2022.06.23柳生博さん

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柳生博さん(写真はすべて臼井雅観撮影)

・2022年4月16日、柳生博さんが亡くなられた。老衰であった。享年85。柳生さんは茨城県稲敷郡舟島村(現在の阿見町)で生まれた。分かりやすく言えば、霞ケ浦のほとりである。徳川将軍家に剣術指南した柳生一族に連なる家系の出身で、「柳生新陰流」で知られる柳生宗厳の末裔にあたるという。次男の宗助さんによれば、今年2月中旬以降、体調を崩した後は、病院に入院はせずに在宅療養をしており、亡くなる2日前まで赤ワインを嗜んでいたとか。家族と八ヶ岳倶楽部のスタッフ、在宅医療関係者に見守られながらの穏やかな最期だったという。柳生さんは、1989年、山梨県北杜市大泉町西井出・西沢の森に、パブリックスペースとして、ギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」を創設した。柳生さん自身、時間があればレストランにもよく顔を出した。お客さんと談笑する姿がよく見られた。僕とは歳も近いし、好きな俳優であった。長らく「日本野鳥の会」の会長も務められた。僕には真似ができないが、柳生さんの生き方には大いに共感していたし、尊敬もしていた。それだけに亡くなられたのは残念でならない。

 柳生さんは、八ヶ岳山麓で手入れの不十分な人工林からもらい受けた各種の樹木を倶楽部建設予定地に植林してきた。その数は実に1万本以上にもなるという。柳生さん家族と仲間によって1本1本植えられたものなのだ。針葉樹よりも広葉樹にこだわった。葉が落ちて土に還る広葉樹が豊かな雑木林へと誘ってくれるからだ。ツリバナ、リョウブ、ダンコウバイ、様々な種類のモミジ、そして主役ともいうべきシラカバ林。元々八ヶ岳南麓に自生していた木々ばかりである。八ヶ岳倶楽部の雑木林は当初から人の手が入っている。中心はもちろんパパさんこと柳生さんである。毎年、木々を剪定し隅々まで手入れをしていた。背の高い高木から中木、低木、そして山野草といった具合に背の高さの違う植物をしっかりと根付かせた。剪定をする事によって林床までちゃんと木漏れ日(太陽の光)が届くように気配りもしていた。

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枕木を利用した散策路

・八ヶ岳倶楽部のある北杜市大泉町は、柳生さんが中学生の頃に一人旅をした場所である。柳生家には、「男の子は13歳になったら、一人旅をする」という家訓があり、自身、13歳の夏休みに八ヶ岳山麓を約1ヶ月間旅している。この一人旅が、後に八ヶ岳倶楽部を作ろうと思い立った原体験になったと語っている。弊社は柳生さん原案による、童話『じいじの森』を刊行している。編集プロダクション勤務の中島宏枝さんの持ち込み企画であった。中島さんは、企業広報誌で柳生さんの連載エッセイ「機嫌のよい暮らし方」の編集担当をしており、いつか柳生さんの体験を絵本にしたいと思っていたという。一人旅は子どもを劇的に変える。自立心を促し、人間的な成長を後押しする。「子どもは大人よりはるかに森と仲良くなれる才能を持っている」が持論の柳生さん。一人旅が子どもを成長させることを、身をもって知っている。「頼れる人が周りにいなければ、身に降りかかる出来事に自力で対処しようとするサバイバル本能が生じる。僕の2人の息子も一人旅をしたし、7人の孫のうち、3番目の孫娘が山陰地方を一人旅した。帰ってきた時の、彼女の逞しく強い眼差しといったら」と柳生さんは嬉しそうに語っていた。

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『じいじの森』(2012年、清流出版刊)

・しかし、僕が思った以上に絵本作りは難しかった。事実、童話というのは専門出版社が群雄割拠する、とても難しい出版分野なのだ。ただ絵本ができ上がればいいというものではない。出版するに値し、なおかつ売れる絵本を作らなければならない。編集担当は臼井君であったが、童話の編集経験はそれほど多くない。子どもたちが楽しんでくれ、生きる喜びを得られるような絵本は、口で言うのは簡単だが、実際、形にするとなるとなかなか手ごわかった。そこで童話も多数出版していた鈴木出版出身の藤木健太郎君にもスタッフとして参加してもらった。更に、鈴木出版で多くの童話の編集に携わってきた後輩の岡崎幸恵さんをアドバイザーに招聘した。ここに至って、ようやく物語の全体の流れ、迷路やだまし絵を入れるなど、貴重なアドバイスをもらって、方向性が見えてきた。

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雪の日の八ヶ岳倶楽部

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八ヶ岳倶楽部に作られた野鳥の餌台

・物語は、けいた君という東京に住む9歳の少年が、八ヶ岳山麓に住むじいじ(柳生博さんを想定)を一人で訪ねるストーリーだ。新宿駅から特急あずさに乗って小淵沢駅まで行き、そこで小海線に乗り換えて甲斐大泉駅で降りる。ここから徒歩で、じいじの家を目指すというものだ。駅からたどる八ヶ岳山麓の植生は豊かである。けいた少年は、途中、人生で初めて大自然の驚異に触れる。小虫、野鳥や昆虫、動物などに出合い、さまざまな体験をしながら自然から学ぶ。天狗も登場する。天狗については、柳生さんの言が参考になった。「天狗の造形はイヌワシがその起源と言われる。突き出たクチバシや大きな羽根、鋭い爪は天狗の特徴とよく似ている。漢字で書くと狗鷲。狗は神に仕える存在で、神社などにも狛犬が祀られている。八百万の神というように、日本人は元来、色々なものに神を感じる民族です。天狗もそうした人間の懼れ敬う心が生んだ想像の産物だと思う」。この天狗との出会いによって、「森は人間だけのものではない」ということを伝えるストーリー展開にした。これは正解だったと思う。

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奥様の二階堂有希子さんと柳生博さん

・柳生さんのプロフィールについても触れておこう。土浦第一高等学校卒業後、船員を目指し東京商船大学(現在の東京海洋大学)に入学するも、体調を崩して中退している。その後、役者を志し、俳優座の養成所へ入所。穂積隆信と学園ドラマでの腰巾着コンビで人気を得て、『いちばん星』で野口雨情を演じたことで全国的に知られるようになった。作庭家としても活動し、「日本野鳥の会」会長・名誉会長を務め、「コウノトリファンクラブ」会長も務めた。1981年から1993年までの12年間、「100万円クイズハンター」の司会や、「平成教育委員会」に解答者として出演したり、「生きもの地球紀行」のナレーションを担当した。洋画の吹き替えではジェームズ・スチュアートを担当したことで知られる。

 八ヶ岳倶楽部が大きな波風に晒されたこともあった。なんと後継者と目された長男・真吾さんが、2015年に咽頭がんのため47歳で他界したのである。このことは、柳生さんにとってどれだけショックだっただろうか。僕も2人の子を持つ親だけにその心中は察するに余りある。真吾さんは草創期から柳生さんを支え続けた。全国津々浦々に八ヶ岳倶楽部の名を浸透させた立役者であった。自ら園芸の世界に入り、寄せ植えや多肉植物、草屋根など、植物の素晴らしさ、面白さを写真やエッセイ、テレビ、雑誌等を通じて発信し続けた。そんな大切な跡継ぎを失ったが、次男の宗助さんを中心に再び立ち上がった。こうした「家族の絆」があればこそ、八ヶ岳倶楽部はいまも人気スポットであり続けている。そして趣旨に賛同し馳せ参じたスタッフの存在も大きかった。奥様の二階堂有希子さんは、人気メニューの創出に尽力した。喫茶の専門学校に通い、誰にも真似できない「フルーツティー」を創りあげた。フルーツティーには、なんと1年を通じて、林檎、オレンジ、イチゴ、キウイ、メロン、巨峰、レモンなど7種類以上のフルーツがふんだんに使われている。グループで訪れたお客さんは、必ず注文する人気メニューとなった。大きなティーポットに入っているから、グループみんなが楽しめるのだ。おかわりする度に味が変わるというこのフルーツティー。八ヶ岳倶楽部オープン以来の自慢の味だという。

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大人気メニューのフルーツティー

・柳生さんは鬼籍に入られたが、八ヶ岳倶楽部は愛され続けている。熱い創業の精神が脈々と受け継がれているからだ。柳生さん家族4人が八ヶ岳に移住したのが1976年のこと。柳生さん中心にファミリーで、荒れ果てた赤松林に手を入れ、豊かな雑木林に変容させた。四季折々の雑木林を眺めながら、のんびりとお茶と食事を楽しんでほしい。そんな思いで八ヶ岳倶楽部をオープンさせたのが1989年。倶楽部創設によって、大自然の営みの素晴らしさを皆さんに知ってほしいと願ったのだ。そんな想いに共感し、受け継ごうとするスタッフが全国から参集している。倶楽部のスタッフ1人1人は、野鳥、植物、料理、喫茶、デザイン、芸術などそれぞれの分野に才能を発揮して客をもてなしている。だから僕は八ヶ岳倶楽部の将来は安泰だと思っているのだ。

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満面の笑みを浮かべた柳生さん

 八ヶ岳倶楽部の新緑の頃は、野鳥たちの喜びの声が弾ける。そして真吾さんが大好きだったというカタクリの花が咲き始める。夏になれば雑木林は緑が滴るような風景に変わる。雨の降る日の雑木林はひっそりと落ち着いている。雨を抱いて木の幹が色濃く艶やかになる。初夏に咲くコアジサイの花は可憐でほのかに甘い香りがする。そして秋には黄色やオレンジ、真っ赤に紅葉した葉っぱが散り染める。もちろん、散策路にもハラハラと落ち葉が舞い、散歩者の目を楽しませる。木々が葉を落とす冬は空気が凛として清々しい林となり、野鳥たちの舞う姿がよく見られるようになる。
 僕は動・植物に詳しくないし、樹木のことも門外漢である。よく盗掘されたなどと話題になったので、カタクリが貴重な草花であることは知っている。そのカタクリが八ヶ岳倶楽部を象徴する草花だと聞いた。亡くなった真吾さんが大好きで丹精込めて育てた花だという。そんな早春のカタクリの花が咲く頃、八ヶ岳倶楽部を一度訪れてみたいものだと夢見ている。そして柳生さんの創業の思いが結実した八ヶ岳倶楽部の魅力の源泉にも触れてみたい。