朝十時過ぎに僕らは部屋を出て、彼女が紹介してくれるというホテルへと向かった。51 番街の「ワシントン・ジェファーソンホテル」までは歩いて五分もかからなかった。ホテルというよりは、昔ながらのアパートのような佇まいで、小さな看板がなければ、きっと誰もここをホテルとは思わないだろう。
「ボビー、おはよう。お客を一人連れてきたわ。このホテルで一番高級で一番安い部屋を彼にお願い」
「リン、おはよう。うちのホテルの部屋はいつでも一番高級で一番安いよ。ボビーと言います。ようこそ」
ボビーという名の青年は僕に握手を求めてきた。僕も名乗って握手をすると、彼の手のぬくもりは信用できる人のものと感じた。
「ま、とりあえず、空いている部屋でくつろいで、もし他の部屋がよかったら、そっちに移ってもいい」
そう言って、ボビーは鍵をわたしてくれた。一週間分の宿泊費を先払いしたいと言うと、電卓を叩いて、お互いにとってこれはきっといい値段だと言って、電卓の画面を見せた。値段は175ドルだった。僕は納得し、宿泊料を払おうとした。そのときだった。財布があるべきところにないことに気がついた。
僕があわてていると、リンが「どうしたの?」と聞いた。「財布がないんだ」と言うと、「うそ、昨日どこかで落としたんじゃない? それとも私の部屋かな。私見てきてあげる」と言った。ボビーは「あわてなくていいよ。そこのソファに座って待ってたらいい」そう言って僕をなだめた。
三十分くらい経ってからリンが戻ってきた。
「財布どこにもなかったわ。昨日の夜、走ったときに落としたかもしれない。でも、落としたらもうだめよ。ここはニューヨークだから」
ダッフルバッグの中のどこを探しても財布はなかった。僕は昨夜、リンの部屋のテーブルの上に財布を置いたことを鮮明に覚えていた。
「パスポートがあれば泊まらせてあげるよ。宿泊料はチェックアウトの時でいい」ボビーはそういって僕を安心させた。リンは「ダイジョウブ?」と僕の肩に置いて、心配そうな顔を見せた。「昨夜、君の部屋のテーブルの上に置いたんだ」そう言うと、「よく見たけれど、なかったわ」リンはそう答えた。
「サンフランシスコに友だちがいるから、連絡をしてお金はなんとかなると思います。それまで支払いは待ってください。ありがとう」
そう言うとボビーはうなずいて微笑んだ。リンは「ごめん、わたし学校があるから、またね」と言って、いそいそとホテルを出ていった。
僕は「ふう」と息をひとつ吐いた。
「ドーナツでも食べるかい?」
ボビーは砂糖がたっぷりかかったドーナツをひとつくれた。
「昨日はリンの家に泊まったのか? リンはいい子だけどおかしな癖がある。財布は彼女にあげたと思ってあきらめな」
ボビーは僕にこう言ったあとにウインクした。
「財布には1000ドル以上の現金が入っていた」と言うと、「それは大変だ。だけど彼女にあげたと思ってあきらめな。ここニューヨークでは、なにがあってもすべて自分の責任と考えなければ生きてはいけない。冷たい言い方かもしれないけれど、この場合、財布を見えるところに置いた君が悪くて、リンはひとつも悪くないんだ。自分のことは自分で守らないとだめなんだ」と言った。
ボビーにそう言われたら、素直に僕はあきらめられるような気になった。ニューヨーク最初の夜の洗礼とあきらめた。
しかし、その日の夜、どうしても気になったのでリンのアパートのビルに行ったが、部屋の電気は消えていた。リンと僕はそれからもう会うことはなかった。僕はリンのことを忘れることにしたが、時折、彼女のきれいなかたちをした耳を思い出した。
ボビーは僕の宿泊代を最初の一週間だけ半額にしてくれた。このことは二人だけの秘密で誰にも言うなとボビーは言った。
そんな風にして、ニューヨークの定宿と、最初の友だちが出来た。
(毎月1日、15日更新。次回は10月15日です)
