として一人前になってきた経緯がある。一番古いお付き合いになるのが、松原淑子(月刊『清流』前・編集長、現・出版部長)である。もう一人の秋篠貴子は、近年、月刊『清流』のみならず、先生の単行本(『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』)の編集担当を経験したことによって目に見えて成長したように思う。両名とも、先生の「ていねいな仕事」ぶりを学んだ結果、出版業界でも有能な編集者に育ってくれたと思っている。人材育成の意味においても、先生にはいくら感謝してもしきれない。

・思い起こせば、いただいた初期の玉稿(月刊『清流』1994年8月号)が、特別、僕の印象に残っている。忘れもしない20年ほど前、『伊勢物語の世界 第23段』をお書きになっている。その文章の中に、「くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき」の言葉があった。返句で女返しの言葉だ。当然、その前の句は「つつゐつのいづつにかけしまろがたけ すぎにけらしな妹(いも)みざるまに」である。
 能『井筒』の一節にある「筒井筒、井筒にかけし……」が僕にはすぐ頭に思い浮かんだ。ゲラを読みながら、下手な謡曲を思わず唸ってしまったことを覚えている。当時、われわれ早稲田大学下掛宝生流のOBたちは、清流出版の入っていたビルの、道路を挟んだ向かい側にあった日本債券信用銀行(当時)の和室を借りて、毎週火曜日に人間国宝の寳生閑先生に謡を習っていた。

・その後、『伊勢物語の世界 第23段』の解説で、先生は「化粧」(假粧=けさう)のことをお書きになっている。「さりけれど このもとの女 悪しと思へるけしきもなくて 出しやりければ をとこ こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて 前栽の中にかくれいて 河内へいぬる顔にてみれば この女 いとよう假粧じて うちながめて……」。いつも女性は化粧をしているほうがよい、と僕は伊勢物語、いな先生から学んだものである。
  この『伊勢物語』の名解説のほか、以後は一作品につき3号分で、古典の解説を清川先生に依頼した。『大和物語』『枕草子』『更科日記』『蜻蛉日記』『古事記』『落窪物語』……。いずれも多くの読者から好評を得たが、先生には、古典以外のテーマにも挑戦していただくことになった。まず、「言葉の贈り物」として『手紙は愉し』を連載していただいた。
 素晴らしい文章、切り口で、清川ファンが増えることイコール月刊『清流』の購読者増に直結していったと思う。この日は、談たまたま、お互いに好きな映画の話になった。先生は最近観た映画では、『八月の鯨』(1987年)が気に入っておられたようだ。主演のリリアン・ギッシュとベティ・デイヴィース姉妹が、実際は妹役の方が年上で、撮影当時、リリアン・ギッシュは93歳、ベティ・デイヴィースは79歳だったという話をされたが、変わらぬ映画への熱い思い、薀蓄に感心させられたものだ。

・晩年近くになっても、先生は一人で飛行機に乗って講演に出掛け、イギリスなどへの外国旅行にも出掛けた。何かやりたいことがあるのに、もう歳だからと絶対にあきらめてはいけないことを教えてくれた。先生のモットーは、「思い立ったが吉日。いくつからでも間に合う」である。先生は初めての海外旅行で英語が通じなかったことにショックを受ける。悔しさから一念発起、53歳で英語学校に通い始め、65歳でイギリスにひとり旅を敢行するまでになる。以来、イギリスへのひとり旅を毎年のようにしてきた。もちろん、英語もひとり旅も、一筋縄ではいかない。しかし、さまざまな不幸も乗り越えて、何かを学びながらひとりで生きるということを自らに科し、いきいきと日々を過ごしている姿は、老いへの漠然とした不安を抱えている人たちに、ひとつの光明を与えてくれた。
 独り暮らし。一体、スケジュール管理等をどうしているのかと尋ねてみると、先生は頭の辺りを指差して、「ここに秘書がいるからなまけられないのよ」と笑った。空想上のハンサムな秘書が、「妙さん、仕事のお時間ですよ。起きてください」と起こしてくれる。また気分が乗らない時には、「何をそんなに落ち込んでいるのですか、らしくありませんよ」と、励ましてくれるのだという。このように自分で自分をケアする達人だった。かえすがえすも惜しい人を亡くしたものである。衷心よりご冥福をお祈りする。

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清川先生担当の秋篠貴子(左)。清川先生に「ていねいな編集の仕方」を学んだ結果、優れた編集者に成長している。
 
 
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清川先生は、僕が健常人だった頃を知っていらっしゃる。転じて右半身不随、言語障害の身を知っている方だった。




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