住み慣れたサンフランシスコから、ニューヨークのJFK空港に着いたときは午後七時を過ぎていた。マンハッタンまで地下鉄で行くか、タクシーで行くかと、ターミナルを出た路肩で右往左往していると、頭にターバンを巻いた男が「もしよかったら、街まで乗せていってやる。二十ドルでどうだ」と声をかけてきた。
答えを待つまでもなく、彼は地面に置いてあった僕の大きなダッフルバッグを車のトランクに積み、「さあ、早く」と急かせた。彼の話す英語が早すぎて、返事にもたついてしまった僕は、彼の運転するステーションワゴンに乗らざるをえなくなり、「西48丁目九番街のアメリカンホテルへ」と告げた。彼は黙ってうなずき、車を急発進させて空港を出た。
車の窓におでこをつけて、JFK空港からマンハッタンまでのフリーウェイを走りながら、流れる景色をぼんやりと眺めた。
一軒の古い家が燃えていた。しかし火を消そうとする者はなく、その家はただ燃え続け、赤い炎を上げていた。車のラジオからはインド語の歌謡曲が流れ、車内は何かのスパイスの異臭が充満していた。鉄で出来た大きな橋を渡り、車は摩天楼へと入っていった。
「西48丁目九番街のなんていうホテルだ」と男は訊いた。ラジオの音量が大きいので「ホテルの名はアメリカンホテル」と大きな声で答えると、「そんなホテルは聞いたことがない」と言った。
西48丁目九番街は、ストリップ劇場や風俗店が並ぶポルノ街だった。アメリカンホテルは、空港の公衆電話にあったイエローブックで見つけ、電話で予約したホテルだった。こちらが用件を伝えると、電話に出た女性は覇気のない返事をし、話の途中で電話を切った。一泊四十ドルと書いてあったので、訝しさもあったが、取りあえず今日はそこに一泊して、明日から居心地のよいホテルを探せばいいと思った。
「この辺のホテルはみんな連れ込み宿だぞ。観光客が泊まるホテルなんてない」と、男は言った。とりあえず僕は車から降りることにした。「ありがとう。ここで降りるよ」と二十ドルを渡して降りようとすると、「二十ドルは荷物代、お前の分は五十ドル。合計で七十ドルを払え」と男は目を見開いて凄んだ。
外は強い雨が降りはじめていた。「ああ、騙された」と思った。知らない街で揉めるのはいやだ。仕方がなく七十ドルを払うと、「これでも安いんだ」と言って男は去っていった。西海岸では、別れる際に「よい一日を」など、必ず何か一言相手を気遣う言葉をかけるが、ニューヨークではそれがないのかと溜息をついた。
怪しげなネオンが光る歩道に置かれたダッフルバッグは雨でびっしょりと濡れていた。アメリカンホテルはどこだろう。僕は重たいダッフルバッグをひきずりながら歩いた。47丁目、46丁目と下って歩いてもアメリカンホテルという名の看板はなく、街の気配はさらに繁華で怪しくなっていった。
アメリカの公衆電話には必ずイエローブックが置いてある。それを探してもう一度ホテルに電話して場所を確かめようと思った。しかし公衆電話は見つけることはできたが、肝心のイエローブックはすべて誰かに持ち去られていて無かった。時計を見ると、いつの間にか午後九時を過ぎていた。
街中の路上で寝るわけにもいかない。僕はあせった。おまけに空腹だった。逃げ込むようにして、目に入った一軒のチャイニーズ・ファーストフード店に入った。二ドル九九セントのチャーハンをひとつ注文した。中国人の店員にカリフォルニア訛りの英語が通じて安心をした。
それがこの街、通称ヘルズ・キッチン(地獄の台所)での最初の食事になった。どうにでもなれと思いながら、チャーハンを食べた。すると、若い中国人女性が相席をしていいかと声をかけてきた。見ると女性は辞書のような本を何冊か片手に抱えていた。ひと呼吸置いてから「どうぞ」と答えると、女性は微笑みを浮かべ、小さな声で「ありがとう」と言い、僕の頭に手を伸ばし、濡れた髪を指でさわった。
(次回へ続く。毎月1日、15日更新。次回は9月1日です)
