心のどこかの風景 -女性がおしえてくれること-
第10回 ニューヨークと別れた日(5)  ――ヘルズ・キッチンの最初の夜
(掲載日:2010年9月15日)

 リンのアパートはヘルズ・キッチンにあった。
 ヘルズ・キッチンは、マンハッタンの西側、ハドソン川と8番街の間、34丁目から59丁目あたりの地区をいう。ニューヨークいち治安が悪いという評判で知られていたが、反面、古きよきニューヨークの風景が残る地区でもあった。

 一階が果物屋のビルの六階が、リンの部屋だった。リンは部屋に入った途端に、僕がいることを忘れているかのように、玄関先で雨に濡れた服を脱ぎ、下着だけになってバスルームに走っていった。そして、バスルームから大声で僕に叫んだ。
「ごめん、ちょっと待っててね。今すぐあったかいシャワー浴びさせてあげるから」

  僕は濡れたままで部屋に入るわけにもいかず、玄関に置いてあった椅子に座った。床に無雑作に脱ぎ捨てられたジーンズとセーターを、じっと見つめながらリンを待った。

 熱いシャワーは旅の疲れを流してくれた。リンの部屋は小さな1DKだった。シャワーを浴び終ると、着古したスエットシャツとパジャマのパンツが置かれていた。
「ありがとう」と声をかけると、「それは大きめのサイズだから、よかったら着替えて」とベッドルームから返事があった。
「明日、すぐ近くのホテルを紹介するわ。安いし、知りあいが働いているからきっと大丈夫」
  リンはそう言って、キッチンであたたかいお茶をいれてくれた。

「今日は早く休んで。私も疲れたから寝るわ。えっと、そうしたら、私が床で寝るから、あなたは私のベッドで寝ていいわ」
  リンは手際よくクッションなどを床に置いて、自分の寝床をつくり、毛布にくるまって「オヤスミナサイ」と日本語で言った。

 僕は黙ったまま、枕に自分のタオルを敷いて、ベッドにもぐりこんだ。ベッドは清潔にされていて心地よかった。
「今日はありがとう」と言って電気を消すと、「ドウイタシマシテ」とリンは答えた。彼女との間で少しだけ何かを期待していた僕だったが、その夜は何もなかった。それよりも僕は疲れていて、すぐに泥のように眠ってしまった。

 次の日、太陽の光が眩しくて目が覚めた。リンの部屋にはカーテンというものがなかった。見まわすと朝の光が部屋の隅々まで明るく行き渡っていた。リンはすでに起きていて、ダイニングでテレビを見ていた。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れたかしら? あら、あなたの髪の毛すごいことになってるわ。アハハ」
  リンは僕の寝癖がついた髪を見て笑った。
「お茶飲む? それともコーヒーがいい?」
「お茶がいい。ありがとう」

  リンは下着にネルシャツをはおっただけで、腰から下は素足が見えていた。しかし、それはまったくいやらしいものではなかった。彼女に恥じらいがないというとそうではないと思うが、成り行きで少しくらい裸を見られたり、真横で知らない男が寝ていることなど、そのあっけらかんとした明るさで、そんなことどうでもいいよと言わんばかりだった。

 こういう人っていいなと僕はお茶をすすりながら思った。リンを見ると、テーブルに足を乗せて、日本語の教科書を読みながら、なにかメモをとっていた。耳のかたちがとてもきれいだった。

 

(次回へ続く。毎月1日、15日更新。次回は10月1日です)

著者プロフィール
松浦弥太郎
(まつうら・やたろう)
1965年、東京都生まれ。『暮しの手帖』編集長。「COW BOOKS」代表。文筆家。18歳で渡米し、アメリカの書店文化に関心をもち、帰国後に書店を開業。著書に『くちぶえサンドイッチ 松浦弥太郎随筆集』『最低で最高の本屋』『日々の100』『今日もていねいに。』『あたらしいあたりまえ。』『松浦弥太郎の仕事術』『ぼくのいい本こういう本1,2』『あなたにありがとう。』『暮らしのヒント集2』などがある。

COW BOOKS http://www.cowbooks.jp/

暮しの手帖 http://www.kurashi-no-techo.co.jp/

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