リンのアパートはヘルズ・キッチンにあった。
ヘルズ・キッチンは、マンハッタンの西側、ハドソン川と8番街の間、34丁目から59丁目あたりの地区をいう。ニューヨークいち治安が悪いという評判で知られていたが、反面、古きよきニューヨークの風景が残る地区でもあった。
一階が果物屋のビルの六階が、リンの部屋だった。リンは部屋に入った途端に、僕がいることを忘れているかのように、玄関先で雨に濡れた服を脱ぎ、下着だけになってバスルームに走っていった。そして、バスルームから大声で僕に叫んだ。
「ごめん、ちょっと待っててね。今すぐあったかいシャワー浴びさせてあげるから」
僕は濡れたままで部屋に入るわけにもいかず、玄関に置いてあった椅子に座った。床に無雑作に脱ぎ捨てられたジーンズとセーターを、じっと見つめながらリンを待った。
熱いシャワーは旅の疲れを流してくれた。リンの部屋は小さな1DKだった。シャワーを浴び終ると、着古したスエットシャツとパジャマのパンツが置かれていた。
「ありがとう」と声をかけると、「それは大きめのサイズだから、よかったら着替えて」とベッドルームから返事があった。
「明日、すぐ近くのホテルを紹介するわ。安いし、知りあいが働いているからきっと大丈夫」
リンはそう言って、キッチンであたたかいお茶をいれてくれた。
「今日は早く休んで。私も疲れたから寝るわ。えっと、そうしたら、私が床で寝るから、あなたは私のベッドで寝ていいわ」
リンは手際よくクッションなどを床に置いて、自分の寝床をつくり、毛布にくるまって「オヤスミナサイ」と日本語で言った。
僕は黙ったまま、枕に自分のタオルを敷いて、ベッドにもぐりこんだ。ベッドは清潔にされていて心地よかった。
「今日はありがとう」と言って電気を消すと、「ドウイタシマシテ」とリンは答えた。彼女との間で少しだけ何かを期待していた僕だったが、その夜は何もなかった。それよりも僕は疲れていて、すぐに泥のように眠ってしまった。
次の日、太陽の光が眩しくて目が覚めた。リンの部屋にはカーテンというものがなかった。見まわすと朝の光が部屋の隅々まで明るく行き渡っていた。リンはすでに起きていて、ダイニングでテレビを見ていた。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れたかしら? あら、あなたの髪の毛すごいことになってるわ。アハハ」
リンは僕の寝癖がついた髪を見て笑った。
「お茶飲む? それともコーヒーがいい?」
「お茶がいい。ありがとう」
リンは下着にネルシャツをはおっただけで、腰から下は素足が見えていた。しかし、それはまったくいやらしいものではなかった。彼女に恥じらいがないというとそうではないと思うが、成り行きで少しくらい裸を見られたり、真横で知らない男が寝ていることなど、そのあっけらかんとした明るさで、そんなことどうでもいいよと言わんばかりだった。
こういう人っていいなと僕はお茶をすすりながら思った。リンを見ると、テーブルに足を乗せて、日本語の教科書を読みながら、なにかメモをとっていた。耳のかたちがとてもきれいだった。
(次回へ続く。毎月1日、15日更新。次回は10月1日です)
