2011.09.09勝呂忠さん 野見山暁治さん 新井苑子さん

●勝呂忠さん

 

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勝呂忠さん。20103月逝去。享年83。洋画家、舞台美術家のほか、早川書房の通称「ポケミス」の表紙絵を長く手掛けたことで有名。

 

 

 

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写真上の本:勝呂忠さんの「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズが講談社出版文化賞受賞をしたことを報じた『ミステリマガジン』20118月号のページ。写真右は、勝呂伸子さん(勝呂忠氏夫人=福田恆存氏の実妹)。

 

写真下の本:追悼・勝呂忠 誌上ギャラリー。「エラリイ・クイーンズ・ミステリ」の表紙イラストを創刊号から、同じく「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の装画を二十代後半から約60年間、20103月に亡くなるまで1730冊余り描き続けた。多くのファンを楽しませたことを報じる『ミステリマガジン』20107月号のページ。

 

・今回は、勝呂忠さん、野見山暁治さん、新井苑子さんの三人(いずれも画家)を取り上げてみたい。この原稿を書く直前まで、僕は夏風邪を引き、咳痰熱が出て約2週間ほど寝込み、これで僕は終わりかなというほどの衰弱状態にあった。やっと立ち直れることができたのは、この三人の画家のお陰であったと信じている。

 

・まず、洋画家で舞台美術家の勝呂忠(すぐろ・ただし)さんである。このブログにしばしば登場している大学時代の先輩で、僕の敬愛する龍野忠久さん(主に河出書房新社、講談社、新潮社などで活躍された校閲の専門家。1993年秋に肺がんで逝去)に紹介されたのがお付き合いの始まり。温厚な人柄の奥に、鋭い感性と創作意欲を秘めている方で、絵も装幀もモダンで斬新なものだった。ざっと計算してみると今から53年も前のことである。

 龍野さんから、勝呂さんの奥様伸子さんは、有名なイデオローグ福田恆存氏の妹さんだと聞いていた。福田恆存氏といえばいわずと知れた、評論家、翻訳家、劇作家として、また保守派の論客として、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の翻訳としてもつとに知られた方だが、当時、僕は尊敬していたこともあって、福田さんの本を片っ端から読んでいた。

 その伸子さんと結婚され、お子さんを設けた勝呂さんは、僕たちが知り合った当時、鎌倉の神奈川県立近代美術館のすぐ傍に住んでいたが、間もなく、二階堂の瑞泉寺近くに引っ越しをされた。龍野忠久さん一家も、実家があった都内北区の滝野川を離れ、鎌倉に転居し、最初は妙本寺に近い場所、その後、勝呂さんの住まいから数分の場所に引っ越しをされた。後に僕は、清流出版で画家・平山郁夫さんの単行本を手掛けることになる。そこで初めて分かったのだが、平山さんのお住まいとは徒歩15分位でご近所であった。僕は平山さんの単行本取材のため、都合十回ほど、平山さんの家を訪れている。そしてほぼ同じ回数、平山さんが馴染みであった寿司屋に通ったことを懐かしく思い出した。

 

・勝呂さんはお嬢さんが生まれると、「あかね」という名前を付けた。それが、漢字で書くと朱子(あかね)さんということが分かったのは、ごく最近のことだ。それまで僕は茜(あかね)と表記するとばかり思い込んでいた。朱子さんが生まれた後、銀座の茜画廊で個展をしようかと、勝呂さんが真剣に悩まれたことがある。その朱子さんも現在、51歳になるそうだ。そのことを教えてくれた長島玲子さん(僕の親友・長島秀吉君の夫人。二人は、龍野忠久さんに仲人役を頼んで結婚した。長島秀吉君は200911月、逝去。享年68)は、夫亡き後、勝呂夫人の後見役? として、僕にお願いしたいことがあるという。「勝呂忠さんの素晴らしい絵画を、広く世の中の人々に知っていただくために、お力をお借りしたい」というのだ。

 そういわれても、僕の力などたかが知れている。特に、二回の脳出血をして以降は、言語障害で言うことも書くことも、思い通りにならない。本当は、勝呂忠さんをよく知る千代浦昌道さん(獨協大学名誉教授)や、青木外司さん(青木画廊)、菅原猛さん(色彩美術館館長)、鈴木恭代さん(ピアニスト、東京音楽大学専任講師)……等に頼めば、僕よりきっとよいアイデアを出してくれそうな気がする。しかし、長島玲子さんからのたってのお願いということなので、微力ながら僕のブログで発信し、宣伝にこれ努めようと思った次第だ。

 

・簡単に、勝呂忠さんの略歴に触れておこう。1926年、東京生まれ。50年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)を卒業。1951年、モダンアート協会創立展に招待参加。56年、第1回シェル賞展佳作。6163年、イタリアに留学しモザイク壁画を研究する。その時、イタリア給費学生としてフィレンツェに学び、フレスコ画も勉強された。その後、多摩美術大学助教授を経て、79年、京都産業大学教授に就任。義兄・福田恆存氏が誘ったからだと思うが、教授をしながら舞台美術、装幀にも早くから手を染めている。

「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズ(通称ポケミス)の表紙画、約1730冊余りを描いている。最初の作品は、ケネス・フィアリング『孤獨な娘』(長谷川修二訳、1954年)である。勝呂さんは一連のボケミス表紙画を評価され、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)美術賞を受けている。著書に『西洋美術史提要』『近代美術の変遷史料』など。20103月、間質性肺炎のため死去、享年83

 

・龍野忠久さんによれば、日本のミステリは、日本人以外には余り馴染みがなかった。「勝呂忠さんの快挙は、米国の『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』も脱帽するぐらい装幀が素晴らしかったので、メディアとして美術賞を挙げざるを得なかった」と龍野さんは受賞理由を解説した。また最近、『ミステリマガジン』20118月号に載った、ミステリ作家の逢坂剛さんによると、「勝呂忠さんは、モダンアートの世界にこの人あり、といわれた著名な洋画家である。……若くして脚光を浴びる存在になった。……これはもうギネスものである。わたしが学生のころ、モダンな装丁のポケミスを持ち歩くことが、〈ハイブラウ〉の象徴にさえなっていた」と書いている。僕も逢坂さんの意見に大賛成だ。ひと頃は「勝呂ブーム」があり、有名な田村隆一さん(早川書房の初代編集長)との交流がものをいった。ちなみにその田村隆一さんの処女作『詩集 四千の日と夜』(東京創元社刊、1956年)も勝呂さんの装幀である。

 

・長島秀吉君は、勝呂忠さんの絵画を飾るために家を改築し、大きな壁面を設けた。勝呂さんの作品に惚れ込んだ真のコレクターであり、その所有する数十点を毎日飽かず眺めては楽しんでいた。多忙な長島君にとって、「勝呂さんの絵画は生活の潤いに欠かせない」と僕によく言ったものだ。絵画は毎日見ていて、初めて分かるとの卓見の科白である。青木画廊の青木外司さんが、「長島君はリッチマンだから」とよく言っていた。真のリッチマン、長島君の面目躍如である。

 僕は二階堂の勝呂さんのお宅には、三回くらい伺ったことがある。二階の広々としたアトリエには、描きかけの絵が何枚か置かれており、過去にご自分が装幀してきた本が全部揃っていた。瑞泉寺に近い閑静なお住まいは、仕事に集中できる絶好の環境だったに違いない。僕は勝呂さんの小さな版画を持っていて、時々眺めている。「リッチマン」ではないので、こうした勝呂ファンの一人に過ぎない。だがここまで読んでこられた方で、勝呂さんの絵に興味をもち、鑑賞したいと思う人がいたら、買うこと(所有すること)をお勧めする。勝呂伸子さんの言によると、全部で200点ぐらい那須のアトリエに眠っているそうだ。加登屋のプログを見て、興味が沸いたのでと一言言ってくれれば幸いである。この後、勝呂伸子さんのお許しを得て、絵画を1点、それも有名な黄土色の作品シリーズの絵画を、このホームページで公開することにしよう。

 

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『均衡の相(曲線)』1982

 

 

 

 

 

 

 野見山暁治さん

 

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野見山暁治さんから、新著『異郷の陽だまり』を送っていただいた。

 

・夏風邪で2週間ほど床に伏せった病み上がりの身には、本当に嬉しいプレゼントだった。90歳を過ぎてなお、矍鑠として活躍されている画家、そして名エッセイストでもある野見山暁治さんから、新著『異郷の陽だまり』(生活の友社刊)が贈呈されたのだ。装幀はあの菊地信義氏である。帯の文章に「過ぎてみれば歳月は一瞬に縮まる。もう一度、あのしじまに立って、今の自分を見つめてみたい」とある。僕も野見山さんと同様、過去を懐古するより現在の自己直視が必要だと思っていたところだったので、贈られた本に飛びついた。

 この本を読めば、野見山さんの交友歴が歴然と分かる。例を挙げれば、藤田嗣治、麻生三郎、香月泰男、木村忠太、森芳雄、小川国夫、田淵安一……等が独特な視点で語られる。僕の大好きな椎名其二さんも登場しているが、画家・佐伯祐三のことや哲学者・森有正とやりとりが面白い。このあたり、よくぞと担当編集者を褒めてあげたい。こうした古い原稿を見つけてきて、単行本として編んだ意図が素晴らしい。また、無言館の窪島誠一郎さん(このわが社のホームページで、『夜の歌――戦没作曲家・尾崎宗吉の生涯』を執筆中)と一緒に菊池寛賞を受賞するに至ったくだりは、野見山さん独特の軽妙洒脱な筆致で思わず笑ってしまった。ついでに思い出したのが、窪島さんの温情により、長島秀吉君が亡くなる前年(2008年)6月、貸切バスをチャーターして上田市・無言館を訪れ、閉館後、この無言館でクラシックの演奏会を催したことだ。とりわけ椎名其二さんが勧めてくれたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番が目玉だったが、窪島誠一郎さんもよくぞ承諾してくれたと、今でも感謝しているし、貴重な思い出ともなっている。

・この本で、興味をもった箇所がある。僕が高校生の時、ドイツ語を教わった坂崎乙郎さんのことだ。野見山さんは坂崎さんのことをたった1行しか書いていないが、その文章が僕の多感な高校生時代を思い出す導火線となった。坂崎乙郎さんが、西ドイツのザールブリュッケンに留学(3年間)して後、早稲田大学高等学院のドイツ語の教師となって帰国、僕らを指導してくれた。あの有名な処女作『夜の画家たち』(雪華社刊)を出す2年前のこと。新進気鋭の西洋美術史研究家、美術評論家として、世に出る直前のことだった。

・坂崎さんは僕ら高校生を相手に、ドイツ語より絵画の研究を情熱的に語った。僕はそういう人が好きだったから、この授業を大歓迎した。(僕の長男が大学でひょんなことから、坂崎先生を尊敬している哲学者・社会学者と知り合いになった。その方が坂崎フリークともいえる方だったのも不思議な縁を感じる)。坂崎先生は次々と素晴らしい本を書き、僕も興味を惹かれて買いまくった。

・主にドイツ表現派、幻想派の画家を紹介した。分けても、28歳の短く波瀾に満ちた生涯を送ったウィーン表現主義の画家、エゴン・シーレの愛と苦悩を名文で語ったのにはしびれた。僕の興奮は頂点に達したといってよい。それがなんと、坂崎さんも57歳で自殺してしまう。父親の著名な美術史家・坂崎坦は、91歳と長生きしたのにである。巷では憶測が渦巻いた。その自殺の前、親しかった鴨居玲さん(鴨居羊子さんの弟)が自殺。その影響も論じられたものだ。野見山さんの著書から話が飛躍してしまったが、このような連想に至ったことにむしろ喜びを感じる。

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かつて長島秀吉君が経営していた長島葡萄房(東京・杉並区方南町)を訪れて、くつろぐ野見山暁治さん。画面には見えないが、勝呂さんの絵が数点、店内に飾られていた。長島葡萄房のコンサートによく通った清流出版の社員は、見た覚えがあるはず。

 

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個展会場で野見山さんとのツーショット。

 

 

 

 

 

●新井苑子さん

 

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新井苑子さんから絵画をプレゼントしていただいた。

 

・新井苑子さんから。絵画のビッグ・プレゼントが届いた。ある日突然、デパートから大きな包みが届いた。開けてみると、上のような絵画が出てきた。これまでも新井さんは、新しい郵便切手をデザインするたびに、僕に送ってくれた。今回は、月刊『清流』の表紙絵をジークレー(Giclee)版画にしたものであった。近年、ジークレー版画は吹き付けて着色する方法で、最も原画に忠実な表現ができる技法として注目されている。この度いただいた絵は、タイトルが「オランダの花祭り」で、木靴の中から美しい花々が咲いている風景が印象的だ。新井さんらしいイメージで表現した優れた作品である。新井さんの話では、京都新聞社、読売新聞西部本社(福岡)の依頼を受け、年末美術家チャリティー展のために版画にしたという。

残暑お見舞いの書状も同封されていた。その時僕は、2週間ほど、夏風邪をひいてうんうん唸り、酒も飲めない状態で、心が晴れぬ日々を送っていた。大好きなジャズやクラシック、映画やミステリーにも全然興味が湧いてこず、71歳の夏を迎えて、もうこれで終わりかと思えるほど落ち込んでいた。そんな絶不調の時、届いた絵である。見るだけで、気持ちが明るくガラッと弾んだ。新井苑子さん、本当に有難うございました。

 

・新井さんのことを話す時、昨年2月、同じ町内(東京・世田谷区成城)でお亡くなりになったご母堂のことに触れねばなるまい。97歳で逝去されたが、長く『清流』の有料購読者であった。隅々まで読み、分からないことがあれば、辞書や事典を使って調べるほど向学心の強い方だった。こういう読者がいることを知るだけで、編集者は元気をもらえる。支えられていることで励みになるものだ。

 また、令息についても触れておきたい。医学博士で、日本形成外科学会認定専門医であり、米国ハーバード大学形成外科研究員(20072009年)と素晴らしいキャリアだ。現在は、日本医科大学付属病院准教授、医局長を務めておられる。趣味は、ジャズ、ドラム演奏、米国のSF・サスペンス映画鑑賞、スキー、バドミントン……など。数々の画期的な医学的解析、治療法を編み出した方である。どうしたらこのような優れたご子息が持てるのか、新井さんからじっくりお聞きしたい。もっともご主人の姪御さんとその旦那さんが病院を経営しており、いざとなったら身内だけで全身どの部分でも診察してもらえるというから、うらやましい限りである。

 

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かつて新井苑子さん(後列右)は、われわれ夫婦を招待し、美味しいフランス料理をご馳走してくださった。後列左は松原淑子(月刊『清流』編集長)