心のどこかの風景 -女性がおしえてくれること-
第9回 ニューヨークと別れた日(4)  ――中国人のリンに救われる
(掲載日:2010年9月 1日)

 「雨で髪が濡れてるけど、あなた、だいじょうぶ?」
 まるで母親が子どもを心配するように彼女は、全身がびしょ濡れの僕を気遣った。
 「ありがとう。大丈夫です。今日、ニューヨークに着いたけれど、予約していたホテルが見つからなくて、このあたりを歩きまわっていたら雨が強くなってきたんです」
 「ホントニ、ダイジョウブ?」
 彼女は片言の日本語で言った。見ると日本語のテキストブックと辞書などを持っていた。

 「日本語を勉強しているの?」
 「ハイ、ソウデス。ワタシハ、チュウゴクジン。日本語ヲ勉強シテイマス」
 はにかみながら彼女は答えた。自分の名を名乗って「よろしく」と英語で言うと、彼女は日本語で、リンと名乗った。年齢は28歳。この店では昼間にアルバイトをしていて、今日は日本語のクラスがあり、その帰りに食事に寄ったところだと、日本語で一生懸命に話した。そして、僕を見たとき、箸の持ち方ですぐに日本人だとわかったと言った。

 「日本語うまいですね」と言うと、「アリガトウゴザイマス」と彼女は嬉しそうな顔を見せた。髪を少年のように短くしていた彼女は、顔が小さくて、一重の目は細く、首が長くて痩せていた。ニューヨークに着いてから、いいことがひとつもなくて笑うことがなかった僕は、ニューヨークでの最初の食事が、彼女と一緒で救われたと思った。

 「アナタハドコデトマル、キョウ?」
 食後のコーラを飲んでいたら彼女が心配そうな表情で聞いた。しかし、そのぎこちない日本語が可笑しくて僕は思わず笑ってしまった。
 「ドウシテワラウ?」と彼女は目をつり上げた。
 「ごめんごめん、いや、今日はとりあえずどこか泊まれるホテルをこれから探すよ」
 すると彼女は、英語で「こんな時間に、このあたりをうろうろと歩いていたら危ないわ。今日はとりあえず私の家に泊まって、明日、ホテルを探すといいわ」と、このときもまるで母親のような口調で言った。それはちょっと申し訳ないと、僕が遠慮すると、「ソレデイイ、ソレデイイ」と日本語を繰り返した。
 
  店の外に出ると雨は嵐に変わっていた。ストリップ劇場や、あやしい店のネオンだけが異様にきらびやかに光っていた。雨のせいか、街に人気はなく、くさい下水の匂いが漂っていた。
 「私に付いてきて。はやく!」と、彼女は躊躇なく雨のなかを走り出した。僕も重たいバッグを肩に食い込ませながら、嵐の夜のニューヨークを走った。彼女に言われるがまま、やけくそになって走っていたら、可笑しくなって笑いが止まらなかった。ときおり後ろを振り返った彼女も笑っていた。
 走りながら嬉しさがこみ上げてきた。

 (毎月1日、15日更新。次回は9月15日です)

著者プロフィール
松浦弥太郎
(まつうら・やたろう)
1965年、東京都生まれ。『暮しの手帖』編集長。「COW BOOKS」代表。文筆家。18歳で渡米し、アメリカの書店文化に関心をもち、帰国後に書店を開業。著書に『くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集』『最低で最高の本屋』『日々の100』『今日もていねいに。』『あたらしいあたりまえ。』『松浦弥太郎の仕事術』『ぼくのいい本こういう本1,2』『あなたにありがとう。』『暮らしのヒント集2』などがある。

COW BOOKS http://www.cowbooks.jp/

暮しの手帖 http://www.kurashi-no-techo.co.jp/

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