2013.06.21鎌田 實先生とハワイ旅行へ

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鎌田實先生(医師、作家、諏訪中央病院名誉院長)と僕

 

・わが月刊『清流』の人気コラム「カマタ流生きるヒント」を執筆されている鎌田實(かまた・みのる)先生とご一緒にハワイ旅行をしてきた。この旅は、題して「鎌田實先生と行くドリームフェスティバルinハワイ6日間」という。毎年の恒例行事だそうで、今回が9回目になるという。身障者とその家族を対象にした旅行であり、北海道から九州博多からと、全国の鎌田ファンが参集した。脳出血2回の僕も鎌田先生と一緒なら何かと安心と、期待に胸弾ませながら参加した。企画を立案した旅行会社は、添乗員のほか大勢の女性トラベルサポーターも用意し、至れり尽くせりである。僕はこれまでにも、その旅行会社の企画を年に数回利用していた。その国内ツアーでご一緒した顔見知りの添乗員が、たまたま2名参加していてより一層安堵したものだ。また、大王製紙が紙おむつやティッシュのエリエールを無償で配るサービスやヘルパーを3人派遣することでスポンサーシップを発揮していた。鎌田先生も日本テレビの人気長寿番組「笑点」のメインスポンサー・大王製紙が旅行に一枚噛んでいることを強調されていた。今回のハワイ旅行は、総勢63名であった。僕の認識だとこれでも大人数だが、一番多い年は200名を超えたこともあったというから鎌田さんの信用力は大したものである。

 

・十数年前、僕は鎌田先生の著になる『がんばらない』(2000年)、『あきらめない』(2003年、ともに集英社刊)を読んでファンになった。妻も信州は松本の出身という関係から、同じ中央本線上諏訪駅の諏訪中央病院名誉院長・鎌田先生の熱心な読者になった。僕は、わが『清流』にも、是非連載執筆していただきたいと思っていたが、鎌田先生がご多忙を極めていたこともあり、なかなか実現には至らなかった。だが、ラッキーといおうか、月刊『百楽』という雑誌に鎌田先生は「カマタ流・生きるヒント」を連載されていたのだが、その雑誌が1年半前休刊することになった。未来工房の竹石さんが関わっていた企画だったことから、弊社の編集者・古満君に連載継続を打診してきた。こうして鎌田先生に接触し、やっと月刊『清流』への連載にこぎつけた。その後、深澤里香が担当編集者になって毎号力を入れて編集をしている。おかげで読者からの反響も良く、月刊『清流』の連載はすでに15回目を数えている。今後、この連載の単行本化については、古満君が意欲を燃やしているので実現してくれるものと思う。僕もこの機会に、少しでもみなさんの力になれれば、幸いである。そして、鎌田實先生のご友人・知人(例えば村上信夫さん、金澤翔子さん、大石芳野さん、神田香織さん、加藤登紀子さん、瀬戸内寂聴さん、永六輔さん、なかにし礼さん、舘野泉さん、池田香代子さん……)たちも月刊『清流』を賑わしてくれている。有難いことである。

 

・ハワイに行くのは初めてだった僕だが、オアフ島に滞在してみて、なんと素晴らしい所だと感心した。湿気が少ない上、気温も26度位と実に過ごしやすい。もう少し早く来れば良かったと思う。われわれ夫婦はオアフ島のコースしか見学しなかったが、人によってマウイ島、ハワイ島、カウアイ島等の観光コースを選んだ方もいた。だが、やはりオアフ島がメインコースで、鎌田先生もこの島で過ごされた。ザッとスケジュールを振り返って見よう。成田空港からホノルルに着いて、最初に訪れたのが「この木なんの木」で有名なモアナル・パーク。ワイキキのホテルにチェックインして、夜は『はじめましてパーティー』で鎌田先生が「感動して、がんばらない旅をしてほしい」と、いろいろ話をされた。一行の中には、95歳の女性が車椅子で参加していた。鎌田先生がみなさんに紹介してくれたが、その女性は「化粧は一切しないスッピン」の色白美人で、年齢をあらかじめ聞いてなかったら60代でも通りそうな若々しさ。そのあと、参加した数人の身障者を紹介されたが、症状は人によって様々で、よくこの機会に参加されたものだと思った。パーティーが始まる直前、当日、司会進行役を引き受けてくれた旅行会社の内山さんが、僕の持参した『清流』を掲げて、雑誌の宣伝をしてくださった。

 

・2日目から4日目まで、印象に残ったことをメモ風に書くと――ホテルからほど近いカピオラニ公園で朝の散策した後、2台のバスに分乗してノースショアドライブ(オアフ島北端の西岸エリア)へ向かう。次は、僕にとっては歴史認識でショックなこと(難しくてこういう科白しか言えない)だったが、巨大戦艦アリゾナ(海中に没した戦艦名)の記念館やパールハーバーをじっくり見学した。いまでもハワイの人々は、「真珠湾奇襲攻撃」と堅く信じている。夕暮れ近くなり、一転してスター・オブ・ホノルル・サンセット・ディナークルーズで船上から夕陽が世界を赤く染めながら没していくのを楽しんだ。ロブスターやビーフステーキ、美味しい果物も供され、最高の満足感を味わった。また、初体験であったが、水陸両用の車椅子でワイキキ・ビーチの海へ飛び込んだのもいい思い出である。その後、リニューアル・バウ・セレモニー(一行に結婚式を挙げた若いカップルがいたほか、金婚式のカップルもいた)に列席した。最後に鎌田實先生の講演会&『さよならパーティー』……以上、簡単に印象に残ったシーンを述べてきたが、盛り沢山な内容構成ながらゆったりしたスケジュールで組まれ、至福の刻を大いに楽しめた旅であった。

 

・僕が泊まったのはワイキキ・ビーチ・マリオット・リゾート&スパだったが、毎日、昼食は他のホテル(シェラトンやハイアット、ヒルトン、アウトリガー)など目先を替えてくれたので嬉しかった。食事の度、僕は何がしかの食前酒を注文した。ブランデー、焼酎、日本酒、ワイン、ウィスキー、バーボン等を美味しく呑んだ。鎌田先生は目ざとく僕の酒呑みシーンを見つけると、「あっ、また呑んでいる。それで何杯目?」などと訊いてくる。僕は「適量で呑んでいます」とさらりと受け流して涼しい顔だ。こういう受け答えはカミサンとの会話で慣れているのが強みだ。

 

・鎌田實先生は、最初の日、夕食を摂りながら時間をたっぷりとって講演をされた。この旅行の目的について、ご自分の出自等についても、忌憚なく話された。生い立ちで僕の印象に残っているのは、鎌田先生が1歳で養子に出されたこと。個人タクシーを営む養父と病弱気味な養母に引き取られる。その養母が心臓病を患い、闘病生活を間近に見たことから医者になろうと決意する。名門都立西高校から医学部進学を考え、「医大に進ませてほしい」と言ったところ、「バカなこと言うな! 貧乏人の息子は働けばいい!」と一蹴される。鎌田さんは、簡単には引き下がらない。強い思いを心に秘めていたからだ。養父にしがみついて「医大に行かせて欲しい」と泣いてすがった。結局、一浪の後、三つの医学部に合格、東京医科歯科大学へ進学することになる。時代は世界同時多発的に学生運動の波が押し寄せていた。先生も全共闘運動に参加したことがある。その時の東大デモ隊の中に今井澄氏がいた。後に、今井、鎌田の両氏が順に諏訪中央病院の院長を務めることになる。僕は素晴らしい話だと思った。

 

・鎌田先生は、大学を出ると、信州にあえて「都落ち」する。赤字の諏訪中央病院に押しかけ赴任した。「行くからには弱い人を助ける医者になれ」という父親との約束の履行であった。同じ長野県の佐久市に農村医学の父と呼ばれた若月俊一先生がいて、著書を読んで影響を受けたという。八ヶ岳連峰をはさんで佐久と諏訪がある。ここから長野県の健康に対する啓蒙活動が浸透していく。「地域住民を巻き込んだ健康づくり」である。こうした運動が奏功して、長野県の健康長寿度は大幅に改善していった。結局、鎌田先生が52歳で院長を辞めて名誉院長となった時、あの赤字病院は17億円の剰余金を持つ優良医療施設になっていたのである。

 

・その間の事情もお話された。赴任した当時、諏訪中央病院のベッド数は95床だった。それを145床に拡大する。40歳の今井澄さんが院長になって2年後、鎌田先生も33歳で副院長になり、二人三脚の病院づくりが始まった。最近、「鎌田先生、おめでとう!」と声を掛けられることが多いという。その理由は、かつて脳卒中にかかって死亡率が全国2位だった長野県が、いまや男女とも長寿日本一になった。その成果に貢献してきたというわけだ。それまで、信州人にとって、三度三度の食事の度に、また午前・午後のお茶の度に、野沢菜は欠かせない食べ物だった。それに加えて、海なし県の長野県には新鮮な魚は入ってこない。塩ジャケ、佃煮、塩からい味噌汁等、塩分過多の食生活が続いていた。この食生活を脱して、減塩の食習慣に変えていく。この運動が実を結んだのである。栄養価の高い野菜や果物、麹や納豆、味噌等の発酵食品を摂取し、さらには生活に「笑い」があれば良いと気づいた成果である。もう一つ、つい最近、鎌田先生は『鎌田式 健康ごはん』(マガジンハウスムック刊)の本を出された。それによると減塩にエゴマ、干し野菜、寒天、キノコ、キャベツ、ショウガ、ニンニク、ガリ、モロヘイヤ、納豆、オクラ、じゅんさい、唐辛子、わさび、ネギ……等をあしらって料理づくりする方法を奨励されている。

 

・話は飛ぶが、最後の日の講演は、スライドやパソコン等を使い、「がんばらない理論」をいろいろの局面で解き明かしていく。現在は、介護地獄の時代であるが、人生を変える、幸せな生き方をしてもらいたいという。例えば、交感神経と副交感神経のバランスを考え、ゆったりと38度の風呂に入る。そうすると副交感神経が活性化して、幸せホルモンのセロトニンが体内に出る。感動すると、さらに良い結果を招聘する。要は、「がんばらない」の実践である。あと、重要なことは鎌田先生が早くからチェルノブイリ原発事故の放射能汚染問題で、直接現地を見て、抗がん剤や抗生物質などの薬剤を日本から運び込む運動に熱意があったことだ。同時に、先の東日本大震災の時、福島第一原子力発電所の事故の深刻さが、鎌田先生にショックを与えた。早速、福島県南相馬市の知人と連絡をとって、薬剤や紙おむつ、カッパ、マスク等を携えた諏訪中央病院と日本チェルノブイリ連帯基金の混成チームが福島市立総合病院に到着した。「おでんパーティーをやろう!」、「千人風呂プロジェクト」、「ふくしま子どもリフレッシュサマーキャンプ」等のアイデアあるテーマを実行されている。そうした活動のスライドを見ながら、僕は鎌田先生がスケールの大きな真摯な医者だとつくづく感じ入った次第である。

 

・もう一度言うが、最後の夕食を兼ねて、参加者全員と鎌田先生がお話をされた。一人ひとりに身体の状況や旅に出て困ったこと、嬉しかったことを尋ねる。その後、先生のこれまで書いた著書15種類を、旅の中でユニークな患者に、一人ひとり「なぜ、この方はユニークだったのか」を解説した後で、手渡しされた。鋭い観察眼に裏打ちされたコメントを聞いて、改めて「臨床医・鎌田實」の本質が分かった気がした。ここで15冊の本の名前を、うろ覚えだが上げてみる――、 『がんばらない』『あきらめない』『それでもやっぱりがんばらない』、『なげださない』『雪とパイナップル』『ちょい太でだいじょうぶ』『空気は読まない』『鎌田實の幸せ介護』『言葉で治療する』『がんばらない健康法』『超ホスピタリティ』『へこたれない』『よくばらない』『ウェットな資本主義』『鎌田式 健康ごはん』、これらの自著をみなさんにプレゼントしてくれた。

 

・鎌田先生がこうしたお話をされている時、バックグラウンドに低く音楽が流れていた。その一つに、パブロ・カザルスの「鳥の歌」があった。鎌田先生が並々ならぬ音楽通だと思わせる曲である。講演にはまったく邪魔にならない、むしろチェロの響きが法悦の歓喜に誘い、酔うような作用をする。僕が、「天満敦子さんもこの曲を良く演奏されますね。またルーマニアの曲ですが、天満さんが弾くポルムベスクの“望郷のバラード”は絶品ですね」と水を向けると、鎌田先生も「天満さんのヴァイオリンは素晴らしい!」と頷きながら即答された。そして、自らもCDの製作については、加藤登紀子さんとジョイントされ、何枚も曲を作っている。鎌田先生率いる「JCF 日本チェルノブイリ連帯基金」で、CDの収益はすべて福島の子どもたちのために使われるという。素晴らしいボランティア精神ではないだろうか。

 

・鎌田先生の本ではないが、ちょうど今回の旅で持参した本、『旅は道づれ アロハ・ハワイ』(高峰秀子・松山善三著、中公文庫刊)は、道中恰好のガイドブックであった。「運命の地・ハワイ――亡き母・高峰秀子に捧ぐ 斎藤明美」のあとがきを見て、今は松山明美(作家/松山・高峰夫妻の養女)さんになったが、明美さんの発した冒頭の言葉「これほど素晴らしい本だとは思わなかった」との感想もうなずける。「人柄、価値観、暮らし方、夫婦の愛情……、そしてハワイという異国の地に抱く、二人の敬愛が溢れている」。お二人は1963(昭和47)年からハワイのアラモアナ・センター近くの34階建マンションの5階、2LDKの角部屋を買って、楽しんだ様子が活写されている。僕がこの本をバスの中で読んでいると、鎌田先生が「本好きな人なんだな、面白いかい?」と声を掛けてくれた。

 

・どうしても触れたいのが、学生時代に鎌田先生に影響を与えた三木成夫(しげお)氏についてである。当時、東京医科歯科大学の助教授だった三木成夫先生が「発生学」を講義してくれた。「私たちはどこから来たのか」。そんな深遠なテーマを、独自の手法でひもといていく。――人間は三八億年前に発生した単細胞の小さないのちがいまにつながり、哺乳類の顔に変わっていく。三木成夫先生は1925(大正14)年―1987(昭和62)年の生涯に、生命の根源的リズム、胎児に宿る面影などをキーワードに思索を深めた。生前の著書は二冊ある。『胎児の世界』(中公新書)、『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館)がそれ。この科学者(解剖学者、発生学者)であり、哲学者(ゲーテ、クラーゲス等)だった三木成夫さんと結婚したのが、三木(旧姓・竹谷)桃子さん。1940年生まれ。夫とは15歳も離れた才媛である。奇しくも僕の中学校の同期生である。彼女は以前、年賀状で「うぶすな書院で三木成夫先生の著作の編集、校正等の仕事に携わっています」と書いてきたことがあった。鎌田先生の尊敬する三木成夫先生を思い出して、ハワイとは直接関係ないが、触れてみた。

 

 

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鎌田實先生とわれわれ夫婦で談笑。ロブスターやステーキの美味しさもさることながら先生のウィット溢れる会話を楽しんだ。