高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2012年1月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2012年1月アーカイブ

伝説の映画批評家、内田岐三雄について

 最近、必要があって、戦前の映画雑誌を資料として読むことが多いのだが、とても癖の強いユニークな文体を持つ映画批評家がいたことに気づく。たとえば、淀川長治がもっとも畏怖したと言われる、黄金期の『新青年』で「シック・シネ・シック」なる才気煥発な映画コラムを書いていた南部圭之助とか、吉原帰りに立ち寄った浅草のコヤで、偶然、『抱き寝の長脇差』を見て、天才監督山中貞雄を発見した岸松雄などである。

 

 その岸松雄の『日本映画人傳』(早川書房)は、往年の映画監督、脚本家、俳優たちの魅力的な素顔を描いた交遊録というか独特の味わいのあるポルトレ集で、私の愛読書のひとつである。その中に、ひとりだけ内田岐三雄という映画批評家が入っている。

 

 岸松雄が活き活きと描いたように、内田岐三雄はさまざまな逸話で彩られている伝説の映画批評家で、明治三十四年(一九〇一年)生まれ。幼少期から映画狂いが始まり、府立四中から一高に入る頃には、海外の映画雑誌を読み漁るようになった。すでに、当時、創刊一周年を迎えたばかりの「キネマ旬報」の同人になったというから、かなりの早熟である。

 

東京帝大法学部に入学し、やはり同じく映画狂だった飯島正と知り合い、意気投合、彼に「キネマ旬報」同人になるように勧めたのも内田岐三雄である。

飯島正も、その美しい回想録『ぼくの明治・大正・昭和』(青蛙房)の中で、「この偶然によって、ぼくの映画文筆の仕事の未来は、決定したのである」と書いているほどだ。

 

内田岐三雄は昭和五年から数年間、パリに遊学するが、当時、全盛をきわめたヨーロッパ映画、さらにシュルレアリストたちの手になる日本未公開の前衛映画を見まくったのは、大きな転機になった。松本俊夫さんが、戦後、まもない時期に、古い映画雑誌に載った内田岐三雄訳によるルイス・ブニュエル+ダリの『アンダルシアの犬』のシナリオをむさぼるようにして読んだと回想したエッセイを読んだことがある。

 

内田岐三雄は、小津安二郎のデビュー作『懺悔の刃』を高く評価したことで知られる。さらに、六作目の喜劇『肉体美』を絶賛し、「これは、監督小津安二郎の心境である。……それは、一種の<微笑まれたる侘しさ、やるせなさ>である」と書いた。これは、後期小津の名作群にもあてはまるような先見性を持った卓越した批評ではないだろうか。

 

小津自身も後年、「自作を語る」のなかで次のように語っている。

「当時の旬報に、内田岐三雄がこの作品に名文の批評を書いてくれてね、まだ覚えているよ。自分でも、映画はこういうふうにやればいいのだな、と見当がついて来たんだね」

 

 とりわけ、内田岐三雄の功績で特筆すべきは、あの伝説の女優、及川道子を清水宏に紹介し、清水の『不壊の白珠』でデビューさせたことだろう。数年前、フィルムセンターで、このサイレント映画を見たことがあるが、及川道子は眩いばかりに美しかった。

 

 最近、近所の古本屋で、その内田岐三雄の『欧米映画論』(昭和十年刊、書林絢天洞)を格安で見つけた。しかも、葦原英了への著者献辞付きである。

 第一章が「前衛映画」、第二章が「ルネ・クレール」、第三章が「アメリカ映画」、第四章が「欧米映画雑記」という構成になっており、第一章で取り上げられているアルベルト・カヴァルカンティの『時の外何物もなし』やジャン・ヴィゴの『ニースについて』などの論評は実際に作品を見ているから、その臨場感にあふれた記述には説得力がある。

 

しかし、この映画評論集で、私がもっとも心を惹かれたのは、「欧米映画雑記」の章である。これまで聞いたこともないようなサイレント時代のチェコやポーランド・ベルギー、スウェーデンなどの東欧、北欧映画の作品評が載っているのだが、内田岐三雄は、まるで、あたかも、その情景が眼の前に浮かんでくるように再現する、端倪すべからざる筆力があるのだ。

 

たとえば『トニシェカ』というカレル・アントン監督のチェコ映画の評論を読めば、田舎の村から都会に出て、娼婦に落ちぶれ、初恋の男とも別れさせられて、失意のどん底で息絶える薄幸のヒロインを演じたイタ・リナという女優のことが忘れられなくなってしまうだろう。この一文は、『視覚的人間』(岩波文庫)でベラ・バラージュがアスタ・ニールセンに捧げた熱烈なオマージュに匹敵すると思う。

 

私がサイレント時代の作品でもっとも見たいと思っている『エロチコン』という映画がある。伝説の女優ヘディ・ラマールがオール・ヌードになった問題作『春の調べ』で一躍センセーショナルな話題をさらったグスタフ・マハティの作品で、日本ではあまりにエロティックなために未公開となったと言われる幻の映画なのだが、内田岐三雄は、そのクライマックスを次のように書いている。

「……筋としては大したことはないのだが、前記の雨に降りこめられた小屋の内で娘と青年とが愛の一夜を過ごすという場面が、マハティー一流の大胆で徹底した、強烈な描写なのである。隣り合った二室のベッドの上で互いに転々反側して欲望に悶える二人の描写から遂に二人が抱き合い、それから二人の歓喜の姿が互いの頭部と顔のアップを以って現される、――という場面がこれで、これは『春の調べ』で妻が小屋に他の男を訪ねてから歓喜の一夜を送る場面と、正しく匹敵するものである。それから此の『エロチコン』で、も一つの大胆な描写があるのは、娘が男の胤を宿して、それを産み落とすときのものである。……主役の女に扮するのはチェコスロヴァキアの最大の女優と称せられるイタ・リナで、『春の調べ』のヘディー・キースラーの如くに豊麗な姿態をし、それに更に鋭い表情と、うずく様な肉欲をそなえた、演技も立派な素晴らしい女優である」

 

 この刺激的な一文を読めば、『エロチコン』という映画がますます見たくなるが、と同時に、ジャン・ヴィゴの名作『アタラント号』で別れたディタ・パルロとジャン・ダステがそれぞれのベッドでお互いのイメージを抱きあい、身悶えながら何度も寝返りを打つ姿をカットバックでとらえた官能的なシーンを思い浮かべないだろうか。

 もしかしたら、ジャン・ヴィゴは、『エロチコン』を見て、あの名状しがたいエロティックな情景を創造したのではないかと妄想に耽ったりもするのである。

 

 内田岐三雄は、終戦の年、松竹大船を辞めて、京浜地方の軍需工場に務めていたが、七月三十日、工場を休み、平塚の妻の実家にいた。空襲警報が鳴り、妻子だけを防空壕に避難させた内田は本を整理すると言って座敷に留まったが、そこへ爆弾が投下された。爆風で家は潰れ、その下敷きになった彼の上に敵機が猛烈な機銃掃射を浴びせて去った。享年四十四歳。

「大変惜しい男だった」と小津安二郎は嘆いたそうである。

 

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内田岐三雄著『欧米映画論』(昭和十年刊、書林絢天洞)

 

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松竹蒲田撮影所を訪れた内田岐三雄、左は談笑する田中絹代

エノケンの弟子としての内藤陳

 暮れも押し迫った十二月二十八日、内藤陳さんが亡くなった。新聞の訃報記事では日本冒険小説協会会長、『読まずに死ねるか!』シリーズの書評家としての活躍ぶりがクローズ・アップされていたが、たしかに「トリオ・ザ・パンチ」全盛期のコメディアンとしての彼を知るのは、恐らく私の世代ぐらいが最後ではないだろうか。 

 

 内藤陳さんがエノケン(榎本健一)の最期の弟子であったことは一部では知られているが、実際にどのような師弟関係にあったのかは不分明なままである。そこで、ふと、昔、『月刊イメージフォーラム』(一九八三年四月号)で「喜劇 笑いのアクション」という特集を組んだ時に、内藤陳さんのロング・インタビューに立ち遭ったことを思い出した。 

 

聞き手は初代編集長で内藤陳さんと親しいかわなかのぶひろさん、編集長の服部滋さんで、私はテープお越し要員みたいなものだったが、今、読み返してみると、エノケンと舞台への深い愛情が伝わってくる、出色のインタビューである。

 

たとえば、次のような発言には、当時の「MANZAI・ブーム」をクールに観察している内藤さんの視点が光っている。

「今のテレビ育ちのコメディアンの方は、恐らく徐々に全部駄目になっちゃうと思うんですよね。俺たちは舞台の空間を動き、蹴り、飛び上がりしてやったでしょう。毎日が客相手の舞台だから、毎日試行錯誤しながら、よりいいお笑いにもっていけるわけね。だって少なくとも毎日一回は駈け上がってサービスするとか、一回はその辺からボーンとジャンプして正座したまま坐るとか、遊べたものね。それはそのコメディアンが毎日稽古してるのと同じだからね。だから、未だにやれるんじゃない。」

 

 さらにエノケンの芸は継承されるのかどうかという問いに対しても。

「したいですね。したいけど残念ながら時代が悪いですね。……中略……親父がもっていた親父の笑いと僕のねらっているのとは違うけど、基本的な精神だけはね。それから、そんなカッコいいことを言ってるけど動けることも事実だっていう自信もあるしね。だから早くヨボヨボにならないうちにもっと頑張らなくちゃいけないんだけど、飲んべえだし、ものを食わないし、本が好きだし(笑)、なにしろコメディアンが本を読んでいると不思議に思われる時代だから(笑)」

 

 一九六〇年代当時、日劇ミュージックホールで人気絶頂だった「トリオ・ザ・パンチ」のコントにも、その精神は注入されていたとおぼしい。

「僕はだからもし(お客が)お判りにならなくてもいいと――、例えば、フィリップ・マーロウの台詞ね、それから007の動きね。それからジョン・フォードの西部劇の詩情、男の魂ね。ちょっとオーバーだけど、そういうものをひっくるめて映画的手法で演ってましたね。」

 

 このインタビューを終えた後、新宿ゴールデン街にある内藤陳さんが経営するバー「深夜プラスワン」に連れて行かれた。その後も何度か顔を出すようになったが、この時期の「深夜プラスワン」は北方謙三や矢作俊彦が常連でカウンターに居座っており、喧喧諤々の議論も日常茶飯事で、全国各地から冒険小説ファンが聖地巡礼のように集まる、一種の聖域のようなアウラが漂っていた。カウンターの中にはバイトでまだ学生だった坂東齢人がいて、並み居る作家たちに議論を吹っかけていたのをよく憶えている。後に『不夜城』で鮮烈なデビューを飾ることになる馳星周である。

 

 最後に内藤陳さんに会ったのは、二〇〇九年四月、新宿で開催された「イメージフォーラムフェスティバル」である。かわなかのぶひろさんの新作『酒場♯「汀」渚ようこ新宿コマ劇場公演「新宿ゲバゲバ・リサイタル」』が上映された時のことだ。この作品は、前年に、閉館が決まった新宿コマ劇場で念願のコンサートを実現させた歌手渚ようこさんの舞台裏を独自の視点で追ったドキュメンタリーである。内藤陳さんは、この舞台で十八番である西部劇の早撃ちコントを披露しているのだ。

 この上映の後に、かわなかさんと渚ようこさん、内藤陳さんのトーク、さらに渚ようこさんのミニ・ライブもあり、映画『連合赤軍・あさま山荘への道程』で流れた、「ここは静かな最前線」が聴けたのも嬉しかった。

 

 トークが終わって、ひさしぶりに会ったかわなかのぶひろさんに挨拶したところ、「これから打ち上げがあるからつきあわない?」と声をかけてくれたので、参加することにした。渚ようこさんとも初めて話したが、伝説のジャズシンガー安田南への憧れを滔々と語っていたのが印象的だった。遅れて来た世代である彼女は、林美雄の「パック・イン・ミュージック」はリアルタイムでは知らないものの、サブ・カルチュアが最も輝やいていた一九七〇年代への熱い想いがうかがえた。

 

 すっかり酔いが廻り、終電の時間も過ぎてしまって、これは長丁場を覚悟しなければならないな、と思ったところで、かわなかさんが「陳さんが待っているから、これから『深プラ』へ行こう」と言い出し、二十年ぶりぐらいに『深夜プラスワン』へ顔を出した。

この頃、内藤陳さんは、すでに食道ガンの告知をされていたはずだが、いたって、お元気な様子だった。昔のように、客を恐持てで諭すようなこともなく、カウンターの向こうで、グラス片手に柔和に微笑んでいた。

 その夜は、延々とゴールデン街のお店をハシゴする癖のあるかわなかさんとも、いつしかはぐれてしまい、最後は渚ようこさんの経営する「汀」に流れて、酔った勢いで、渚さんに「あなたは荒木一郎の「めぐりあい」と石原裕次郎の隠れた名曲「憎いあんちくしょう」をレパートリーに入れるべきです」などと話したのを憶えている。

 

 内藤陳さん独特のダンディズムあふれる笑いは、『月刊イメージフォーラム』でインタビューした時代には、すでに時流とは合わなくなっており、そのギャッップをめぐる絶望の深さが『深夜プラスワン』の経営や冒険小説への耽溺に拍車をかけたのかもしれない。

 その意味では、かわなかさんが撮った実験的ドキュメンタリー『渚ようこ「新宿ゲバゲバ・リサイタル」』は、内藤陳さんのコメディアン・舞台人としての最期の雄姿が見られる貴重な映像作品でもある。この映画は、この年の山形ドキュメンタリー映画祭でも上映され、好評を博したはずだが、以後、都内でも上映される機会が少ないようである。追悼の想いも込めて ぜひ、見てみたいと思う。

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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