藤沢周平さん+西城秀樹さん - 加登屋のメモと写真…
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藤沢周平さん+西城秀樹さん
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●藤沢周平さん


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福沢一郎著『知られざる藤沢周平の真実 待つことは楽しかった』(2004年、弊社刊)


・時代小説作家・藤沢周平が亡くなってすでに二十年になるという。市井もので男と女が織りなす人情を描いて右に出る者がなく、多くのファンの心を掴んでいた。じつは弊社でも藤沢周平関連の本を1冊だけだが出している。それは福沢一郎氏の著になる『知られざる藤沢周平の真実 待つことは楽しかった』(2004年12月刊)という本である。執筆動機について福沢氏は、藤沢周平という作家が、なぜ市井の男女間の想い、人情の機微を鮮やかに描けるようになったのかを探りたいと思ったからだと書いている。

・そもそも福沢氏が藤沢周平について取材することになったきっかけは、死後、藤沢周平全集などの発行元だった文藝春秋が、『文藝春秋』臨時増刊号として藤沢周平追悼特集号を刊行したことにある。福沢氏は追悼号の中で、藤沢の中学校教師時代の教え子たちとの交流を取材した。「仰げば尊し」と題して追悼号で掲載された。これは現在、『藤沢周平のすべて』(文春文庫刊)に収められている。

・『知られざる藤沢周平の真実』では、藤沢の新たな事実が明らかにされている。それは藤沢周平の伴侶についてである。藤沢は最初の妻、悦子さんと結婚し、悦子さんは結婚4年目に展子さんを出産する。そして出産後、わずか8ヶ月でこの世を去るのだ。藤沢は幼いころから、死とは無縁ではない。多くの死との出合いがあった。敬愛する先生たちの死があり、自分も結核との闘いを制し、生還してきたのに、今度は最愛の妻に去られた。その心痛はいかばかりだったのだろうか、察するに余りある。事実、愛娘・展子さんの存在がなかったなら、後追い自殺もしかねないほど、落ち込んでいたのである。それはメモ帳にも書いている。

・一般的な年譜では、この最愛の妻だった悦子さんの死から5年3ヶ月後、和子さんと再婚するとなっているが、福沢氏は取材の過程で新事実を探り出す。実はこの間に、藤沢は何人もの女性に迷惑をかけていることがわかったのである。悦子夫人が亡くなったあと、藤沢は郷里から母を呼び寄せている。同居することで、娘の世話や家事一切を切り盛りしてもらえるよう望んだ。しかし、70歳近い年寄りで軽い脳梗塞もあって、体力的にも続かなかったのである。体調不良ですぐに寝込んだりしてまったく頼りにならなかった。

・そこで藤沢周平はどうしたのか。なんと、かつての教え子たちにプロポーズしたのである。少なくともプロポーズされた教え子は3人はいるという。この頃、教え子たちは20代の半ばになっている。結婚適齢期であったことは間違いない。しかし、さすがに誰もこの申し入れを受け入れなかった。藤沢周平も教師時代、教え子に慕われていたという自負はあっただろうが、さすがにその考えは甘かったのである。

・そして故郷・鶴岡の方から嫁を世話するという話が持ち上がる。困りきっていた時期だったこともあり、勢い込んで結婚に踏み切るも、短期間で離婚に至る。娘の世話をして家事一切を切り盛りしてほしいと願う藤沢に対し、鶴岡から新婚生活を夢見て上京してきた女性とでは、しょせん気持ちにズレが生じる。無理があったのだ。当然ともいえる破綻であった。この間、藤沢は、もう一人鶴岡の女性と結婚している。この女性は、「子どもが生まれない」ことを理由に離婚されたという。結局、藤沢は二人の女性と結婚・離婚をしていたわけだが、この部分は藤沢周平の年表にはまったく書かれていない。藤沢の実弟・小菅繁治が書いた『兄 藤沢周平』(毎日新聞社刊)に、M子やH子として離婚した二人の女性について書かれているだけである。


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遠藤展子さん

・実は臼井雅観君が最近、月刊『清流』の「著者に聞く」で藤沢周平の娘・遠藤展子さんに取材している。藤沢が亡くなったあと、展子さんの手元には、藤沢の手帳4冊が遺されていた。そのなかには、展子さんが生まれた昭和38年から、直木賞を受賞し、作家生活に踏み出した昭和51年までの苦悩と格闘の日々が克明につづられていた。展子さんも藤沢がたくさん小説を書いていた年齢に近づくにつれ、父親たる藤沢が何を考え、どんな風に仕事をしていたのか、気になるようになったのだ。残された手帳から、藤沢が小説を書く理由として挙げていた「鬱屈」の正体を知りたかったこともある。

・最初の妻・悦子さんがモデルではないか、と展子さんが推測した小説がある。それは映画化もされた『たそがれ清兵衛』である。病気で寝たきりの妻を看病するため、お城の仕事を終えるとすぐに帰宅し、かいがいしく世話をする武士の清兵衛が描かれている。これは藤沢が、悦子さんの入院していた病院に毎日のように通い、妻を励ましながら小説を書いていた藤沢と重なるというのだ。

・それにしても藤沢の展子さんに対する溺愛ぶりは凄かったらしい。態度でももちろんそうだったが、展子さんが結婚をして25歳を過ぎたころ、藤沢から「眼の中に入れても痛くないと思ったよ」と告白されたという。展子さんは小学生のころ、学校から帰るとすぐに藤沢に学校での出来事を逐一報告している。小説の執筆を中断させても、怒られたことは一度もないというから驚きだ。作家が執筆を中断してまでして子どもの話を聞くというのだから、きわめて稀有なケースではないだろうか。

・そして極めつけは、藤沢の死後、机の中から出てきた原稿用紙に書かれた遺言書のような文章である。一般的には、自分が亡くなったら、これまで支え続けてきてくれた妻の和子さんをよろしく頼むと書くであろうに、なんと「展子をよろしく」と書いてあったのだ。このとき、展子さんはすでに結婚して子どももいる。その展子さんを、どうかよろしく頼むと書いていたわけで、その溺愛ぶりが伝わってくるエピソードである。

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・展子さんによれば、手帳を解読するにつれ、作家という職業がどれほど過酷であるかを思い知らされたという。手帳には苦渋に満ちた日々のメモが書かれていた。

――昨日からわずか8枚しか書けていない。

――書いても書いても全体像が見えてこない。

・藤沢の小説の書き方は、エンディングは決まっておらず、先が見えるようになるまで書いていく方式だった。だから同じ書き出しの小説が何本も見つかっこともあるらしい。文章へのこだわりも半端ではなかった。美文調を嫌い、無駄をそぎ落としていく。決して同じような表現は使わず、違った表現を削り出す。身を削り、神経をすり減らし、小説を1本仕上げると3キロ体重が減ったという。あの人生の哀歓溢れる小説が生まれた背景には、こんな過酷な葛藤と煩悶、作品への厳しい自己評価があったのである。

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・藤沢はちゃっかり展子さんをモデルにした人物も登場させている。それは藤沢の代表的時代小説連作集『獄医立花登手控え』全4巻である。医者になるという夢を叶えるべく江戸に出た立花登を迎えたのは、はやらない町医者の叔父と、口うるさい叔母、生意気な娘のおちえである。居候としてこき使われながらも、起倒流柔術の妙技とあざやかな推理で、若き青年医師が、獄舎にもちこまれるさまざまな事件を解いていくといった筋立てだ。このお転婆娘のおちえというのが、どうも展子さんをモデルにしたものらしい。また、おちえの遊び友だちにも、展子さんは心当たりがあるというからなんともおかしい。

・藤沢は40代後半になると、まるでハードボイルドのような趣のある『神谷玄次郎捕物控』、『用心棒日月抄』、『隠し剣シリーズ』などエンターテイメント系の時代小説シリーズを書くようになった。もちろん、こうした時代小説も好きだが、やはり藤沢周平の小説の醍醐味は、市井ものではないかと個人的には思っている。男女の哀歓を描いて、これほどの手練れはいないと思うのだが、皆さんはどう思っているだろうか。



●西城秀樹さん

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『THE 45――西城秀樹デビュー45周年フォトエッセイ』から。(撮影:武藤 義さん)

・ここまで書いてきたところで、あの西城秀樹さんが、お亡くなりになったというニュースが入ってきた。2018年4月25日、自宅で家族団欒の席で倒れて緊急入院し、懸命の治療が行われたが、5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で死去したという。享年63。
 
・西城秀樹さんの訃報を受け、新御三家としてライバルであり友でもあった郷ひろみさんと野口五郎さんを始め、数多くの著名人が追悼コメントを発表している。2018年5月26日、青山斎儀場で妻の美紀夫人が喪主を務め、葬儀と告別式が行われる予定とある。

・実は、清流出版でも西城秀樹さんには前々から注目していた。2015年1月号から2016年12月号まで、月刊『清流』で連載したほどだ。そして、2016年9月に単行本『THE 45――西城秀樹デビュー45周年フォトエッセイ』を刊行している。著者は、西城秀樹、武藤 義の二人。単行本化に当たっては、編集担当した古満 温(すなお)君が隅々まで気配りした編集作業をしてくれた。その古満君が西城秀樹さんと同郷の広島県人であったこともお互いの信頼関係を築くのに役立った。また、装丁等を担当したデザイナーの日戸秀樹氏、そして編集協力の浅野祐子さんもアイデアを出し合い、いい作品に仕上がった。

・西城秀樹さんは、2003年と2011年の2度にわたって脳梗塞を発症し、特に2度目の脳梗塞のあとは言語障害や右半身のしびれなど、目に見える形での後遺症が残った。1メートルを歩くのに1分ほどかかったこともあったらしい。そんな重い後遺症が残りながらも、不屈の闘志でステージに立ち続けた西城秀樹さん。僕も同じ病(二度の脳出血)に倒れ、歩くのもままならない状態になった。だから西城さんには特別の思い入れがあった。だからとても残念である。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

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