2010.02.01千代浦昌道さん 白河桃子さん 相澤マキさんほか

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千代浦昌道さん、藤木君、僕

・獨協大学名誉教授の千代浦昌道さん(右)。先月の本欄末尾で少し触れさせていただいたが、わが先輩であると同時に、わが親友の故・長島秀吉君のよき理解者でもあった。長島葡萄房でのコンサートには、愛妻とほぼ皆勤されるほどの、音楽を楽しむ常連である。千代浦さんはジャズコンサートにも熱心に通ったが、クラシックコンサートの「アンサンブル・ヴィーニャ」(ヴァイオリンの三好明子さん、チェロの大石修さんを軸に組んでいる日本フィルハーモニーの室内楽メンバー)が大好きだった。長島秀吉君は「アンサンブル・ヴィーニャ」の第100回長島葡萄房コンサート(2008年3月19・20日)に際し、アンサンブルの「小さな歴史」(第1回は1987年5月29日)を編んで出席者に配布してくれた。僕も清流出版の有志とコンサートに参加していたが、残念ながらその小冊子を紛失してしまった。後日、千代浦さんから拝借して親友が企画開催したコンサートの偉大な足跡を改めて偲んでいる。町の一介のイタリアンレストランのオーナーが、手作りのコンサートを20年以上情熱的に運営してきた。いまや町の名物となり、方南町イコール長島葡萄房コンサートとして耳の肥えたファンの期待に応え、成功している。このコンサートは大ホールで聴くコンサート以上に我々を感動させ、その記憶は今も胸に深く残っている。これまで、もし千代浦夫妻と会いたくなったら、長島葡萄房コンサートに行けば大抵会えたが、昨年暮れに長島秀吉君が亡くなって、最早、できなくなった。

・その千代浦昌道さんを年明け早々わが社に招いた。実はかねてより版権の取得を目指し、やっと取得できたフランス語の原書を見ていただきたいと提案したのだ。千代浦さんはご多忙の中を、スケジュールを繰り合わせて来社してくれた。原書は、ジャン?ミシェル・バロー著『現代の海賊ども』(Jean?Michel Barrault;PIRATES des MERS d’aujourd’hui GALLIMARD  2007年)である。著者のジャン?ミシェル・バローは世界一周航海者、海洋作家、ジャーナリスト、海洋アカデミー会員である。その著書は35冊以上に及び、大半が海洋に関するもので、世界十数か国で翻訳刊行されている。この本を紹介する前に千代浦さんという人物を紹介しておこう。

・千代浦さんには以前、僕の勤めていた出版社で翻訳を依頼したことがある。『海洋資源戦争――新たな分割競争を生きる道』(G.シュラキ著、ダイヤモンド社、1981年)がそれ。これはダイヤモンド現代選書の一冊として、当時、他に類のない書としてかなり評価を得た。当時の日本人、なかんずく政治家、経済人に、海洋資源をもっと重要視する姿勢がほしいと思っての出版だった。現在、このような問題に対し、日本は決定的に対応が遅れている。今回のジャン?ミシェル・バローの『現代の海賊ども』も、ソマリアの沖合などで船舶を襲う海賊を扱った本で、国際的にも日本が焦眉の急として対策を講じなければいけない重要テーマだと思う。そこで今回、千代浦先輩にご登場願ったというわけだ。原書はフランス語で書かれており、千代浦さんが最も得意とする言語である。その他、千代浦さんの主な翻訳書としては、『ヨーロッパの賭  経済再建への切り札』(ミシェル・アルベール著、竹内書店新社)、『フランスの経済構造』(ピエール・マイエ著、白水社)等がある。

・千代浦さんの大学での専門・研究テーマは、途上国の経済開発理論の研究、アフリカ経済の研究(旧フランス領アフリカ諸国を中心に)、現代フランス経済の研究と3つあるが、名誉教授となって多少時間的余裕もできた現在、「世界の海洋資源と紛争・戦争」の項目を加えていただけたらと思う。いや、もう一つ、「マダガスカルの政治と経済の研究」もある。研究者として現地へ何回も赴き、かのマダガスカルの高地族と海辺族、アジア系とバンツー・アフリカ系の民族間のいざこざや大統領選にまつわる話、農業の話などにも詳しく、原書の背景となる事情にも十分通じておられるのも強みである。

・ジャン?ミシェル・バローの『現代の海賊ども』だが、近年、ソマリア沖での頻繁な海賊行為が世界中で大きな関心を呼んでいる。だが、海賊行為そのものはソマリア沖だけではなく、東南アジア、マラッカ海峡、インド亜大陸、アデン湾、紅海、アフリカ、南米、カリブ諸島……と、全世界の海上で行われている。過去20年間に実に4000件以上起き、現在も多発している。しかも現在、世界の全物流品の97パーセント、石油の60パーセント以上が海上輸送に依存している。この貴重な財産を狙って、機関銃や携帯ロケット砲や手投げ弾で武装した組織的な海賊が出没し始めた。それも人質を取って身代金を要求したり、乗組員を拷問したり殺人を犯すなど、極めて凶悪、凶暴化しつつある。時には船を奪取し、塗装し直し、船名を変えて売り払うようなこともする。このような実態を個別に詳細に分析し、豊富な実例をドキュメンタリータッチで生き生きと活写し、海賊の実態を抉り出している。

・日本政府も海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」「さみだれ」等を現地に派遣した。そして、2009年6月19日に自衛隊の新たな海外任務である海賊対策をめぐって「海賊対処法」が可決。海上自衛隊がインド洋での補給支援活動に加え、ソマリア沖での海賊対策部隊派遣を受けて、「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」が成立した。いわば世界が注目する「時の話題」であった。海洋立国・日本が、大きく世界に貢献できることにもなる。そうした問題に真摯に取り組んだ本にしたい。そのこととは直接関係ないが、今、映画界ではジョニー・デップ主演の「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズがここ数年大人気となっている。「海賊」という単語はすでに、定着しているといってもよいだろう。翻訳書が刊行されたら、ぜひ有識者に読んで、書評に取り上げてもらいたいものだ。

・千代浦昌道さんと僕の関係についてもう少し述べておきたい。千代浦さんは僕より1年先輩で、ともに早稲田大学第一政治経済学部経済学科で学び、以来約50年間親しいお付き合いが続いている。千代浦さんはカトリック研究会(カト研)、フランス文学研究会(仏文研)の部活動をやり、僕の友人たちも同じ部活動で接点があり、そうした関係で知り合うこととなった。親しくなった経緯は大先輩の龍野忠久さんを中心に、日仏学院で長塚隆二先生の「フランス・ジャーナリズム研究」講座を一緒に学んだことが大きい。その日仏学院の行き帰りに聞いた、僕より12歳年上の龍野さんとの話が刺激的に面白かった。まもなく僕が出席した山内義雄先生のフランス語の授業も龍野さんとの関係を深める要因となった。千代浦さんとは学年が違ったので山内先生との結び付きは同じというわけではない。だが、学年や年齢を超え、いわば「龍野ファミリー」の一員として、千代浦さんたちと遊びながら芸術や文化のあらゆるジャンルで刺戟を受け、与えあったのは僕の人生においてかけがえのない幸せな体験だった。画廊、演劇、映画、写真、音楽、建築、デザイン、古本屋巡り……などをしながら全員で切磋琢磨した。この集まりの中に、先号で触れた長島秀吉君、正慶孝教授、神本洋治君、鈴木恭代さんらがいた。1993年秋、龍野さんが肺ガンでお亡くなりになって、以来、僕は千代浦さんを師として敬愛してきた。千代浦先輩は、大学を卒業した後、第一銀行に就職、その後、早稲田大学の大学院に戻って学問を究め、社団法人日本経済調査協議会の仕事を経て、獨協大学教授として学究生活を送られた。晩年は獨協大学図書館館長として腕を振るった。この間、パリなどの海外生活も経験された。かつて僕が若かりし頃、千代浦夫妻の結婚式の司会役を仰せつかったことを密かに誇りと思っている。千代浦さんは堅実な人柄と温厚な紳士として定評がある。例えば、読書はモンテーニュの『エッセイ(随想録)』を読むほかユマニストの著書を好み、『老子』をより深く理解したいと中国語を学び、努力を惜しまない素晴らしい人である。今後も折に触れて、その人格と教養の一端に触れたいと思っている。

 

 

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白川桃子さん、ジョエル・ブリュアンさん、松原、僕

・月刊『清流』に連載コラム「白河桃子のトレンド講座」をお願いしている今一番の売れっ子ジャーナリスト・白河桃子さん(左)をお呼びして、会議を兼ねた会食の時間を取っていただいた。白河さんは「婚活」という言葉をいち早く世に広めた方として知られる。「結婚活動」の略であるこの言葉は、NHKやフジテレビがすぐにドラマに使って、「婚活ブーム」が起こった。その火付け役となったのが『「婚活」時代』(ディスカヴァー刊)という著書を家族社会学の山田昌弘中央大学教授と共著で出版され、一躍全国区として有名な言葉となった。2008年の流行語大賞にもノミネートされたほどである。そのほかテレビの「情熱大陸」では、地方自治体の「お見合いパーティ」を改革していく白河さんを追い、役場のベテラン担当者も目からウロコとなった「白河流・交際管理術」を披露された。少子化問題や女性のライフスタイルについて、丹念な取材を重ねてきた白河さんは、非婚・晩婚化時代の救世主となるのではないかと期待されている。

・月刊『清流』では、「婚活」のほか、「アラフォー」、「草食系男子」、「ケータイ」、「レキジョ」、「ファストファッション」、「イケメン」、「ギャル」、「専業主婦回帰」、「森ガールVSクーガー女」、「B級グルメ」など今時のトレンドを1年間にわたって検証していただいた。この連載はひとまず終了するが、白河さんが長年温めていた別の企画を、少し時間をあけてご執筆いただく予定である。その有力候補は、「戦場に行った女性たち」。昨年お亡くなりになった上坂冬子さんは、川島芳子、満州事変、第二次世界大戦を幅広いテーマにお書きになっていた。だが、白河さんの場合は、現在紛争中のイラク、イラン、アフガニスタン、東ヨーロッパ、アフリカ、中南米、アジア……の現地に飛び込む日本女性たちが取材対象者。聴くと若い人がどんどん海外の紛争地帯、戦争の真っ只中に飛び込んで行き、看護や調停や後方支援の仕事をしている。自分のことは二の次で、身を粉にしての活動ぶりというのだ。国際的にも視野の広い活動で、平和ボケの日本人に活を入れる、よいルポ記事になるだろう。

・今回の会議で、白河さんの興味の対象となるジャンルがわかった。その一端をご紹介すると、「跡取り娘社長」、「産活」、「セレブ妻」、「結婚力検定」などのテーマを追求したいとおっしゃる。なんとも言葉だけでもそそられるテーマである。そして、ほぼ15年間修業し、忙しいので途中でお止めになった茶道を今年から本格的にやりたいとおっしゃる。お話がつねに前向きなのが素晴らしい。個人的には、「戦場に行った女性たち」のテーマに一番期待するが、もう一つの気になるテーマが「跡取り娘社長」だった。着眼点がよいと思った。お話を伺って、女性が日本を立て直すという気がしてきた。それも白河さんのお話によると、美人ぞろいの賢婦人たちが先駆者となり、日本の産業、企業を立て直すケースが可能だという。

・白河さんとのお話の途中、名前を失念していたが、テレビなどに出ている骨董商・古美術鑑定家の中島誠之助さんが贔屓にしているレストランの名前は、松本市の「鯛萬」(たいまん)でした。松本を代表する格調高いフランス料理店で、白壁に黒い柱、松本民芸家具を配したシックな雰囲気の店内。北アルプス登山をして下山したら、鯛萬でコース料理を堪能するのが山男たちの夢といわれた。中島誠之助さんは午後、思い立って中央線の「あずさ号」に飛び乗り、松本の鯛萬で食事する。誠之助さんの口癖である、「いい仕事してますねー」と言いたい気分だと思う。今回の白河さんとの会食は、東京ミッドタウンにある「キュイジーヌ・フランセーズ・ジェイジェイ」というレストラン。オーナーのジョエル・ブリュアンさん(左から二人目)が僕と同じマンションの住人である。言語障害の僕より日本語が上手である。正統派フレンチを味わう店として申し分ない。「ジェイジェイ」という名前をつけているのは、「ジャポンのジェイ、ジョエルさんのジェイ」にちなんだネーミング。ぜひ贔屓にしてください。

 

 

 

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菅原猛さん、相澤マキさん、福井和世さん

・先月号の本欄で相澤マキさん(左)のことに少し触れた。その時は、僕の尊敬する恩師・椎名其二さんと親戚関係にあるとしか書けなかったが、その後、マキさんとメールのやり取りで分かったことがある。椎名其二さんが72歳で来日するも、日本に失望して、また40年間住み慣れたフランスへ戻る際に、同じ汽船に乗って渡仏した女性がいた。椎名其二さんが大伯父に当たる椎名ミチさんである。ミチさんは当時、僕と同じ19歳ぐらいで、東京学藝大学に学んでいた。いつも椎名先生の狭い部屋の片隅に座って本を読んでいた。その妹さんが相澤(旧姓・椎名)マキさんである。父上は椎名正夫さん。椎名先生の所でしばしば会ったことがあるが、温厚な紳士だった。椎名ミチさんは大伯父である其二さんの世話をする係りとして日々暮らしていた。結局、ミチさんは椎名其二さんと一緒にフランスへ渡った。マキさんは当時、高校生であまり事情を詳しく知らないまま、姉妹が日本とフランスへ分かれてしまった。その後の人生をマキさんに初めて聞いた。半世紀経った現在、父・正夫さん、姉・ミチさんのほか兄弟がことごとく亡くなり、残ったのは92歳になる母・和子さんと相澤マキさんしかいないという。マキさんは、現在、秋田の地方紙でフリーランスライターをやり、九段下にある日本語学校のホストマザーや秋田の農家の代行で農業関連の記事を書く仕事をしているという。そして、ある日、清流出版のホームページ欄で僕が書いた椎名其二さんのことを読んで、僕にコンタクトを取ったということである。相澤マキさんの好奇心が、そもそもの話の発端であった。便りをくれたころは年末年始のスケジュールで忙しいほか、長島秀吉君の逝去、山内義雄先生のお嬢さんとの初お目見えなどがあって、マキさんに会うのは少し待ってもらった。

・相澤マキさんは、僕と会う際に従姉を同行する許可を求めてきた。その方は、椎名其二さんの兄上・椎名純一郎の孫に当たられるという。かつて僕が本欄に書いたように、其二さんの兄・純一郎さんは昭和12年に亡くなっている。純一郎さんの一高の同窓生には安倍能成や藤村操らがいて、角館初の地元新聞「角館時報」創刊に尽力、大正期の角館の若きリーダーとして活躍されたと書いた。そして、椎名其二さんがフランスから第1回目の帰国を果たした際(大正11年)、純一郎さんは弟のため当時珍しい木造の洋館を屋敷内に建てたという。その純一郎さんのお孫さんが福井和世さん(後列中)である。僕と同年齢で、相澤マキさんより4歳ほど年長。福井さんは早稲田大学の文学部仏文科で学び、マキさんは早稲田大学の教育学部を卒業された。たまたま早稲田出身者が重なった。福井さんは、現在、ご主人と株式会社リーブル(創立1987年)という出版社を経営しておられる。児童書、絵本を中心とした出版社である。日本童謡賞、日本童謡賞新人賞、三越左千夫少年詩集……などいくつかの賞を取っている。やはり祖父・純一郎さんのマスコミ人としてのDNAが福井和世さん夫妻に受け継がれていると思う。

・今回の集まりにもう一人、椎名其二さんにフランス語を習った文学部仏文科の菅原猛さん(右)もお呼びした。彼は語学にかけては仏文科の秀才であり、イタリア語もできる方だ。長島君や僕のような政治経済学部の人にはできない人脈と知識がある。例えば、椎名其二さんと知り合いの画家(岡本半三さん、戸田吉三郎さんなど)や作家・評論家(近藤信行さん、蜷川譲さん)等、僕より詳しく知っている。また、菅原猛さんは渋谷区神宮前で色彩美術館を主宰されている。奥様もヨシタ ミチコさんのペンネームで(株)カラースペース・ワムの代表をされていて、月刊『清流』でその知識の一端を披露されたこともある。当日、菅原猛さんの言葉で初めて分かったことがある。椎名先生の伝記を書こうとした元中央公論社編集長、現在山岳文学研究の第一人者である作家兼山梨県立文学館館長・近藤信行さんが椎名先生に纏わる大事な資料などをある方に抑えられていて、大半を書いたが肝心のところで完結できないということである。近藤さんが同人誌『白描』に書いてある椎名其二さんのことは、完成すれば椎名其二さんの全貌が明らかになるに違いない。僕は近藤信行さんにエールを送り完結を待っていることをここに改めて発言したくなった。

・当日、菅原猛さんの持参した新聞記事には特筆すべきことが書いてあった。パリ大学東洋語、東洋文化研究所教授の肩書で森有正さんが、「椎名其二氏のこと」と題してエッセイをお書きになっていたのである(昭和47年10月27日)。その一部分を紹介しよう。「……そしてそれは何というすばらしい物語だったであろう。心底まで真面目で純粋な椎名さんはまたすばらしい理智をそなえていた。だからその話には馬鹿げたところは少しもなかった。それから椎名さんの毒舌は全く何ともいえないもので、私はそれに耐え終(おお)せることが出来なかった。それは私の人格力の貧寒さを証明するだけである。しかしそれまで与えられただけでも私の消化しきることの出来るものではなかった。」――この森有正さんの文は、椎名其二さんの本質と性格をよく表現している。「この優れた人格の五十年の経験がこちらに噴(ふ)き込んで来るその凄(すさ)まじさは何にたとえようもない」と。椎名老人はあの哲学者・森有正をも吹き飛ばすほどの騎虎の勢があったのである。

・この日、僕も偶然、森有正さんの本を持って行った。『木々は光を浴びて』(筑摩書房刊、昭和47年5月)である。冒頭の「雑木林の中の反省」の章で、S氏という老人を森さんが書いている。それが椎名其二さんのことだと我々にはすぐ分かる。その文章の中で――、《S氏は「金」(かね)で生涯苦しまれた。しかし「金」の本性を徹底的に見抜いておられたと思う。「と思う」と言ったのは、私自身がその点までまだ辿りついていないからだ。S氏の深い洞察は、「金」はものではない、ものとなることは決して出来ない、という一言に尽きると思う。そしてそれは凡ての革命の根本原理である。しかし氏もまた金のために働かねばならなった。「経験」の中に本当のものとの邂逅に向って歩みつづけるS氏にとって、それは耐えがたい苦痛だった。その苦痛の中で、「金」の本性はますます明かに見破られて行ったのだと思う。》――「金」と「もの」と「経験」。あの高潔な老人に対し、人間の尊厳と「金」のからくりは永遠の課題として圧し掛かっている。僕は今の年齢になってこの問題がやっと分かるようになった。森有正さんの言うように――、《「金」と「もの」、この二つのものは、経験の両極のように思われる。かねにはかねの合理性があり、その合理性は、働かないで他人の必要を利用して、一つの運動を実現する極端に人間臭の強い一面があり、そこから経験の中に介入して来る。それは殆ど必然的でさえある。》 そして、《ここではかねはものではない、という直感を確認すれば十分である。》と論じる。椎名老人と哲学者・森有正さん、それぞれの人生の生き方が分かる文章だ。

・「椎名老人」のテーマはまだ話したいことがあり、今号は尻切れトンボだが、一先ず、終わりにしたい。相澤マキさん、福井和世さん、菅原猛さんと会って触発を受けた。椎名其二さんに纏わる話は、亡くなった親友・長島秀吉君と僕が「聞こえない会話」を繰り広げる気分であって、みなさまに関係がないとも言える。最も間接的な話は、最も直接的に心に響く――ことを祈る!