高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2011年11月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2011年11月アーカイブ

ラディカルな映画史家としての竹中労

 最近、新作『明日泣く』の公開に合わせ、内藤誠監督の書き下ろしのエッセイ集『偏屈系映画図鑑』(キネマ旬報社)を編集した。内藤監督の東映時代を中心としたメモワールだが、打ち合わせの際、竹中労がプロデュースした山下耕作監督の『戒厳令の夜』のヨーロッパ篇を、実は、内藤監督が撮る予定だったという話をうかがい、急遽、竹中労をめぐる思い出を書き加えていただいた。  

 

 というのも、近年、若松孝二の『時効なし』(ワイズ出版)、中島貞夫の『遊撃の美学』(ワイズ出版)といった映画監督の聞き書きによる回想録を読むと、プロデューサーとして関わった竹中労への激越な批判がなされ、長年のファンとしてはちょっとやり切れぬような複雑な想いを抱いていたからである。

 伊藤大輔監督が撮るはずだった『祇園祭』をはじめとして、竹中労が製作に関わった映画はなぜか必ずトラブルに見舞われるのである。恐らく、彼が夢想する、あまりに常軌を逸した映画製作へのロマンティシズムは、映画の現場というリアリズムの前ではもろくも潰え去ってしまう運命にあるかのようなのだ。

 

 今年は、竹中労の没後二十年に当たる。最近、『KAWADE道の手帖・竹中労没後20年・反逆のルポライター』なるムックも出たが、今、若い世代にとって竹中労はどのようなイメージでとらえられているのだろうか。

 

 私が竹中労の名前を初めて知ったのは、一九六〇年代の終わり頃、『話の特集』に連載されていた「メモ沖縄」によってである。まだ返還前の沖縄に現地取材し、そのアメリカ軍基地に占領された生々しい実態を活写したアジテーショナルな文体にすっかり夢中になり、一時は、竹中個人が発行していた「蝶恋花舎通信」なる小冊子まで定期購読していたほどだ。

 

 そして、一九七〇年代に入ると、いよいよ『キネマ旬報』で竹中労の渾身のライフワークともいうべき怒涛の連載「日本映画横断」と「日本映画縦断」が始まる。竹中労のすべての著作のなかで代表作といえるのは『傾向映画の時代』『異端の映像』『山上伊太郎の世界』の<「日本映画縦断」三部作>(白川書院)と『鞍馬天狗のおじさんは――聞き書きアラカン一代』(ちくま文庫)に違いないが、私は、一九七一年に始まった連載「日本映画横断」も竹中労の筆が冴えわたった傑作だったと思う。 

 

 第一回の「『儀式』と斎藤龍鳳の死」に始まり、「大川博の死と東映任侠路線」「無残なり佐藤重臣!」「黒澤明★一時代の終焉」「天使の?誤爆?をめぐって」「『夏の妹』と創造社」「大島渚を撃つ!」といった刺激的なタイトルを並べただけでも、一九七〇年代初頭の映画界の混沌とした状況が浮かび上がってくるかのようだ。

 とくに『儀式』のカンヌ出品問題をめぐって大島渚をゴシップ風におちょくった映画評論家の佐藤重臣を「このあわれな糞袋、佐藤重臣よ!」などと最大級の罵倒を重ねながら、ユーモラスに笑殺しきった竹中ブシには、思わず爆笑してしまった記憶がある。

 

一方で、その盟友であったはずの大島渚が『夏の妹』で沖縄を矮小化して描いたために、筆鋒鋭く批判し、さらに、訣別にいたるまでが、刻々と毎号、誌上でドキュメントされるのである。それは、まさに<ケンカ屋・竹中>の異名をとる竹中労の真骨頂であった。

 

 この白井佳夫編集長時代の『キネマ旬報』は、ほかにも山田宏一の「シネ・ブラボー!」、小林信彦の「架空シネマテーク」、渡辺武信の「日活アクションの華麗な世界」などの滅法面白い連載が目白押しで、毎号、狂喜しながら読んでいたものである。

 

ところが、一九七七年、当時、「キネマ旬報」のオーナーであった大物総会屋・上森子鉄が、突然、竹中を<左翼過激派>と称して、「日本映画縦断」の打ち切りを宣言し、白井佳夫も編集長を解任されるという事件が起きた。いわゆる<「キネマ旬報」事件>である。

 

竹中労は上森子鉄を相手取って裁判に持ち込み、一九八七年にはようやく和解に至るのだが、その間、竹中が映画について書く機会はめっきり減ってしまった。

 

その後、一九八〇年代に入ってから不定期刊の映画雑誌『ムービーマガジン』に、竹中労の「映画街縦断」という連載が始まった。今、手許にあるバックナンバーを眺めると、竹中の<サヨナラ「上板東映」>という長編レポートが載っている。この今や伝説となっている名画座にはずいぶん通いつめたものだが、竹中労の苛烈極まりない怒号が舞台で飛びかった、このオールナイト上映会には私も立ち遭っている。

 

その後、竹中労が、私の視界に大きく浮上してくるのは、一九九〇年代に入ってからのテレビの深夜討論番組においてである。当時、すでに肝臓ガンに冒され、余命数ヶ月と宣告されていた竹中労は、さまざまな時局的なテーマについて熱弁をふるったが、かつての過激な挑発的言辞は鳴りをひそめ、まるで孤高の名僧の説教を聴いているような静かで説得力のある語り口に魅了された。

 

その頃、私はビデオ業界誌『AVストア』の編集長をしていたが、猛烈に竹中労に映画のエッセイを書いてほしくなった。テーマはなぜか内田吐夢と決めていた。『日本映画縦断』シリーズが頓挫してしまった後、竹中労が最後に準備をしていた映画の本は『内田吐夢・評伝』だったはずだから。 

 

原稿依頼をすると、竹中労は快諾してくれた。そして、原稿が出来上がると本人から電話があり、「もし、よければ、テレビ討論のある夜にテレビ局まできてくれないだろうか、その時に、少し映画の話をしよう」と言ってくれたのだが、私の方でどうしても都合がつかず、結局、ファックスで送ってもらうことにした。

 

届いた原稿は傑作『妖刀物語・花の吉原百人斬り』についての見事なエッセイであった。そして、レイアウトされた初校のゲラが戻った時に、なによりも驚いたのは、竹中自らが、改行の手前、末字が一字だけはみ出した個所などをすべて訂正して丁寧に送り込み、少しでも活字が美しく整然と見えるように細心の配慮がなされていたことだ。この人は、こういう繊細な美意識の持ち主なのだとあらためて深い感銘を受けたのだった。

 

この原稿を受け取ってから三か月後、一九九一年五月十七日に、竹中労は亡くなった。

間違いなく、この美しいエッセイは、竹中労の映画に関する絶筆であるはずだ。

 

『キネマ旬報』のアクチュアルな連載「日本映画横断」、そして『ムービーマガジン』の「映画街縦断」をはじめ、竹中労が映画について書いた膨大な原稿は未だに単行本未収録のまま手つかずになっている。  

 これまでの旧弊な日本映画史を刷新してしまったラディカルな<映画史家>竹中労の偉大な業績を、今後、次の世代にどのように伝えていくのか。それは私のような同時代に彼により多大な恩恵を蒙った者に課せられた責務でもあると思っている。 

 

 

 

 鞍馬1.jpg

伝説のルポライター、映画史家だった竹中労

 

 

 鞍馬.jpg

竹中労の名著『鞍馬天狗のおじさんは――聞書アラカン一代』(ちくま文庫)

 

ジョーン・ディディオンによる<喪の仕事>

 ほんとうに久々だが、ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』(慶應義塾大学出版会)という新刊が出た。

 ジョーン・ディディオンといえば、カウンター・カルチャーが隆盛の兆しをみせていた一九六〇年代、サンフランシスコのヒッピーたちの生態を活写したニュー・ジャーナリズムの古典『ベツレヘムへ向け、身を屈めて』(筑摩書房)や、『60年代の過ぎた朝』(東京書籍)、そして『日々の祈りの書』(サンリオ)などの小説家として知られている。

 

 なかでも、ポーリン・ケイルの『今夜も映画で眠れない』、ノラ・エフロンの『ママのミンクはもういらない』などと共に「アメリカ・コラムニスト全集」の一冊として刊行された『60年代の過ぎた朝』(原著名は『ホワイト・アルバム』)は、ブラックパンサーの青年の警官殺し、『氷の上の魂』で時代の寵児となったエルドリッジ・クリーヴァーの訪問記、ドアーズのジム・モリソンのレコーディング風景、チャールズ・マンソン一家によるシャロン・テート惨殺事件などがスケッチされ、一九六〇年代アメリカの不穏な空気をもっとも鮮やかに伝えるコラム集として、ひときわ印象深い。

 

 しかし、『悲しみにある者』は、クールで鋭い時代観察者としての盛名を誇っていた彼女のそれまでの作品とはまったく趣きが異なる。

 ニューヨークのICU(集中治療室)で、一人娘のクィンターナが敗血症性ショックと肺炎で生死の境をさまよっているさなかの二〇〇三年十二月三十日、病院から帰宅して一緒に食事中の夫ジョン・グレゴリー・ダンが心臓発作に襲われて急逝する。そして、その翌年にはクィンターナが死去するのだ。

『悲しみにある者』は、ジョーン・ディディオン自らが主人公となり、愛する家族を相次いで失った耐え難いまでの喪失感とその心かき乱す悲哀の意味を、真摯に探究したノンフィクションなのである。

 巻頭で彼女は次のように宣言する。

 <この本で私がしようと思っているのは、その事の起きた後の時期の意味を理解することだ。私がそれまで抱いていた「死について、病について、蓋然性と巡り合わせについて、幸運と不運について、結婚と子どもたちと思い出について、悲しみについて、人々の命は尽きるものだという事実を扱ったり扱わなかったりする仕方について、正気であることの皮相さについて、そして命自体について」のいかなる固定観念をも解き放った、その事の起きた後の数週間、数か月間を理解することだ。>

 

 たとえば、ふたりの<死>の前後のなまなましい凄絶な記憶が喚起され、さらに、フラッシュバックのように、一九五〇年代の思春期、六〇年代、七〇年代の家族をめぐる甘美で至福に満ちた回想、情景が奔放かつ自在に流れ込んでくる。ジョーン・ディディオンの文体は、シュールレアリストのそれによく比較されるが、この本における「シークエンスをめちゃくちゃにし、今の私に浮かんでくる記憶のコマをすべて同時に読者に示す」ような独特のスタイルを自ら、映画の「編集室」に譬えているのは、むべなるかなと思う。

 

 というのも、ジョーン・ディディオンと夫の作家ジョン・グレゴリー・ダンの名前は、一部の映画ファンの間では、幾つかの話題作を手がけているシナリオライター・コンビとしてよく知られているからである。

 

 たとえば、バーブラ・ストライザンドが主演した『スター誕生』(76)、ジョン・グレゴリー・ダンの書いた小説が原作のロバート・デ・ニーロが主演した『告白』(81)、ロバート・レッドフォード、ミシェル・ファイファー主演の『アンカーウーマン』(96)と題名を挙げると、典型的なハリウッド作品が多いが、私がもっとも記憶に残っているのは、アル・パチーノが初めて日本で紹介された『哀しみの街かど』(71)という映画だ。

 

 ニューヨークを舞台に、中絶手術をして心身ともにボロボロになった少女(キティ・ウィン)とヘロイン中毒者の青年アル・パチーノが出会い、パチーノにひきずられるように彼女も麻薬の世界に堕ちていくという悲惨な話だったが、冷え冷えとした酷薄なニューヨークの風景をとらえたルックが目にしみるようで、当時、新鋭だったジェリー・シャッツバーグの監督作品としては、代表作『スケアクロウ』(73)よりも、私はこの小品のほうがはるかに好きだった。なによりも大都会の片隅で、怯えた小動物のようにちぢこまって生きているカップル、とくにキティ・ウインの繊細なカラス細工を思わせる透明感をたたえた美しい眼差しが忘れがたい。

 

『哀しみの街かど』は、一九七〇年代の半ば頃、名画座で出会って以来、その後、見ていないのだが、今、思えば、この孤独なカップルをみつめる独特のクールで親密な眼差しには、『60年代の過ぎた朝』などの一連のノンフィクションで、六〇年代カウンター・カルチャーの光と闇、若者たちの荒涼たる精神の内実をアイロニカルにとらえたジョーン・ディディオン独自のダブル・ビジョンが反映されていたような気がする。

 

『悲しみにある者』は二〇〇五年に刊行されるや、全米図書賞(ノンフィクション部門)を受賞し、ジョーン・ディディオンの著作としては稀有なことに大ベストセラーとなった。さらに、ディディオン自身が本書を劇化して、初演では彼女の親友ヴァネッサ・レッドグレーヴがヒロインを演じたことも大きな話題になった。その際の彼女のインタビューやヴァネッサの舞台の断片を、ユー・チューブで見ることができるが、老境を迎えても、ジャンルを横断して果敢に生きるジョーン・ディディオンの姿には感動を禁じ得ない。

 

 悲しみに.jpg

ジョーン・ディディオン著『悲しみにある者』(池田年穂訳・慶應義塾大学出版会)

 

« 2011年10月 | メインページ | アーカイブ | 2011年12月 »
著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
検索