加藤日出男さん - 加登屋のメモと写真…
加登屋のメモと写真…
加藤日出男さん

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「ふじ丸」船上で挨拶する加藤日出男さん

・2019年12月22日、加藤日出男さんが亡くなった。老衰のため、東京都内の病院で死去したと報じられた。享年90だった。思い返せば、加藤さんと知り合うきっかけは、弊社から刊行された小川宏(2016年11月29日逝去)さんの著書『宏です。小川です――昭和わたく史交友録』(2005年弊社刊)に端を発する。加藤日出男さんとの交友が、エピソードとともに取り上げられていた。加藤さんは、「若い根っこの会」を主宰され、箱根駅伝等で東京農大が出場する時など、「大根踊り」を披露するが、この踊りが加藤さんの発案によるものと知っていたので、機会があればお会いしたいと思っていた。
 
・小川さんはNHK入局後、「ジェスチャー」等で司会を担当、フリーになってからも17年間にわたるフジテレビの人気番組「小川宏ショー」の司会者として「初恋談義」などで同局の看板番組に育てあげた。当然ながら、小川さんの交遊関係は、スポーツ界、歌手・俳優など芸能関係、政治家、科学者、評論家、文化人など広範囲に及び、交友関係における面白いエピソードもいっぱいお持ちの方であった。それに小川さんは知る人ぞ知る「メモ魔」であった。原稿執筆する際は、このメモが大いに役に立ったはずだ。だからその後も弊社から、『小川宏の心に残るいい話』(2008年刊)『小川宏の面白交友録』(2009年刊)などを執筆していただくことになった。

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2005年 弊社刊
 
・加藤日出男さんのプロフィールに触れておく。日本の社会運動家、作詞家、エッセイストとして活躍され、「若い根っこの会」を始めた方であった。1929年、秋田県秋田市に生まれ、秋田鉱専中退後、作男として農村生活に入り、農民運動に情熱をそそいだ。1953年、東京農業大学農学部農業経済学科を卒業し、商社に入社したが間もなく退職、労働青年の交流の場として「若い根っこの会」を結成する。「若い根っこの会」は、発足以来、今年で実に67年目に当たる。
 
・それにしても僕は『大根踊り人生論』(2003年 東京農大出版会刊)を読ませて頂くまで、大根踊りが「若い根っこの会」へと繋がったとは知らなかった。「大根踊り」は1951(昭和26)年に加藤さんが発案したもの。人口に膾炙したのは、翌1952年秋のこと、東京農大の学園祭の宣伝隊が、東京・渋谷の駅前広場の大群衆を前に、「大根踊り」を披露するとともに、大量の大根を都民に無料配布したことにある。まだ敗戦後の飢餓の名残が消え去らぬ頃である。無料で配布された大根がどれほど歓迎されたことだろう。加藤さんは、東京の街にユーモアと明るさを持ち込みたかったのだという。そして大根は純白な根っこでもある。
 
《ひとりぼっちで悲しんでいる根っこ。だれもわかってくれないとねじれる根っこよ、互いに苦しいことを語り合おう。助け合おう。ねじれた根っこをすっきりと地の中へのばしていこう。》 まさにこれが「根っこの会」のルーツなのだ。

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2003年 東京農大出版会刊
 
・加藤さんは、1957年、初の著書『東京の若い根っこたち』(第二書房刊)を発表。これを劇団「民芸」が映画化する。1961年、財団法人「根っこの家」が完成、同年朝日新聞社より「朝日明るい社会賞」を受賞した。1961年、雑誌『若い根っこ』を創刊、現在刊行の月刊誌『友情 Dream』に発展した。1972年、「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を開催。以後、これまで39回就航し、すべて団長を務めてきた。文部省教育映画審査審議会委員、都青少年委員などを歴任、またMRA世界大会代表として渡米もしている。
 
・加藤日出男さんは、ラブコールに応えて、弊社に僕を訪ねてきてくれた。その際、単行本のタイトル案と原稿用紙数枚分のレジュメを持参していた。80歳を目前にしながら、正に「生涯青春」を地でゆくような、加藤さんの若々しさに僕は感心させられた。そもそも加藤日出男という人物に惚れ込んでいたし、「若い根っこの会」の後押しがあれば十分売れると踏んだ。だから同席していた出版部の臼井君に単行本化を進めるよう指示した。それが『生涯青春――いのちよ、ありがとう』(2007年 弊社刊)である。この本の中に、「若い根っこの会」が生まれた基本理念が書かれている。素晴らしい理念だと今も思う。
 
《美しい花をみて 根っこを思う人は少ない。少年の日、書いた詩の冒頭の一節である。そして若い根っこの会を創始した。その時、二十三歳だった。いつしか七十七歳をすぎ、今も若い根っこたちの喜怒哀楽の海につかっている。数世紀を生きてきた巨木をみて、人は、そのたくましさに圧倒される。きびしい風雪に耐え、人間の一生を、何回と、みつめて、生きてきたからだ。だが、巨木をささえてきた“根っこ”を思う人は少ない。
  根っこは、巨木が、森をなす数十万枚の葉っぱや、それを宿す、複雑に、からみあった枝々に、栄養をおくりつづけてきたのだ。根っこにも、地中から、もりあがった巨根もある。が、一番大切な、地中に、はりめぐらし、水分や養分を吸収するのは、一番末端の毛根たちなのだ。この毛根たちこそ、働き蜂なのだ。これらの毛根が、朽ちはててゆくと、巨木も、ある日、どうと倒れてしまう。》

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2007年 弊社刊
 
・高度経済成長期に「集団就職」として地方の中学・高校の卒業生たちが、臨時列車に乗って上野駅、大都市圏に働きに出てきた。その得難い労働力は「金の卵」と呼ばれた。まさに加藤さんのいう末端の毛根として日本の高度成長期を支えてきたのである。そんな地方出身の若者たちの拠り所として、「若い根っこの会」は大きな礎となっていく。
 
・加藤さんとの関係は、単行本を出しただけでは終わらなかった。実は加藤さんは「グアム・サイパン南十字星洋上大学」を40年にあまりにわたって実施していた。そのパンフレットを見せてくれたのである。僕はこの洋上大学に大いに興味をそそられた。飛行機で行くようなあわただしい旅行ではなく、ゆとりのある船旅である。多くの講師陣はじめ、参加者との触れ合いは、気分転換にもなるし、斬新な単行本企画も浮かぶかもしれない。そんな読みもあり、参加を申し込んだ。加藤さんは、船内でサイン会を開催して弊社の本の販促にも一役買ってくれるという。その熱意にも僕はほだされた。

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歓迎式典で挨拶する加藤さん
 
・5月の大型連休にからめた9泊10日の船旅である。船は豪華客船「ふじ丸」。総排水量2万3235トン、全長167m、船幅24m。日本のクルーズ客船の嚆矢として、1988年に三菱重工業神戸造船所で進水、翌1989年の4月に就航した。就航時、日本籍では最大の客船であった。展望大浴場が設置され、これはその後の日本籍クルーズ客船の標準となっている。 当初は主にレジャークルーズに使われたが、2002年に運航が日本チャータークルーズに引き継がれ以後は、自治体・企業・団体向けのチャータークルーズが中心となった。
 
・2007年の洋上大学は39回目に当たり、結果的に最後の洋上大学実施となった。弊社からの参加者は、臼井出版部長、斎藤勝義・海外版権担当顧問と僕の3人だった。見渡す限りの紺碧の波を蹴立て、船はひたすら南下していく。上部デッキには、強い日差しが照りつけ、夏の暑さが好きな僕は大満足だった。総勢は、研修生(洋上大学なのでこう呼ぶ)が400名弱、それに乗務員が100人強。総勢500人を超えた。加藤団長の綿密なカリキュラム編成で、毎日、変化に富んだイベントがあり、飽きることがなかった。また、加藤さんは僕らの心意気に対して、様々な配慮をしてくれた。展望大浴場を3人だけで使わせてくれ、ナイトキャップの差し入れも数回に及んだ。そんな気遣いをされる方だった。

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秋草鶴次さん(右端)と船長と僕
 
・この旅行には、加藤団長の計らいで、ベストセラー『十七歳の硫黄島』(文藝春秋刊)の著者・秋草鶴次さんが特別ゲストとして招待されていた。玉砕の硫黄島から生還された秋草さんの講演を聞いて、思わず僕は涙がこぼれた。秋草さんは栃木県足利市の農家の長男として生まれ、17歳の時、玉砕を運命づけられた硫黄島に海軍通信兵として配属された。十分な飲み水も食べ物もない極限状態を生き延びなければいけない。生死の境をさまよいながら、一番安心できる食べ物といえば、自分の体に湧いたウジだったというから、その過酷な運命には言葉もない。非情で過酷な状況に耐え、そして生き抜いた方であり、いかなる人物なのか僕は興味を抱いたものだ。

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戦友と歌を歌う秋草さん(中央)、左端は加藤日出男さん
 
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『十七歳の硫黄島』文春新書刊(2006年)、『硫黄島を生き延びて』(2011年 弊社刊)
 
・秋草さんは復員後、悲惨極まる戦争体験を原稿用紙1,000枚以上にわたって綴っていた。しかし、ご両親には一切見せず、大切に保管してきた。2006年夏、NHKが放送した『硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言』で取材に応じるまで、秋草さんはじめ多くの元帰還兵は、硫黄島での惨状に一切口にせず、沈黙を守った。2008年9月、在日米軍の計らいで硫黄島を訪問した秋草さんは、63年ぶりに地下壕の入口の前に立ち「ここに戦友がいるんだ」と慟哭した。沈黙を破り、戦争を語ることは、戦争を生き抜いた人にとって、もう一つの闘いだったと思い知らされた。秋草鶴次著『硫黄島を生き延びて』からは、戦争の悲惨さ恐ろしさが伝わってくる。「あとがき」にこうある。
 
《正しい戦争、聖戦などというものが本当にあるのだろうか? 私には信じられない。あの戦争は一体なんだったのか? (中略) 南方等の戦場で失われた300万を超す命は、この世の平和の柱となって現世を支えている。残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、と私は理解する。》
 
・全国各地で戦争の悲惨さを伝える講演を精力的に行ってきた秋草さんも、2018年3月30日、泉下の人となった。広島、長崎、沖縄などでも、悲惨な戦争体験を語れる人が亡くなっていく。戦争の悲惨さを語り継ぎ、風化させないためにも、秋草さんの遺言にも似たあの言葉をもう一度、噛み締めなければなるまい。《残酷な戦争の果てに散華された命を私は思う。我々は平和を託されている、のだと》。

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