2018.12.18我が敬愛する野見山暁治さん

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野見山さんと僕

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「こころの五手箱」――画家・野見山暁治(日本経済新聞・夕刊、12月3日から7日まで)

・洋画家・野見山暁治さんについては、僕自身の思い入れも強く、この欄に最も多く登場して頂いた。今年も1月号は「野見山暁治さん」から始まっている。掉尾を飾る12月号が再び「野見山暁治さん」となるわけだ。野見山さんは、御年98歳になられる。軽い脳梗塞を患ったとの話も漏れ聞こえてきたが、すでに元気にお仕事を再開されている。野見山さんの文章のうまさについては、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『四百字のデッサン』(河出文庫)などでも証明済みであるが、先日も日本経済新聞(12月3日から7日まで。各夕刊)の「こころの五手箱」の連載エッセイは楽しみに読ませて頂いた。野見山さんらしい軽妙洒脱なタッチで書かれていた。
  この中の12月5日付けコラムで、明治生まれのフランス文化研究者・椎名其二さんについてお書きになられている。椎名さんといえば、僕は大学時代、直接ご本人にフランス語や文化、生き方等を教えて頂いただけに懐かしさが込み上げた。椎名さんが71歳、僕は大学一年生で18歳であった。生活は窮乏状態だったが、「アミチエ(友情)は大いに受けるが、モノとかカネの援助は要らない」を信条とし、毅然として清貧の道を歩んだ方だった。

・野見山さんのパリ留学は31歳のときである。パリに着いた1952年から、椎名さんが亡くなる75歳まで、ほぼ10年間のお付き合いだったという。野見山さんの若かりし頃は、画家であれば、ほとんどみんながパリに行きたいと思っていた。日本国内では、本物の絵を見る機会がほとんどなかったこともある。しかし、そう簡単には行けなかった。外務省に行ってパスポートを申請しようとすると、絵描きには出さないと断られたという。日本は貧乏国家であり、外貨を少ししか持っていなかったからである。新聞社の特派員、文部省からの研究派遣でもないと行けなかった。
  野見山さんは、奥さんの陽子さんが見つけた新聞に「フランス私費留学生募集」の記事を見つけ、審査に通った後、長男として遺産を前倒しで欲しいと親を説得し、ようやくパリ留学を果たしたという。留学時代、野見山さんは、仲間から“プティ椎名”というあだ名を付けられた。椎名さんの生き方に惚れ、影響を受け過ぎていたから、そんなあだ名を付けられたのである。
  椎名さんの住まいは、サン・シュルピス教会近くの、職人の仕事場が連なる倉庫の奥、半地下の棲家だった。部屋には製本機が1台置かれ、椎名さんは、革張りの製本をする仕事で糊口をしのいでいたのである。野見山さんはこの夕刊のコラムで、その頃の椎名さんの人となりを軽妙洒脱な文章で描いているが、スンナリと伝わってくる。例えば、こんな下りがある。
  ……(椎名さんは)赤貧洗うがごとしの生活だが、わずかな金が入ると僕らを誘って食肉店へ行く。しばらくぶりの上等な肉を手にすると店のおやじに軽口をたたく。椎名さんがステッキを持ちあげ、ゆっくりと指し示す。あの肉が最高だ。“二等の肉を寄越こしたな。そっちのもっと上等な肉……なんだ君の女房だ”……
  この描写のなんと見事なことだろう。椎名さんはご機嫌なときには、よくこんな軽口を叩いたものだった。僕は椎名さんを直接知るだけにイメージも湧き、思わず吹き出しそうになった。ユーモア好きだった椎名さんは、『Le Rire』(笑うという意味)の雑誌を集めていて、何冊かをまとめて、革張りの本にしていたほど。椎名さんは、最後にこの本を譲ってくれた。お蔭で挿絵を眺めているだけで人物でも風景でも絵の発想が浮かんでくると野見山さんが言う。

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椎名其二さんと僕(1958年の頃)

・12月7日付けの日経新聞コラムでは、野見山さんの個展会場でよく見かけるあるものが出てくる。ご本人が「ずっと後になって、衣類をたたきつけて洗濯するアフリカの道具なのだと聞かされたが、僕にとって用途はどうでもよかった。形が生き物のようで、今にも起き上がって歩きだしそう」だと思ったからと書いている。なるほど生き物のような佇まいに惹かれた、という野見山さんの感性には驚かされた。「僕はモノにも人にも、あまり愛着を持たない。戦争の影響というわけではないが、どこか愛情が薄い気がするのだ」と自身を振り返っている。これまでのお付き合いからして、僕も野見山さんは、そういうものには恬淡としているように思う。

・ここで椎名其二さんをご存じでない人のために、略歴をご紹介しておく。明治20(1887)年の生まれ、昭和37(1962)年にお亡くなりになった。美人の産地で知られる秋田県仙北郡角館町のご出身。早稲田大学文学部を中退し、ミズーリ州立大学新聞科を卒業した。セントルイス、ボストンなどで記者生活の後、大正3年に渡仏。社会学者のポール・ルクリュと出会い、その学僕としてアナーキズムの洗礼を受ける。南フランスを放浪中、マリー・ドルバルと結婚。第1次世界大戦中はパリの火薬工場で働き、大正11年妻子とともに帰国した。早稲田大学で教鞭をとり、ファーブルの『昆虫記』を翻訳している。
  昭和2年に再び渡仏し、以後、30年間をパリで過ごす。第2次大戦後は製本業を営み、パリ市民から親しまれた。昭和32年10月、日本に帰り『中央公論』に「自由に焦れて在仏40年」「パリで知った黒岩涙香」「石川三四郎のこと」などを書き、「声」に農民作家エミール・ギヨマンその他を発表、ラクロアの『出世しない秘訣』(ジャン=ポール・ラクロワ作、椎名其二訳、理論社刊、1959年)を翻訳して話題となった。しかし日本は肌に合わず、昭和35年12月、またフランスへ戻り、ルクリュ家で余生を送った。

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懐かしの長島葡萄房で、野見山さんとツーショット

・フランスへ戻りと簡単に書いてしまったが、これがなかなか大変だった。類い稀な知性とユーモアに溢れた椎名老人が、翻訳印税を手にしたとはいえ、他に確たる収入もない。日本での生活も楽ではなかった。だからフランスに帰る旅費を工面するなど、できるはずもなかった。その頃、野見山さんは37歳になっていて、パリに住み絵を描いていた。椎名さんの窮状を見かねた野見山さんが、助け舟を出す。自分が描いた絵を売って、旅費の足しにと考えたのである。その時点で僕は、まだ野見山さんとお会いしたことはなかった。野見山さんの絵を1点購入し、いくばくかの旅費を負担しただけだった。その後、野見山さんは、1964年にフランスから日本に帰国された。そして、詳しい日時は忘れてしまったが、ようやくこの義侠心に厚い気骨の画家にお会いできた。このことは僕の人生にとって、望外の幸せだったというしかない。

・実は、野見山さんから、堀江敏幸氏のエッセイ『傍らにいた人』(日本経済新聞社刊)挿絵――「野見山暁治カット展」のご案内を頂いたので、臼井君と出掛けることにした。場所は表参道沿いにある「表参道ヒルズ同潤館302」とある。なんとお洒落な場所で、と感心した。そういえば、野見山さんは、東京メトロ・明治神宮前駅(原宿)交差点口に向かう駅構内に『いつかは会える』と題した大きなステンドグラスの壁画を描いている。このステンドグラスの絵は、87歳にして初めて挑戦したものだった。昨年も、故郷の炭鉱町・福岡県飯塚市の新庁舎正面玄関横に、やはり大きなステンドグラスの絵を描いている。小さい頃は、日が暮れるまでぼた山で遊び、煤で真っ黒な川で泳いでいたという。この絵はそんな野見山さんなりの炭鉱町をイメージして描いたものだというが、それにしても大作である。百歳を間近にしてこのバイタリティには脱帽するしかない。

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堀江敏幸著『傍らにいた人』(日本経済新聞社刊)

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野見山さんの個展会場である洒落た「ギャラリー412」の入口

・さて、個展会場であるが、新聞掲載のカットが四方の壁に所狭しと並んでいる。金曜日にも関わらず、初日とあって野見山ファンが多く詰めかけていた。著書も何冊か平積みされ、販売されていた。僕がいつも感心するのは、野見山さんのタイトル付けである。カットの小品につけられた題名が、実にお上手なのだ。抽象画風の絵なのに、タイトルと絵がピタリとマッチしているように思えるのだ。例えば「風景のような」「誘われただけ」「言いたいことばかり」といった魅力的なタイトル。カットも不思議なものが多いが、タイトルにも大いにそそられるのである。僕は日本経済新聞連載時に、照らし合わせて見ていたわけではないので分からないのだが、内容と面白くリンクさせて描かれていたものであろう。



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個展の会場風景

・野見山さんは、これまでも社会的意義のある活動をしてこられた。昨年、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」で毎年開かれてきた画学生をしのぶ「無言忌」が、6月4日の20回目をもって最後となった。最後とあって、通常の3倍もの出席者があったらしい。とにかく戦没画学生の親族・関係者も高齢化しているので、仕方がないことであった。これまで携わってきた窪島誠一郎さんと野見山さんには、本当にご苦労様でしたと言いたい。

・最後に、野見山暁治財団(理事長・窪島誠一郎)の公式ホームページを覗いてみると、近況が公表されていた。現在、連載中のエッセイが2本ある。『美術の窓 』(生活の友社刊)に「アトリエ日記」を、『こころ』(平凡社刊) に「記憶のなかの人」が連載中だという。また、新刊予定では、野見山さんが絵を描いた『新美南吉 絵童話集』(星の環会刊)の発売が近々予定されているとか。まだまだ意気軒高であり、精力的に走り続けている野見山さん。まさに僕にとって、仰ぎ見続ける大先輩といえよう。否、東京藝術大学名誉教授、文化功労者、文化勲章受章の方に「大先輩」と言うのは、あまりも礼儀知らずだが、野見山さんだったら、許してくれると思う。