高崎俊夫の映画アット・ランダム: 連載アーカイブ
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本連載は『祝祭の日々』(国書刊行会)として発売されました!

本ウェブページ、高崎俊夫の「映画アットランダム」は、すでに連載終了しております。

加筆修正され、国書刊行会から『祝祭の日々: 私の映画アトランダム』として2018227日に発売されました。

このウェブには、未掲載分20本を残しております。

ダニエル・シュミットとミニシアターの時代

 オーディトリウム渋谷で大規模な「ダニエル・シュミット映画祭」が始まった。第一部は彼のほぼ全作を網羅した「レトロスペクティヴ」、第二部はドキュメンタリー『ダニエル・シュミット――思考する猫』、第三部は「ダニエル・シュミットの悪夢―彼が愛した人と映画」と題し、『歴史は女で作られる』『グリード』など彼が偏愛してやまなかった八本の映画が上映される。

 先日、『ダニエル・シュミット――思考する猫』の試写を見せてもらった。私は、パスカル・ホフマンとベニー・ヤールがチューリッヒ芸術大学大学院の終了制作として撮った、この優れたドキュメンタリーを見て、さまざまな思いに耽ってしまった。

 

ダニエル・シュミットという名前は、ミニシアターが華々しく登場した一九八〇年代初頭という時代の記憶と深く結びついている。一九八一年に、フィルムセンターの特集「スイス映画の史的展望」において、シュミットの『ラ・パロマ』が上映された時の異様な混雑ぶりはよく憶えている。その理由は、はっきりしていた。蓮實重彦が、当時、『話の特集』のコラムで、この無名の映画作家の『ラ・パロマ』を大絶賛していたからだ。

今、思えば、ダニエル・シュミットを世界中でもっとも高く評価したのは、日本の映画ファンであり、より正確に言えば、当時、絶大な影響力を誇示していた蓮實重彦の扇動的な批評によるところが大きかったと思う。一九八二年にアテネ・フランセで開催された「ダニエル・シュミット映画祭」は、日本で一本も正式公開されていない映画作家の特集としては、異例の大成功を収めた。

この年に、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが亡くなり、ちょうど、映画祭で来日していたシュミットがドイツ文化会館でファスビンダーの追悼講演とシンポジウムを行った。この時に司会兼通訳を務めた岩淵達治さんには、その後、シュミットへのインタビューをお願いし、それらをまとめる形で、『月刊イメージフォーラム』で「R・W・ファスビンダー研究」という特集をつくったのである。

 

ダニエル・シュミットといえば耽美的でキッチュで倒錯的なメロドラマの作家と語られがちだが、私がこのシンポジウムで、強く印象に残ったのは、彼の次のような発言だった。

 

「だいたい私は、二人の人間関係、たとえば、男と女とか夫婦関係というものが最少単位のファシズムの発生するベースだと思う。つまり、ファシズムをそういうふうに二人の人間の従属関係から捉えた場合は、日本だろうとソ連だろうとアメリカだろうとドイツだろうと皆同じではないだろうか。」

 

『思考する猫』ではシュミットの、一九六〇年代のベルリンにおける政治運動やカウンター・カルチャーの洗礼を浴びた経験が語られていて興味深かった。そして、一九七〇年以後は、映画の世界で一挙にバロック風な幻想的な資質を開花させた経緯が、あざやかにスケッチされており、あらためて、一筋縄ではいかない映画作家だなと思った。

この作品のなかで、図らずも、シュミットをスイスの山脈の斜面によって自己形成を遂げた〈山の人〉と指摘するビュル・オジェと蓮實重彦はさすがに鋭い洞察を示しているが、すっかり頭部が薄くなってしまったキャメラマンのレナート・ベルタが登場すると、妙になつかしくなって思わず見入ってしまった。

レナート・ベルタは、『今宵かぎりは……』(72)以後のダニエル・シュミットのほぼ全作品、さらに、ゴダール、アラン・レネ、そしてなによりも、スイス映画の盟友アラン・タネールのキャメラマンとして知られている。

そのレナート・ベルタが最初に来日したのは、一九八五年に開催された「アラン・タネール映画祭」の時だった。招聘したユーロスペースの堀越謙三さんから依頼があり、ベルタへのインタビューを行ったのだが、面白かったのは、その後、ベルタが、突然、新宿歌舞伎町のノゾキ部屋に行きたい、と言いだしたことだ。

どうやら、シュミットら映画仲間から、新宿の風俗情報などを聞いていたらしい。ベルタと新婚らしき奥さん、それに通訳をお願いした、当時ヘラルドエースにいた寺尾次郎さん、それに私というメンバーで、当時、人気絶頂だったアトリエ・キーホールかどこかを数軒、ハシゴしたはずだが、レナート・ベルタが好奇心に満ちた眼差しで、そんな東京の怪しげな最前線の風俗店をみつめていたのを、おぼろげながら記憶している。

 

ダニエル・シュミット、アラン・タネール、そしてレナート・ベルタは、ミニシアターの黄金時代をそのまま体現する固有名詞といってよいだろう。映画批評家ではもちろん蓮實重彦の名前を逸するわけにはいかない。そして、配給・興行のサイドで、この時代をシンボライズする人物といえば、やはりユーロスペース代表の堀越謙三さんをおいてほかにいないだろう。

 

私は、以前から、ミニシアター・ブームの牽引役を務め、レオス・カラックス、アッバス・キアロスタミのプロデューサーとして、さらには東京藝大大学院映像研究科を立ち上げた教育者の貌も持つ堀越謙三さんのユニークな軌跡に深い関心を抱いていた。

今度、筑摩書房のPR誌「ちくま」で始まった堀越さんの聞き書きのメモワールは、ミニシアターという時代がなんだったのか、をめぐってある答えを与えてくれるような気がしている。

 

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『ダニエル・シュミット――思考する猫』

『今野雄二 映画評論集成』を読みながら考えたこと

 先日、洋泉社から大部の『今野雄二 映画評論集成』が届いた。二〇一〇年七月に自死を遂げた映画評論家今野雄二さんの遺稿集である。

 最初は、今野さんとほとんど面識がなかった私に、なぜ送られてきたのだろうと思った。実際に、私が今野雄二さんと言葉を交わしたのは、たぶん、一度きりである。ジョン・ウォーターズの『セシル・B・シネマウォーズ』(00)が公開された際、配給会社のプレノンアッシュが、六本木の焼肉屋で今野さんとジョン・ウォーターズの食事会をセッティングし、パンフレットを編集した私も呼ばれて同席したのだ。その時に、ジョン・ウォーターズがゲイ・セクシュアリティがらみの冗談を連発し、今野さんが苦笑していたのを覚えている。

 

本書の帯には、「日本のサブカルチャー&カルト映画ブームを牽引した孤高の映画評論家が遺した幻の評論原稿を厳選採録!」という文言が謳われているが、通読してみて、今野さんの批評がもっとも活き活きと輝いていたのは、やはり、一九七〇年代という「アメリカン・ニューシネマ」の時代だったなとあらためて思った。

たとえば、今野さんは、七一年の「キネマ旬報」の年間ベストテンで「これまで見たすべての映画が『ファイブ・イージー・ピーセス』へ至る為の指針だったことになり、今後、見るあらゆる作が、『ファイブ・イージー・ピーセス』を越えなくてはならぬという宿名を、担うことになる」と書いたが、当時、高校生だった私はなんとカッコいいコメントだろうと思った。当時、こんなふうに一本の映画への熱愛をキザに語ってしまう映画評論家はいなかったからである。

 

ひと口にニューシネマと言っても、今野さんの好みは千差万別で、『イージー・ライダー』を、「『白昼の幻想』や『ワイルド・エンジェル』同様に、一連のアメリカン・インターナショナルの延長でしかないこのフォーニー(ニセモノ)・フィルム」とまで酷評している。

本書を読んでいて嬉しかったのは、『ウェスタン・ロック・ザカライヤ』(71)という珍品の批評が載っていることだ。ニューシネマ全盛時代にひっそりと公開された、この異色の西部劇は、陽炎がゆらめく荒野で、カーボーイたちがロックギターをかき鳴らすフシギな場面や、突然、現われたジャズドラマーの大御所エルヴィン・ジョーンズがロックドラムを叩いている若造を蹴飛ばして、居座るや、ドラムソロを延々と繰り広げるシーンなど断片的な記憶だけが残っているが、私にとっては、幻のニューシネマの一本なのであった。

 

当時の今野雄二さんのお気に入りは、何といっても、ロバート・アルトマンとケン・ラッセル、そしてブライアン・デ・パーマ(彼はこの表記に固執した)だが、アルトマンに関しては、『ナッシュビル』や『ウェディング』の批評にせよ、海外の文献を渉猟した綿密な研究という趣きがあり、今、読み返しても、その鮮度は決して失われていないと思える。

 

ブライアン・デ・パーマ作品に至っては、手放しの礼讃で、たとえば、『スカーフェイス』評において、「デパーマに目覚めてしまった者が、映画を楽しむ基準としてストーリーは二の次にしてとりあえずはその映像のスタイル美を第一に考えるようになる」という、内容よりも様式の美しさを顕揚するくだりなどは、スーザン・ソンタグの『反解釈』の多大な影響を感じないわけにはいかない。

 

実際に、最初期に書かれた「ブラック・ユーモア――そのフリークの世界」という『映画評論』7011月号に載った評論の結びには、「「キャンプ」という感覚を論じようとしたソンターグにならって、あえて、「ブラック・ユーモア」を定義づけようなどという野心は抱かない方がこの際、賢明というものだろう」という一節がみえる。

 

今、思うと、過剰なまでのソフィスティケーションを志向するスーザン・ソンタグのきらびやかなキャンプ論には、彼女の両性具有的な美学、あるいはレズビアニズムの影が垣間見えるような気がする。

 

本書に目を通すと、あらためて、今野雄二が、批評家として出発点から、映画における同性愛、ホモ・セクシュアリティの主題に深く執着していたことがわかる。

たとえば、『キネマ旬報』688月別冊「アングラ68ショック篇」に収められた「ホモ的エロティシズムと日本のアングラ」という長篇のエッセーでは、西村昭五郎の隠れた秀作『帰ってきた狼』(66)の主人公と混血のヤクザ少年とのセクシャルな関係に着目しているのが印象深い。

この論考で、私が興味を覚えたのは、今野雄二が、ドナルド・リチーのスキャンダラスな実験映画を絶賛していることだ。なかでも、年上の女が若い男子学生を、古びた庭園にひきずり込み、芝生で全裸にして愛撫する『し』に言及し、今野さんは、「この映画で最も魅惑的なのは、年上の女がフェラチオという性技を駆使して、遂に相手の少年を死に到らしめる、というショッキングなテーマだと思います。これとても、ホモ・セクシュアルな発想なしには、とうていなし得なかったはずであります」と書いている。

 

一九六八年当時、ドナルド・リチーと今野雄二さんは、恋人同士だったという噂を耳にしたことがあるが、実情は詳らかではない。

その頃、ドナルド・リチーは『季刊フィルム』に「私の映画遍歴」という一文を寄せているが、私は、これはドナルド・リチーによって書かれたもっとも感動的なエッセーと考えている。映画に耽溺することの恍惚と病いを、これほど真率に告白したエッセーは稀であり、次に引用する冒頭の一節は、おそらく、今野雄二さんも深く共鳴していたのでないかと想像されるのだ。

 

「妻は、私と離婚する直前にこういった。「私がもし、これから結婚しようとする人にアドヴァイスを頼まれたら、その女性には、映画を好きな男とは結婚するな、っていうでしょう」。彼女の判断は正しかった。映画が好きな男は、ほとんどの時間をひとりぼっちで暗闇で過ごすために、自己本位で社交嫌いになってしまう。そのうえ、それほど映画が好きだというのは、幼い頃から映画を見始めているに違いないのだ。彼の幼年期は歪んだものだ。自分の家族よりもスターを愛し、彼は暗闇の中にひとりぼっちで坐っていた。最後には、彼がそれほどまでに映画が好きになるには、スターが必要となったはずである。これは不幸な家庭を意味し、あまりにも不幸であるために彼は映画館へ逃避せざるを得なかったのだ。あまりにも映画が好きな子供は、病める子供であり、病める人間になる。彼は現実よりもスクリーンの幻影を愛するようになる。」(今野雄二訳)

 

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大部の遺稿集『今野雄二 映画評論集成』(洋泉社)

イタロ・カルヴィーノの映画作法

 最近、試写で『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』というイタリアのドキュメンタリー映画を見た。ローマを取り巻く高速道路GRAの周辺に住む、ひと癖もふた癖もある個性的な人物たちを定点観測のようにスケッチした愛すべき小品で、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しているが、プレスを読んで驚いた。監督のジャンフランコ・ロージが、「この映画はイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』にインスパイアされた」と語っていたからだ。 

 

イタロ・カルヴィーノは、多分、翻訳された作品をほとんど読んでいる唯一の作家といっていいかもしれない。亡くなって三十年近くの歳月が流れたが、彼の発見者であるチェーザレ・パヴェーゼと同様、未だに岩波文庫で陸続とその作品が復刊されているのはうれしい限りである。一時期、高橋源一郎が激賞したせいもあってか、カルヴィーノは、〈エレガントな前衛〉〈ポストモダンの作家〉などと称されて、実験的なメタ・フィクションの作家と目されがちだが、私にとっては、カルヴィーノとは、なによりも豊潤なイタリア映画の名作と同じように、〈美しい物語〉の語り手である。

 

最初に読んだのは、一九七一年に晶文社から刊行が始まった〈文学のおくりもの〉シリーズの『まっぷたつの子爵』 だった。その詩的で奇想に満ちた面白さにめまいのような感動を覚え、すぐさま『木のぼり男爵』(白水社)、『不在の騎士』(学芸書林)、『マルコヴァルドさんの四季』(岩波少年文庫)と読み継いで、すっかり魅了されてしまった。

とりわけ、十八世紀の啓蒙思想の時代を背景に、ある日、森の木に登って、一生涯、木から降りてこなくなった少年を描いた『木のぼり男爵』は、あまりの童話的な残酷さと澄み切ったユーモアの混交に圧倒された。

ちょうど、その頃、封切られた『フェリーニのアマルコルド』(73)に、主人公の少年が精神病院に入院しているテオ叔父さんを連れ出して、一家で郊外にピクニックにでかけるエピソードがあった。テオ叔父さんは、突然、田舎家のはずれにある樹にのぼりはじめる。そして、夕暮れになっても、降りて来ず、地平線の彼方に向かって、「女を抱かせろ!」と叫び続けるのだ。この涙が出るほど、可笑しい場面を見ながら、私は、まるで『木のぼり男爵』のようだ、と呟いた。

 

それ以来、ずっと長い間、私は、イタロ・カルヴィーノの魔術的な想像力とフェリーニのノスタルジアに満ちたサーカス的な夢想の世界は、きわめて近しいのではないかと思っていた。

一九八五年、不思議な偶然だが、カルヴィーノが亡くなる直前、雑誌『ユリイカ』が「イタロ・カルヴィーノ 不思議な国の不思議な作家」という特集を組んだことがあった。その号はとても充実した内容で、今も私の手元にあるが、とくにパゾリーニへの深い友情を感じさせる「パゾリーニへの最後の手紙」、偉大なコメディアン、グルーチョ・マルクスを追悼した「グルーチョの葉巻」などを読むと、カルヴィーノがいかに映画に深く傾倒していたのかが了解されるのだ。

 

カルヴィーノの没後、ずいぶん経ってから、『サン・ジョヴァンニの道――書かれなかった[自伝](朝日新聞社)が刊行された。この中にある「ある観客の自伝」という章は、カルヴィーノの幼少期から青春時代に出会ったアメリカ映画やイタリア映画への想いを綴ったメモワールで、とくに後半は、まるごとフェリーニへの熱いオマージュとなっている。たとえば、次のような一節はどうだろうか。

 

「フェリーニのヒーローの伝記――それを監督は毎回最初から撮りなおす――は、この意味でわたしのものよりはるかに典型的だ。若者が地方を離れ、ローマに出て、スクリーンの向こう側へ移って映画をつくり、自分自身が映画になるからだ。フェリーニの作品は、裏返された映画なのだ。映写機は客席をのみこみ、カメラはセットに背を向けているというのに、その二つの極がいつももたれあいながら、地方はローマによって憶いだされることで意味を獲得し、ローマは地方からやってくる人びとのなかに意味を獲得し、両側に棲む怪物じみた人間たちのはざまで同じ神話が生まれ、それが『甘い生活』のアニタ・エクバーグの巨大な女神となって、そのまわりを回っている。フェリーニの仕事が狙っているのは、この発作的な神話を明るみに出し位置づけることであり、その中心にあるのが、さまざまな原型が螺旋状にひしめきあう『812』における自己分析なのだ。」

 

まさに、目の覚めるような卓見がちりばめられたこの美しいエッセイを読み返しながら、私は、カルヴィーノが、シナリオライターとして関わった二本の作品があったことを思い出した。

一本は、フォルコ・クィリチ監督の『チコと鮫』(62)、もう一本は、『ヴォッカチオ70』(62)の第一話、マニオ・モニチェリが監督した「レンツォとルチアーナ」である。

このオムニバス大作は、深夜、巨大な女神アニタ・エクバーグがローマの街を闊歩する、フェリーニ篇の「アントニオ博士の誘惑」ばかりが取り沙汰されるが、日本では劇場公開されなかった職人モニチェリのパートも、実に愛すべき小品である。

実は、最近、初めてこの「レンツォとルチアーナ」を見て驚いたことがある。工場に勤めるカップルが、職場結婚を禁止されているために極秘で結婚式をあげたものの、発覚して会社をクビになる。夫は夜間勤務の工場で働き、妻は、夫が早朝、帰宅する時刻に、目覚まし時計と共にベッドを起きだし、コーヒーを用意し、あわただしくキッスをかわしながら、仕事へ出かけて行く。残された夫は、ベッドに入ると、片側の、今しがたまで妻が寝ていた、その躰のかたちをとどめたままの温かい窪みのなかで、顔を枕にうづめ、妻の薫りにくるまれるようにして眠りにつくのだ。

このエロティックなラストシーンを見ながら、私は、カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(福武書店、のちに岩波文庫)のなかの名篇「ある夫婦の冒険」の忘れがたいエピソードがそのまま再現されているので、思わず、微苦笑してしまった。   

 

イタロ・カルヴィーノは、名著『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、のちに河出文庫)のなかで、「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資質だ。」と書いている。この古典についての見事な定義は、イタロ・カルヴィーノの作品にそのまま当てはまるように思えるのである。

 

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イタロ・カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(和田忠彦訳・岩波文庫)

 

 

 

 

 

『そこのみにて光輝く』と一九七〇年代、ニューシネマの記憶

 さる三月二十一日の夜、赤坂BLITZで「我が青春のパック・イン・ミュージック」なる気恥ずかしいタイトルのイベントがあり、私も一員である「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」に招待チケットが回ってきたので、のこのこと出かけて行った。久々に何人かのメンバーに再会し、林美雄夫人の文子さんにもご挨拶ができた。会場は五十代、六十代でぎっしりと埋めつくされていた。小島一慶と兵藤ゆきの司会で、山崎ハコ、山本コウタロー、小室等のミニライブがあり、客席には、パックでパーソナリティだったTBSの元アナウンサー桝井論平の顔も見られ、さながら、パックの同窓会の様相を呈した。

 

 私がパックをもっとも熱心に聴いていたのは、林美雄さんが金曜第二部を担当していた一九七四年の八月までである。だから、一九八二年まで続いたパックの終了時の記憶はまったく欠落している。ただ、この夜のイベントで改めて実感したのは、パック・イン・ミュージックの歴史の中で、超メジャーの野沢那智と超マイナーの林美雄というすでに鬼籍に入った二人の存在がいかに大きかったかということだ。

 

「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」では、一時、もし林美雄が生きていたら、絶賛したであろう新作映画を各人が推薦しようという呼びかけがあったが、最近、これは、絶対に林さんが狂喜するだろうと思える映画を見た。

呉美保監督の『そこのみにて光輝く』だ。原作は一九九〇年に四十一歳で自死した作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。

村上春樹と同世代の佐藤泰志は、その小説を読むと、同時代の映画の引用が目につき、かなりの映画狂であったことがわかる。作り手たちもそのことを意識していると思しく、映画『そこのみにて光輝く』は、一九七〇年代のアメリカン・ニューシネマやATGの青春映画、初期の日活ロマンポルノの記憶を刺戟するような不思議な魅力をたたえている。

たとえば、主人公の達夫(綾野剛)と拓児(菅田将暉)がパチンコ屋で、百円ライターをきっかけに知り合うシーンは、『スケアクロウ』(73)の冒頭、最後の一本のマッチがきっかけで、ジーン・ハックマンとアル・パチーノが意気投合する場面を、思い起こさせる。

ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫は、バラックのような拓児の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、東京の川向うの浦安を舞台に、行き場のない女たちの淀んだ日常を描いた曾根中生の『色情姉妹』(72)を彷彿とさせる。

さらに、自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が、人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、神代辰巳の『恋人たちは濡れた』(73)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感や閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。

 

絶えず煙草を吸い、よるべない怒りや焦燥をもてあます綾野剛、絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴、ノンシャランな存在感が『共食い』以上にリアルに迫ってくる菅田将暉、それぞれがベストパフォーマンスと言えるすばらしさだ。だか、私は、この映画では脇役がひときわ光っていると思う。千鶴の愛人で気勢をあげながらも、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長を演じた高橋和也の浅ましさ、そして、かつて達夫の上司で、達夫の「家族持ちたくなったんだ」という言葉に、「バカか、俺を見れ、誰もいねえ、……それでいいんだ」と自嘲気味に呟く火野正平の深い皺が刻み込まれた異貌は、忘れがたい強烈な印象を残す。

 

俳優たちの自在でのびやかな演技を引き出した呉美保監督の演出手腕も見事だが、七〇年代ニューシネマのルックを意識した撮影の近藤龍人も特筆すべきだろう。深夜、函館のネオン街をあてどない不眠症患者のごとく徘徊する達夫に寄り添うキャメラは、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(73)で、夜のロサンゼルスを彷徨うフィリップ・マーロウをとらえたヴィルモス・ジグモンドの魔術的なキャメラワークを想起させる。 

画面からにじむような橙色の光が氾濫する『そこのみにて光輝く』の海辺のラストシーンを見ながら、私が思い出していたのは、フランク・ペリーの『去年の夏』(69)だった。まぎれもなく藤田敏八の『八月の濡れた砂』(71)に影響を与えた、このニューシネマの隠れた秀作は、夏にもかかわらず、全篇にわたって、陽光がさすことはなく、空はどんよりと曇り、橙色のくすんだ色調で染まっていたという記憶がある。しかし、ある意味では、『八月の濡れた砂』以上に残酷で、悲痛な結末を迎える『去年の夏』とは対照的に、『そこのみにて光輝く』は、かすかな希望にも似た曙光に満たされて、幕を閉じる。

 

『そこのみにて光輝く』は、今の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出しながらも、いっぽうで、一九七〇年代という時代をめぐって思いを馳せるような、稀有な思索的な映画である。 

 

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呉美保監督『そこのみにて光輝く』

(C) 2014 佐藤泰志 / 「そこのみにて光輝く」製作委員会

 

*お詫びと訂正

 

前々々回のコラム「『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について」の中で、球磨元男氏について(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)と書きましたが、読者の方から、球磨氏は「東宝東和の宣伝部に勤めていらした方」であるとご指摘をいただきました。ここにつつしんでお詫びし、訂正いたします。

『映画評論』時代の長部日出雄をめぐって

前回、優れた『私が棄てた女』論をものした映画批評家・蒼井一郎について書きながら、私は、もう一人、浦山桐郎の最も深い理解者であった同時代の映画批評家がいたことを思い出した。長部日出雄である。

直木賞作家の長部日出雄が、かつてきわめてジャーナリスティックなセンス溢れる映画批評家であったことはつとに知られている。『週刊読売』の記者時代に、大島渚らが一斉に登場した際に、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名したことはあまりに有名なエピソードだ。

長部日出雄は、今も『オール讀物』に「紙ヒコーキ通信」を連載中である。この「紙ヒコーキ通信」は、劇場で見たばかりの新作映画をとりあげた時評で、これまで『映画は世界語』『映画監督になる方法』『映画は夢の祭り』(すべて文藝春秋)という三冊の単行本になっているし、昨年は、ライフワークともいうべき『新編 天才監督 木下恵介』(論創社)も上梓している。 

とりわけ、私は、虫明亜呂無ほか物故した映画人のメモワールを収めた『振り子通信』正続、『精神の柔軟体操』(すべて津軽書房)などのエッセイ集を愛読している。

 

長部さんは、映画好きが嵩じて、自らの原作・脚本で『夢の祭り』(89)という映画まで監督してしまったが、作家に転身して以降は、作り手の視点に寄り添うようになり、かつてのような鋭い批判的な言辞は一切、封印してしまったように思う。そこが、私は少し不満でもあった。

というのも、かつて佐藤忠男が編集長を務め、虫明亜呂無、品田雄吉が編集者だった一九六〇年代半ばの『映画評論』に長部日出雄さんが発表していた映画評論は、辛辣な批評精神と同時代をリアルにとらえる鋭敏で柔軟な志向性が融合した独特の魅力を放っていたからである。

その代表作といえるのが、『赤ひげ』を論じた「黒澤明の世界」(『映画評論』1965年7月号)で、マックス・ウェーバーを引きながら、黒澤明の作品世界に、一貫した家父長的な支配構造を見出したこの名高い論考は、図らずも、以後の映画ジャーナリズムにおける黒沢明批判の先鞭をつける役割を果たすことになった。

 

この時代の長部日出雄の批評で出色なのは、たとえば、「『裏切りの季節』―この汚辱にまみれた旗」(『映画評論』1966年8月号)である。冒頭の一節を引いてみよう。

「混沌とした映画である。が、これは新人がひさびさに、既成のモラルでない、それだけに不定型な自己の内部の観念を思うさまフィルムの上にぶちまけた作品だ。」

こんなぐあいに、悠然たるタッチで大和屋竺の鮮烈なデビュー作『裏切りの季節』を論じながら、当時、勃興していた三百万でつくられるエロダクション映画の可能性を見出している。

 

長部日出雄の生涯のベスト・ワンはフェリーニの『812』である。長部の「フェリーニの『81/2』」(『映画評論』1965年5月号)は、公開当時に書かれた数多の『81/2』の批評の中でも、もっとも長大で(原稿用紙で40枚以上あったと思う)、緻密で、卓越したスリリングな論考であった。私は、イメージの万華鏡のような『81/2』の魅惑的なディテールを鮮やかに再現する、その途方もない筆力に舌を巻いたが、この傑作評論は、たしか、『非行少女』をもってモスクワ映画祭に行った浦山桐郎監督から、その年のグランプリを獲得した『812』がいかに素晴らしかったかを延々と聞かされていた、という印象的なエピソードからはじまっていたと記憶する。

 

長部日出雄が『映画評論』の一九六四年八月号から始めた「日本の映画作家」という連載がある。第1回目が浦山桐郎で、以後、今村昌平、増村保造、市川崑、山田信夫、岡本喜八、蔵原惟繕、篠田正浩と続くのだが、この連載が途中で終わったのはなにか理由があるのだろうか。これも40枚以上ある長篇論考で、抽象的な作家論ではなく、監督の出身、背景を丹念に調べ上げ、周到な取材を積み重ねて、作品と監督の人物像の相関を見つめた秀逸なポルトレの趣があり、今、読んでも新鮮である。

 

私は、長部日出雄が『ヒッチコック・マガジン』(1962年6月号)に書いた、あるエッセーがずっと気になっている。というのも、小林信彦が名著『日本の喜劇人』の中で、次のように書いているからである。

「これは、彼の書いた多くの文章のなかでも、すぐれたものの一つだと私は確信している。〈あるコメディアンの歩み――石井均はなぜ東京を去ったか〉という短文を私は、ここに、全文、紹介したい気がする。長部は、惚れた相手にからみ、どう仕様もなくなってしまったとき、いい文章を書く。石井均もそうした対象の一人なのである。」

 

「あるコメディアンの歩み」は引用部分を読んだだけでも、優れた喜劇人論となっていると思えるが、ぜひ、全文を読んでみたい。小林信彦さんは、『日本の喜劇人』の中で長部さんについて「喜劇について語るに足る数少ない友人の一人」と書いているが、私もあるエピソードを思い出す。

 

 一九八五年十月、浦山桐郎の訃報が入り、当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、すぐさま、長部日出雄さんに追悼文をお願いした。「〈戦後〉の最良の表現者」と題された、その追悼は、深い哀惜の想いを溢れんばかりに伝わってくる感動的な一文で、かつて日活社員だったオペラ演出家の三谷礼二さんが「一読し、泣きました」とわざわざ電話をくださったほどだ。

私は、長部さんの原稿を受け取った時に、新宿に飲みに誘われたのだが、私はその際、新宿の紀伊國屋書店の裏手にあった「あさぎり」というお店に長部さんをお連れした。その少し前に、昼間、偶然入ったカレー屋「あさぎり」のママさんが、話してみると伝説の喜劇俳優シミ金こと清水金一の奥さんで、引退した女優の朝霧鏡子さんであると知っていたからだ。朝霧さんからも「夜は、お酒も飲めますから、ぜひ、一度、いらしてね」と言われていたのである。

長部さんは伝説の女優に会えたので大感激し、全盛期のシミ金の映画を絶賛するや、朝霧鏡子さんも大喜びで、松竹少女歌劇団時代のチャーミングな写真が沢山貼られたアルバムを見せてくれたりもした。果ては美しいおみ脚を披露する大サービスもあって、長部さんも狂喜乱舞して、朝霧さんと松竹少女歌劇団のテーマソングを大合唱したりと、なんとも楽しい一夜であった。 

その後、ずっと引退していた朝霧さんが、一九九五年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』で、突然、華麗なカムバックを遂げたのは周知の通りである。

 

長部日出雄さんとは、その後、『夢の祭り』がビデオ化された際に、『A?ストア』誌でインタビューしたが、その際に、一九六〇年代に書かれた映画評論をまとめないのですか、と訊いてみたことがある。

長部さんは、「黒澤明の世界」をはじめ、当時、書いた映画批評を本にすることには否定的な発言をされていた。やはり、創作者、作り手に回ったことで、大きな意識の転回があったようである。しかし、私は、『映画評論』を中心に、長部日出雄さんが一九六〇年代に書かれた映画批評は、同世代もしくは同時代の監督への大いなる挑発であり、励ましであり、まぎれもない、血の通った繊細な創作者の〈言葉〉として、再発見されなければならないと思っている。 

東京フィルメックスでのツァイ・ミンリャンとの対話

 今年の東京フィルメックスは、中村登とジャン・グレミヨン特集など気になるプログラムもあったのだが、仕事に追われ、あまり通えなかった。ただ、どうしてもツァイ・ミンリャンの新作『ピクニック』だけは見たかった。

というのも、ツァイ・ミンリャンは、今年のベネツィア国際映画祭の記者会見で、「『ピクニック』で監督を引退する」と表明していたからだ。四年前の東京フィルメックスでオープニングを飾った前作の『ヴィザージュ』(09)は結局、一般公開されなかった。恐らく、『ピクニック』もどこの配給会社も買わないだろうし、私は、これが最後の機会になるだろうと思い、今回、来日したツァイ・ミンリャンにインタビューを申し込み、その真意を聞いてみたいと思ったのだ。

 

『ピクニック』は、まさにツァイ・ミンリャンにしか撮れない、とてつもない映画だった。台北の街頭で高級住宅地のPRの看板を持って一日中立ち続けるリー・カンション。二人の幼い子供はスーパーマーケットの試食品コーナーを徘徊し、彼らは廃屋となったビルの一室で寝泊まりしている。この世界から打ち棄てられ、壮絶な貧困と孤立を強いられた家族の光景を、ツァイ・ミンリャンは、驚異的な長回しによって凝視し続ける。その果てに、夢とも現ともつかぬ不可思議な〈時間〉が流れ出す。こういう稀有な体験は、今や、ツァイ・ミンリャン以外の作品では味わうことができない。

  

私は、『ピクニック』を見ながら、『愛情萬歳』(94)を思い出していた。高度経済成長下の台北を舞台に、高級マンションの不動産セールスレディ、ヤン・クイメイが抱える孤独と空虚が鮮烈に描かれ、ベネティア映画祭で金獅子賞を受賞した傑作だった。この映画を配給したプレノン・アッシュは、その後も『Hole』(98)、『楽日』(03)、『西瓜』(05)、『黒い眼のオペラ』(06)とツァイ・ミンリャンの映画を公開し続けた。

私は、これらの作品のパンフレットをすべて編集していたので、ツァイ・ミンリャンの映画がいかに一部で熱狂的なファンを擁しながらも、興行的には厳しい苦戦を強いられていた現実をよく知っている。プレノン・アッシュは、残念ながら、今年、倒産してしまったが、私は、大ヒットを飛ばしたウォン・カーウァイ作品よりも、むしろツァイ・ミンチャンの映画を持続的に配給した功績によって、プレノン・アッシュは永く評価されるべきだと思う。

 

『ピクニック』には、冒頭で二人の子供を見守る守護天使のようなヤン・クイメイが登場し、さらに、ルー・イーチン、後半には母親とおぼしきイメージを背負ったチェン・シャンチーと、ツァイ・ミンリャンの映画の常連だった女優たちが、次々に現れる。

 

この謎めいた女たちについて、ツァイ・ミンリャンは、こんなふうに語っている。

「私は、当初、ルー・イーチンだけをキャスティングしていたのですが、クランク・イン前にひどく体調を崩してしまい、もしかしたら、これが最後の映画になるのではないかと危惧しました。そこで、これまで私の映画に出てくれたヤン・クイメイ、チェン・シャンチーにも急遽、出演してくれるように声をかけたのです。役柄などは別に考えもしませんでした。この映画では、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチーの三人がひとりのキャラクターを演じているといってよいかもしれません。しかし、映画が出来上がってみると、もう、そんなことはどうでもよいと思えるようになりました。」

 

ツァイ・ミンリャンは、もはや通常の意味でのプロットや物語を語ることにまったく興味がない。意図や主題をめぐって積極的に云々することもない。彼は、主演のリー・カンションについて話題が及んだ時にのみ、心底、饒舌になるのだった。

デビュー作『青春神話』(92)以来、すべてのツァイ・ミンリャンの映画に主演しているリー・カンションとの関係は映画史的にも極めてユニークである。ツァイ・ミンリャンは、「私の映画には、ただリー・カンションの顔だけがあるのです。」とまで断言するのだが、それは、彼が『ふたつの時、ふたりの時間』(01)で引用していた『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォーとジャン・ピエール・レオとの関係とはやや異なるように思う。

トリュフォーは、ジャン・ピエール・レオーを主演にしたアントワーヌ・ドワネルものにおいて、自らの過去を、ある距離をもって、トラジコミカルに回顧、再構成しているが、ツァイ・ミンリャンにとって、リー・カンションという俳優は、映画を作り続ける根拠そのもの、創作というイマジネーションの絶えざる霊感源にほかならないからだ。それは、一時期のジャン・コクトーの映画におけるジャン・マレーのような存在と言ってよいかもしれない。

 

ツァイ・ミンリャンは、この映画でも、リー・カンションが、ただひたすら食べること、排泄する光景を注視し続けるのだが、とりわけ、彼が子供たちがいなくなった蒲団の上で、キャベツをむさぼり喰う、愛と憎しみが複雑に入り混じった、おぞましくも悲痛に満ちた行為を長回しでとらえたショットは、名状し難い感銘を与える。

 

その直後に、大雨の中、リー・カンションが子供たちを連れて河上のボートに乗せようとする瞬間、ルー・イーチンが木の上から二人を救出する幻想的な場面がある。ここでのリー・カンションは明らかに邪悪なイメージを身にまとっているのだが、ゆくりなくも、ある一本の映画を連想させずにはおかない。チャールズ・ロートンの『狩人の夜』(55)である。

リー・カンションは、河上でボートに乗った孤児の兄妹に襲いかかる殺人鬼の牧師ロバート・ミッチャムの恐ろしくも甘美で夢魔的なイメージを体現し、そしてルー・イーチンは、ライフルを持ってふたりを守ろうとするリリアン・ギッシュの神話的なイメージにぴったりと重なるのだ。

 

 そのことを指摘すると、ツァイ・ミンリャンは、あえてことさらにシネ・フィル的に言及することはしなかった。だが、昨年、『サイト・アンド・サウンド』誌による映画監督が選ぶ映画史上のベストテンというアンケートで、ツァイ・ミンリャンは『狩人の夜』を選んでいるのだ。無意識のうちに、『ピクニック』を撮っている際、あの呪われたカルト・ムーヴィーの記憶が揺曳していたことは充分に考えられると思う。

 

 予定の一時間を超えてもなお、ツァイ・ミンリャンは率直に現在の心境を語ってくれた。その一端は、いずれ『キネマ旬報』誌上で、ご紹介できるかと思う。

 そして、公開はとうてい無理かと思われた『ピクニック』だが、ムヴィオラが配給することが正式に決定したようだ。アートフィルムが冬の時代を迎えている今、ムヴィオラの大英断には心から敬意を表したいと思う。

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ピクニック3.jpgのサムネール画像

 

ツァイ・ミンリャン監督『ピクニック』

忘れられた映画監督、野村孝の擁護と顕揚

先日、神保町の東京堂書店で『昭和怪優伝―帰ってきた昭和脇役名画館』(中公文庫)の刊行を記念して、著者の鹿島茂さんと坪内祐三さんのトーク・イベントがあり、出かけて行った。    

二〇〇五年に講談社から出た単行本『甦る昭和脇役名画館』は、私の愛読書で、『プレミア日本版』で書評したこともある。荒木一郎、ジェリー藤尾、岸田森、川地民夫、吉澤健、佐々木考丸、伊藤雄之助…といったシブい個性派俳優への熱いオマージュで、とくに一九七〇年代の映画館の記憶と当時の鬱屈した著者の心象風景が重ねあわされ、極私的であることこそが普遍性を持つという映画評論の模範的な達成かと思われた。

 

爆笑を誘うエピソードが満載の御二人のトークも、まるで気のおけない同世代の映画談議につきあっているようで、とても楽しかった。場内にはお二人と親しい映画監督の内藤誠さんもいらしていて、一緒に打ち上げに参加させていただいたが、鹿島茂さんからは、私が十代の頃、ファンクラブに入っていた伝説の深夜放送のパーソナリティ、大村麻梨子さんの近況をうかがうことができたのも嬉しかった。

 

大幅に加筆・増補された文庫版を再読しながら、ジェリー藤尾の章で、日本映画史上最高のハードボイルド映画『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(67)が絶賛されているので、あらためて溜飲が下がったが、監督の野村孝については、近年、あまり言及されることがないような気がする。鹿島さんも、「この大傑作以外にはあまり見るべき作品がないですよね」と、おっしゃっていたが、実は、野村孝は、私がもっとも偏愛する映画監督のひとりなのだ。

 

あれは、私が毎週のように池袋の文芸坐オールナイトに通っていた時期だから、一九七〇年の半ば頃だったと思う。当時の文芸坐オールナイトは鈴木清順を定番にして、日活アクション映画の五本立てが監督別に組まれ、舛田利雄、蔵原惟繕、長谷部安春、沢田幸弘などの特集はひときわ人気が高かった。そんな中で、野村孝特集がかかったのである。 

たぶん、その時に、初めて『拳銃は俺のパスポート』を見たのだと思うが、ラストの荒涼とした埋め立て地での四人の殺し屋を相手にした宍戸錠の胸のすくようなガン・アクションには、度肝を抜かれた。

宍戸錠は、前方に拳銃を放り投げ、まず、ライフルで二人を倒した後、弾がなくなったライフルを投げ捨てるや、全力疾走で、身体を一回転させながら、先の拳銃を拾って一瞬で二人の止めをさす。この宍戸錠の流れるような身体の動きを横移動でとらえた名手峰重義のめまいのようなキャメラワークもすごいが、宍戸錠の身体の動きのあまりの美しさに、場内から一斉に溜息が漏れ、次の瞬間、拍手喝采となったのは言うまでもない。

『拳銃は俺のパスポート』のラストのガン・アクションは世界的にも類を見ない水準に達しているが、野村孝の本領は、ガンのメカニックな魅力をめぐるディテールの描写や非情なハードボイルド・タッチと表裏をなすセンチメンタリズムにある。宍戸錠とジェリー藤尾が逗留する横浜の渚館での小林千登勢との淡い交情は、まるでアンリ・ヴェルヌイユの『ヘッドライト』のような甘さと暗いリリシズムが横溢していた。

 

この時の文芸坐オールナイトでは、ほかに『夜霧のブルース』(63)と『昭和やくざ系図 長崎の顔』(69)『無頼無法の徒 さぶ』(64)、それに『黒い傷あとのブルース』(61)が上映されたように思う。

『黒い傷あとのブルース』の冒頭、霧笛が流れる横浜の波止場に白いトレント・コートの小林旭が現われ、回想に入っていく瞬間、あっと声が出そうになった。これを私は七歳の時に封切りで見ていたからだ。『黒い傷あとのブルース』は恐らく私が最初に見た日活映画で、小林旭が歌うバタくさい抒情あふれる主題歌は忘れようもなかった。旭は清純なバレリーナ吉永小百合と恋に落ちるが、父親の大阪志郎と共謀した神山繁が旭の組を潰した黒幕であることが判明し、苦い復讐を遂げるという物語だった。

今、思うと、『黒い傷あとのブルース』は、小林旭と吉永小百合が共演した唯一の映画なのだった。

『野獣の青春』のシナリオライター山崎忠昭さんの証言にもある通り、この当時の日活無国籍アクション映画の大半は、欧米のメロドラマの名作のプロットを平気でパクっていたのは有名な話である。だが、野村孝の映画は、ハンフリ・ボガートばりに白いトレンチコートを着た旭がキザな台詞を呟こうが、いっこうに軽佻浮薄になったり、アイロニカルな自己批評的なトーンを帯びることはない。それは、野村孝の本来的な資質が、強靱なまでの〈抒情と感傷〉をあるからだろう。

 

回想が入れ子ふうな構造になっている『夜霧のブルース』でも、ヤクザの石原裕次郎が、喫茶店で、オルガンで賛美歌を弾いている浅丘ルリ子を見初め、通いつめるシーンや、長崎の坂道で、雨の中、ようやく心を通い合わせたふたりが白い傘をさして歩いていくロング・ショットの哀切な美しさは忘れられない。 

実は、讃美歌のメロディは大陸での裕次郎の幼少期の至福の記憶と結びついたものなのだが、野村孝は、照れずに、たっぷりと甘いセンチメンタルな音楽と回想形式という語り口の常套と通俗性を前面に押し出しながら、血の通った映画の感情と体温を伝えてくる。野村孝の映画のかけがえない魅力はそこにあるのだと思う。

 

最近、歳下の映画ファンと話していて話が通じにくいのは、たとえば、一九六七年に鈴木清順が『殺しの烙印』で日活を馘首された後、次の作品を撮れるまでの十年間がいかに長かったかということだ。その間、いくつもの企画が立ち上がってはつぶれ、清順神話はいっそう強固なものとなっていった。だからこそ、一九七七年に、突然、『悲愁物語』が公開されたときの驚きと喜びと戸惑いはどう形容してよいかわからなかった記憶がある。 

私は浅草松竹の初日にかけつけたのだが、驚いたのは、併映が野村孝の『雨のめぐり逢い』だったことだ。私は、奇怪きわまりない清順の新作を堪能しつつ、『雨のめぐり逢い』にも深く心打たれた。大金を強奪した山城新伍が、その際、突き飛ばして失明させてしまった竹下景子の手術費用を出そうと懊悩する、まるでチャップリンの『街の灯』を犯罪もので味付けしたようなベタなお話だったが、市川秀男のリリシズム溢れるジャズピアノの旋律がきわだって印象的で、なんども涙腺がゆるんでしまったおぼえがある。『雨のめぐり逢い』は、いまのところ、野村孝が撮った最後の映画であるはずだ。

こんなふうに、野村孝の映画についてとりとめもなく回想しているうちに、無性に彼の映画が見たくなってしまった。ぜひ、ラピュタ阿佐ヶ谷あたりで野村孝特集を組んでいただきたい。

 

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鹿島茂著『昭和怪優伝――帰ってきた昭和脇役名画館』(中公文庫)

激変する中国社会を描く至高の映画作家ニン・イン

 新作が長い間、見られないために、時どき、今、どうしてるのかなと、その動向が気にかかってしまう映画監督がいる。中国のニン・イン監督はそのひとりだ。八年前、東京フィルメックスで上映された『無窮動』(2005)以来、何の音沙汰もなかったからだ。

だから、今年の東京国際映画祭のコンペ部門のラインナップにニン・インの『オルドス警察日記』(2013)というタイトルを見つけた時にはちょっと驚いた。そうか、ニン・インは新作を撮っていたのか!

 

先日、その『オルドス警察日記』の内覧試写があり、見に行った。内モンゴル自治区の町オルドスで地元の住民たちに英雄のように慕われたハオ・ワンチョンという実在の人物をテーマにした作品である。

ハオ・ワンチョンは、謹厳実直を絵に描いたような男で、パトロールの巡査から公安警察局長にまでとんとん拍子に出世するのだが、2011年、ジョギング中に、心臓発作で急逝してしまう。

映画は、この地元が生んだヒーローをめぐるルポを依頼された敏腕ジャーナリストが、彼が書き残した膨大な業務日誌を手がかりに、その生涯を追跡していく。冒頭に主人公の葬儀のシーンが置かれ、記者が彼の周辺人物たちを取材しいく中で、モザイクの断片が集積され、次第に人物像が結ばれていく手法は、明らかに『市民ケーン』の〈語り口〉を意識している。

当初、美談めいた偉人伝を書くことに否定的だった記者も、賄賂を一切、受け取らず、オルドスへ流入し、窮迫する移民労働者たちにも援助を惜しまなかったハオ・ワンチョンという人物に魅かれていく。 

映画の中では、ハオ・ワンチョンが新米警官時代に遭遇した親子三人が惨殺された事件が、トラウマのように何度もフラッシュ・バックされる。彼が関わった中で、唯一、未解決のままになったこの謎めいた事件の描写は、不穏な、おぞましいサイコ・サスペンスを見ているようなリアルさで圧倒される。別の殺人事件の犯人を辺境にある実家捕まえるくだりも緊迫感にあふれ、ニン・インは極上のクライム・ムーヴィーも撮れるのではないかと思った。

『オルドス警察日記』は、未曽有の消費社会に変貌を遂げる一方で、急速に階層化が進む経済大国中国の現実を、辺境の町のクロニクルを通して逆照射するドラマだが、ニン・インは、家族を顧みない常軌を逸したワーカホリックであり、なおかつ武骨な人情家でもある主人公をヒロイックに礼讃もせず、一定の距離をもって見つめている。主人公の設定も含め、下町の警官の日常を描いた、初期の『スケッチ・オブ・Peking』(96)の作風に回帰したようにも思えた。

 

 それにしても、ニン・インといえば、やはり、八年前に見た『無窮動』(05)の印象が未だに強烈である。なぜ、あの傑作が日本で一般公開されなかったのだろうか。

 

 私は、東京フィルメックスでニン・イン監督が来日した時に、『文學界』2006年3月号でロング・インタビューをしている。その時の発言を思い出しながら、彼女のキャリアを素描してみたい。

 

ニン・インは一九七八年に北京電影学院に入学、同期には〈中国第五世代〉と呼ばれるチェン・カイコー、チャン・イーモウがいるが、年齢的に彼らよりはるかに若い。

その後、イタリアのローマ実験映画センター(チェントロ)に留学し、ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』に助監督として就いた経験が彼女を大きく変貌させる。ちょうど、かつて一九五〇年代にチェントロで学び、デビュー作『くちづけ』(58)で閉塞した日本映画界に新風を吹き込んだ増村保造のように、ニン・インの処女作『北京好日』(93)も清新な中国映画の台頭を予感させた。

最初の二本は、ロベルト・ロッセリーニのネオ・レアリズムを想起させる堅牢なタッチだった。しかし、第二回東京フィルメックスで上映された『アイラブ北京』(00)は、北京市内を周遊するタクシー運転手の視線を通して、急激な経済成長によって享楽的な消費社会へと変貌した北京の街が、バロック的な感覚でとらえられ、フェリーニの『甘い生活』を彷彿させた。

 

そして、『無窮動』は、リアリズム的な手法、演出スタイルをかなぐりすて、舞台劇を思わせる趣向で、現代北京のグロテスクな断面に鋭いメスを入れる。

主人公の女は、旧正月のお祝いを口実に、夫宛てに卑猥なメールを送ってきた夫の浮気相手を探すために、三人の女友達を自宅に呼び寄せる。不動産、芸術、出版、芸能界の各分野で成功を収めた彼女たちは、あけすけな男性体験の告白など他愛ないお喋りに終始するが、次第に、文化大革命の時代の悲痛な記憶、それぞれが心の奥底に抱えていた癒しがたい想念を吐露し始める。

主演しているのはすべて素人で、実際に中国の政財、文化界で成功を収めた女性たちであり、そのリアルさはなまなかではない。とりわけ、露骨な下ネタ、エロティックなダイアローグの応酬には、思わず腰が引けてしまうほどだ。鶏の足をむさぼり食らう彼女たちの口唇を超クローズアップで延々と映し出すシーンなどはあからさまな性行為のメタファーといった感じで、マルコ・フェレーリの傑作『最後の晩餐』をすぐさま思い起こさせる。

そのことを指摘すると、ニン・インもわが意を得たりとばかりに、あの食事のシーンは『最後の晩餐』を強く意識し、思い切り誇張して撮ったと嬉しそうに語っていた。

上映後のティーチ・インで、客席にいらした野上照代さんが立ち上がり、「この映画は、女性の本性は食欲と性欲の二つだということをズバリと描いていて、素晴らしい!」と感想を述べるや、壇上でニン・インも哄笑しながら、肯いていた光景が思い出される。

私も、この『無窮動』でニン・イン監督の官能的な資質が初めてあらわになったのではないかと問いただすと、次のような答えが返ってきた。

「たしかに、私は、これまで老人や若い警察官などを描いてきましたが、生身の私とはかけ離れたテーマばかりでしたので、私自身の内なる欲望は隠しおおせていたように思います。それが、この映画では、それまで我慢し、抑制してものが一挙にあらわになってしまいました(笑)」

 

『無窮動』は、一夜が明け、早朝、無人の高速道路を女たちが黙々と歩いている光景で唐突に終わる。「赤い貴族」と呼ばれる高級幹部の娘であり、表面的には成功したようにみえる彼女たちの内面に巣食う空虚さや喪失感があざやかに浮かび上がってくる。まるで、イタリアの高度経済成長下において澄明なニヒリズムを追求した『情事』や『太陽はひとりぼっち』のアントニオーニを見ているようであった。

 

このように、ニン・インの映画は、いつも最良のイタリア映画の匂いを濃厚に感じさせるのだが、『無窮動』については、ヒロインが住んでいる邸宅が、四合院と呼ばれる鄙びた伝統的な住宅であり、年老いたお手伝いの視点で描かれているため、私は成瀬巳喜男の『流れる』に似ているように思えた。

格式をもった花柳界の芸者屋を舞台に、そこに住み込んだお手伝いさんの視点で、古き良き世界が崩壊していくさまを描いた名作『流れる』を見たことがあるかどうか、と尋ねると、ニン・インは、「成瀬巳喜男のDVDは何本か持っていますが、まだ見ていません。さっそく、『流れる』という作品を見なければいけませんね」と答えてくれた。

その後、はたして、ニン・インは『流れる』を見たのだろうか。


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ニン・イン監督『オルドス警察日記』(c Inner Mongolia Blue Hometown Production Co., Ltd

 

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ニン・イン監督

『夜になっても遊びつづけろ』を再読する

 先日、オーストラリアのタスマニア大学教授で武田泰淳を研究しているバーバラ・ハートリーさんが来日したので、武田花さんと三人で渋谷で待ち合わせ、久々に一献、傾けた。バーバラ・ハートリーさんは堅苦しいアカデミシャンという感じはまったくしないチャーミングな女性で、昨年は、熊野大学主催の夏季セミナーで中上健次をめぐるシンポジウムにも出席したそうだが、いっぽう、大逆事件の研究者でもある。

 

 バーバラ・ハートリーさんの永年の夢は、武田泰淳の『富士』と、金井美恵子の『噂の娘』を英語圏で翻訳出版することで、この二つの小説がいかに素晴らしいかを飽くことなく繰り返し熱心に語っていた。


 バーバラさんには、今年の八月、平凡社から「金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]」全四巻の刊行が始まったことを伝えたが、彼女も金井美恵子さんのエッセイが大好きだという。そんな雑談をかわしながら、私は、今、ふたたび、静かな金井美恵子ブームが到来しつつあることを実感するのである。

 

 私も金井美恵子さんの小説、エッセイの永年の愛読者だが、今、手許にある「金井美恵子エッセイ・コレクション」全四巻の内容見本を眺めると、どうやら、著者自身が「批評」「猫」「作家」「映画」という四つのテーマでセレクトし、新たに編まれたもののようだ。


 そして「批評」をテーマにした第一巻のタイトルが『夜になっても遊びつづけろ』とある。思わず、ああ、なつかしい、とつぶやいてしまった。

四十年ほど前、私が初めて手に取った金井美恵子さんの本が、『夜になっても遊びつづけろ』だったからだ。


 金井美恵子さんには、もちろん『映画 柔らかい肌』『愉しみはTVの彼方に』(河出書房新社)という映画エッセイ集がある。近年、金井さんの映画エッセイは、あたかもワンシーン=ワンショットで描写するように長いワンセンテンスが延々と続くその老練で典雅な文体にいっそう磨きがかかって、一種、凄みすら感じさせるのだが、いっぽうで、『夜になっても遊びつづけろ』に収められた、若き日の、ある独特の観念の硬さがそのまま、引き締まった持続と諧謔をたたえているエッセイにも私は深い愛着を感じている。


 そこで、ふと、ひさびさにオリジナルの『夜になっても遊びつづけろ』 (講談社)を読み返してみたくなったのである。 


 一九七四年に上梓された、このエッセイ集は、金井美恵子さんが「十九歳(一九六七年)から二十五歳(一九七三年)までの間に書いた小説以外の文章の中から、詩人論、作家論、作品論といった類いのものを除いたほとんど」(あとがきより)を収録したものである。

 ずっと私の記憶に残っていたのは、「視線と肉体――長谷部安春『野獣を消せ』」というエッセイだ。『野獣を消せ』の冒頭の名高い、基地のごみ捨て場で少女が犯され、自殺するシーンで、それまで両極が黒く塗られた画面が一挙にシネマスコープサイズに広がる視覚的な魅惑に言及したくだりとか、長谷部安春の前作『縄張はもらった』のきり込み場面の飛沫がサム・フランシスの赤い絵を思わせるとか、『野獣を消せ』の撃ち合いで壁にかかった星条旗が、ジャスパー・ジョーンズを思い出させること、そして、長谷部作品の魅力は「暴力的なアクションの内に開ける本質的なリリシズム」にあるとする指摘などは、今なお新鮮である。

 ちょうど、この当時、文芸坐オールナイトで、長谷部安春の日活ニューアクション五本立てを見ていたせいもあるかもしれない。映画評論というのは、やはり、アクチュアルな時代の気分の刻印が押されていなければ面白くない。  


 「高橋英樹――テロルと肉体とアドレッセンス」は、あらためて読み返しても、つくづく見事な論考だと思う。金井さんは、高橋英樹の映画には、〈少年期との訣別〉という体験が繰り返し重要な意味合いをもって現れると書く。そして、『狼の王子』、『刺青一代』、『けんかえれじい』を論じながら、とりわけ『狼の王子』において、「高橋英樹は、青春期の過剰な熱狂に支えられた張りつめきった筋肉と、精神の熱狂的な硬直、いわばテロルの思想と肉体そのものであり、彼は眉の濃い、意志と自尊心の強いりりしい少年めく、それゆえ一種の硬直した精神の蒙昧さを具現していた」と鋭く洞察している。こういう卓越した評論を読むと、舛田利雄の『狼の王子』が見たくてたまらなくなってしまう。


 時代性と言えば、「石坂浩二――スノッブの栄光」という俳優論が面白かった。論というよりも、一九七〇年当時、異様な人気を誇っていた石坂浩二をめぐって、あらんかぎりに罵倒し尽くした痛快な一文だが、私がひときわ興味を覚えたのは、当時、放映されていたテレビドラマ『憎いあンちくしょう』について言及した次のくだりだ。


 「テレビの機構の中で疲れきってケンタイの最中にある人気タレントという役どころを、石坂浩二は実に楽々とまったく自然にこなしていた。しかし、『憎いあンちくしょう』という蔵原惟繕の傑作は、石原裕次郎と浅丘ルリ子という俳優と六二年という時代とによって作られた映画であったことによって成立したのである。今や、わたしたちは石坂・加賀(まりこ)の『憎いあンちくしょう』の中に、白々しさとどうしようもない低級な、いわば『少女フレンド』や『マーガレット』といった雑誌の中にようやく生きのびている類いのロマンスしか、見はしないのである。」


 じつに、身もふたもない激烈な批判である。ただ、蔵原惟繕のオリジナルが傑作であることは言うを待たないが、私は、同じ山田信夫の脚本による、このテレビ版のほうも、当時、テレビマンユニオンの鬼才として知られていた村木良彦の斬新な演出が鮮烈に記憶に残っているのだ。当時、石坂浩二と加賀まり子が実際に恋人同士であったことも、奇妙なリアリティを感じさせたし、あの時代の白々しい気分を鮮やかにすくいとったヌーヴェル・ヴァーグ風な村木良彦の演出もすばらしかったように思う。

 この村木良彦版の『憎いあンちくしょう』は、たぶん、映像も残っておらず、批評も皆無であるせいか、私の中では永い間、<再見したい伝説のテレビドラマの一本>となっていた。金井美恵子さんの歯に衣を着せない批評を読んで、私は、ひさしぶりに、この幻のテレビドラマを思い出してしまったのである。


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金井美恵子著『夜になっても遊びつづけろ』(講談社)

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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