その日はいつもより早く目が覚めた。窓のカーテンを指で少し開くと、目の前のビルに設置されている電光気温計が八度を表示していた。四月のニューヨークはまだ寒かった。
昨夜、帰国の支度を終えたスーツケースとダッフルバッグは、部屋の隅に無雑作に置かれていた。洗面所で顔を洗ってから、フロアに二カ所ある、共同のシャワー室で熱いシャワーを浴びた。最初はなかなか馴れることが出来なかった消毒液の独特な匂いがきついシャワー室だが、いつしか我が家の匂いのように安心を覚えるようになっていた。ニューヨークで揃えたグルーミングセットはもう使わないだろうとゴミ箱に捨てた。中身が残っているものはきっと誰かが拾うだろう。
カーペットのところどころが破れた廊下を重い足取りで歩いた。手動のドアがついたおそろしいくらいに旧式のエレベーターに乗り、Lボタンを押した。ニューヨークの定宿、ヘルズキッチン地区にあるワシントン・ジェファーソンホテル。一泊二十五ドル。シャワー共同。テレビ、電話なし。
ロビーに降り、フロント係の青年ボビーに朝のあいさつをすると、きらきらした目といつもの笑顔を見せた。彼の笑顔がほんとうに大好きだ。一週間ごとに必要な宿泊料の支払いをするのではなく、帰国を告げた。すると「なぜ、急に帰るんだ?」「なぜ?」と、ボビーは驚いて何度も聞いた。「仕事があるから急いで帰らなくてはいけないんだ」と答えると、ボビーは首を振って、悲しい顔を見せて黙った。
以前、ボビーと夜通し語り合ったとき、「ここで出会った友だちはいつもどこかに帰ってしまう」と言っていたのを思い出すと、胸が締めつけられる思いになった。この街で困った時、なにかと親切にしてくれた彼の悲しい顔を見るのは辛かった。
重い空気の漂うその場を早く去りたかった僕は、「あとでまた……」と言って、ホテルの目の前にある行きつけのデリカテッセンに朝食を買いに行った。ホテルを出て、後ろを振り返ると、ボビーが僕を目で追っているのがわかった。
(次回へ続く。毎月1日、15日更新。次回は8月1日です)
