「雨で髪が濡れてるけど、あなた、だいじょうぶ?」
まるで母親が子どもを心配するように彼女は、全身がびしょ濡れの僕を気遣った。
「ありがとう。大丈夫です。今日、ニューヨークに着いたけれど、予約していたホテルが見つからなくて、このあたりを歩きまわっていたら雨が強くなってきたんです」
「ホントニ、ダイジョウブ?」
彼女は片言の日本語で言った。見ると日本語のテキストブックと辞書などを持っていた。
「日本語を勉強しているの?」
「ハイ、ソウデス。ワタシハ、チュウゴクジン。日本語ヲ勉強シテイマス」
はにかみながら彼女は答えた。自分の名を名乗って「よろしく」と英語で言うと、彼女は日本語で、リンと名乗った。年齢は28歳。この店では昼間にアルバイトをしていて、今日は日本語のクラスがあり、その帰りに食事に寄ったところだと、日本語で一生懸命に話した。そして、僕を見たとき、箸の持ち方ですぐに日本人だとわかったと言った。
「日本語うまいですね」と言うと、「アリガトウゴザイマス」と彼女は嬉しそうな顔を見せた。髪を少年のように短くしていた彼女は、顔が小さくて、一重の目は細く、首が長くて痩せていた。ニューヨークに着いてから、いいことがひとつもなくて笑うことがなかった僕は、ニューヨークでの最初の食事が、彼女と一緒で救われたと思った。
「アナタハドコデトマル、キョウ?」
食後のコーラを飲んでいたら彼女が心配そうな表情で聞いた。しかし、そのぎこちない日本語が可笑しくて僕は思わず笑ってしまった。
「ドウシテワラウ?」と彼女は目をつり上げた。
「ごめんごめん、いや、今日はとりあえずどこか泊まれるホテルをこれから探すよ」
すると彼女は、英語で「こんな時間に、このあたりをうろうろと歩いていたら危ないわ。今日はとりあえず私の家に泊まって、明日、ホテルを探すといいわ」と、このときもまるで母親のような口調で言った。それはちょっと申し訳ないと、僕が遠慮すると、「ソレデイイ、ソレデイイ」と日本語を繰り返した。
店の外に出ると雨は嵐に変わっていた。ストリップ劇場や、あやしい店のネオンだけが異様にきらびやかに光っていた。雨のせいか、街に人気はなく、くさい下水の匂いが漂っていた。
「私に付いてきて。はやく!」と、彼女は躊躇なく雨のなかを走り出した。僕も重たいバッグを肩に食い込ませながら、嵐の夜のニューヨークを走った。彼女に言われるがまま、やけくそになって走っていたら、可笑しくなって笑いが止まらなかった。ときおり後ろを振り返った彼女も笑っていた。
走りながら嬉しさがこみ上げてきた。
(毎月1日、15日更新。次回は9月15日です)
