2015.08.27西山孝司さん、高崎俊夫さん、山崎方夫・みどりご夫妻、田島隆夫さん

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デザイナー西山孝司さんの個展会場。
 

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西山孝司さんの個展「西山孝司 映画本のデザイン」案内板
 

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ずらり並んだ映画本

・実は先日、渋谷駅からほど近い「ウィリアム・モリス」という喫茶店で、デザイナー西山孝司さんが装丁した映画本を集めた個展が開催された。この映画本というのが、すべてわが清流出版から刊行されたものである。30数点がずらりと並んだのは壮観であった。この映画の単行本企画すべてをプロデュースしたのが、映画評論などで活躍中の高崎俊夫さんである。だからこの30数点の映画本はすべて、高崎俊夫、西山孝司、この2人のコラボレーションによって生まれたものである。
  もう一つ気づいたことがあった。西山さんのパートナー・柳川貴代さんの集めたアンティークの欠片箱が会場の片隅で展示・販売されていたのだ。これがなかなかお洒落で、手にしてみたが面白かった。カマーラインハルト/シモンハルビッグのビスクヘッド、幻燈機スライド、ブリキのブローチがとても廉価で売られていた。
  高崎さんはなかなかの目利きであり、映画本企画以外にも、徳川夢声、桂ユキ、虫明亜呂無、花田清輝、松本俊夫等々、埋もれかけた名品を掘り起こすといった趣のある単行本企画を弊社に持ち込み、清流出版の出版部門に新風を吹き込んでくれた。評論家の坪内祐三さんが、このラインアップを見て、「今、一番気になる出版社だ」と言ってくれるほどだった。

・その高崎俊夫さんがプロデュースで、この9月30日の刊行予定で、創元推理文庫から『親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選』が刊行されるという。「夏の葬列」をはじめとする〈親しい友人たち〉、EQMMに掲載されたエッセイ風連作〈トコという男〉を収録しているという。山川方夫とは懐かしい名前である。僕もファンの1人で、山川方夫の死後、江藤淳と坂上弘が編纂し、冬樹社から刊行された「山川方夫全集」全五巻(1968年)を40数年前、買って読んでいた。わが家は手狭で、蔵書の数も限られていることから、引っ越しのたびに、かなりの本を売るか捨てるかして処分してきた。幸いにも山川方夫全集は処分せず手許に残っている。その後、筑摩書房から全七巻(2000年)が出ているが、冬樹社版は刊行部数が少なかったため、嬉しいことに古書市場ではかなりの高値がついているという。

・山川方夫は二宮駅前の国道1号線でトラックに轢かれる交通事故に遭い、翌日亡くなってしまった。享年34。早いもので、歿後50年になるのだという。1930(昭和5)年の生まれで、慶應義塾(幼稚舎、普通部、予科文学部、大学文学部仏文科、大学院文学研究科仏文専攻)で一貫して学んだ。彼の功績は数々あるが、1954(昭和29)年、第3次『三田文学』を創刊し、新人発掘に力を注いだことがまず挙げられる。曾野綾子、江藤淳、坂上弘など数々の才能を開花させたことでも知られている。その後、ご本人の文学作品も何回か芥川賞、直木賞の候補作となるが、惜しくも受賞には至らなかった。弊社でも高崎さんの企画で、『目的を持たない意志―-山川方夫エッセイ集』(2011年刊)と題した単行本を刊行している。石原慎太郎、江藤淳ほか同世代の作家論から、清冽な恋愛論、哀惜に満ちた東京論、増村保造を論じた独創的な映画評論まで網羅した珠玉のエッセイ集であった。

・妻の山川みどり(旧姓生田)さんも高崎さんのプロデュースで、弊社から本を出させて頂いた。みどりさんは長く『芸術新潮』の編集長だった人物である。41歳の時、編集長になった。年齢は僕より1歳下だった。
  ちょっと余談になるが、僕は山川みどりさんの前に『藝術新潮』(誌名が旧字だった)編集長だった山崎省三さんに、何回もご馳走になった。瀧口修造、大島辰雄、吉岡実各氏と画廊や展覧会や各種イベントに集う時、例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」まで出かけたものだ。その後、席を代え、山崎省三さん(正確には新潮社)に奢ってもらった。お酒が入ると大いに談論風発する、楽しい集まりであった。集まりの中では、僕一人だけが年若だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。
  本題に戻ると、山川さんが退職後、新潮社の季刊雑誌『考える人』に「六十歳になったから」を連載し、好評を博した。この連載第1回目の原稿“これからいっぱい遊ぶんだ!”を見せてもらって、ものすごく面白かった。だから23回にわたる連載を全部通しで見て、文章の巧みさに惹きこまれ、同世代に受けること間違いなしと刊行を決意した経緯がある。それが単行本『還暦過ぎたら遊ぼうよ』である。本の内容は、みどりさんが田舎暮らしをしたいと、定年後、信州の西軽井沢に一軒家を建てられた。隣接の小さな畑を耕して、トマト、キュウリ、ナス、カボチャなど、好きな野菜を育てて楽しんでおられた。こうした日々の農作業、野菜を収穫する楽しさ、季節の移ろい等を楽しんでいる様子が描かれており、興味深く読んだ。そんなみどりさんだったが、高崎さんの情報によれば、数年前、病に倒れ、現在は湘南に戻って病気療養中だという。折角、信州に馴染み、土地の人々とも人間関係ができ、田舎暮らしを満喫しておられたのに、残念でならない。早く回復されんことを祈るのみだ。
 

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地機織りする田島隆夫

・6月号で菅原匠さんのことを書いたが、菅原さんを書いて田島隆夫さんを書かないわけにはいかない。菅原さんと田島さんは、仕事の上でも藍染で深いつながりがあったが、個人的にも親しい間柄で、田島さんは伊豆大島の菅原宅を訪ねるのを楽しみにしていた。織物や糸を藍染で染めたあとは、2人で三原山周辺や野山に出掛け、風景や草花などスケッチして楽しんだ仲だ。田島さんは敬愛する白洲正子さんから、織司と呼ばれていた。本業は地機織りで織物を織っていたからである。白洲さんはその昔、銀座で「こうげい」という店を経営していた。白洲さんは田島さんの織物にぞっこんであった。配色、縞模様、風合いのすべてが過不足ないバランスで織られていた。だから田島さんの織物を「こうげい」で仕入れては売った。織物の品質だが、前提として素材の良さを挙げなければならない。田島さんは納得のいく繭を手に入れるために、労を惜しまなかった。近隣の農家を1軒1軒回り、土蔵の奥に仕舞い込まれていた貴重な繭玉を手に入れ、その糸を紡いで織ったのである。

・その田島隆夫さんには飛び抜けた余技があった。それが書画である。実は清流出版から、田島隆夫さんの『田島隆夫の日々帖』前期(1982-1986年)、中期(1987-1991)、後期(1992-1996)と題した三部作が刊行されている。画があって言葉が添えられていることから絵手紙といってもいい。田島さんの書画の余技をいち早く認めたのは、ちょっと肩書が長いが、美術エッセイスト・小説家・画廊主・画商の洲之内徹さんと、白洲正子さんのご両人である。洲之内さんが経営していた「現代画廊」で1982年から87年まで田島隆夫さんの個展が開催されているが、案内状には欠かすこととなく、洲之内徹と白洲正子ご両人の推薦文が添えられている。それだけ作品に対する評価が高かったのである。その2人が行田市の田島さんの家を訪ね、個展用の作品選びをしたときのこと、田島さんから「日々帖」という和綴じの冊子を見せてもらった。この「日々帖」は田島さんの画日記のようなもので、毎日欠かさず1枚ずつ描いていた。1ヶ月分の和紙をこよりで綴じたものを用意し、毎日、仕事が一段落したあと1枚ずつ描いていく。1ヶ月に1冊ずつ、作品集が出来上がるようなものだ。田島さんはこの「日々帖」を売り物とは考えず、自分の楽しみだけに描き続けていた。だからこそ肩肘張った売り物の書画とは違って、自由に筆が遊んでおり、魅力に溢れていた。


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『日々帖』の前期・中期・後期の全三冊

・1982年から描き始めて晩年まで、15年近くにわたって描き続けられた「日々帖」は都合180冊近くになっていた。枚数にして5000枚に近い。洲之内さんも白洲さんも、絵手紙創始者・小池邦夫さんもこの「日々帖」を田島さんから見せてもらったが、いずれもほんの一部だけ。全貌を見た人は一人もいなかったのである。展覧会に出すものでもない、売り物でもない、ひたすら自分のためだけで人に見せるものではなかったからだ。多くは下絵のようなものだが、彩色されているものもある。集中して瞬間的に描いた早描きだった。田島さんは数分で描いていたようだ。臼井雅観君が小池邦夫さんと親しい関係から、僕もこの「日々帖」の存在を前から知っていた。日本の絵手紙人口が150万人と言われている昨今。この絵手紙愛好家たちに、田島さんの「日々帖」はいいお手本になるに違いない。僕は是非、未亡人の道子さんを説得して欲しいと臼井君に指示したものだ。臼井君は、何度か手紙で「日々帖」の出版をお願いした。ところが未亡人の田島道子さんはなかなかうんと言わない。それに強力なライバルが出現していた。世界文化社もアプローチしているという声が聞こえてきたのだ。世界文化社は『家庭画報』を刊行し、芸術系の出版物も多く出している。白洲正子さんの本も10冊以上出しており、ことごとく刷りを重ねている。世界文化社が相手では、僕は正直いって難しいかなと思っていた。
  またまた脱線するが、小池邦夫さんは僕が住んでいるマンションを分譲する時、乗り気になり購入を検討したことがあったと言う。小池さんは結局もう一軒一戸建てを仕事場として購入されたが、僕のマンションとは徒歩約10分の近距離。野川を挟んで小池さんは狛江市東野川、僕は世田谷区成城となる。もし小池さんが同じマンション住まいだったら、僕も絵手紙をもっと真剣にやっていただろう。小池さんの一番弟子・臼井雅観君とも交際の程は、変わったはずである。この間の事情を察して、素早く狛江市が積極的に「絵手紙の発祥地狛江――小池邦夫」の横断幕を張った市民バス(コミュニティバス=こまバス)を運行した。結局、残念ながら「世田谷区民・絵手紙の小池邦夫」は実現しなかった。

・先に、わが社では、田島隆夫さんを刊行は無理だと思っていた。ところが思わぬ助っ人が現われた。写真家の藤森武さんである。藤森さんは土門拳の弟子として巨匠を支えた人物として知られる。その藤森さんと臼井君が親しかったことから、視界が一挙に開けることになった。藤森さんは田島道子さんと作品の写真撮影で接点があがり、2人で行田市まで説得に出かけることになった。臼井君が小池邦夫さんと親しかったことも、かたくなな道子さんの心を和らげた。小池さんが田島宅を訪ねた際、お互い意気投合して肝胆相照らす仲となったからだ。事実、田島隆夫さんが亡くなるまで、深いお付き合いを続けた。この日、道子さんを2人で説得した結果、「日々帖」すべてを借り出すことに成功した。大きな風呂敷に包まれた作品群を勇躍して、車に乗せたものだった。後日、臼井君と藤森さんで5000枚近い書画から荒選びをし、750枚まで絞り込んだ。その絞り込んだ書画を、藤森さんが自宅のスタジオで撮影した。そのポジの中から、年代順に3期に分け、各期100枚ずつ厳選して3冊の本として結実させることができた。A5版横タイプというハンディな造本にしたことも奏功し、絵手紙愛好家に熱狂的に受け入れられた。3冊すべて増刷となって経営に寄与してくれた。清流出版にとって、とても有難い本であった。元はと言えば、人と人との人間関係である。つくづく人のつながりというものを考えさせられた。これからも、第二、第三の田島隆夫の発掘を期待したいものである。