2020.02.21加藤日出男さん

 

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ポール・ボネ、この外国人は誰? と当時は騒がれた! 実は作家・評論家、藤島泰輔(ジャニーズ事務所副社長メリー喜多川の夫)さんのペン・ネームだ。今は、ようやく堂々と言える。僕の大好きなポール・ボネ、いや藤島泰輔さん!

 

 

・僕は自分の人生を振り返って、つくづく「僕は凡人だったが、周りの人には恵まれていた」との意を強くする。大学時代は、フランス文学者の山内義雄先生の薫陶を受けた。また、今でも僕が一番尊敬する椎名其二先生の謦咳に接することもできた。在仏40年の椎名其二先生が日本へ一時帰国された時、直にフランス語や何が人生にとって大事かを教えてくださったのだ。このお二人とお近づきになれたのは、僕が大学生になったばかりの18歳のころだ。お二人はもう70歳に近かったはず。いまにして思えば、奇跡のような出会いだったというしかない。また、大学の部活では、下懸宝生流(ワキ宝生)能楽師の宝生弥一師、宝生閑師の両人間国宝から謡を習った。夏目漱石さんが幸運にも同流を学んでいたお蔭で漱石の門下生である安倍能成、野上豊一郎、野上弥生子、服部嘉香の各氏とも交流することができた。卒業後は、経済雑誌の老舗の一つ、ダイヤモンド社に入り、取材記者を皮切りに雑誌部門や出版局も経験し、出版業界一筋に歩いてきた。その間、石山賢吉、荒畑寒村、星野直樹各氏と幸運にもお近づきになれた。左翼、右翼と関係なく、幅広い人脈が僕の前に現れた。また、雑誌の取材や原稿依頼、単行本企画などで、多くの著名な方々にお会いする機会を得た。今でも思い浮かぶ。まだ立教大学助教授で新進気鋭の文学者だった辻邦生さん、大宅マスコミ塾のメンバーだった草柳大蔵さんに初めてお目にかかったのも記憶に新しい。草柳さんは、週刊誌のアンカーマンとして八面六臂のご活躍をされていた。その後、僕は51歳でダイヤモンド社を定年前に退社し、紆余曲折があった末に、清流出版を創業した。その小さな出版社も、すでに創業以来、20数年という時を経ている。実に半世紀以上にわたり出版界でお世話になった。お会いした方の中にはすでに鬼籍に入られた方も多い。現代の日本は羅針盤がない漂流船のようなもの。さまざまな案件が山積していて、先が見通せない状況だ。そこで泉下にある人に、今もし、生きておられたらどんなお考えをお持ちか、ご意見を拝聴できないかと夢想したものだ。

そのお一人が藤島泰輔(1997年没。享年64)さんだ。藤島さんは僕にとって、よきアドバイザーであり、著者でもあった。大変な慧眼の持ち主で、特に時代を見通す透徹した目は感嘆したもの。今、国会で審議され話題になっている天皇の生前退位問題、これについても藤島さんならどんなご意見をお持ちなのか、是非訊いてみたい気がする。藤島さんは、今上天皇(第125代天皇)のご学友の一人。学習院の高等科時代に、皇太子(当時)と「ご学友」を題材にした小説『孤獨の人』三笠書房、1956年)を書いて、作家デビューを果たした。三島由紀夫氏は藤島さんの8歳ほど年長で、学習院の先輩後輩で親しかったこともあり、『孤獨の人』について序文を寄せている。その序文で三島由紀夫氏は、『孤獨の人』を評して「うますぎて心配なほど」と書いてその文才ぶりを激賞している。同作品は、映画化(日活、監督:西河克己、1957年)もされ、当時大きな話題となった。


 

 

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岩波書店刊――(『孤獨の人』は三笠書房刊、文春ネスコ刊、読売新聞社刊、岩波現代文庫刊と数々の出版社から何回にかけて刊行された)

 

・「お言葉」で今上天皇は、生前退位(譲位)の意向を強くにじませた。即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきた。その理解を国民に求めたものだった。昭和天皇が1989年崩御(宝算87年)され、平成天皇が昭和天皇より年齢上、上回ることが時間の問題となっている。「孤獨な人」を皇太子時代から最近までを見てきた藤島さんが、天上から腹蔵なく語ってくれたら、どんなにスッキリするだろう。かつて、三島由紀夫氏から藤島さんは、「君は皇太子の友だちなんだから直接、意見してきたらどうか」と度々からかわれていたという。今、生きていたら、正直、どのような発言をしただろうか。藤島さんなら歯に衣着せぬ筆致で論じると思う。学友意識を超え、直言する姿を見たい気がする。

・藤島さんにお訊きしたいことが他にもある。再婚についてである。メリー喜多川さんが再婚相手だが、このメリー喜多川さんが芸能界を揺るがす事件の関係者となる。藤島さんは1963(昭和38)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと結婚し、結婚当初は朋子さんと円満に暮らしていた。ところがその後、藤島さんはメリー喜多川(本名・藤島メリー泰子、現在89歳、当時52歳)さんと内縁関係となり、再婚する。そして、メリー喜多川さんは藤島泰輔さんとの間に藤島ジュリー景子さんをもうけた。このジュリー景子さんが次期社長候補らしい。今や売上高700億円を超える巨大な“ジャニーズ帝国”。この帝国をどのような手法で運営していったらいいのか、藤島さんなら妙案が浮かびそうだ。その裏付けもある。「ジャニーズ事務所は、藤島泰輔というビッグな人物を取り込んだのが最大の成果だ」と言う噂があったほどだからだ。資産家でもあった藤島さんは、長年、長者番付の常連であった。だから草創期にあったジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など知己も紹介、ジャニー喜多川社長(現在85歳)の人脈拡大に貢献したと言われる。

・現在、長女・藤島ジュリー景子(現在50歳)さんはジャニーズ事務所副社長兼ジェイ・ストーム社長の肩書を持っている。メリー喜多川・ジャニー喜多川の姉弟は、ゆくゆくは藤島ジュリー景子さんに会社経営をバトンタッチしたい意向。しかし思惑通りに進むかどうかは不明だ。景子さんは、2004(平成16)年に芸能界とは無関係の一般男性と結婚し、藤島夫妻の孫となる女児を出産している。そして、僕が思い出すのは、港区六本木鳥居坂のマンション(正確には芋洗坂のふもと通り沿い。同マンション内に部屋を3つ保有していた)へ原稿を貰いに行くと、当時中学か高校生くらいだった藤島ジュリー景子さんが、英語でペラペラと父親の藤島さんに頼みごとをしているのを見かけたものだ。天皇陛下生前退位(譲位)の件でも、ジャニーズ事務所の件でも、長いお付き合いの結果から断言できる。藤島さんなら、きっと妙案を考えつくはずだ、と……。藤島さんは、1996年に食道癌の告知を受け、翌1997628日に都内病院で逝去した。 最後まで娘・ジュリーのことを気にしており、最期の言葉は「早く結婚するよう言ってくれ」だったという。 尚、藤島泰輔氏の著作の権利は、娘のジュリーさんが継承した。

・ここで、藤島泰輔さんのプロフィールについて触れておく。1933年の生まれで、97年に逝去。享年64である。職業は小説家、評論家だった。所属するテリトリーは日本文藝家協会、日本ペンクラブ、日本放送作家協会、アメリカ学会の各会員。日本銀行監事藤島敏男・孝子夫妻の長男として東京市に生まれ、祖父(藤島範平氏)は日本郵船の専務取締役だった。一族から福澤諭吉や岩崎弥太郎以降、有名な政治家、財界人、学者を輩出した、名門中の名門である。父君の敏男さんは、一高旅行部から登山に親しみ、日銀パリ駐在員だった昭和10年から3年間はアルプスの山々に登った。登山は趣味の域をはるかに超え、日本山岳会名誉会員となった。また終戦直後、藤島さんは父君と日本銀行に数ヵ月寝泊まりしたというが、普通の人がしようにもできないユニークな体験である。父君は東京帝大法学部卒だったが、藤島さんは初等科から大学まで学習院に学んだ。今上天皇のご学友で、共にエリザベス・ヴァイニング夫人の教育を受けている。1955(昭和30)年、学習院大学政経学部卒業後、東京新聞に入社、社会部記者となる。その後東京新聞を退社し、作家専業となっている。

・作家として、海外生活を題材にしたエッセイ・旅行記など多数の著作を発表。また社会評論家としても活動した。評論家としては大宅壮一の門下生である。右派・保守系の論陣を張り、『文藝春秋』や『諸君!』などに論考を寄稿。左派・リベラル系が多かった大宅壮一門下の評論家グループの中では異色の存在であった。1970(昭和45)年、エベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤ山脈遠征。1971(昭和46)年、内妻・長女とともにアメリカ・フロリダ州に移住し、アメリカ生活を体験。1972(昭和47)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと正式に離婚後、メリー喜多川さんと再婚したのは前述した通り。実に華麗な出自と経歴であり、稀有な存在だと思う。

・唯一、参議院選挙に立候補落選したのが、藤島さんの汚点と言えば言える。1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補。 新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188387票を獲得した。 法定得票数に達したものの66位で落選したのだ。その選挙には、僕の畏友である井口順雄(元日本旅行作家協会事務局長)さん、宮崎正弘(評論家、作家)さんもスタッフとして加わっていたが、いかんせん得票数が今一つ伸びなかった。

・僕は、1980年、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、藤島泰輔さんの編集担当となった。フランス・パリでの生活体験を元に「在日フランス人、ポール・ボネ」名義で著した『不思議の国ニッポン』シリーズの単行本を編集出版する仕事だった。多分、僕が20代の頃、パリに住んでいたことが勘案されたのではないだろうか。藤島さんとは馬が合うはずという出版局幹部の読みは当たった。僕は藤島さんと毎回相談して、この単行本シリーズを「外国人が書くニッポン論」にさせた。イラストはクロイワ・カズさんに頼んだ。「ポール・ボネとは何者ぞ」という噂が流れたが、箝口令を敷いていたので関係者以外誰も知らなかった。このシリーズは、刊行するたび、増刷に次ぐ増刷である。文字通り、笑いが止まらなかった。そして、新刊が刊行されて4年後に、すべて角川書店で文庫化する契約がなされた。僕が担当している間、多分、角川書店から文庫シリーズとしてトータル500万部以上は売れたはずだ。これだけの部数の3(=印税)だから、出版社=ダイヤモンド社の取り分も大きかったはず。まさに濡れ手に粟の状態だった。


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爆発的に売れた『不思議の国ニッポン』シリーズ

・僕は、ダイヤモンド社を1992年初頭に辞めたが、その間、16冊の『不思議の国ニッポン』シリーズを刊行した。思い出すのは、当初、六本木鳥居坂のマンションで原稿の遣り取りをしていたのが、数年経つと、藤島さんはホテルを定宿に替えた。最初はホテルオークラ、後にホテルニューオータニのスイートルームとなる。豪勢な生活だった。当時、最新のCNN海外ニュースや映画『ルートヴィヒ』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)など、藤島さんはいつも最新の話題を提供してくれた。仕事に関係のない話題でいつも盛り上がった。毎月の原稿受け渡しを済ますと、僕もホテル・ライフを楽しませてもらった。若かった僕は、高級洋酒やシガー(非キューバ葉巻の中での最高級ブランドで知られるダビドフが多かった)の洗礼を受けた。もちろん、高級洋酒のおつまみとして、珍味のチーズや雲丹、牡蠣などをよくいただいた。

・藤島さんはその後、有り余る金でパリ16区(高級住宅地)に豪邸を手に入れた。「部屋はいくつもあるから、パリに来てもホテルに泊まる必要はないからね……」とよく言っていた。その豪邸を訪ねたことはなかったが、生意気なことに僕も、シャイヨ国立劇場やトロカデロ庭園のすぐ近く、パリ16区のマンションに住んだことがある。そのマンションには、かつてカトリーヌ・ドヌーブが賃貸で借りていたと噂さがあった。つくづく20代の僕も贅沢生活を楽しんだものだ。その後、藤島さんの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんとは人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだ。その深田さんも今や泉下の客となってしまった。

・ある時、藤島さんが、「加登屋さん、僕は一応、作家・評論家ということになっているが、周囲の皆は、藤島は本を出していない、唄を忘れたカナリヤだといっている。本当は、毎日せっせと、それもベストセラーを書いている。『ポール・ボネは、実は僕なんだ』と何度も告白したい気持ちになる。だからポール・ボネ以外の作品を書くのはいいストレス発散になる。作家として嬉しいし、ぜひ何か仕事を考えて欲しい」とおっしゃった。

その結果、生まれたのが、『中流からの脱出――新しいステータスを求めて』(藤島泰輔著、ダイヤモンド社刊、1986年)である。「1億総中流意識」の時代に贈る、現代日本社会の新クラース〈階級〉論と謳って刊行された。巻末で、「幻想の中流意識」をめぐって、山本夏彦さんと藤島さんの対談を掲載した。大衆社会とスポーツ、ゴルフ人口とゴルフ場の急増、戦前の高級住宅地、現代の1等地と昔の別荘地、自宅に客を招かない事情、郊外の1戸建てか都心の高級マンションか、総中流社会の苛酷な現実、社交クラブ、ロータリークラブ、ヘルスクラブ、皇室と王室、食通と教養、“違いのわかる中流”を阻むものなど、現代日本を俯瞰してみても、違和感がないほど斬新な内容だった。


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・また、次々と分厚い翻訳ものも刊行した。まず『ウルトラ・リッチ―超富豪たちの素顔・価値観・役割』(V.パッカード著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1990)という本で、アメリカ社会を変える超大金持ちたちの実像に迫ったもの。彼らは資産をどう形成したのか? その生活と哲学は? そして驚くべき彼らの節税法等々……。日本人にも興味深い話題が満載されていた。あのV.パッカードがウルトラ・リッチの実態に鋭く迫った力作だった。この本は458ページの分厚いハードカバーで発売された。

 

 

 


 

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・次は、『名画の経済学――美術市場を支配する経済原理』(ウィリアム・D・グランプ著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1991年)を刊行した。原題は、『PRICING THE PRICELESS――ArtArtistsEconomics(高価なものの値付け――芸術、芸術家、経済)』。新古典派経済学のリテラシーを用い、芸術作品を財として考え、買われる人、買う人、そして価値付けに参加する人のあらましを説明しながら、財としての美術品が置かれる美術館、その財を生み出す芸術家の経済的な自立をテーマにした。この本も581ページという大著。いまでも頷ける内容だった。いずれの本も藤島さんは大いに楽しんで訳出したものだ。

 


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・最後に、藤島さんが入れ込んだ競馬趣味についてお話しておきたい。ある時、藤島さんが中央競馬会の勧めで馬主になった。その馬が、なんと単行本のベストセラーの印税なみに稼ぐことになる。馬の名前は「ランニングフリー」。19859月、中山競馬場でデビューを果たすと、順調に勝ち抜いて、オープン馬となり、春の“天皇賞”では13番人気ながらタマモクロスに次ぐ2着となった。そのお蔭で皇太子ご夫妻(当時、今上天皇)も府中の競馬場へ足を運ばれた。皇室と競馬を引き合いにした藤島さんの得意の作戦だ。また、ランニングフリーは7歳時には“アメリカジョッキークラブカップ”“日経賞”とG2を2連勝するなど大活躍した。僕も3回ぐらい、ホテルオークラで行なわれた祝勝会に呼ばれ祝杯を挙げたことがある。僕が電話投票で今も競馬を楽しめるのも、その席で藤島さんが農林省の次官殿に頼んで入れてもらったからだ。祝宴会場で競馬の神様・大川慶次郎さんにもお会いし、得難い会話を楽しんだこともいい思い出だ。

・藤島さんは、4億円稼いだランニングフリーだけではない。所有馬の中には、ジャニーズ事務所のアイドルグループ「光 GENJI」からの命名で「ヒカルゲンジ」という馬もいた。持ち馬の話を単行本化するに当たり、ダイヤモンド社で出すのは、さすがに差し控えた。その本の刊行に加瀬昌男社長が手を挙げ、草思社からの出版となった。『馬主の愉しみ ランニングフリーと私』(草思社刊、1991年)がそれ。加瀬さんがアパレル会社の利益で草思社の赤字を補填され、苦労されたが、僕は無謀にもダイヤモンド社を辞めようか、どうしようか悩んでいた。結局、1993年、紆余曲折があり、加登屋事務所から清流出版を立ち上げていた。まあ、僕の懐古話はそれほど皆さんの興味を引かないだろうから、この辺で筆をおく。それにしても、藤島泰輔さんは、僕にとって余人をもって代えがたい傑物であったことは認めておきたい。