心のどこかの風景 -女性がおしえてくれること-
第16回  魔法の言葉
(掲載日:2010年12月15日)

 家出のように日本を発って、はじめてアメリカに渡ったとき、頼れる先や知り合いは一人もおらず、英語もまったく話せなかった。根っからの楽観的な性質だから、それでもなんとかなるだろうとおもっていた。僕の短所は、どんなことでも楽観視することと、いつも早合点してしまうことである。あるときそれが長所に代わるときもあるけれど、若かりし頃の無鉄砲さがそれに加わると、困ることも多々あった。今その頃をおもい返すとじんわりと汗が出てくる。

 最初にアメリカで覚えた言葉は「プリーズ」だった。それまでは、あいさつひとつままならず、どうやってアメリカの人たちとコミュニケーションをとったらよいかわからなかった。アメリカでは、人と話す時には、まず相手の目をしっかりと見るということが大切だった。しかし、それが日本人の自分にとって、これほどむつかしいことだとは知らなかった。

 サンフランシスコの街角にある小さな食料品店に入ったとき、僕はその店で手作りのサンドイッチを買おうと、メニューやカウンターに並んだ食材を見ていた。店の男は何度か僕の目を見て「何が食べたい?」と合図を送っていた。僕はもじもじしながら、「迷っているから待ってください」という意思を、手振りで伝えて、どうやって食べたいものを注文しようかと困っていた。
  そこに五歳くらいの小さな男の子が母親と一緒にやってきた。その親子もサンドイッチを頼みたかったようで、店の男とあいさつをかわしたり、今日はどれにしようかなどとつぶやいていた。そのとき、男の子が「僕はツナサンド!」と大きな声で頼んだ。すると母親が「それじゃあだめでしょ。魔法の言葉はなんて言うの?」と男の子に聞いた。男の子は恥ずかしそうなそぶりを見せてから、小さな声で「プリーズ」と言った。「そうでしょ、人にお願いするときには、魔法の言葉を言わなきゃね。よくできました」と男の子の頭をなでた。
  それを聞いた僕は、そうか「プリーズ」は魔法の言葉なんだ、と感動を覚えた。男の子は魔法の言葉をきちんと言えて得意げだった。
 
  僕は親子が去った後に男の子の真似をして「ツナサンド プリーズ」と店の男に告げてみた。すると、彼はにっこり笑って「よくわかった」というように目くばせして「お待たせしました」ととびきりおいしそうなツナサンドを渡してくれた。「プリーズ」は本当に魔法の言葉だった。

 魔法の言葉の「プリーズ」をきっかけにして、僕は不思議と英語が苦にならなくなり、アメリカの人たちと少しずつコミュニケーションが取れるようになった。
  相手の目をしっかりと見ること。笑顔で接すること。魔法の言葉を忘れないこと。これがその後の僕の英語力を助けてくれた。
 「プリーズ」は、日本語にすると「どうぞお願いします」であるが、常に他人に対して謙虚であり、感謝の気持ちも伝えるすてきな言葉である。 

  今、日本にいても、暮らしや仕事において、人と接するときに僕はよくこう自分に問いかける。魔法の言葉はなんて言うの? と。世界中にはもっとたくさんの魔法の言葉があるだろう。そして、世界中のどこかで魔法の言葉が生まれているだろう。
  僕は魔法の言葉をもっと学びたい。そしてそんな魔法の言葉を一冊の本にして、みんなと共に学ぶことができたら、なんてすてきだろうとおもっている。

 

(毎月1日、15日更新。次回は2011年1月4日に更新します)

著者プロフィール
松浦弥太郎
(まつうら・やたろう)
1965年、東京都生まれ。『暮しの手帖』編集長。「COW BOOKS」代表。文筆家。18歳で渡米し、アメリカの書店文化に関心をもち、帰国後に書店を開業。著書に『くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集』『最低で最高の本屋』『日々の100』『今日もていねいに。』『あたらしいあたりまえ。』『松浦弥太郎の仕事術』『ぼくのいい本こういう本1,2』『あなたにありがとう。』『暮らしのヒント集2』などがある。

COW BOOKS http://www.cowbooks.jp/

暮しの手帖 http://www.kurashi-no-techo.co.jp/

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