高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2011年11月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2011年11月アーカイブ

ジョーン・ディディオンによる<喪の仕事>

 ほんとうに久々だが、ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』(慶應義塾大学出版会)という新刊が出た。

 ジョーン・ディディオンといえば、カウンター・カルチャーが隆盛の兆しをみせていた一九六〇年代、サンフランシスコのヒッピーたちの生態を活写したニュー・ジャーナリズムの古典『ベツレヘムへ向け、身を屈めて』(筑摩書房)や、『60年代の過ぎた朝』(東京書籍)、そして『日々の祈りの書』(サンリオ)などの小説家として知られている。

 

 なかでも、ポーリン・ケイルの『今夜も映画で眠れない』、ノラ・エフロンの『ママのミンクはもういらない』などと共に「アメリカ・コラムニスト全集」の一冊として刊行された『60年代の過ぎた朝』(原著名は『ホワイト・アルバム』)は、ブラックパンサーの青年の警官殺し、『氷の上の魂』で時代の寵児となったエルドリッジ・クリーヴァーの訪問記、ドアーズのジム・モリソンのレコーディング風景、チャールズ・マンソン一家によるシャロン・テート惨殺事件などがスケッチされ、一九六〇年代アメリカの不穏な空気をもっとも鮮やかに伝えるコラム集として、ひときわ印象深い。

 

 しかし、『悲しみにある者』は、クールで鋭い時代観察者としての盛名を誇っていた彼女のそれまでの作品とはまったく趣きが異なる。

 ニューヨークのICU(集中治療室)で、一人娘のクィンターナが敗血症性ショックと肺炎で生死の境をさまよっているさなかの二〇〇三年十二月三十日、病院から帰宅して一緒に食事中の夫ジョン・グレゴリー・ダンが心臓発作に襲われて急逝する。そして、その翌年にはクィンターナが死去するのだ。

『悲しみにある者』は、ジョーン・ディディオン自らが主人公となり、愛する家族を相次いで失った耐え難いまでの喪失感とその心かき乱す悲哀の意味を、真摯に探究したノンフィクションなのである。

 巻頭で彼女は次のように宣言する。

 <この本で私がしようと思っているのは、その事の起きた後の時期の意味を理解することだ。私がそれまで抱いていた「死について、病について、蓋然性と巡り合わせについて、幸運と不運について、結婚と子どもたちと思い出について、悲しみについて、人々の命は尽きるものだという事実を扱ったり扱わなかったりする仕方について、正気であることの皮相さについて、そして命自体について」のいかなる固定観念をも解き放った、その事の起きた後の数週間、数か月間を理解することだ。>

 

 たとえば、ふたりの<死>の前後のなまなましい凄絶な記憶が喚起され、さらに、フラッシュバックのように、一九五〇年代の思春期、六〇年代、七〇年代の家族をめぐる甘美で至福に満ちた回想、情景が奔放かつ自在に流れ込んでくる。ジョーン・ディディオンの文体は、シュールレアリストのそれによく比較されるが、この本における「シークエンスをめちゃくちゃにし、今の私に浮かんでくる記憶のコマをすべて同時に読者に示す」ような独特のスタイルを自ら、映画の「編集室」に譬えているのは、むべなるかなと思う。

 

 というのも、ジョーン・ディディオンと夫の作家ジョン・グレゴリー・ダンの名前は、一部の映画ファンの間では、幾つかの話題作を手がけているシナリオライター・コンビとしてよく知られているからである。

 

 たとえば、バーブラ・ストライザンドが主演した『スター誕生』(76)、ジョン・グレゴリー・ダンの書いた小説が原作のロバート・デ・ニーロが主演した『告白』(81)、ロバート・レッドフォード、ミシェル・ファイファー主演の『アンカーウーマン』(96)と題名を挙げると、典型的なハリウッド作品が多いが、私がもっとも記憶に残っているのは、アル・パチーノが初めて日本で紹介された『哀しみの街かど』(71)という映画だ。

 

 ニューヨークを舞台に、中絶手術をして心身ともにボロボロになった少女(キティ・ウィン)とヘロイン中毒者の青年アル・パチーノが出会い、パチーノにひきずられるように彼女も麻薬の世界に堕ちていくという悲惨な話だったが、冷え冷えとした酷薄なニューヨークの風景をとらえたルックが目にしみるようで、当時、新鋭だったジェリー・シャッツバーグの監督作品としては、代表作『スケアクロウ』(73)よりも、私はこの小品のほうがはるかに好きだった。なによりも大都会の片隅で、怯えた小動物のようにちぢこまって生きているカップル、とくにキティ・ウインの繊細なカラス細工を思わせる透明感をたたえた美しい眼差しが忘れがたい。

 

『哀しみの街かど』は、一九七〇年代の半ば頃、名画座で出会って以来、その後、見ていないのだが、今、思えば、この孤独なカップルをみつめる独特のクールで親密な眼差しには、『60年代の過ぎた朝』などの一連のノンフィクションで、六〇年代カウンター・カルチャーの光と闇、若者たちの荒涼たる精神の内実をアイロニカルにとらえたジョーン・ディディオン独自のダブル・ビジョンが反映されていたような気がする。

 

『悲しみにある者』は二〇〇五年に刊行されるや、全米図書賞(ノンフィクション部門)を受賞し、ジョーン・ディディオンの著作としては稀有なことに大ベストセラーとなった。さらに、ディディオン自身が本書を劇化して、初演では彼女の親友ヴァネッサ・レッドグレーヴがヒロインを演じたことも大きな話題になった。その際の彼女のインタビューやヴァネッサの舞台の断片を、ユー・チューブで見ることができるが、老境を迎えても、ジャンルを横断して果敢に生きるジョーン・ディディオンの姿には感動を禁じ得ない。

 

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ジョーン・ディディオン著『悲しみにある者』(池田年穂訳・慶應義塾大学出版会)

 

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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