心のどこかの風景 -女性がおしえてくれること-
第20回いつもの朝を変えた出来事(後編)  ──忘れかけていた大切なこと
(掲載日:2011年2月15日)

 ある日の朝、バス停でワカメちゃんと二人きりのとき、「田中さんのおかげで、バス停で会う人たちと知り合いになれてよかったです。今まで毎朝、顔を合わせていても話したことなんてなかったんですよ」と僕は言った。「そんなものですよね。私、田舎育ちなので、人と顔を合わせて黙っているのがつらいんです。たまにうるさいと言われるくらいです。でも、松浦さんにそう言っていただけてとてもうれしいです。ありがとうございます」と彼女は答えた。ワカメちゃんの前髪の一直線があまりにきれいで、僕は話しながら見ずにはいられなかった。

 バスは駅まで十分ほどで着く。僕らはバスに乗るまでは言葉を交わすが、バスに乗り込むときに「ではまた」と別れ、バスの中ではそれぞれが一人に戻る。それも彼女が率先してそうしたからそうなった。そんな彼女のマナーと心遣いに深く感心した。 

 帰宅時、駅で彼女を見かけたことがあった。彼女はボーイフレンドらしき人と楽しそうに立ち話をしていた。ボーイフレンドは外国人だった。何を話しているかは、はっきり聞こえなかったが、話しぶりから、彼女の英語がかなりネイティブに近いことがわかった。 

 通りすがりに会釈すると、彼女は僕に気がつき、「こんばんは」とあいさつをした。そして、ボーイフレンドに「この方は近所に住む松浦さんです」と僕を紹介した。ボーイフレンドは手を差し出して僕に握手を求め、「はじめまして」と英語でにこやかにあいさつをした。ワカメちゃんのあまりにスマートな、人の間に立っての紹介の仕方に、僕は頭が下がった。それでいて、かた苦しくさせない愛嬌が彼女にはあった。

 人と人とのつながりの目的は、自分たちの安全のためである。自分が決して害を与える存在でないことを知ってもらうために自己紹介し、同時に相手のことも知る。常にあいさつを交わし、互いに知り合うことで安心を得るのである。「あいさつは自分を守るよろい」という教えがあるが、まさにその通りである。

 安心したければ、あいさつをする。他人に自分を受けいれてもらいたければ、まずはあいさつをする。あいさつは他人へのおもいやりでもある。おもいやりを伝えるためには心から言葉をかけること。おもいやりとは感謝から生まれ、感謝とは尊敬によって生まれる。なにより大切なのはいつどんなときでも他人を尊敬する気持ちを失わないことである。

 僕はワカメちゃんのおかげで忘れかけていた大切なことをおもい出すことができた。 
 今では、朝、バス停に六人そろっていると、心からうれしいとおもえるようになっている。あいさつができるからだ。ワカメちゃんありがとう。

 

(毎月1日、15日更新。次回は3月1日です)

著者プロフィール
松浦弥太郎
(まつうら・やたろう)
1965年、東京都生まれ。『暮しの手帖』編集長。「COW BOOKS」代表。文筆家。18歳で渡米し、アメリカの書店文化に関心をもち、帰国後に書店を開業。著書に『くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集』『最低で最高の本屋』『日々の100』『今日もていねいに。』『あたらしいあたりまえ。』『松浦弥太郎の仕事術』『ぼくのいい本こういう本1,2』『あなたにありがとう。』『暮らしのヒント集2』などがある。

COW BOOKS http://www.cowbooks.jp/

暮しの手帖 http://www.kurashi-no-techo.co.jp/

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