2008.11.01

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窪島誠一郎さん、天満敦子さん、長島君、笹川さん、藤木君、臼井君、僕

・「編集部から」(2008年9月)に藤木企画部長も書いているように、窪島誠一郎さん(後列右から2人目)の新刊『私の「母子像」』が8月下旬に刊行された。10月に入ってから遅まきながら出版を記念しての食事会を開いた。この席に窪島さんと親しいヴァイオリニストの天満敦子さん(前列右)が飛び入りで参加してくれた。お蔭で華やかで楽しい食事会になった。

・冒頭、熊本日日新聞に大きなスペースで載った書評が話題に上った。出久根達郎さんの筆になるもので、《本書を開いて、まず驚いたのは、「母子像」を描いた絵画が、こんなにもあるのか、ということだった。……(中略)これは「母子像」の名作を通して語る、著者の自伝でもある》と書いておられる。窪島さんもこの本の中で《名画家、実力画家が描いた三十六点の「母子像」に託して生父母や養父母に対する思いのたけ、ザンゲ、後悔の思いのたけを吐き出した》と執筆意図を書いているから、出久根さんのご指摘は、ズバリ正鵠を射たものであった。

・『私の「母子像」』には、窪島さんの生母と養母、終生二人の母の子でありたかったとの願いが溢れ出ている。子を思い、母を思う心は永遠である。時代を超えて変わらぬモチーフであった母と子、さまざまな「母子像」とのめぐりあいは感動にみちて、その情熱が文章の端々まで反映した一冊であった。

・窪島さんの著書は優に五十冊を超えている。今更言うのは気が引けるが、窪島さんの文章のうまさは天下一品である。父君である水上勉さんの文才を引いていると思わざるを得ない。

・もっと語りたいが、ここからは天満敦子さんの話に切り替える。この日、窪島さんがもっぱら天満さんのことを話題にしたからである。お陰で普段は聞けないような話もたくさん聞けた。窪島さんは軽妙洒脱な話術が巧みで、それを如何なく発揮したのが、天満さんの来し方を紹介するエピソードである。細部にわたり面白おかしく語って飽きさせない。このお二人は、「あっちゃん」「せいちゃま」(注1)の愛称で呼びあうほどの仲良し。天満さんが「せいちゃま、だーいすき」と言いながら、隣の窪島さんの肩にしなだれかかる。天衣無縫な天満さんしかできない芸当だ。

・窪島さんの巧みなスピーチを再現したいところだが、とてもとても僕の文章能力では難しい。我慢してお読みいただきたい。天満さんの才能は幼少の頃から抜きん出ていた。6歳からヴァイオリンをはじめ小学校時代、NHK・TV「ヴァイオリンのおけいこ」に出演、講師の故江藤俊哉に資質を認められた。東京藝術大学在学中に日本音楽コンクール第1位、ロン・ティボー国際コンクール特別銀賞を受賞し注目を浴びた。ここまでは窪島さんの言を待つまでもない世間周知のことだ。

・ここから驚きの連続となった。天満さんの女子高生時代に遭遇した事件? が明かされたのだ。16歳の時、御茶の水で作家の井上光晴に見初められたのだという。勁草書房の窓ガラス一面にでかでかと井上光晴の顔入り宣伝ポスターがあり、天満さんがしげしげと眺めていると、当の井上光晴に声を掛けられた。「この先の芸大附属高校に通ってるんです」と応えると、「この先の『ジロー』でケーキでも食べませんか」と誘われたのである。以来、年齢差30歳余りという稀有な交際が始まる。その時のやりとりや成り行きが、窪島さんと天満さんの口から語られて面白かったが、僕は文章に表す自信がない。

・ときに井上光晴は瀬戸内晴美と恋愛関係にあった。天満さんのお母さんと瀬戸内さんが東京女子大で同級生だったこともあり、複雑な人間関係に入る。つい最近、齋藤愼爾さんが出版した『寂聴伝――良夜玲瓏』の作品がこの件を多分触れているのでないかと天満さんは言う。そして、井上光晴の仲間には埴谷雄高、島尾敏雄、野間宏、橋川文三、秋山駿……などといった錚々たる文士がいた。丁々発止と文学論を戦わす中で天満さんは鍛えられる。「この子は天才だ」という井上さんの言を柳に風と受け流し、いわば天満さんは才能あるかわい子ちゃん的存在で、≪オジサマ殺し≫の青春時代を送ったのだと思う。

・のちに丸山眞男も熱烈な天満ファンになり、わけても天満さんの弾くバッハの「シャコンヌ」を熱愛した。後年、丸山さんが亡くなって偲ぶ会が行なわれたときもその曲を弾いている。丸山さんの魂が乗り移って「人生の軌道を変える出来事」のように思われる経験だったと天満さんは述懐する。なお、天満さんはヴィターリの「シャコンヌ」も演奏会でしばしば弾き、どちらの曲も僕は大好きだ。簡単にまとめたが、まさに事実は小説より奇なりである。

・本業のヴァイオリンでは、海野義雄、井上武雄、間宮芳生、宇野功芳、田村宏、シゲティ、レオニード・コーガン、ヘルマン・クレッバースらの師匠にも恵まれた。井上光晴さんの「ヴァイオリン一筋でいけ。わき目を振るな」「本物を見つめろ」「あんたは本物になれ」の言葉を守り通したことになる。

・その井上光晴ががんで亡くなった1992年、天満敦子さんにとっても、人生の曲がり角だったと窪島さんは言う。この年、天満さんはルーマニアを「文化使節」として訪れたことが縁になって、ルーマニアの「薄幸の天才作曲家」ポルムベストの「望郷のバラード」に出合うことになる。早速、この曲を日本に紹介。いまや演奏会の時に欠かさずその曲を弾いて、天満さんといえば「望郷のバラ?ド」が代名詞といわれるまでになった。

・その曲を手にした天満さんを、芥川賞作家・高樹のぶ子は『百年の預言』というルーマニア民主化を背景にした恋愛小説として世に出す。主人公の走馬充子は明らかに天満敦子がモデルで、これまた話題になった。

・清流出版有志(藤木、臼井、僕)も天満敦子さんのコンサートをこの出版記念会を挟んで9月と10月、二度聴きに行った。名器アントニオ・ストラディヴァリウス「サンライズ」と弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓の奏でる音に酔った。9月は天満ファンを自認する小林亜星とのジョイントコンサート(なかのZERO大ホール)があり、10月はミッシャ・マイスキー(チェロ)とのジョイントコンサート(東京オペラシティコンサートホール)があった。この10月のミッシャ・マイスキーとの共演は素晴らしく、いつまでも心に残る音楽会だった。どちらの演奏会でも、天満さんは「望郷のバラード」を弾いた。憂いを帯びた美しい旋律と、曲に秘められたエピソードを聞いて、天満さんの人間的魅力がますます好ましくなった。これからも熱烈な天満ファンでありたいと思っている。

・また今回、わが学友・長島秀吉君(前列左)が同席しているのには理由がある。窪島誠一郎さんの格段のご配慮についてお礼を述べる機会としてもらいたかったからだ。実は、長島君は今年3月にがんの手術に成功し、6月に自身経営する長島葡萄房主催でコンサートを行なった。それが上田の無言館(注2)である。窪島さんの承諾を得て無言館が閉館した後、模様替えをし、約50名の観客を集めて夢の音楽会を催したのだ。戦没画学生たちの作品を集めた慰霊美術館である無言館は、ある意味神聖な場所であり、めったなことでは他人に開放しない。それを長島君のたってのお願いで、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲15番(われわれ二人の恩師・椎名其二さんが大好きだった運命的な曲)などの曲を演奏し、感動的なコンサートが実現したのである。窪島さんは命を賭けた長島君の願いに賛同してくれたのだった。僕も、窪島さんの配慮には心から感謝している。

(注1)

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天満敦子さんと窪島誠一郎さん

(注2)

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無言館

 

 

 

 

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楊逸さんとの楽しい会話

・月刊『清流』の編集者・長沼里香(後列左から二人目)は最近、時の人、旬な著者を登場させており大活躍している。今回も、中国人作家として初の芥川賞を受賞した楊 逸(ヤン イー)さん(後列中央)にアタックし、『清流』10月号の「この人に会いたくて」にご登場いただいた。「笑っちゃうような人間くささを日本語で表現したい」というメッセージももらっている。

・その後、長沼は楊さんのことを雑誌だけでは惜しい、なんとか単行本企画にしたいとの思いを募らせていた。清流出版の総力をかけて楊さんを狙ってみたいとの気持ちを僕に伝えた。こうした向上心や冒険心は僕も大好きである。早速、10月のある一夕、ホテルグランドパレスで、わが社の幹部連中を集めて、お忙しい楊さんと会合を持った。

・ここでちょっと楊さんの略歴を述べておく。すでに新聞、週刊誌、テレビ等々で御承知のように、1964年、中国黒竜省ハルビン市で生まれ、1987年、留学生として来日した。お茶の水女子大学文教育学部地理学を専攻、卒業後、在日中国人向けの新聞社を経て、中国語教師として働く。昨年、『ワンちゃん』で芥川賞候補になるも、惜しくも落選となる。今回、『時が滲む朝』で見事、第139回芥川賞を受賞した。日本語以外の言語を母語とする作家として、史上初の芥川賞受賞となった。

・楊さんは、中学生の頃、日本に住む親戚が送ってきた日本の風景写真を見て、日本という国に憧れを抱く。来日した当初は、日本語が全く分からなかったため、皿洗いなどのアルバイトをしながら授業料を稼ぎ、日本語学校に通ったという。今では、日本語の細かい綾も理解できるほどになっている。だからこそ表現力は素晴らしい。

・楊さんは現在、高校2年生の息子さんと中学1年生の娘さんの三人暮らし。女手一つで、たくましく育てている。この日、息子さんは沖縄への修学旅行中。娘さんが一人でお留守番だった。会合の合間に、娘さんから夜のご飯はどうするのと携帯電話で聞いてきた。楊さんは丁寧に、用意しておいた夕食について伝えていた。

・楊さんの住まいは、ウォーターフロント、勝鬨橋近くの公団住宅である。何回も公団住宅に応募したものの、くじ運に恵まれず、十数回目でようやくこの住宅を射止めた。25階という高層階のフロアーで、高所恐怖症の楊さんは下を見ないようにしている。中国では地震は少ない。慣れていないから、高層階の揺れにも敏感で、地震があると眩暈がするという。この会合の席もホテルグラドパレス23階である。窓側に案内したら、「こわい!」としり込みする。高所恐怖症を扱った短編小説を書いたらいかが、と薦めたらしばし沈黙していた。

・『清流』の副編集長・松原淑子が日本の温泉巡りの話をしたら、楊さんも温泉好きらしく急に身を乗り出した。各地の秘湯に行ってみたいと話が弾んだ。楊さんは日本の三大名湯を道後、別府、草津温泉だと思っていたが、松原が正しくは有馬、下呂、草津温泉だというと「二十年間、ずっと間違えてました」と苦笑していた。日本の温泉は最高と思っている楊さんに、温泉の魅力についてぜひ書いてほしいとお願いした。このお願いも楊さんには即答していただけなかった。基本的に楊さんは、年に二作、小説を書きたいというが、作家を本業とは思っていないとのこと。こうなると文藝春秋が俄然有利だが、合間合間を縫って、わが社にも原稿をいただこうと思っている。

・こんな話をしつつも、僕は前項の天満敦子さんと共通する人を思い浮かべて秘かに楽しんでいた。それは、芥川賞と直木賞は同日受賞パーティがあり、直木賞はなんと井上光晴のお嬢さん、井上荒野さんが受賞した。東京會舘の記者会見では楊さんと井上さんが仲良く並んでいた。天満さんゆかりの井上光晴の娘である荒野さんが、時の人として脚光を浴びている。面白い偶然である。もう一つの偶然を発見して僕は悦に入った。芥川賞選考委員の高樹のぶ子さんは受賞作『時の滲む朝』を、「前作『ワンちゃん』より日本語の表現がよくなった」と評している。天満さんをモデルにして『百年の預言』を書いた高樹さん。人生というのはいろんな出会いで織り上げられた織物のようなものだが、今回取り上げた話も、一つひとつは独立した織り糸のようで、最後に見事なタピストリーが完成した。やらせのようであるがそうではない。確かに出来すぎな話ではあるが!