カレーは実においしかった。
「今日のは、わたしのお母さんの作るカレーよ。なんだかんだ言って、こういうカレーが一番おいしいわ。ねえ、ニューヨークの話を聞かせて」
彼女はこう言って、食後に淹れた湯気の立ったチャイを口にふくませた。
ニューヨークにはじめて着いた日、雨でびしょぬれになってスーツケースを引きずりながら、夜中までホテルを探して歩いたこと。ホテルで出会った人たちとの面白かった日々のこと。とびきりおいしい朝食屋のこと。好きな本屋やフリーマーケットのことなどを思い出しながら、僕は彼女に聞かせた。そしてニューヨークには二週間後に戻る予定であることも話した。
「いいなあ、わたしも一緒に行きたい。やたろう君みたいに好きなことを見つけて、ニューヨークで暮らせたら夢みたいだわ」
そんな言葉で僕を酔わせる彼女は、僕を買い被っているように思えた。僕はそんなすてきな男ではないし、ニューヨークの暮らしなんてひとつも良いことはないと心の中でつぶやいた。なにひとつ順応できず単に日本から逃げ出した場所が、たまたまニューヨークだった。それだけのことだった。外国と日本を行ったり来たりしていることは、他人から見れば、格好いいように見えるが、決してそうではないことを自分が一番知っていた。
「安ホテルとか、又貸しされた狭いアパートで暮らすのは結構大変ですよ。しかも僕の住むヘルズキッチンというエリアなんて、女性は危なくて住めませんよ」
そう言うと彼女は、「ねえ、一度、遊びに行ってもいい?」と身体と顔を寄せて聞いた。彼女の瞳は僕をじっと見つめていた。そして閉じていたくちびるが小さく開いた。僕はくちびるを自然と重ねた。一度離してから、もう一度重ねたとき、彼女の身体をはじめて触った。痩せていたが、やわらかくてあたたかかった。彼女の手に自分の手を合わせて指を触った。彼女の手はあの日と同じようにひんやりとして心地よかった。彼女の口から小さな声がもれた。
「彼女いるの?」「うん、いる」「……」「そっか」「かおりさんは?」「いる」「……」
当時、彼女のいなかった僕は、なぜか格好つけて嘘をついた。
「どう……する?」彼女は聞いた。
沈黙してから「帰……ります」と答えた。
今ここで彼女を抱くことによって、自分が幻滅されるのが怖かった。その時、自分にひとつも自信がなく、人と深くつながることで、だめな自分を知られてしまうのが嫌だった。その頃は誰と親しくなっても距離を縮めることを避けていた。彼女から格好いいとか、すてきとか思われている自分を失いたくもなかった。
「かおりさん、帰ります」「そうね……。うん、わかった」「すみません……」「謝らないで。今日は楽しかったわ」
僕は玄関に向かい、ドアノブを手にして後ろを振り返った。彼女はこちらに背中を向けてカレーの食器を洗いはじめた。互いに何か言おうとしたが、蛇口から流れる水道の音が二人の言葉を遮った。
「またね。気をつけて帰って」
彼女の背中はバイト先で見る背中に戻っていた。外に出てドアを閉めるとき、彼女は一瞬だけ僕の方を向いて小さく手を振った。夏の夜の外は暑かった。
とぼとぼと歩いて駅に着くとすでに終電はなくなり、駅の電気は消えて暗くなっていた。タクシー代を持っていなかった僕は、彼女の部屋に戻ろうか……と、しばらく立ったまま考えた。しかし歩いて帰ることにした。歩きながら時折くちびるを噛むと、彼女のリップグロスの味が残っていた。
帰途、何度か足を止めて、彼女の背中を思い出し、抱きたい気持ちを募らせた。
次の日バイト先に出勤すると、いつものように彼女は働いていた。僕と彼女が目を合わすことはなかった。僕は遠くから彼女の背中を見つめるだけだった。
僕は二週間後、何かから逃げるようにして日本を発った。二十三歳の僕は最低な自分といつも闘っていた。
(毎月1日、15日更新。次回は7月1日です)
