2020.07.27熊井啓・明子夫妻

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熊井啓(くまい けい)・明子(あきこ)夫妻

・創刊間もない頃の月刊『清流』を繰っていて、「夫婦で歩む人生」に熊井啓(1930―2007年)・明子さんご夫妻にご登場頂いたことを思い出した。お二人は長野県松本市出身である。僕は信州には何か不思議なご縁を感じている。以前、ここでも書いたことがあるが、家内が松本市の出身であるし、僕も戦時中、信州は上田市に近い塩尻という所に疎開していたことがある。大好きなクラシック音楽でも、松本は思い出深い。毎年、紀尾井ホールで聴いている天満敦子さんとごく親しく、松本での天満さんのコンサートをプロデュースしていた石川治良さんが松本の三城にお住まいだし、「セイジオザワ松本フェスティバル」は1992年、指揮者の小澤征爾さんが創立したものだが、毎夏、松本市で行われていた。「サイトウ・キネン・オーケストラ」を指揮した、小澤征爾さんの演奏会チケットが思いがけず手に入り、勇躍、駆け付けて至福の夕べを過ごしたこともあった。松本は盆地であり、標高が670メートル前後と高い。真夏でも湿度が低いのでとても過ごしやすい。年を取るにしたがって、暑さが身に応えるようになった僕には、信州の涼しさはとても魅力的に思え、何度でも訪れてしまうのだ。

・春の選抜高校野球、夏の選手権大会など、高校野球も好きでよくテレビで見ていたものだが、松商学園など長野県の代表チームをつい応援している自分に気づき、我ながら苦笑したものだった。右半身不随となってしまった今は、そう簡単に行けなくなったが、温泉好きの僕がお薦めしたいのは、松本市入山辺の「扉温泉」である。扉温泉の由来は、天の岩戸を開いた天手力男命(アメノタヂカラオ)が戸(扉)を戸隠神社に運ぶ途中、ここで休んだという神話に由来する。「東の扉」「西の白骨」とも言われ、胃腸病を治す名湯としてもよく知られている。僕が一番好きな温泉といっていい。松本駅から車で40分ほどの薄川に沿った閑静な山の中にある温泉で、宿は「明神館」1軒だけである。この明神館から見る緑滴る山の景色、和洋料理も温泉の質も実に素晴らしい。僕が敬愛してやまない清川妙さんも、この温泉をこよなく愛し、よくこの明神館に泊まって、原稿を書いておられたのを懐かしく思い出す。

・映画好きだった僕は、大学卒業時、ダイヤモンド社の他に映画会社の東映も受験し受かっていた。銀幕の世界にも大変興味があり、映画制作に携わってみたいという強い思いがあった。だから東映の役員面接の際、事実上の創業者であった大川博氏を前にして「僕は製作をやってみたいんです」などと大言壮語してしまった。これに対して大川氏は、半ば苦笑しながら、「君、製作は僕の仕事だよ」と言ったものだ。それほどの映画好きだったから、熊井啓さんは気になる監督の一人であった。作品もほとんど観ている。

・熊井啓さんの監督としてのデビュー作は、日活時代に自作オリジナル脚本による『帝銀事件・死刑囚』(1964年)であった。戦後間もない1948年に起きた、帝国銀行椎名町支店(僕の実家に近い)の行員毒殺事件を入念に再検証し、犯人とされた平澤貞通を無罪とする視点で、事件経過をドキュメンタリータッチで再現した野心作であった。明子夫人は、新婚間もない頃、この映画の資料集めや企画書の清書などで監督に協力している。現代のようにコピーなどという便利なものがない時代である。熊井監督が借り出してきた裁判記録を、明子夫人が全部手書きで書き写したのだという。腕が腫れ上がるほどの作業だったというから、相当な重労働であったはずだ。しかし明子夫人は、資料を筆写しながら、事件の真実や確固たる考証を求めるために、懸命になっている監督のスタンスに感銘を覚えたというという。名実ともに最高のコンビだったわけだ。お二人は、松本深志高校、信州大学の先輩・後輩であり、監督が明子夫人より10歳年上で、監督が文理学部、明子夫人が教育学部の出身であった。


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「夫婦で歩む人生」

・二人はお見合い結婚で、結婚したのは1962年だった。熊井監督の母堂と明子夫人の祖母が、松本の女子師範学校の同級生だったのがご縁の始まり。信州大学を卒業後、明子夫人は長野県内の清内路村という僻地で小学校の先生をしていた。見合いから結婚までは約1年ほどだったが、遠距離恋愛ということもあり、この間、会ったのは2回だけだった。監督は明子夫人の勤務先の小学校に宛て、毎日のように速達で近況と雑感を書き送った。明子夫人は、「田舎の小学校のことですから、速達というと何かあったのか、と郵便局員が血相を変えて配達にくるわけです。『もし返事があるなら預かっていきますよ』などと、親切な申し出を受けたりしました」と笑った。当然ながら、恋人からの手紙らしいと分かってからは、郵便局員もそんな対応はしなくなったというが。

・熊井啓監督は安曇野市の名誉市民となっている。現・安曇野市豊科町に生をうけ、映画監督として日本の映画界に多大な功績を遺してきた。前述した『帝銀事件・死刑囚』で映画監督デビューを果たしてからも、『日本列島』(1965年)、『サンダカン八番娼館――望郷』(1974年)、『日本の熱い日々――謀殺・下山事件』(1981年)、『日本の黒い夏――冤罪』(2001年)といった日本の近現代における社会問題や社会事件を主題とした作品を世に問うてきた。社会の裏側の隠れた真実を、綿密な調査によって白日の下に晒す作品であった。これらの作風から骨太な「社会派映画監督」として高く評価されている。熊井監督は日活を退社してフリーになったが、退社の背景には、三船プロと石原プロが組んだ『黒部の太陽』の監督を引き受けたことにある。当時、映画界には五社協定というものがあり、それに違反するからと、日活が監督を降りるようクレームをつけたからだった。


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DVD版『黒部の 太陽』のポスター

・『黒部の太陽』(1968年)は、石原裕次郎氏(石原プロ)、三船敏郎氏(三船プロ)を主演に、黒部峡谷に黒部第四ダムを建設するまでの壮大なドラマであった。世紀の大工事といわれた黒四ダム工事は、大自然との闘いの連続でもあった。軟弱な花崗岩帯にぶつかり、山崩れと大量の水が何度も切削中のトンネルを襲う。そんな難関を突破して、北アルプスを抜いてトンネルが開通するまでを描いている。石原裕次郎氏は、52年の生涯で100本近い映画に出演したが、最も印象深い作品として、やはり『黒部の太陽』を挙げている。「五社協定」のぶ厚い壁に阻まれて苦戦を強いられ、それを乗り越えて完成させることができたという経緯に加え、破砕シーンのロケ現場で右手親指を骨折、全身打撲の大けがを負った。そんな命がけのロケだったからである。

  その後も、『忍ぶ川』(1972年)、『天平の甍』(1980年)、ベルリン映画祭銀熊賞受賞作の『海と毒薬』(1986年)、ベネチア国際映画祭銀賞受賞作の『千利休――本覚坊遺文』(1989年)、『深い河』(1995年)、『愛する』(1997年)など、意欲的な作品群を撮り続けた。日本の文芸作品を主たる原作として、人間の生と死の深淵を見つめ、私たちに生きることの意味を問いかけてくる。こうしたキャリアに対して、熊井監督は紫綬褒章も受章している。

・しかし、フリーランスになった当初の生活は不安定で、『地の群れ』を撮った時は、フィルム代にも事欠く情況だったという。しかし、明子夫人はまったく意に介さなかった。それが有り難かったと監督は後に述懐している。『忍ぶ川』のクランクイン直前には、監督が出血性胃炎で倒れ、危篤状態に陥ったこともある。眠気覚ましに煙草を吹かし、ウイスキーを飲みながらシナリオを書く日々だったというから、胃腸も爛れてしまったのであろう。吐血して救急病院に運び込まれ、「99パーセント助かりそうもないから、身内の人を呼びなさい」と医者に言われたというが、明子夫人は誰にも知らせなかった。親戚の人たちがベッドの回りに顔を揃えたら、彼はショックを受けて、助かるわずかな可能性さえ無くしてしまう、との判断だったという。僕はこの話を聞いて、腹の座り方がまるで違うと驚嘆させられたものだ。

 
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熊井啓記念館(豊科交流学習センター「きぼう」内)

 
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1998年刊行

 
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2008年刊行

・明子夫人にはハーブにまつわるエッセイを中心にした『こころに香る詩』(1998年)という本を出させて頂いた。そして2008年、熊井監督の一周忌に間に合わせるよう編集作業を急がせたのだが、熊井監督が本文中の全写真撮影を、そして明子さんが文章を書いた『シェイクスピアの故郷――ハーブに彩られた町の文学紀行』という夫婦合作本を弊社から刊行することができた。熊井ご夫妻が、生涯で唯一の共著書であった。明子夫人に大変喜んでいただけたので、出版部の面々が強行日程で頑張ったのも報われた思いがした。

  実は、この本の編集・制作過程での副産物がある。明子さんにお聞きしたのだが、僕はご夫妻の熱い絆に心底驚かされた。というのは、仲良し夫妻といえども、当然のことながら夫婦喧嘩をすることもある。そんな時に、熊井監督はよく、「来世で結婚してやらないからな」と言っていたのだという。この言葉が仲直りするための殺し文句になるとは、僕にはまったく考えられない。夫婦間にいかに深い絆が結ばれていたかが、よく分かろうというものだ。僕などどちらかといえば、好き放題してきて、家内に愛想尽かしをされかねない。まるで月とスッポンである。安曇野市豊科町には、熊井啓監督の記念館がある。松本を訪れる機会があったら、穂高町の碌山美術館とともに、是非、再訪してみたいと思っている。