2020.03.24フジコ・ヘミングさん

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2002年 弊社刊

・先日、NHK総合テレビで放送された「ファミリーヒストリー」は、人気ピアニスト、フジコ・ヘミングさんの家族史が取り上げられた。フジコさんについては、弊社から『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』(2002年)を出版させていただいたこともあり、人一倍思い入れが強い。僕は根っからのクラシックファンだが、フジコさんのピアノ演奏にはいつも感動させられる。フジコさんの魅力をひと言でいうのは難しい。彼女しか醸し出せない独特の音楽世界に誘われるとでもいったらいいのか。フジコさんに、一番大事にしているものを訊ねたとき、こう答えている。「それは“音”。私だけの“音”よ。誰が弾いても同じなら、私が弾く意味なんかないじゃない」。この言葉に彼女のアーティストとしての矜持が、すべて表れている。極端なことをいえば、フジコさんは譜面通り、完璧を目指して弾こうとしているのではない。
 時にはミスタッチもあるかもしれない。自身、こう言っているほどだ。「私よりもテクニックのうまい人はいくらでもいる。ピアニストの中には、ただ正確に弾くことだけを考えている人が多いわね。でも、はっきりいって、そういう音楽には芸術性はないと思う」。そして天才については、「世間では才能を羨む人がいるけれど、才能とは要するに”独断的な個性が強く、偏った考え方をする”ということでもある。だから往々にして才能は孤独で、社会からは受け入れられない。ある意味で才能に恵まれるということは、不幸なことかもしれないわね」。天才なるがゆえにぶち当たる高い壁、僕はなるほどなあと腑に落ちたのだった。
 
・フジコさんの本づくりに関しては、担当編集者の臼井君に聞いたことがある。完成までには色々と紆余曲折があったようだ。例えば、ヨーロッパの本に慣れているフジコさんは、カバーは捨ててしまってもいいもので、表紙が一番大切と考えている。これは僕もフランスにしばらく滞在したことがあるのでよく分かる。しかし、日本では、表紙はモノクロ印刷でカバーがカラー印刷というのがごく一般的だ。結局、臼井君はコスト高になるけれども、表紙・カバーともにカラー印刷にした。また、帯(本の腰巻)も苦心して売るためのキャッチコピーを考え、デザイナーの西山孝司さんが純白の帯に洒落た文字を乗せたデザインをしてくれたのだが、フジコさんは気に入らなかったようだ。「本は中身を見て納得して買ってもらえればいい、惹句に魅かれてという売り方はしたくない」というフジコさんの意見を勘案して、帯は無しでの刊行となった。
 しかし、この本は30刷を超えるヒット商品となった。すべて結果オーライである。ハンディな新書版の上製本にしたこと、また装画、本文中の猫のイラストなど、すべてフジコさんご本人が描いたものであり、お洒落な本になったのも良かったようだ。出版評論家・井狩春男さんが絶賛してくれたことも大きかった。書評を大手新聞・雑誌等のほか、ご自身の著書でも紹介してくれたのである。その他、共同通信社が地方紙に書評を配信してくれたこと、また、全国各地の生協ルート、フジコさんのコンサート会場での販売、5冊、10冊と自分で購入して、友人・知人にプレゼントしたという人も多かった。通常の書店ルート以外で、これだけ動いた本は他にはない。僕は、コンサート会場で直接、フジコさんの演奏を聴いて、真のアーティストに触れてほしいとの気持ちから、弊社の社員はもちろん、ライターや外部編集者なども含め、よくコンサートに行ったものだ。
 
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2005年 弊社刊

・コンサート会場以外でも、フジコさんにお会いしたことがある。華道家・假屋崎省吾さんの著書『假屋崎省吾の暮らしの花空間』(2005年)を弊社から刊行させていただいたのが縁で、假屋崎さんのブライダル・ファッションショーなどに招待され、担当編集者とよく出かけたものだ。ある時、ファッションショーのゲストとしてフジコさんが登場したことがある。假屋崎さんは大のクラシックファンで、花を活けているときもよく、クラシック音楽を掛けている。特にピアノ曲がお好きなようで、ご自身もピアノ曲をよく弾くという。そしてフジコ・ヘミングさんの大ファンでもあった。恐らくそんな経緯から、ショーのゲストに招聘したのであろう。
 人気者のフジコさんが登場すると、会場の空気は一気に熱を帯びた。観客は少しでも前へ前へと押し合いへしあいしていたが、僕は車椅子だったので、舞台そでから見上げるような位置取りで、フジコさんの演奏を聴くことができた。あの奇跡の『ラ・カンパネラ』(フランツ・リスト)とグリーグのピアノ協奏曲を熱演してくれた。そして演奏を終えて、降壇してきたフジコさんは、真っ先に僕を見つけると近寄ってきて、しっかりと握手をしてくれた。あの手の温もりは今でも覚えている。僕にはいい思い出である。

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フジコ・ヘミングさんと假屋崎省吾さん


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假屋崎さんと僕 担当編集者の秋篠貴子

・番組では、フジコさんの才能を誰よりも信じ抜いた母堂・大月投網子(おおつき・とあこ)さんの執念がついに結実して、フジコさんが晩年近くに大ブレークするまでを追う。投網子さんは、明治36年に大阪で生まれている。父親は明治初頭に国産炭インキを発明した会社(現・東洋インキ)の創業者であった大月専平さんである。フジコさんにとって、祖父に当たる専平さんのインキ製造業の成功により、投網子さんは裕福な家庭で育った。
 明治時代、大阪に暮らす個人宅では珍しい高価なピアノが家にあり、幼いころから慣れ親しんでいた。投網子さんは、さらにピアノの演奏技術を磨きたいとの思いから、音楽教育の最高峰・東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を目指す。当時、競争率が約7.5倍という難関を潜り抜け入学。厳しい試験を乗り越え、無事4年で卒業し、実家の支援を受け24歳のときにドイツ留学を果たしている。投網子さんは、留学時代に当時最高のピアノの一つと言われた「ブリュートナー社製」のピアノを購入し、日本に持ち帰っている。このピアノは現在も現役で活躍している。フジコさんが自宅での練習用に今も使用しているのだ。
 
・留学中のベルリンで投網子さんは、7歳年下のスウェーデン人 ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんと出会う。ドイツに留学してから4年目のことだった。生まれたフジコさんのファミリーヒストリーは浮沈変転、苦難の連続であった。ドイツでフジコさんが生まれて間もなく、ナチスが勢力を拡大し、自由な芸術活動をするのにさまざまな影響が及び始めるなか、家族は日本で暮らすことを決断する。ドイツでデザイナーとして活躍していたジョスタ・ゲオルギー・ヘミングさんだったが、日本では思うような仕事ができなかった。
 生活に行き詰まった夫婦は口論が絶えなくなり、ジョスタさんは戦争の気配が漂う日本での慣れない暮らしに見切りをつけ、妻と2人の子どもを残してスウェーデンに帰国してしまう。投網子さんはジョスタさんと別れ、幼い子どもたちを一人で育てていく決意を固めたのである。投網子さんは、フジコさんが5歳のとき、何気なく弾いたピアノの音色に驚いてその才能に着目し、ピアノを教えるようになった。それからの投網子さんのレッスンは、スパルタ式の厳しいものだった。
 
・疎開先の岡山県にある、フジコさんの通い始めた小学校には、国産のグランドピアノがあった。戦時中であっても投網子さんは学校に掛け合い、そのピアノでフジコさんが早朝と夕方に練習ができるように頼み込んだ。フジコさんが弾いていたピアノは、今でも総社市立昭和小学校で使われているという。昭和20年、フジコさんが13歳のときに疎開先の岡山県で終戦を迎える。戦前に援助してくれていた投網子さんの大阪の実家は空襲により焼失してしまう。一家の生活は苦しさを増していく。そんな状況下でも投網子さんはフジコさんにピアノを続けさせた。
 フジコさんは16歳のときに、中耳炎をこじらせ、右耳の聴力を失う。それでも聞こえる左耳を頼りにピアノの練習を続けた。母と同じように東京藝術大学に進み、ドイツ留学を目指していた矢先、自身、無国籍者であったことが判明する。29歳になって、避難民としてようやく留学することができた。僕は以前、彼女の壮絶な人生を描いたNHKドキュメント、ETV特集「フジコ―あるピアニストの軌跡」(1999年放送)を観たことがあるが、とにかく彼女の人生は一筋縄ではいかない。
 
・バーンスタインがその才能を認め、後押しがあり、コンサートデビューする直前、風邪をこじらせて聴力をすべて失う。1週間、砂糖水で過ごすというような貧乏体験をし、灯油を買うお金もなく、風邪を引いて聴力を失ったのである。耳が聴こえずしてまともな演奏ができるはずもない。リサイタルは惨憺たる結果に終わった。うちひしがれ絶望の中でどうやって暮らしていけばいいのか。ピアノを弾くことよりなにより、今日食べるために働かなければならなくなった、その胸中は察するに余りある。
 平成5年、投網子さんが亡くなってから日本に帰国したフジコさん。テレビで放映されたのがきっかけで、一夜にして有名人になった。遅咲きの60代で大ブレークし、88歳となった今も世界各地のステージに立ち、人々を魅了し続けている。今も左耳だけ、それも普通の人の30%しか聴こえない。そんなどん底体験を経てブレークした。それだけに今も心に残るフジコさんの言葉がある。
 
《どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから。》
 
 山あり谷あり、苦節60年の苦労人だからこそいえる、珠玉の言葉ではないだろうか。