心のどこかの風景 -女性がおしえてくれること-
第30回 なんでもない生活の美しさ(後編)  ──婦人の「大好きな本」
(掲載日:2011年7月15日)

 本は『大草原の小さな家』だった。
 「若い頃からずっと読んでるのよ。大好きなのよ、この本が」。本はかなり昔の版の文庫本で、そのきれいな状態から、大切に読まれているのがわかった。

『大草原の小さな家』は僕も少しだけ読んだことはあるが、それはたしか小学校の頃だったように思う。婦人の本を見ていたら、とても懐かしい気持ちになり、一冊の本が長い間、ひとりの人に愛されていることを嬉しく思った。

「私ね、この物語みたいに、なんにも起こらない普通の生活というのかしら、そんな生活の中にある小さなしあわせとか、ささやかなよろこびとか、なんてことない楽しさとか、そういうのがほんとうに好きなの。今はほら、なにかが起きないと面白くない世の中で、本の物語も怖いことばかりでしょ。だから、『大草原の小さな家』を読んで、ああ、なんでもない静かな生活って美しいわ、って思うのよ。だって、山に出かけたお父さんが狼に襲われそうになって、襲われずに無事に帰ってきたときに、家族みんなでわんわん泣いて喜ぶなんて、幸せな物語よ。なんてすてきなんでしょうと思うのよ」
 婦人は自分の大好きな本について、まるで大好きな人を僕に紹介するようにして話した。

「ごめんなさいね、いつも朝お会いするからと言って、気安く話しかけちゃって」。婦人はもう一度、本を手にして、胸に抱いてから頭を下げた。そして「あら、こんな時間、タロウさんに怒られるわ……。それでは、またね。さようなら」と帰っていった。そのときの婦人の後ろ姿は、まるで少女のようにかわいらしかった。

 この日僕ははじめて婦人と会話した。婦人は、タロウさんという名のマルチーズと、ほんとうに仲良く暮らしているんだろうなと思った。そして、ときおり大好きな『大草原の小さな家』を持って外に出かけて、たくさんの人がいる場所で、静かに読書を楽しんでいるのだと思った。僕はそんな何気ない婦人の生活の中に、心の豊かさや、美しさが垣間見えた。羨ましいとさえ思った。そして、婦人はなにか小さな贈り物のようなものを僕に渡してくれたように思った。

 そんな婦人に出会えたことで、明日もまた明後日も、朝のランニングが自分にとって、さらに喜ばしいことになった。今僕は『大草原の小さな家』をもう一度読んでいる。

(毎月、1日、15日更新。次回は8月1日です)

著者プロフィール
松浦弥太郎
(まつうら・やたろう)
1965年、東京都生まれ。『暮しの手帖』編集長。「COW BOOKS」代表。文筆家。18歳で渡米し、アメリカの書店文化に関心をもち、帰国後に書店を開業。著書に『くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集』『最低で最高の本屋』『日々の100』『今日もていねいに。』『あたらしいあたりまえ。』『松浦弥太郎の仕事術』『ぼくのいい本こういう本1,2』『あなたにありがとう。』『暮らしのヒント集2』などがある。

COW BOOKS http://www.cowbooks.jp/

暮しの手帖 http://www.kurashi-no-techo.co.jp/

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