高崎俊夫の映画アット・ランダム: 連載アーカイブ
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ダニエル・シュミットとミニシアターの時代

 オーディトリウム渋谷で大規模な「ダニエル・シュミット映画祭」が始まった。第一部は彼のほぼ全作を網羅した「レトロスペクティヴ」、第二部はドキュメンタリー『ダニエル・シュミット――思考する猫』、第三部は「ダニエル・シュミットの悪夢―彼が愛した人と映画」と題し、『歴史は女で作られる』『グリード』など彼が偏愛してやまなかった八本の映画が上映される。

 先日、『ダニエル・シュミット――思考する猫』の試写を見せてもらった。私は、パスカル・ホフマンとベニー・ヤールがチューリッヒ芸術大学大学院の終了制作として撮った、この優れたドキュメンタリーを見て、さまざまな思いに耽ってしまった。

 

ダニエル・シュミットという名前は、ミニシアターが華々しく登場した一九八〇年代初頭という時代の記憶と深く結びついている。一九八一年に、フィルムセンターの特集「スイス映画の史的展望」において、シュミットの『ラ・パロマ』が上映された時の異様な混雑ぶりはよく憶えている。その理由は、はっきりしていた。蓮實重彦が、当時、『話の特集』のコラムで、この無名の映画作家の『ラ・パロマ』を大絶賛していたからだ。

今、思えば、ダニエル・シュミットを世界中でもっとも高く評価したのは、日本の映画ファンであり、より正確に言えば、当時、絶大な影響力を誇示していた蓮實重彦の扇動的な批評によるところが大きかったと思う。一九八二年にアテネ・フランセで開催された「ダニエル・シュミット映画祭」は、日本で一本も正式公開されていない映画作家の特集としては、異例の大成功を収めた。

この年に、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが亡くなり、ちょうど、映画祭で来日していたシュミットがドイツ文化会館でファスビンダーの追悼講演とシンポジウムを行った。この時に司会兼通訳を務めた岩淵達治さんには、その後、シュミットへのインタビューをお願いし、それらをまとめる形で、『月刊イメージフォーラム』で「R・W・ファスビンダー研究」という特集をつくったのである。

 

ダニエル・シュミットといえば耽美的でキッチュで倒錯的なメロドラマの作家と語られがちだが、私がこのシンポジウムで、強く印象に残ったのは、彼の次のような発言だった。

 

「だいたい私は、二人の人間関係、たとえば、男と女とか夫婦関係というものが最少単位のファシズムの発生するベースだと思う。つまり、ファシズムをそういうふうに二人の人間の従属関係から捉えた場合は、日本だろうとソ連だろうとアメリカだろうとドイツだろうと皆同じではないだろうか。」

 

『思考する猫』ではシュミットの、一九六〇年代のベルリンにおける政治運動やカウンター・カルチャーの洗礼を浴びた経験が語られていて興味深かった。そして、一九七〇年以後は、映画の世界で一挙にバロック風な幻想的な資質を開花させた経緯が、あざやかにスケッチされており、あらためて、一筋縄ではいかない映画作家だなと思った。

この作品のなかで、図らずも、シュミットをスイスの山脈の斜面によって自己形成を遂げた〈山の人〉と指摘するビュル・オジェと蓮實重彦はさすがに鋭い洞察を示しているが、すっかり頭部が薄くなってしまったキャメラマンのレナート・ベルタが登場すると、妙になつかしくなって思わず見入ってしまった。

レナート・ベルタは、『今宵かぎりは……』(72)以後のダニエル・シュミットのほぼ全作品、さらに、ゴダール、アラン・レネ、そしてなによりも、スイス映画の盟友アラン・タネールのキャメラマンとして知られている。

そのレナート・ベルタが最初に来日したのは、一九八五年に開催された「アラン・タネール映画祭」の時だった。招聘したユーロスペースの堀越謙三さんから依頼があり、ベルタへのインタビューを行ったのだが、面白かったのは、その後、ベルタが、突然、新宿歌舞伎町のノゾキ部屋に行きたい、と言いだしたことだ。

どうやら、シュミットら映画仲間から、新宿の風俗情報などを聞いていたらしい。ベルタと新婚らしき奥さん、それに通訳をお願いした、当時ヘラルドエースにいた寺尾次郎さん、それに私というメンバーで、当時、人気絶頂だったアトリエ・キーホールかどこかを数軒、ハシゴしたはずだが、レナート・ベルタが好奇心に満ちた眼差しで、そんな東京の怪しげな最前線の風俗店をみつめていたのを、おぼろげながら記憶している。

 

ダニエル・シュミット、アラン・タネール、そしてレナート・ベルタは、ミニシアターの黄金時代をそのまま体現する固有名詞といってよいだろう。映画批評家ではもちろん蓮實重彦の名前を逸するわけにはいかない。そして、配給・興行のサイドで、この時代をシンボライズする人物といえば、やはりユーロスペース代表の堀越謙三さんをおいてほかにいないだろう。

 

私は、以前から、ミニシアター・ブームの牽引役を務め、レオス・カラックス、アッバス・キアロスタミのプロデューサーとして、さらには東京藝大大学院映像研究科を立ち上げた教育者の貌も持つ堀越謙三さんのユニークな軌跡に深い関心を抱いていた。

今度、筑摩書房のPR誌「ちくま」で始まった堀越さんの聞き書きのメモワールは、ミニシアターという時代がなんだったのか、をめぐってある答えを与えてくれるような気がしている。

 

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『ダニエル・シュミット――思考する猫』

『今野雄二 映画評論集成』を読みながら考えたこと

 先日、洋泉社から大部の『今野雄二 映画評論集成』が届いた。二〇一〇年七月に自死を遂げた映画評論家今野雄二さんの遺稿集である。

 最初は、今野さんとほとんど面識がなかった私に、なぜ送られてきたのだろうと思った。実際に、私が今野雄二さんと言葉を交わしたのは、たぶん、一度きりである。ジョン・ウォーターズの『セシル・B・シネマウォーズ』(00)が公開された際、配給会社のプレノンアッシュが、六本木の焼肉屋で今野さんとジョン・ウォーターズの食事会をセッティングし、パンフレットを編集した私も呼ばれて同席したのだ。その時に、ジョン・ウォーターズがゲイ・セクシュアリティがらみの冗談を連発し、今野さんが苦笑していたのを覚えている。

 

本書の帯には、「日本のサブカルチャー&カルト映画ブームを牽引した孤高の映画評論家が遺した幻の評論原稿を厳選採録!」という文言が謳われているが、通読してみて、今野さんの批評がもっとも活き活きと輝いていたのは、やはり、一九七〇年代という「アメリカン・ニューシネマ」の時代だったなとあらためて思った。

たとえば、今野さんは、七一年の「キネマ旬報」の年間ベストテンで「これまで見たすべての映画が『ファイブ・イージー・ピーセス』へ至る為の指針だったことになり、今後、見るあらゆる作が、『ファイブ・イージー・ピーセス』を越えなくてはならぬという宿名を、担うことになる」と書いたが、当時、高校生だった私はなんとカッコいいコメントだろうと思った。当時、こんなふうに一本の映画への熱愛をキザに語ってしまう映画評論家はいなかったからである。

 

ひと口にニューシネマと言っても、今野さんの好みは千差万別で、『イージー・ライダー』を、「『白昼の幻想』や『ワイルド・エンジェル』同様に、一連のアメリカン・インターナショナルの延長でしかないこのフォーニー(ニセモノ)・フィルム」とまで酷評している。

本書を読んでいて嬉しかったのは、『ウェスタン・ロック・ザカライヤ』(71)という珍品の批評が載っていることだ。ニューシネマ全盛時代にひっそりと公開された、この異色の西部劇は、陽炎がゆらめく荒野で、カーボーイたちがロックギターをかき鳴らすフシギな場面や、突然、現われたジャズドラマーの大御所エルヴィン・ジョーンズがロックドラムを叩いている若造を蹴飛ばして、居座るや、ドラムソロを延々と繰り広げるシーンなど断片的な記憶だけが残っているが、私にとっては、幻のニューシネマの一本なのであった。

 

当時の今野雄二さんのお気に入りは、何といっても、ロバート・アルトマンとケン・ラッセル、そしてブライアン・デ・パーマ(彼はこの表記に固執した)だが、アルトマンに関しては、『ナッシュビル』や『ウェディング』の批評にせよ、海外の文献を渉猟した綿密な研究という趣きがあり、今、読み返しても、その鮮度は決して失われていないと思える。

 

ブライアン・デ・パーマ作品に至っては、手放しの礼讃で、たとえば、『スカーフェイス』評において、「デパーマに目覚めてしまった者が、映画を楽しむ基準としてストーリーは二の次にしてとりあえずはその映像のスタイル美を第一に考えるようになる」という、内容よりも様式の美しさを顕揚するくだりなどは、スーザン・ソンタグの『反解釈』の多大な影響を感じないわけにはいかない。

 

実際に、最初期に書かれた「ブラック・ユーモア――そのフリークの世界」という『映画評論』7011月号に載った評論の結びには、「「キャンプ」という感覚を論じようとしたソンターグにならって、あえて、「ブラック・ユーモア」を定義づけようなどという野心は抱かない方がこの際、賢明というものだろう」という一節がみえる。

 

今、思うと、過剰なまでのソフィスティケーションを志向するスーザン・ソンタグのきらびやかなキャンプ論には、彼女の両性具有的な美学、あるいはレズビアニズムの影が垣間見えるような気がする。

 

本書に目を通すと、あらためて、今野雄二が、批評家として出発点から、映画における同性愛、ホモ・セクシュアリティの主題に深く執着していたことがわかる。

たとえば、『キネマ旬報』688月別冊「アングラ68ショック篇」に収められた「ホモ的エロティシズムと日本のアングラ」という長篇のエッセーでは、西村昭五郎の隠れた秀作『帰ってきた狼』(66)の主人公と混血のヤクザ少年とのセクシャルな関係に着目しているのが印象深い。

この論考で、私が興味を覚えたのは、今野雄二が、ドナルド・リチーのスキャンダラスな実験映画を絶賛していることだ。なかでも、年上の女が若い男子学生を、古びた庭園にひきずり込み、芝生で全裸にして愛撫する『し』に言及し、今野さんは、「この映画で最も魅惑的なのは、年上の女がフェラチオという性技を駆使して、遂に相手の少年を死に到らしめる、というショッキングなテーマだと思います。これとても、ホモ・セクシュアルな発想なしには、とうていなし得なかったはずであります」と書いている。

 

一九六八年当時、ドナルド・リチーと今野雄二さんは、恋人同士だったという噂を耳にしたことがあるが、実情は詳らかではない。

その頃、ドナルド・リチーは『季刊フィルム』に「私の映画遍歴」という一文を寄せているが、私は、これはドナルド・リチーによって書かれたもっとも感動的なエッセーと考えている。映画に耽溺することの恍惚と病いを、これほど真率に告白したエッセーは稀であり、次に引用する冒頭の一節は、おそらく、今野雄二さんも深く共鳴していたのでないかと想像されるのだ。

 

「妻は、私と離婚する直前にこういった。「私がもし、これから結婚しようとする人にアドヴァイスを頼まれたら、その女性には、映画を好きな男とは結婚するな、っていうでしょう」。彼女の判断は正しかった。映画が好きな男は、ほとんどの時間をひとりぼっちで暗闇で過ごすために、自己本位で社交嫌いになってしまう。そのうえ、それほど映画が好きだというのは、幼い頃から映画を見始めているに違いないのだ。彼の幼年期は歪んだものだ。自分の家族よりもスターを愛し、彼は暗闇の中にひとりぼっちで坐っていた。最後には、彼がそれほどまでに映画が好きになるには、スターが必要となったはずである。これは不幸な家庭を意味し、あまりにも不幸であるために彼は映画館へ逃避せざるを得なかったのだ。あまりにも映画が好きな子供は、病める子供であり、病める人間になる。彼は現実よりもスクリーンの幻影を愛するようになる。」(今野雄二訳)

 

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大部の遺稿集『今野雄二 映画評論集成』(洋泉社)

白鳥あかねメモワールと池田敏春のこと

私が企画・編集した白鳥あかねさんの聞き書きの自伝『スクリプターはストリッパーではありません』(国書刊行会)がようやくできあがった。一九五五年、日活にスクリプターとして入社し、小林旭の人気を決定づけた「渡り鳥」シリーズをはじめとする日活アクション映画の黄金期から、神代辰巳、藤田敏八、根岸吉太郎らの才能が開花したロマンポルノの現場を経て、ディレクターズ・カンパニーとの熱い共闘……と、戦後映画界の盛衰をみつめてきた白鳥さんのメモワールは、日活映画のみならず日本映画ファンには必読といっておきたい。

 

本書には、今村昌平、浦山桐郎、長谷川和彦、曾根中生といった常軌を逸した破天荒な映画人たちが続々登場し、産経新聞で書評を書いてくれた中条省平さんの表現を借りれば、「現場そのものがドラマチックな人間喜劇」の様相を呈するが、そのなかでも、ひと際、鮮烈な印象を与える人物が、池田敏春である。

池田敏春は、ロマンポルノで復活した日活に七四年に入社して『天使のはらわた・赤い淫画』(81)などの秀作を撮り、さらに、ディレクターズ・カンパニーの第一作『人魚伝説』(84)を監督したが、興行的に不入りで、その後は、次第に作品数も減り、二〇一〇年、『人魚伝説』の舞台となった三重県伊勢志摩の海上で自死した。

 

白鳥さんは、本書で次のように語っている。

「私が池田の訃報を聞いたその日に、渋谷の名画座(シネマヴェーラ渋谷)でちょうど『人魚伝説』をやっていたんです。矢も楯もたまらず観に行って、涙がとまらなかったですね。でも観終ったら池田が死んだのも納得できたというか、こんな映画をつくったら死ぬしかないのかなとも思いましたね。それほどすごい映画でした。」

 

 私も深く同意するが、今や、原発誘致問題などアクチュアルなテーマを内包するカルト・ムーヴィーとして高い評価を得ている『人魚伝説』も、公開時には賛否両論であったように思う。当時、熱狂的な擁護者ではシネセゾンにいた市井義久さんがひとり気を吐き、キネカ大森で池田敏春特集を組んだ時など、私が在籍していた『月刊イメージフォーラム』に、連日のようにファックスを送ってきたことが思い出される。

 というのも、『人魚伝説』が公開される直前、『月刊イメージフォーラム』の八四年四月号で、「日本映画への発言」という特集を組み、池田敏春監督のインタビューや、『人魚伝説』の製作ノートを掲載していたからだ。

 

 この特集では、八〇年代半ばの時点で、一般、自主映画を問わず活躍中の若手監督二〇人に抱負・提言を書いてもらったが、巻頭の対談で、『神田川淫乱戦争』(83)で商業映画デビューしたばかりの黒沢清と早大シネ研のエースとして絶大な人気があった山川直人という組み合わせには、いかにも当時の時代の気分が反映されていると思う。

 

 この時、池田敏春は、原稿を書く時間がなく、編集部に来てもらい、私が談話を纏める形になったが、初対面の池田監督は、終始、うつむくような感じで人見知りが激しい方だなという印象を持った。

池田監督はこんなふうに当時の心境を語っている。

「『人魚伝説』は単純に女が主人公で、いかに活劇として成立させるかということに興味があったんです。……中略……、現場でも、僕自身の自己暗示というか錯覚がスタッフや役者たちに伝わり、一種、別な表現を使えば〈共犯幻想〉というか、幻想を共有することで画面に熱気なり力が生じることはあると思うんです。今回の現場はそんなことを初めて感じさせてくれました。それと同時に自分の恥しさ、羞恥心みたいなことを強烈に意識させられましたね。……中略……今度、角川で撮ることになった『湯殿山麓呪い村』は、『人魚伝説』と同じように〈殺戮〉が主題になるんですが、『人魚伝説』が、全篇、鮮血で真っ赤だったから、今回は血を一滴も見せない殺戮は可能か、ということを考えているんです。」

 

 七〇年代に一部で聖典のように読まれた『共犯幻想』(嗚呼、真崎・守!)というフレーズが自然に吐露されるのが、いかにも池田監督らしいと思える。

 

 チーフ助監督・渡辺容大の手になる製作ノートも、四百字詰めで五十枚を超えるボリュームがあり、この伝説的な映画の過酷な現場が、実に活き活きと描かれていて読みごたえがある。この中に、白鳥あかねさんが創作し、撮影されたものの、編集段階で惜しくもカットされてしまった幻のシーンについての記述がある。

ヒロインのみぎわ(白都真理)とセックスした翌朝、心の葛藤を持てあましながら一人引き上げていく祥平(清水健太郎)が、客引き女と出会う場面である。シナリオではこうなっている。

 

客引き女 「あんさん燃えとんのやないの。もう一晩どないや。」

祥平   「女なんかもう顔も見とうないわ。」

客引き女 「あいにくやな、船着場はあっちやに。」

祥平   「この道は、どこ行くんか?」

客引き女 「坂上ったら墓や。」

祥平   「こっちは?」

客引き女 「どんづまりや。」

祥平   「どんづまり……け。」

 

 清水健太郎が好演した不甲斐ない、地元の大立者の息子の末路を暗示するかのような秀逸なシーンだが、ちなみに、この客引き女を演じたのは、白鳥あかねさん自身で、これは、ぜひ、見て見たかった!

 

 その後、最後に、池田敏春監督と会ったのは、一九九二年、私がビデオ業界誌の編集長時代で、パイオニアLDCが製作した『くれないものがたり』のゼロ号試写をイマジカで見た時だった。赤江瀑の短篇の映画化で、修学旅行で京都を訪れた高校生が、妖しい香の世界に魅せられていく物語だった。スーパー16で撮られ、本来オリジナルビデオ作品としてつくられた作品だが、あまりに完成度が高かったために、劇場公開されたのではなかったろうか。

『くれないものがたり』は、京都の街の佇まいや、日本家屋、とくに障子の部屋や庭の灯籠が、突如、深紅に染まり、蠱惑的な幻想空間へと変貌する、鈴木清順ばりのケレンたっぷりの演出に瞠目させられた。とりわけ、ヒロインを演じた竹井みどりが優美に官能的に撮られていたのには感嘆した。そんな感想を伝えると、池田監督は照れたように苦笑するばかりだった。その直後に、竹井みどりにインタビューしたのだが、彼女も池田敏春の繊細な演出ぶりを称賛していた。

当時から、池田敏春といえば、血みどろの殺戮や暴力的な描写ばかりが取り沙汰されがちだったが、『くれないものがたり』は、綿密な色彩設計や日本的な情緒を画面ににじませる端正で正攻法の演出に唸った。思えば、『天使のはらわた 赤い淫画』の泉じゅん、『人魚伝説』の白都真理、そして『くれないものがたり』の竹井みどりにしてもすべて彼女たちにとって代表作といってよい。池田敏春は、なによりも女優を美しく撮れる監督であったことは特筆されねばならない。

 

白鳥さんの本の刊行に合わせて、六月十五日から約二か月間、ラピュタ阿佐ヶ谷で「映画のすべてを記録する 白鳥あかねのスクリプター人生」という特集が組まれている。三十三本の上映作品の中には、以前、このコラムでも紹介した皇太子(今上天皇)を主人公とする西河克己の問題作『孤獨の人』をはじめ、『人魚伝説』、そして近年、海外でもカルト・ムーヴィーとして評価が高い『死霊の罠』という二本の池田敏春の映画が入っている。ぜひ、この機会に、スクリーンで池田敏春の特異で官能的な魅力を味わってほしい。

 

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白鳥あかね著『スクリプターはストリッパーではありません』(国書刊行会)

『ブルージャスミン』と「ブルー・ムーン」

『ブルージャスミン』は、近年、ヨーロッパの各都市を舞台に、いささか弛緩したロマンティック・コメディを連作していたウディ・アレンが、ひさびさにアメリカ西海岸を背景に撮ったダークな味わいのドラマだ。セレブリティの世界から転落したジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、どん底からはい上がろうと身悶える姿を冷徹にとらえたウディ・アレンのまなざしは辛辣きわまりない。

虚栄心の塊のようなケイト・ブランシェットは、なまなかな感情移入を完璧に拒むヒロインだが、狂気の淵をのぞかせる、その鬼気迫る演技には、ただ圧倒されるほかない。最近のウディ・アレンの映画ではもっとも心に沁み入る、チェーホフ的ともいうべき苦い、メランコリックな笑いに彩られている。

 

 現在のアメリカ映画界で、ウディ・アレンは、ジャズのスタンダード・ナンバーをもっとも愛情をこめて、巧みに使う映画作家だが、この作品では、ケイト・ブランシェットが、「大切な出会いの歌なの、歌詞は忘れたけど」と呟き、「ブルー・ムーン」が何度も流れる。とりわけ、幕切れで、コラル・フォークスのピアノソロによる「ブルー・ムーン」の旋律が聴こえてくると、なんだか粛然たる思いにとらわれてしまった。

 

「ブルー・ムーン」は、「ロマンティックじゃない?」「時さえ忘れて」「恋に恋して」「イッツ・イージー・トゥ・リメンバー」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」などの名曲で知られるロレンツ・ハート&リチャード・ロジャースの代表作といってよいだろう。

 この名曲の誕生には、紆余曲折がある。最初は、クラーク・ゲイブルとウィリアム・パウエル主演の『男の世界』(34)のなかで「ザ・バッド・イン・エヴリマン」という題で、挿入歌として使われている。ただし、歌手シャーリー・ロスがメロディを口ずさむシーンがあっただけで、ほとんど話題にはならなかった。そこで、ロレンツ・ハートが「ブルー・ムーン」の題で新たに詞を書くと、今度は、当時の美人歌手コニー・ボズウェルが歌って大ヒットとなった。

私の手許にも、メル・トーメ、ジュリー・ロンドン、ディーン・マーチン、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンなどが歌ったアルバムがあるが、とりわけ、私が密かにトニー・ベネットの最高傑作と考えている名盤『ロング・アンド・ファー・アウェイ』に入っている「ブルー・ムーン」は、何度、聴いても陶然となる、すばらしい絶唱だ。

 

「ブルー・ムーン」は、一九六一年には、ザ・マーセルズがアップテンポのドゥー・ワップのスタイルで歌ってミリオンセラーとなったが、私が、この曲を最初に強烈に印象づけられたのは、ジョン・ランディスの『狼男アメリカン』(81)だった。この映画では、ザ・マーセルズのバージョンをメインにして、サム・クックのソウルフルな熱唱、そしてボビー・ヴィントンの甘く切ない「ブルー・ムーン」がそれぞれ使われている。

『狼男アメリカン』は、当初は、『ブルー・ムーン殺人事件』という素敵な邦題だったはずで、当時、SF映画雑誌『スターログ日本版』の編集者だった私は、早めに試写を見て、『ブルー・ムーン殺人事件』の題で、紹介記事を書いた記憶がある。なぜ『狼男アメリカン』などというつまらないタイトルに変わってしまったのだろうか。 

 

 日本映画で、もっとも早く「ブルー・ムーン」が使われたのは、間違いなく、鈴木傳明が監督・主演した『舗道の囁き』(36)だろう。加賀まり子の父親で戦後、大映のプロデューサーとして活躍した加賀四郎が製作した、この幻の作品は、日本最初の本格的なダンス・ミュージカル映画といってよい。中川三郎のアパートで一夜を過ごしたジャズ歌手のベティ稲田が、翌朝、食事の用意をしながら、「ブルー・ムーン」を口づさむと、それに合わせて、中川三郎が超絶技巧のタップを踊り出すシーンは、まさに、アステア&ロジャーズ映画を彷彿とさせる愉しさである。

 

 インストルメンタルでは、フェリーニの『81/2』(63)で、マルチェロ・マストロヤンニの映画監督が愛人と逗留しているロケ地に、妻のアヌーク・エーメが初めて登場するシーンに流れる「ブルー・ムーン」が忘れられない。『81/2』は、ニーノ・ロータのさまざまに変奏される主題曲が有名だが、既成のスコアでは、湯治場のシーンでダイナミックに響きわたる「ワルキューレの騎行」と「セヴィリアの理髪師」が傑出した効果を上げているのは周知の通り。なかでも、広場のステージで、フル・オーケストラが演奏する哀愁に満ちた「ブルー・ムーン」は、なんともゴージャスで美しかった。

ところが、最近、DVDで見直したところ、この場面に使われていた「ブルー・ムーン」が、まったく別な曲に替えられていた。これはいったい、なぜだろう。著作権の問題だろうか。

 


 最後に、「ブルー・ムーン」の極め付けといっていい名演を紹介したい。狂気じみたアナーキーな笑いが炸裂するマルクス兄弟の映画のなかでも、もっとも豊かな音楽性が感じられるのが『マルクス兄弟珍サーカス』(39)である。サーカス巡業の移動列車内で、チコがピアノで弾く「ビア樽ポルカ」、グルーチョが怪しげな振り付けで歌い踊る「刺青の女リディア」も実に可笑しいが、動物園のくだりで、黒人たちのジャズ・コーラスをバックに、ハーポがお得意のハープで「ブルー・ムーン」を弾くシーンは、一度見たら忘れられない。 典雅きわまりないハーポの演奏に唖然とした表情で聴き入っている少女のショットがあるが、恐らく、マルクス兄弟の全作品のなかでも屈指の、どこか神々しさすら漂う感動的なシーンであった。


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『マルクス兄弟珍サーカス』でハーポが「ブルー・ムーン」を弾く名場面

イタロ・カルヴィーノの映画作法

 最近、試写で『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』というイタリアのドキュメンタリー映画を見た。ローマを取り巻く高速道路GRAの周辺に住む、ひと癖もふた癖もある個性的な人物たちを定点観測のようにスケッチした愛すべき小品で、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しているが、プレスを読んで驚いた。監督のジャンフランコ・ロージが、「この映画はイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』にインスパイアされた」と語っていたからだ。 

 

イタロ・カルヴィーノは、多分、翻訳された作品をほとんど読んでいる唯一の作家といっていいかもしれない。亡くなって三十年近くの歳月が流れたが、彼の発見者であるチェーザレ・パヴェーゼと同様、未だに岩波文庫で陸続とその作品が復刊されているのはうれしい限りである。一時期、高橋源一郎が激賞したせいもあってか、カルヴィーノは、〈エレガントな前衛〉〈ポストモダンの作家〉などと称されて、実験的なメタ・フィクションの作家と目されがちだが、私にとっては、カルヴィーノとは、なによりも豊潤なイタリア映画の名作と同じように、〈美しい物語〉の語り手である。

 

最初に読んだのは、一九七一年に晶文社から刊行が始まった〈文学のおくりもの〉シリーズの『まっぷたつの子爵』 だった。その詩的で奇想に満ちた面白さにめまいのような感動を覚え、すぐさま『木のぼり男爵』(白水社)、『不在の騎士』(学芸書林)、『マルコヴァルドさんの四季』(岩波少年文庫)と読み継いで、すっかり魅了されてしまった。

とりわけ、十八世紀の啓蒙思想の時代を背景に、ある日、森の木に登って、一生涯、木から降りてこなくなった少年を描いた『木のぼり男爵』は、あまりの童話的な残酷さと澄み切ったユーモアの混交に圧倒された。

ちょうど、その頃、封切られた『フェリーニのアマルコルド』(73)に、主人公の少年が精神病院に入院しているテオ叔父さんを連れ出して、一家で郊外にピクニックにでかけるエピソードがあった。テオ叔父さんは、突然、田舎家のはずれにある樹にのぼりはじめる。そして、夕暮れになっても、降りて来ず、地平線の彼方に向かって、「女を抱かせろ!」と叫び続けるのだ。この涙が出るほど、可笑しい場面を見ながら、私は、まるで『木のぼり男爵』のようだ、と呟いた。

 

それ以来、ずっと長い間、私は、イタロ・カルヴィーノの魔術的な想像力とフェリーニのノスタルジアに満ちたサーカス的な夢想の世界は、きわめて近しいのではないかと思っていた。

一九八五年、不思議な偶然だが、カルヴィーノが亡くなる直前、雑誌『ユリイカ』が「イタロ・カルヴィーノ 不思議な国の不思議な作家」という特集を組んだことがあった。その号はとても充実した内容で、今も私の手元にあるが、とくにパゾリーニへの深い友情を感じさせる「パゾリーニへの最後の手紙」、偉大なコメディアン、グルーチョ・マルクスを追悼した「グルーチョの葉巻」などを読むと、カルヴィーノがいかに映画に深く傾倒していたのかが了解されるのだ。

 

カルヴィーノの没後、ずいぶん経ってから、『サン・ジョヴァンニの道――書かれなかった[自伝](朝日新聞社)が刊行された。この中にある「ある観客の自伝」という章は、カルヴィーノの幼少期から青春時代に出会ったアメリカ映画やイタリア映画への想いを綴ったメモワールで、とくに後半は、まるごとフェリーニへの熱いオマージュとなっている。たとえば、次のような一節はどうだろうか。

 

「フェリーニのヒーローの伝記――それを監督は毎回最初から撮りなおす――は、この意味でわたしのものよりはるかに典型的だ。若者が地方を離れ、ローマに出て、スクリーンの向こう側へ移って映画をつくり、自分自身が映画になるからだ。フェリーニの作品は、裏返された映画なのだ。映写機は客席をのみこみ、カメラはセットに背を向けているというのに、その二つの極がいつももたれあいながら、地方はローマによって憶いだされることで意味を獲得し、ローマは地方からやってくる人びとのなかに意味を獲得し、両側に棲む怪物じみた人間たちのはざまで同じ神話が生まれ、それが『甘い生活』のアニタ・エクバーグの巨大な女神となって、そのまわりを回っている。フェリーニの仕事が狙っているのは、この発作的な神話を明るみに出し位置づけることであり、その中心にあるのが、さまざまな原型が螺旋状にひしめきあう『812』における自己分析なのだ。」

 

まさに、目の覚めるような卓見がちりばめられたこの美しいエッセイを読み返しながら、私は、カルヴィーノが、シナリオライターとして関わった二本の作品があったことを思い出した。

一本は、フォルコ・クィリチ監督の『チコと鮫』(62)、もう一本は、『ヴォッカチオ70』(62)の第一話、マニオ・モニチェリが監督した「レンツォとルチアーナ」である。

このオムニバス大作は、深夜、巨大な女神アニタ・エクバーグがローマの街を闊歩する、フェリーニ篇の「アントニオ博士の誘惑」ばかりが取り沙汰されるが、日本では劇場公開されなかった職人モニチェリのパートも、実に愛すべき小品である。

実は、最近、初めてこの「レンツォとルチアーナ」を見て驚いたことがある。工場に勤めるカップルが、職場結婚を禁止されているために極秘で結婚式をあげたものの、発覚して会社をクビになる。夫は夜間勤務の工場で働き、妻は、夫が早朝、帰宅する時刻に、目覚まし時計と共にベッドを起きだし、コーヒーを用意し、あわただしくキッスをかわしながら、仕事へ出かけて行く。残された夫は、ベッドに入ると、片側の、今しがたまで妻が寝ていた、その躰のかたちをとどめたままの温かい窪みのなかで、顔を枕にうづめ、妻の薫りにくるまれるようにして眠りにつくのだ。

このエロティックなラストシーンを見ながら、私は、カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(福武書店、のちに岩波文庫)のなかの名篇「ある夫婦の冒険」の忘れがたいエピソードがそのまま再現されているので、思わず、微苦笑してしまった。   

 

イタロ・カルヴィーノは、名著『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、のちに河出文庫)のなかで、「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資質だ。」と書いている。この古典についての見事な定義は、イタロ・カルヴィーノの作品にそのまま当てはまるように思えるのである。

 

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イタロ・カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(和田忠彦訳・岩波文庫)

 

 

 

 

 

『そこのみにて光輝く』と一九七〇年代、ニューシネマの記憶

 さる三月二十一日の夜、赤坂BLITZで「我が青春のパック・イン・ミュージック」なる気恥ずかしいタイトルのイベントがあり、私も一員である「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」に招待チケットが回ってきたので、のこのこと出かけて行った。久々に何人かのメンバーに再会し、林美雄夫人の文子さんにもご挨拶ができた。会場は五十代、六十代でぎっしりと埋めつくされていた。小島一慶と兵藤ゆきの司会で、山崎ハコ、山本コウタロー、小室等のミニライブがあり、客席には、パックでパーソナリティだったTBSの元アナウンサー桝井論平の顔も見られ、さながら、パックの同窓会の様相を呈した。

 

 私がパックをもっとも熱心に聴いていたのは、林美雄さんが金曜第二部を担当していた一九七四年の八月までである。だから、一九八二年まで続いたパックの終了時の記憶はまったく欠落している。ただ、この夜のイベントで改めて実感したのは、パック・イン・ミュージックの歴史の中で、超メジャーの野沢那智と超マイナーの林美雄というすでに鬼籍に入った二人の存在がいかに大きかったかということだ。

 

「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」では、一時、もし林美雄が生きていたら、絶賛したであろう新作映画を各人が推薦しようという呼びかけがあったが、最近、これは、絶対に林さんが狂喜するだろうと思える映画を見た。

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』だ。原作は一九九〇年に四十一歳で自死した作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。

村上春樹と同世代の佐藤泰志は、その小説を読むと、同時代の映画の引用が目につき、かなりの映画狂であったことがわかる。作り手たちもそのことを意識していると思しく、映画『そこのみにて光輝く』は、一九七〇年代のアメリカン・ニューシネマやATGの青春映画、初期の日活ロマンポルノの記憶を刺戟するような不思議な魅力をたたえている。

たとえば、主人公の達夫(綾野剛)と拓児(菅田将暉)がパチンコ屋で、百円ライターをきっかけに知り合うシーンは、『スケアクロウ』(73)の冒頭、最後の一本のマッチがきっかけで、ジーン・ハックマンとアル・パチーノが意気投合する場面を、思い起こさせる。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫は、バラックのような拓児の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、東京の川向うの浦安を舞台に、行き場のない女たちの淀んだ日常を描いた曾根中生の『色情姉妹』(72)を彷彿とさせる。

さらに、自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が、人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、神代辰巳の『恋人たちは濡れた』(73)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感や閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。

 

絶えず煙草を吸い、よるべない怒りや焦燥をもてあます綾野剛、絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴、ノンシャランな存在感が『共食い』以上にリアルに迫ってくる菅田将暉、それぞれがベストパフォーマンスと言えるすばらしさだ。だか、私は、この映画では脇役がひときわ光っていると思う。千鶴の愛人で気勢をあげながらも、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長を演じた高橋和也の浅ましさ、そして、かつて達夫の上司で、達夫の「家族持ちたくなったんだ」という言葉に、「バカか、俺を見れ、誰もいねえ、……それでいいんだ」と自嘲気味に呟く火野正平の深い皺が刻み込まれた異貌は、忘れがたい強烈な印象を残す。

 

俳優たちの自在でのびやかな演技を引き出した呉美保監督の演出手腕も見事だが、七〇年代ニューシネマのルックを意識した撮影の近藤龍人も特筆すべきだろう。深夜、函館のネオン街をあてどない不眠症患者のごとく徘徊する達夫に寄り添うキャメラは、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(73)で、夜のロサンゼルスを彷徨うフィリップ・マーロウをとらえたヴィルモス・ジグモンドの魔術的なキャメラワークを想起させる。 

画面からにじむような橙色の光が氾濫する『そこのみにて光輝く』の海辺のラストシーンを見ながら、私が思い出していたのは、フランク・ペリーの『去年の夏』(69)だった。まぎれもなく藤田敏八の『八月の濡れた砂』(71)に影響を与えた、このニューシネマの隠れた秀作は、夏にもかかわらず、全篇にわたって、陽光がさすことはなく、空はどんよりと曇り、橙色のくすんだ色調で染まっていたという記憶がある。しかし、ある意味では、『八月の濡れた砂』以上に残酷で、悲痛な結末を迎える『去年の夏』とは対照的に、『そこのみにて光輝く』は、かすかな希望にも似た曙光に満たされて、幕を閉じる。

 

『そこのみにて光輝く』は、今の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出しながらも、いっぽうで、一九七〇年代という時代をめぐって思いを馳せるような、稀有な思索的な映画である。 

 

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呉美保監督『そこのみにて光輝く』

(C) 2014 佐藤泰志 / 「そこのみにて光輝く」製作委員会

 

*お詫びと訂正

 

前々々回のコラム「『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について」の中で、球磨元男氏について(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)と書きましたが、読者の方から、球磨氏は「東宝東和の宣伝部に勤めていらした方」であるとご指摘をいただきました。ここにつつしんでお詫びし、訂正いたします。

実践者の眼 獅子文六の魅力

  昨年、ちくま文庫から獅子文六の『コーヒーと恋愛』が復刊された。もしかしたら、獅子文六の静かなブームが起きているのだろうか。永年のファンとしてはうれしい限りだが、周知のように、獅子文六は、映画との関わりが深い。『コーヒーと恋愛』も松竹で『「可否道」より なんじゃもんじゃ』(63)の題で映画化されているが、井上和男の演出にメリハリがなく、ヒロインの森光子もやや精彩に欠ける。むしろ一九七四年に放映されたNHKの銀河テレビ小説『恋とコーヒー』の渡辺美佐子のほうがはるかに魅力的で、原作の味わいが感じられた記憶がある。 

 

獅子文六の映画化された作品は四十本ほどある。私は三分の一程度しか見ていないが、戦前なら清水宏の『信子』(40)、戦後は渋谷実の『てんやわんや』(50)、『やっさもっさ』(53)、松竹と大映の吉村公三郎で競作となった『自由学校』(51)、千葉泰樹の『大番』(57-58)四部作、川島雄三の『特急にっぽん』(61)といった作品がすぐさま思い浮かんでくる。

なかでも、最近、ラピュタ阿佐ヶ谷で上映された野崎正郎の『広い天』(59)は、疎開先に向かう少年と「馬おじさん」と呼ばれる中年の彫刻家との交流を描く隠れた秀作で、馬づらの伊藤雄之助があまりに原作のイメージ通りなので、笑ってしまう。

 

獅子文六は、近年、小林信彦、中野翠、堀江敏幸、平松洋子といった読み巧者が絶賛しているせいもあり、昭和を代表する大衆的なユーモア作家というイメージで語られることが多い。もちろん、その通りなのだが、私は、数年前、近所の古本屋で「獅子文六全集」(全十七巻・朝日新聞社)を格安の値段でみつけて以来、折に触れて、読み返すたびに、獅子文六はもっと一筋縄ではいかない、巨大なスケールの作家ではないかという思いを強くしている。

 

たとえば、二・二六事件で九死に一生を得た老首相の皮肉な運命を描いた晩年の傑作「出る幕」のトラジ・コミカルで絶妙な味わいは、ちょっと形容しがたい。こんな意想外な語り口で二・二六事件を描いた小説は空前絶後ではあるまいか。 

 

笠原和夫の『破滅の美学』(幻冬舎アウトロー文庫)に次のような一節がある。 

「そういえば、わたしも、二度ほど出刃包丁を持とうか、と思ったことがある。ひとつは、戦争が終わって海軍の復員兵としてくうやくわずの生活をしていたころで、戦時中、わたしたちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六のペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光を浴びているのが許せなかった。海軍の実態は、岩田氏が書いたものとまったく違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを美化し、筆力をもって若者たちを海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。なにが『てんやわんや』だ、ふざけやがってーと、二十歳前後の荒んだ血で、岩田邸に乗りこもうと考えたのだが、これは空想に終わってしまった。いまでも、わたしは獅子文六に好感も敬意ももっていない。ただ、小説『海軍』はいまだに座右に愛蔵している。」

 

たしかに獅子文六は、戦時下に『海軍』を書いたために戦犯の容疑を受けたが、戦後になるや、戦争協力者から、安易に親米の民主主義者に転向した作家たちとは一線を劃すように毅然たる姿勢を貫いた。 

私が獅子文六の面白さを知ったのは花田清輝の影響が大きい。花田清輝は、『乱世今昔談』(講談社)所収の「有名無実」というエッセイで次のように書いている。   

「死の直後に発表された『モーニング物語』によれば、獅子文六は、半世紀前にパリでつくったモーニングを一着して、文化勲章をもらいに出かけた。これを、故人がケチだったためという人があるが、はたしてそうか。わたしは、そこに、名声というものにほとんど心をうごかされない、ひとりの達人のすがたをみた。おもうに、故人は、戦後、戦犯のリストにのせられたさいにも、大いにローバイもせず、虚心にその悪名を受けとったのではなかったろうか。達人というのがいいすぎなら、芸術家といいなおしてもいい。」

 

 獅子文六は、『食味歳時記』『飲み・食い・書く』といった食べ物エッセイの名著も多いが、映画に関するエッセイも少なからず残している。獅子文六が、『てんやわんや』でデビューした淡島千景に、「ヘップバーンとコルベールの間に君の道がある」という色紙を贈ったのは有名なエピソードだ。「『大番』余禄」というエッセイでは、小説を書き終わらないうちに始まった映画『大番』シリーズで、途中から淡島千景が演じたおまきさんの評判が高まり、本来、考えていたおまきさんと淡島千景の風貌がちゃんぽんになり、後半は、完全に淡島千景のイメージが作者を支配するようになってしまったと苦笑気味に書いている。

私は、なんとなく『やっさもっさ』で混血孤児院の理事長を演じた淡島千景が獅子文六の理想的なヒロイン像のように思えてならない。 

 

 昭和十五年に刊行された『牡丹亭雑記』には、獅子文六の笑いに関するエッセイが数多く収められているが、なかでも「映画に現われたユーモア」は、出色な面白さである。幼少期に見たニコニコ大会に始まり、新馬鹿大将、マック・セネットのエロチック喜劇、ウィル・ロジャースの静かなユーモア、マルクス兄弟の瘋癲的ユーモア、チャップリン、ルネ・クレールの諷刺的笑いと自らの喜劇映画体験を回想しながら、日本映画のある喜劇俳優についてこんなふうに書いている。

「だが、藤原釜足という役者だけは、僕の狭い見聞のうちでもっとも嘱望し得る一人だ。およそ彼ぐらい、平凡な一日本人の体躯容貌を備えた役者はない。まるで、平凡の典型の如きパーソナリティである。そこに、彼の絶大なる強みがあるのだと思う。彼は、あらゆる平凡な日本人の笑いと、悲しみを唄う資格をもっている。芸からいっても、素直で、真実で、P・C・L有数の技術者である。僕は『坊ちゃん』の中のウラナリを観て、彼に注目し始めたのだが、その後、大体に於いて、期待を裏切られない。……中略……彼は現代日本人として濃い属性をもっているのだから、日本の現実から生まれた役、演技を与えなければ、ウソである。僕は彼の主演で、牛乳配達かなんかの生活を、シミジミ描いた喜劇が見たい。日本の現代の真実がそこに示されれば、とりもなおさず、それがよいユーモア映画になるわけだ。」

 

 藤原釜足の個性をとらえたなかなかの卓見であると思う。獅子文六は、そのほかにも、一緒に文学座をつくった盟友岸田國士の娘である岸田今日子を深い愛情をこめつつも怜悧に分析した卓抜なエッセイを書いているし、生涯を通じて無二の親友だった徳川夢声の名著『夢声戦争日記』の書評では、爆撃機の試験飛行中に殉職した夢声の義弟、竜夫の思い出にほとんどの筆を費やしていて、感動的である。

 

かつて花田清輝が、「三島由紀夫の『近代能楽集』などとはちがって、能狂言の近代化ではなく、能狂言を否定的媒介にして、あざやかに近代をこえることに成功した」と讃嘆したのが岩田豊雄の戯曲『東は東』である。この戦前に発表された狂言形式の一幕物を、昭和二十九年、上演したのが武智鉄二で、その斬新な演出は、今なお、伝説的な舞台として語り継がれている。 

岩田豊雄=獅子文六は、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』の名訳者で知られたアヴァンギャルドな芸術家だったのである。

 

どこか奇特な版元があれば、腕によりをかけて、『獅子文六映画・演劇エッセイ集』を編んでみたいというのが、私のささやかな夢である。 


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獅子文六著『コーヒーと恋愛』(ちくま文庫)

『映画評論』時代の長部日出雄をめぐって

前回、優れた『私が棄てた女』論をものした映画批評家・蒼井一郎について書きながら、私は、もう一人、浦山桐郎の最も深い理解者であった同時代の映画批評家がいたことを思い出した。長部日出雄である。

直木賞作家の長部日出雄が、かつてきわめてジャーナリスティックなセンス溢れる映画批評家であったことはつとに知られている。『週刊読売』の記者時代に、大島渚らが一斉に登場した際に、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名したことはあまりに有名なエピソードだ。

長部日出雄は、今も『オール讀物』に「紙ヒコーキ通信」を連載中である。この「紙ヒコーキ通信」は、劇場で見たばかりの新作映画をとりあげた時評で、これまで『映画は世界語』『映画監督になる方法』『映画は夢の祭り』(すべて文藝春秋)という三冊の単行本になっているし、昨年は、ライフワークともいうべき『新編 天才監督 木下恵介』(論創社)も上梓している。 

とりわけ、私は、虫明亜呂無ほか物故した映画人のメモワールを収めた『振り子通信』正続、『精神の柔軟体操』(すべて津軽書房)などのエッセイ集を愛読している。

 

長部さんは、映画好きが嵩じて、自らの原作・脚本で『夢の祭り』(89)という映画まで監督してしまったが、作家に転身して以降は、作り手の視点に寄り添うようになり、かつてのような鋭い批判的な言辞は一切、封印してしまったように思う。そこが、私は少し不満でもあった。

というのも、かつて佐藤忠男が編集長を務め、虫明亜呂無、品田雄吉が編集者だった一九六〇年代半ばの『映画評論』に長部日出雄さんが発表していた映画評論は、辛辣な批評精神と同時代をリアルにとらえる鋭敏で柔軟な志向性が融合した独特の魅力を放っていたからである。

その代表作といえるのが、『赤ひげ』を論じた「黒澤明の世界」(『映画評論』1965年7月号)で、マックス・ウェーバーを引きながら、黒澤明の作品世界に、一貫した家父長的な支配構造を見出したこの名高い論考は、図らずも、以後の映画ジャーナリズムにおける黒沢明批判の先鞭をつける役割を果たすことになった。

 

この時代の長部日出雄の批評で出色なのは、たとえば、「『裏切りの季節』―この汚辱にまみれた旗」(『映画評論』1966年8月号)である。冒頭の一節を引いてみよう。

「混沌とした映画である。が、これは新人がひさびさに、既成のモラルでない、それだけに不定型な自己の内部の観念を思うさまフィルムの上にぶちまけた作品だ。」

こんなぐあいに、悠然たるタッチで大和屋竺の鮮烈なデビュー作『裏切りの季節』を論じながら、当時、勃興していた三百万でつくられるエロダクション映画の可能性を見出している。

 

長部日出雄の生涯のベスト・ワンはフェリーニの『812』である。長部の「フェリーニの『81/2』」(『映画評論』1965年5月号)は、公開当時に書かれた数多の『81/2』の批評の中でも、もっとも長大で(原稿用紙で40枚以上あったと思う)、緻密で、卓越したスリリングな論考であった。私は、イメージの万華鏡のような『81/2』の魅惑的なディテールを鮮やかに再現する、その途方もない筆力に舌を巻いたが、この傑作評論は、たしか、『非行少女』をもってモスクワ映画祭に行った浦山桐郎監督から、その年のグランプリを獲得した『812』がいかに素晴らしかったかを延々と聞かされていた、という印象的なエピソードからはじまっていたと記憶する。

 

長部日出雄が『映画評論』の一九六四年八月号から始めた「日本の映画作家」という連載がある。第1回目が浦山桐郎で、以後、今村昌平、増村保造、市川崑、山田信夫、岡本喜八、蔵原惟繕、篠田正浩と続くのだが、この連載が途中で終わったのはなにか理由があるのだろうか。これも40枚以上ある長篇論考で、抽象的な作家論ではなく、監督の出身、背景を丹念に調べ上げ、周到な取材を積み重ねて、作品と監督の人物像の相関を見つめた秀逸なポルトレの趣があり、今、読んでも新鮮である。

 

私は、長部日出雄が『ヒッチコック・マガジン』(1962年6月号)に書いた、あるエッセーがずっと気になっている。というのも、小林信彦が名著『日本の喜劇人』の中で、次のように書いているからである。

「これは、彼の書いた多くの文章のなかでも、すぐれたものの一つだと私は確信している。〈あるコメディアンの歩み――石井均はなぜ東京を去ったか〉という短文を私は、ここに、全文、紹介したい気がする。長部は、惚れた相手にからみ、どう仕様もなくなってしまったとき、いい文章を書く。石井均もそうした対象の一人なのである。」

 

「あるコメディアンの歩み」は引用部分を読んだだけでも、優れた喜劇人論となっていると思えるが、ぜひ、全文を読んでみたい。小林信彦さんは、『日本の喜劇人』の中で長部さんについて「喜劇について語るに足る数少ない友人の一人」と書いているが、私もあるエピソードを思い出す。

 

 一九八五年十月、浦山桐郎の訃報が入り、当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、すぐさま、長部日出雄さんに追悼文をお願いした。「〈戦後〉の最良の表現者」と題された、その追悼は、深い哀惜の想いを溢れんばかりに伝わってくる感動的な一文で、かつて日活社員だったオペラ演出家の三谷礼二さんが「一読し、泣きました」とわざわざ電話をくださったほどだ。

私は、長部さんの原稿を受け取った時に、新宿に飲みに誘われたのだが、私はその際、新宿の紀伊國屋書店の裏手にあった「あさぎり」というお店に長部さんをお連れした。その少し前に、昼間、偶然入ったカレー屋「あさぎり」のママさんが、話してみると伝説の喜劇俳優シミ金こと清水金一の奥さんで、引退した女優の朝霧鏡子さんであると知っていたからだ。朝霧さんからも「夜は、お酒も飲めますから、ぜひ、一度、いらしてね」と言われていたのである。

長部さんは伝説の女優に会えたので大感激し、全盛期のシミ金の映画を絶賛するや、朝霧鏡子さんも大喜びで、松竹少女歌劇団時代のチャーミングな写真が沢山貼られたアルバムを見せてくれたりもした。果ては美しいおみ脚を披露する大サービスもあって、長部さんも狂喜乱舞して、朝霧さんと松竹少女歌劇団のテーマソングを大合唱したりと、なんとも楽しい一夜であった。 

その後、ずっと引退していた朝霧さんが、一九九五年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』で、突然、華麗なカムバックを遂げたのは周知の通りである。

 

長部日出雄さんとは、その後、『夢の祭り』がビデオ化された際に、『A?ストア』誌でインタビューしたが、その際に、一九六〇年代に書かれた映画評論をまとめないのですか、と訊いてみたことがある。

長部さんは、「黒澤明の世界」をはじめ、当時、書いた映画批評を本にすることには否定的な発言をされていた。やはり、創作者、作り手に回ったことで、大きな意識の転回があったようである。しかし、私は、『映画評論』を中心に、長部日出雄さんが一九六〇年代に書かれた映画批評は、同世代もしくは同時代の監督への大いなる挑発であり、励ましであり、まぎれもない、血の通った繊細な創作者の〈言葉〉として、再発見されなければならないと思っている。 

『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について

 一本の映画について思いをめぐらす際には、その作品を論じた同時代の優れた批評が喚起されることがある。一番、有名な例を引けば、「映画芸術」に載った三島由紀夫の「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの鶴田浩二」だろう。この批評で山下耕作の名作『博奕打ち・総長賭博』の評価は決定的なものとなった。

私の個人的な記憶をたどれば、たとえば、今やカルト映画として若い世代にも人気がある野田幸男の『〇課の女 赤い手錠』(74)は、封切り時に、「キネマ旬報」に載った球磨元男(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)の「瞠目すべき傑作」という大絶賛の短評に大いに刺激された。そして数か月遅れで、新宿昭和館でようやくつかまえ、驚愕したのをよく憶えている。ダイニチ映配末期に狂い咲いた長谷部安春の日活ニューアクションの代表作『野良猫ロック・セックスハンター』(70)についても、当時、「キネマ旬報」の読者投稿欄に載った藤田真男の「『野良猫ロック・セックスハンター』の論理と構造」という秀抜な論考が強く印象に残っている。

 

 一九八四年に出た山田宏一の書下ろしエッセイ集『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫)は、まさに、達意の名文による同時代の映画批評の宝庫で、「サミュエル・フラーの戦争 『最前線物語』」、「松田聖子のおでこ 『野菊の墓』」、「田中裕子とグリーンの誘惑 『天城越え』」、「森崎喜劇の行方 『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』」などは、それぞれの作品について書かれた最も魅力に富んだブリリアントな批評であった。

 

 その山田宏一さんから、はるか昔、日本ヘラルド映画の宣伝部長の山下健一郎さんが蒼井一郎というペンネームで映画評を書いていて、浦山桐郎論がすごくよくてね、という話を聞いたことがある。

 

 山下健一郎といえば、私が「月刊イメージフォーラム」編集部に在籍していた一九八〇年代の前半には、子会社のヘラルド・エースを原正人さんと共に牽引していた。『赤い帽子の女』『瀬戸内少年野球団』『片翼だけの天使』などのプロデューサーとして活躍していた時期で、恐らく、その頃は多忙を極め、映画批評を書く余裕はなかっただろう。

 

その後、私はフリーの編集者になったが、必要があって、戦後日本映画の批評の歴史を調べていて、小川徹が編集委員会代表を務めた『現代日本映画体系』全六巻(冬樹社)を通読する機会があり、ようやく「蒼井一郎」の書いたいくつかの批評を読むことができた。

第二巻「個人と力の回復」には「やむをえざる犯罪の物語――『警視庁シリーズ』論――」、第三巻「日本ヌーベルバーグ」には「渋谷実の笑い――『二人だけの砦』評――」が収められており、とくに前者は、東映の『警視庁シリーズ』を、その作られた高度成長期という時代背景を踏まえた精緻な分析が読みごたえがある。

「とどのつまり、警視庁シリーズ作品の絶ちがたい魅力とは、大都会の貧しい風景・貧しい犯罪の描写をはさんで、企業的アルチザン根性と本物のドキュメンタリー精神が、その接点のあたりで毎度安定した〈スタイル〉のなかにするりと統一されてしまうという、〈じれったさ〉にあったのかもしれないのだが……。」というくだりなどは、実に鋭い指摘で、読んでいると、猛然と「警視庁」シリーズ全作を見たくなってしまうほどだ。 

 

しかし、映画批評家、蒼井一郎の最高傑作といえば、やはり第五巻「幻想と政治の間」所収の「『私が棄てた女』と六〇年代」だろう。四百字詰め原稿用紙で四十枚ほどの長篇の論考で、初出が一九七〇年三月刊行の「シネマ70」四号というのも時代を感じさせ、象徴的である。

 

冒頭で、蒼井一郎は次のように書き出している。

「浦山桐郎の『私が棄てた女』について書こうとすると、それはひとつの明確な結論を持った文章として完結しないのではないか、という危惧を、最初から感じてしまう。……中略……『私が棄てた女』を正面切って分析した批評は少なく、いわば論理的解明ではなく心情的な共感として、ひとりひとりの胸の奥にスムーズにしまいこまれ、やがては記憶という錆びによって動かなくなる錠を下されてしまっていくように思える。

 多分その理由は、『私が棄てた女』という作品が、自己の内部と外部の両方に向かって発した〈問いかけ〉であり〈追求〉であり、〈否定〉でありながら、同時にその〈答え〉であり〈弁明〉であり、〈肯定〉であるという構造を持っているために、明確な一元的メッセージを受けとることができなかったからであろう。」 

 

『私が棄てた女』(69)を、私は、十年おきぐらいに名画座でかかると見返しているが、最初、二十歳前後で見た時には、さほど感銘を受けることのなかった、この作品は、歳を重ねて、見直すたびに、名状し難い苦さ、棘が刺さったような鈍い痛みにしばし襲われる。こういうタイプの映画はきわめて稀である。

蒼井一郎の批評は、この『私が棄てた女』という一筋縄ではいかない、不可解な魅力をたたえた映画に、全力でぶつかり、格闘し、〈言葉〉によって肉薄しようとした稀有な試みである。

 

『私が棄てた女』の主人公・吉岡(河原崎長一郎)は、勤め先の社長の姪であるマリ子(浅丘ルリ子)と結婚するいっぽうで、昔、学生時代に知り合い、妊娠させて棄てた女工の森田ミツ(小林トシ江)と再会した後、関係を持ち続ける。そして、ふたたび、見棄ててしまい、結果的には、ミツを死に追いやってしまう。

 

蒼井一郎は、吉岡の「俺は……ミツじゃないが、ミツは俺だよ」という謎めいた呟きの意味を問い直し、吉岡にとって、「死せるミツは、すでにあの「『道』のザンパーノにおけるジェルソミーナのような存在になっているのである」と卓見を述べている。

さらにラストのマリ子のモノローグについても次のような鋭い分析を加えている。

「ここでは、ミツとは対照的な環境に育ち、都会的知的な女性像として登場したマリ子が、吉岡に対するミツのような存在に転生している。吉岡にとっては、彼女自身が第二のミツになりうるかもしれない。だが、吉岡の方は、愛するものを愛し続けながら、ミツを殺した外部の敵、内部の敵と戦ってゆくことができるのだろうか。朝の空とも、夕暮れの空とも見える不思議なラストショットの空のあかね色は、その可能性と絶望の交錯のように見える。」

 

 浦山桐郎は、『キューポラのある街』(62)、『非行少女』(63)、そして『私が棄てた女』という日活時代の三本の作品で、作家生命を燃焼し尽くしてしまったというのが私の長年の持論で、とくに主人公の吉岡に烈しく自己を投影した『私が棄てた女』には、浦山桐郎のすべてがあると思える。

 

その後、山下健一郎さんとは、フリーのプロデューサーになられてから、数回、酒席を共にする機会があったが、酒が入ると、なんだか照れてしまい、直接、『私が棄てた女』論の感銘を伝えることはできなかった。山下さんは、二〇一〇年の八月に胆管細胞ガンで死去された。享年七〇。

その数か月後に、『ゴダール・ソシアリズム』の完成披露試写で、奥様の山下由紀子さんと偶然、お会いし、喫茶店で長々と話し込んだ。山下さんご自身も大変な映画狂で、シネ・ヴィヴァン六本木に勤務していた一九九〇年代には、ジョン・カサヴェテス特集などで一緒にイベントを企画したこともあった。山下さんは、「通夜では、原正人さんや河原畑寧さんなど親しかった沢山の友人たちが、いつまでたっても帰らずに主人の思い出を延々と語り合っていたんですよ」と嬉しそうに話されていたのが印象的だった。

山下健一郎さんは、豪放無頼なキャラクターの魅力もあって、黄金期のヘラルド映画時代の宣伝マンとしての伝説的なエピソードには事欠かないが、私としては、傑出した『私が棄てた女』論を書いた映画批評家・蒼井一郎としての貌を忘れないでおきたいのである。

 

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浦山桐郎監督の名作『私が棄てた女』(VHSのみ。絶版)

幻の日活映画『孤独の人』をめぐって

 いささか旧聞に属するが、昨年十二月二十三日の天皇誕生日に、今上天皇が記者会見の席上、「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」と述べられたのが強く印象に残った。とりわけ「孤独」という言葉から、私はすぐさま、映画『孤独の人』を思い浮かべた。


 今から半世紀以上前の一九五六年に、皇太子(今の天皇)の御学友だった藤島泰輔が、皇太子をモデルにした『孤独の人』を発表し、センセーショナルな話題となった。すぐさま、その原作は日活の辣腕プロデューサー児井英生の目にとまって映画化された。西河克己が監督した『孤独の人』である。

私の手許にある三笠書房版『孤独の人』の奥付をみると、四月十五日に第一版、二十五日には第五十版というにわかに信じられない数字が記載されているが、大ベストセラーであったのは間違いない。帯にある大谷壮一評が当時の雰囲気をよく伝えているので引用しておこう。 

「これは、いわば『暴力教室』学習院版で、彼らはつとめてべらんめえ口調で語りあい、その不良的な発言によって、皇太子をめぐる側近のナンバーワン的地位を獲得し、おまけに皇太子をそそのかせて、銀座につれだすところなど、まるで『ローマの休日』の日本版だ。」

 

 さらに、序文を寄せた三島由紀夫は次のように書いている。

「作者は多くの学生を登場させて、あらゆる側面から照明を当て、皇太子に対する同級生の各種の反応を客観的に並べている。そして小説的に興趣のある点は、皇太子なる人物が、丁度故人を主人公にした『レベッカ』のやうに、小説の背後に淋しい肩を見せて立っているだけで、すべての登場人物に影響を与え、行動の動機を与えていることである。作者が小説家として皇太子を拉し来った企みは、まさにここにあったのかもしれない。」

 

たしかに藤島泰輔の原作は、学習院内において初等科からの学友が中等科から入った生徒に対して抱く排他意識を露わにし、さらに熱っぽい同性愛の描写まで盛り込まれており、スキャンダラスな興味を喚起させるには充分だった。そして、翌年の五七年一月に封切られた『孤独の人』は、ひとりの人物の運命を大きく変えることになる。当時、学習院大学の四年生で戯曲研究会に所属していた三谷礼二さんは日活サイドに乞われて、皇太子の御学友の役で出演することになった。しかし、そのために、安倍能成学習院院長から退学処分を受けてしまうのだ。三谷礼二さんは、責任を感じた西河克己の伝手で日活俳優部に入り、『果しなき欲望』『幕末太陽傳『白い悪魔』など数本の作品に秋津礼二の芸名で出演している。その後、宣伝部に移って、退社後は、日本を代表する天才的なオペラ演出家となった。 

 

天皇陛下の発言に刺激されて、私は、二十年ほど前、深夜T?で放映された『孤独の人』を録画したビデオを、ひさびさに見直してみた。そして、この問題作が、決して時流に便乗したキワモノ映画ではなく、正統派の学園青春ものに仕上がっていることに感心してしまった。新米教師をいじめる教室内のあっけらかんとしたユーモラスな描写など、鈴木清順の『けんかえれじい』を彷彿させるし、初等科からの学友の鼻持ちならぬ特権意識も丁寧に描き込まれている。あらためて、『生きとし生けるもの』など、手堅い職人としての手腕が発揮された西河克己の日活初期の文芸映画は、きちんと再評価されねばならないと思った。   

 

『西河克己映画修業』(ワイズ出版)によれば、公開時には、日活に右翼から拳銃のタマが送られるなど、不穏な騒動もあったらしい。皇太子はまったくの素人が演じているが、遠目におぼろげながらに存在は確認できるものの、画面にその貌が現れることはない。白い手袋をして、時おり一人称による主観ショットが差し込まれるだけで、皇太子は、つねに不可視の中心のように、まさに「淋しい肩を見せて立っている」だけの透明な存在と化しているのだ。

 

映画初出演の三谷礼二さんの堂に入った演技も見ものだが、御学友では年上の色っぽい叔母月丘夢路とねんごろな関係にある津川雅彦の屈折したキャラクターが異彩を放っている。なにしろ、ふたりのベッドシーンまであるので、一瞬、どきりとする。こういうキワドい場面を平気で入れてしまうところに、若い映画会社日活のノンシャランな自由さを感じてしまう。 

もうひとり、ひと際、強く印象に残るのが、やはり御学友に扮した小林旭である。この時期の小林旭は、まだ大部屋時代で無名に近いはずだが、クラス討論で「学習院内の男女交際の可能性について」などというお題目で一席、熱弁をふるう珍景もある。この映画のクライマックスともいえる、皇太子を夜の銀座に連れ出して、一波乱を巻き起こすのも小林旭なのだ。宿舎に帰り、寮長に叱責されて、泣き伏してしまうシーンなど、後のアクション・スターとは異なる小林旭の性格俳優としての魅力が光っている。

 

そういえば、今、編集している白鳥あかねさんの聞き書きの自伝『スクリプターはストリッパーではありません』(国書刊行会)の中で、『孤独の人』にスクリプターとして就いた白鳥さんはこんなエピソードを披露していた。

教室のシーンで、西河監督が「誰か歌を歌える奴はいないか」と訊ねたところ、「ハイ」と手を挙げたのが小林旭で、いきなり、旭が「木曾節」を歌い出すと、あまりのうまさに、その場にいたスタッフ全員が水を打ったように静まり返ってしまったのだという。そしてたまたまそこに立ち会っていたコロンビア・レコードのディレクターが、旭の類まれな歌唱力に目をつけ、翌年、「女を忘れろ」で歌手デビューさせたとのことである。

 

私は、八年前、三谷礼二さんの遺稿集『オペラとシネマの誘惑』(清流出版)を編纂した時に、三谷さんの学習院中等・高等科時代の後輩である蓮實重彦さんに、当時の思い出をめぐってロング・インタビューをしたことがある。蓮實さんは、折りに触れて、三谷さんのことを「アメリカのB級映画をていねいに見る習慣を教えてくれたアナーキーな先輩」と称賛していたからである。羽根木の御自宅で、蓮實さんに珈琲をごちそうになりながら、若き日のふたりの異常な映画狂ぶりをうかがうのは至福の時間であった。『孤独の人』の話題にふれると、撮影用に、急遽、蛇腹の学習院の学生服を集めなければならず、三谷さんから「君、まだ持ってる?」と問われ、貸したのだという。蓮實さんは「私の古い制服を誰が着たのかはわかりませんが」と苦笑していたが、私は、『孤独の人』の出演者のなかで、蓮實さんのような巨きな体型に見合う俳優は、小林旭以外には思いつかない。スクリーンの中で、後の東大総長の学生服を、後の〈無意識過剰〉な不世出の大スターが着ていたのかもしれないと想像するのはなかなかに愉しいことである。

キナ臭い世相の今こそ、見るにふさわしい問題作『孤独の人』は、日活にもプリントがないという噂もあるが、ぜひ、どこかの名画座で上映してほしい。

 

 

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藤島泰輔著『孤独の人』(岩波現代文庫)

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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