夜の歌──戦没音楽家・尾崎宗吉の生涯

連載【1】 白い記憶

(解説)

戦争が終わろうとする昭和20年、将来を嘱望された一人の作曲家が戦場で亡くなった。

──作曲家の名は、尾崎宗吉。

戦場に赴く前に、「夜の歌」(チェロとピアノ)という小曲を遺した。

死地におもむく者の心が託されたこの曲は、

音楽愛好家の間では、今でも高い評価を受け、名曲と語り継がれている。

だが、「尾崎宗吉」の名とともに、歴史の彼方に忘れ去られようとしている。

「無言館」設立した作家の窪島誠一郎さんは、今、書き残しておかなければ、

永遠に歴史の闇に消え去ってしまうと、

尾崎の生涯をたどる、困難な道を歩みはじめた。

(ブログの都合上、抄録してあります。秋には単行本として刊行する予定です)

 

    白い記憶

 

 ゆるい風が吹いている。

 東海道本線弁天島駅(静岡県浜名郡舞阪町)。駅前に立つと、国道一号ぞいにならんだ建物のむこうに、浜名湖の湖面がしろがね色にひかってみえる。遠浅な白い砂浜に、ぽつんと置き忘れられたように建っている朱い財弁天の鳥居、淡い昼下がりの陽光にうかぶ小さな釣り船、風はそっちのほうから吹いてくる。

 「昔、このあたりに松月という旅館があったそうなんですが」

 駅前で所在なげに客待ちしている年配の運転手にたずねると

 「松月?」

 一瞬、運転手は首をかしげたが

 「ああ、ありゃ、もう四十年近くも前になくなっちゃった旅館だ」

 思い出したようにいった。

 「四十年前っていうと、戦後まであったんですか?」

 「そう、オレがまだ小学校に通っていた頃だったからね。昭和三十年頃まではあったんじゃないかな。たしか弁天神社のウラにあった旅館だけど、今はアパートか何かになってるよ」

 そんなところを訪ねてどうするんだ?といった表情だった。

 私は礼をいって、運転手が指さした弁天神社のほうに歩きだした。

          *

 私は神社の境内のすみにある小さなベンチに腰を下ろして、煙草に火をつけた。火の始末にさえ気をつければ、幸い境内に「禁煙」の文字はない。

 相変わらず、ゆるい風が吹いている。

 運転手が教えてくれたように、弁天神社のよこの路地はすぐ行き止まりになっていて、奥に一見すると寮のような建物がひっそりと建っているのがみえた。行きかう人の姿はなく、神社も周辺の家々も、時々国道をゆく自動車以外、物音一つせぬ静けさのなかに身をこごめている。

 ── 一九一五(大正四)年四月二十二日、作曲家尾崎宗吉は、ここにあった弁天島きっての老舗旅館「松月」の、十人兄弟姉妹の八番めの子として生まれた。

          *

 私はおととい、つまり十月十二日の夕刻、東京本所吾妻橋の隅田川畔にある  ホールのロビィにいた。凡そ十年前、私に尾崎宗吉の楽曲「夜の歌」の存在を教えてくれた音楽プロデューサーの池田逸子さんの企画する、ロビィ・コンサート「死んだ男の残したものは」を聴くためだった。

 その日のプログラムには、尾崎宗吉の「ヴァイオリン・ソナタ第三番」が組みこまれていた。この曲は、先の大平洋戦争に二度召集されて三十歳で満州で戦死した尾崎が、最初に出征した二十四歳のときにつくった作品で、第一楽章「夜の曲」と第二楽章「トッカータ」を、ヴァイオリン荒井英治、ピアノ山田武彦といった実力派のソリスト二人が演奏する試みだった。

* 

 演奏のはじまる一時間近くも前からロビィの片すみにすわった私は、そのプログラムをにぎりしめ、それからやってくる何か重い鈍色をした時間の到来に身を固くしていた。それはまるで、池田さんのいう「輝く今日」も「また来る明日」も信じられない人間が、ただ縋りつくように、やがて自分の心に射しこんでくるにちがいない一筋の「希望」の光を待ちわびている姿だった。

 同行した親しい編集者のFさんが

 「ビールでも買ってきましょうか」

 そう声をかけてくれたのだが

 「いや、今日はシラフで聴きましょう」 

 私はこたえた。

 喉はカラカラだったが、缶ビール片手に演奏を聴くことに抵抗があったからだ。

 とにかく、私は息をつめて、尾崎宗吉の「ヴァイオリン・ソナタ第三番」が演奏される瞬間を待っていた。

 「絶望」から「希望」へ、あるいは「希望」から「絶望」へ、強靱な一本の音のロープによって、聴く者の心をはげしくゆさぶり振幅させる、あの尾崎宗吉の「夜」の訪れを待っていたのだった。

         *

  私はそのときふと、自分の美術館に飾られている、尾崎と同じ満州で二十六歳で戦死した中村萬平という画学生の絵を思い出していた。

 萬平は尾崎より一年あとの大正五年九月に生まれ、昭和十一年四月に東京美術学校(現在の東京芸大)油画科に入学し、モデルとして学校に通っていた霜子と学生結婚、十七年に出征したときに霜子は身籠もっていた。萬平は生まれたわが子の顔をみることなく、また出産後半月で他界した霜子をも看取ることなく、昭和十八年八月二日、満州武川の野戦病院で失意のうちに死んだ。

 私の眼にうかんだのは、萬平が出征直前に描いた「霜子の像」だ。

 それは、仄昏い緑黒色のひろがる画肌の奥に、片ヒザをたてて両腕で乳房をかかえ、ひっそりと背高い椅子にすわっている霜子の裸像だった。絵の職業モデルをしていただけに、その肉叢は雄々しいまでに豊かで、立てたヒザや太腿にも張りつめたような生命感があった。闇のなかからこちらをうかがう両眼は、大きく見開かれているようにも、半ば閉じられているようにもみえ、口もとにはかすかな微笑みさえうかべているようにみえる。しかし、古びた画布の中央を横切る幾条もの、鉄条網でも思わせるような亀裂線は、まるで戦後六十余年の「時」を緊縛しているかのように痛々しいのだ。

 あれはたしか十三年も前の、私が信州上田に戦没画学生の遺作をならべる美術館「無言館」を開館した春のことだった。私は「無言館」に中村萬平の絵を展示するために、萬平の遺児である中村暁介さんの住む浜松市中区の家を訪ねていた。

 納戸の奥から暁介さんが運びだしてきた「霜子の像」に眼をあてたまま、私がしばらく黙りこんでいると

 「これは……父が私と母とを描いた母子像なんです」

 暁介さんがつぶやくようにいった。

 「母子像?」

 私が怪訝な顔をすると

 「この絵を描いたとき、母のお腹にはもう私が入っていましたから」

 暁介さんはそういって笑った。

           *

 そうか、あの「霜子の像」を描いた中村萬平も、この浜名湖の白い光をあびる駿河の里で生まれ育った人だったか、と私は反芻した。

 しかも、尾崎宗吉と一歳ちがいだった萬平が応召したのは、美術学校を卒業した翌年の昭和十七年二月のことで、尾崎はそのときすでに満州の華北に出征していた。同じ浜名湖を郷里にもつ一人の音楽生と一人の画学生は、同じ戦地満州の華北ですれちがっていたかもしれないのだ。そして、戦死したのも同じ満州でだった。中村萬平は応召して僅か一年半後の昭和十八年夏に武川で餓死に近い戦病死をとげ、尾崎もその翌年五月、湖西省全県の陸軍病院で中垂炎のために息をひきとっている。

 「あの戦争で亡くなったのは、若い画学生たちだけではなかった。音楽を志していた若者も、演劇をやっていた若者もみんな戦死した」

 私はいつか、「無言館」を訪れた演劇評論家の尾崎宏次さんがそんな言葉をもらされていたのを思い起こした。

 たしかに、そうだ。

 あの大戦は、万余の人の命を奪っただけでなく、その命が生み出すであろう数知れぬ「創造」の命をも奪ったのだ。

 この世に生み出されたであろう数々の名作の、名画の、名曲の命を──。

 

 ゆるい風が吹いている。

 ほんの少し汐の甘さをふくんだ、湖からの風。

 いつのまにか住宅街の道は、弁天島駅と舞阪駅の真ん中ぐらいまできていて、前方右に「宝珠院」と「養泉寺」を書かれた小さな標識の板が二つみえた。

 細い路地をまがると、そこが「養泉寺」の墓地だった。

 思っていたより小さな寺だ。

           *

 「ここが、尾崎さんのお墓です」

 案内された寺の奥さんの声で、ふとわれにかえると、それほど広くない養泉寺の墓地の中央近くに、びっしりと櫛比した板塔婆や墓石の群れにまじって

  「尾崎家之墓」

 ときざまれた苔色のちいさな墓があった。

 側面には「大正十一年二月 尾崎和作建之」の記。

 うしろがわに回ると

  戒名 大宗義堅居士 故 陸軍曹長 尾崎宗吉 昭和二十年五月十五日中華民国広西省於テ戦病死ス 享年三十歳

 ほとんど消えかかった文字で、そうきざまれているのがわかる。

 そして、そのよこには「阿佐ヶ谷」時代に尾崎が結婚した妻、郁子のものと思われるもう一つの戒名が、うっすらとうかびあがっている。

  故 尾崎郁子 明窓富徳居士

 そうだ、尾崎宗吉にも郁子という妻がいたのだと思った。

          *

 墓碑にむかって手を合わせながら、では、作曲家尾崎宗吉の楽曲に、画学生中村萬平が描いたような「母子像」はあったのだろうか、と思った。

 あったのだ、と思う。

 尾崎は郁子と結婚した約二年後に応召し、昭和十五年春には華北にむかっている。いったん兵役解除になって弁天島に帰郷するのだが、昭和十八年夏にふたたび召集をうけて満州へ出征、長男日雄は尾崎の出征中に誕生した子だったが、生後数日で他界してしまう。尾崎が中国湖西省の病院で戦病死する一年半前のことだった。

 ことによると、あの満州に発つ直前親しかったチェリスト三鬼日雄に手渡したという、ピアノとチェロの曲「夜の歌」が、中村萬平の「霜子の像」?すなわち「母子像」に匹敵する作品だったのではないかと想像した。尾崎のあの曲には、(おそらく生きては還れぬであろう)己れの運命の予感と、今生への決別の思いと、何より幸薄かった郁子との短い結婚生活への感謝がこめられていたのではなかろうか。

 そう考えると、あの、クレッシェンド(高まってゆく)とフェイドアウト(消えてゆく)が交互に波のように押し寄せ、それがうねりのような情感を生んで、やがて奈落の光へと聴く者をひきずりこんでゆく「夜の歌」の魔力のありかが、門外漢の私にもぼんやりと理解できるのだ。

 

 白い淡い陽のそそぐ墓地に、ゆるい風が吹いている。

 私は、供花も焼香も用意していない行きずりの墓参者だった。

 尾崎宗吉の墓石の前に、一人たたずむ私の肩に、墓地の上に枝をのばした銀杏の樹から幾枚もの葉がおちた。

 尾崎の眠る故郷舞阪の養泉寺に、尾崎が戦死してから六十五年めの秋がきていた。

 

 

著者プロフィール
窪島誠一郎 窪島誠一郎
(くぼしま・せいいちろう)
1941年、東京生まれ。作家。信濃デッサン館・無言館館主。
印刷工、酒場経営などを経て、64年、東京・世田谷に小劇場キッド・アイラック・アート・ホール設立。79年には、夭折画家のデッサンを展示する信濃デッサン館を長野県上田市に設立。97年に戦没画学生を慰霊する美術館・無言館を設立した。第53回菊池寛賞、第46回産経児童出版文化賞などを受賞。執筆に励み、著書は『父への手紙』『信濃デッサン館日記』『無言館ものがたり』『「信濃デッサン館」「無言館」遠景─赤ペンキとコスモス』『私の「母子像」』絵本『約束 「無言館」への坂をのぼって』など多数ある。
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