高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2014年2月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2014年2月アーカイブ

『映画評論』時代の長部日出雄をめぐって

前回、優れた『私が棄てた女』論をものした映画批評家・蒼井一郎について書きながら、私は、もう一人、浦山桐郎の最も深い理解者であった同時代の映画批評家がいたことを思い出した。長部日出雄である。

直木賞作家の長部日出雄が、かつてきわめてジャーナリスティックなセンス溢れる映画批評家であったことはつとに知られている。『週刊読売』の記者時代に、大島渚らが一斉に登場した際に、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名したことはあまりに有名なエピソードだ。

長部日出雄は、今も『オール讀物』に「紙ヒコーキ通信」を連載中である。この「紙ヒコーキ通信」は、劇場で見たばかりの新作映画をとりあげた時評で、これまで『映画は世界語』『映画監督になる方法』『映画は夢の祭り』(すべて文藝春秋)という三冊の単行本になっているし、昨年は、ライフワークともいうべき『新編 天才監督 木下恵介』(論創社)も上梓している。 

とりわけ、私は、虫明亜呂無ほか物故した映画人のメモワールを収めた『振り子通信』正続、『精神の柔軟体操』(すべて津軽書房)などのエッセイ集を愛読している。

 

長部さんは、映画好きが嵩じて、自らの原作・脚本で『夢の祭り』(89)という映画まで監督してしまったが、作家に転身して以降は、作り手の視点に寄り添うようになり、かつてのような鋭い批判的な言辞は一切、封印してしまったように思う。そこが、私は少し不満でもあった。

というのも、かつて佐藤忠男が編集長を務め、虫明亜呂無、品田雄吉が編集者だった一九六〇年代半ばの『映画評論』に長部日出雄さんが発表していた映画評論は、辛辣な批評精神と同時代をリアルにとらえる鋭敏で柔軟な志向性が融合した独特の魅力を放っていたからである。

その代表作といえるのが、『赤ひげ』を論じた「黒澤明の世界」(『映画評論』1965年7月号)で、マックス・ウェーバーを引きながら、黒澤明の作品世界に、一貫した家父長的な支配構造を見出したこの名高い論考は、図らずも、以後の映画ジャーナリズムにおける黒沢明批判の先鞭をつける役割を果たすことになった。

 

この時代の長部日出雄の批評で出色なのは、たとえば、「『裏切りの季節』―この汚辱にまみれた旗」(『映画評論』1966年8月号)である。冒頭の一節を引いてみよう。

「混沌とした映画である。が、これは新人がひさびさに、既成のモラルでない、それだけに不定型な自己の内部の観念を思うさまフィルムの上にぶちまけた作品だ。」

こんなぐあいに、悠然たるタッチで大和屋竺の鮮烈なデビュー作『裏切りの季節』を論じながら、当時、勃興していた三百万でつくられるエロダクション映画の可能性を見出している。

 

長部日出雄の生涯のベスト・ワンはフェリーニの『812』である。長部の「フェリーニの『81/2』」(『映画評論』1965年5月号)は、公開当時に書かれた数多の『81/2』の批評の中でも、もっとも長大で(原稿用紙で40枚以上あったと思う)、緻密で、卓越したスリリングな論考であった。私は、イメージの万華鏡のような『81/2』の魅惑的なディテールを鮮やかに再現する、その途方もない筆力に舌を巻いたが、この傑作評論は、たしか、『非行少女』をもってモスクワ映画祭に行った浦山桐郎監督から、その年のグランプリを獲得した『812』がいかに素晴らしかったかを延々と聞かされていた、という印象的なエピソードからはじまっていたと記憶する。

 

長部日出雄が『映画評論』の一九六四年八月号から始めた「日本の映画作家」という連載がある。第1回目が浦山桐郎で、以後、今村昌平、増村保造、市川崑、山田信夫、岡本喜八、蔵原惟繕、篠田正浩と続くのだが、この連載が途中で終わったのはなにか理由があるのだろうか。これも40枚以上ある長篇論考で、抽象的な作家論ではなく、監督の出身、背景を丹念に調べ上げ、周到な取材を積み重ねて、作品と監督の人物像の相関を見つめた秀逸なポルトレの趣があり、今、読んでも新鮮である。

 

私は、長部日出雄が『ヒッチコック・マガジン』(1962年6月号)に書いた、あるエッセーがずっと気になっている。というのも、小林信彦が名著『日本の喜劇人』の中で、次のように書いているからである。

「これは、彼の書いた多くの文章のなかでも、すぐれたものの一つだと私は確信している。〈あるコメディアンの歩み――石井均はなぜ東京を去ったか〉という短文を私は、ここに、全文、紹介したい気がする。長部は、惚れた相手にからみ、どう仕様もなくなってしまったとき、いい文章を書く。石井均もそうした対象の一人なのである。」

 

「あるコメディアンの歩み」は引用部分を読んだだけでも、優れた喜劇人論となっていると思えるが、ぜひ、全文を読んでみたい。小林信彦さんは、『日本の喜劇人』の中で長部さんについて「喜劇について語るに足る数少ない友人の一人」と書いているが、私もあるエピソードを思い出す。

 

 一九八五年十月、浦山桐郎の訃報が入り、当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、すぐさま、長部日出雄さんに追悼文をお願いした。「〈戦後〉の最良の表現者」と題された、その追悼は、深い哀惜の想いを溢れんばかりに伝わってくる感動的な一文で、かつて日活社員だったオペラ演出家の三谷礼二さんが「一読し、泣きました」とわざわざ電話をくださったほどだ。

私は、長部さんの原稿を受け取った時に、新宿に飲みに誘われたのだが、私はその際、新宿の紀伊國屋書店の裏手にあった「あさぎり」というお店に長部さんをお連れした。その少し前に、昼間、偶然入ったカレー屋「あさぎり」のママさんが、話してみると伝説の喜劇俳優シミ金こと清水金一の奥さんで、引退した女優の朝霧鏡子さんであると知っていたからだ。朝霧さんからも「夜は、お酒も飲めますから、ぜひ、一度、いらしてね」と言われていたのである。

長部さんは伝説の女優に会えたので大感激し、全盛期のシミ金の映画を絶賛するや、朝霧鏡子さんも大喜びで、松竹少女歌劇団時代のチャーミングな写真が沢山貼られたアルバムを見せてくれたりもした。果ては美しいおみ脚を披露する大サービスもあって、長部さんも狂喜乱舞して、朝霧さんと松竹少女歌劇団のテーマソングを大合唱したりと、なんとも楽しい一夜であった。 

その後、ずっと引退していた朝霧さんが、一九九五年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』で、突然、華麗なカムバックを遂げたのは周知の通りである。

 

長部日出雄さんとは、その後、『夢の祭り』がビデオ化された際に、『A?ストア』誌でインタビューしたが、その際に、一九六〇年代に書かれた映画評論をまとめないのですか、と訊いてみたことがある。

長部さんは、「黒澤明の世界」をはじめ、当時、書いた映画批評を本にすることには否定的な発言をされていた。やはり、創作者、作り手に回ったことで、大きな意識の転回があったようである。しかし、私は、『映画評論』を中心に、長部日出雄さんが一九六〇年代に書かれた映画批評は、同世代もしくは同時代の監督への大いなる挑発であり、励ましであり、まぎれもない、血の通った繊細な創作者の〈言葉〉として、再発見されなければならないと思っている。 

『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について

 一本の映画について思いをめぐらす際には、その作品を論じた同時代の優れた批評が喚起されることがある。一番、有名な例を引けば、「映画芸術」に載った三島由紀夫の「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの鶴田浩二」だろう。この批評で山下耕作の名作『博奕打ち・総長賭博』の評価は決定的なものとなった。

私の個人的な記憶をたどれば、たとえば、今やカルト映画として若い世代にも人気がある野田幸男の『〇課の女 赤い手錠』(74)は、封切り時に、「キネマ旬報」に載った球磨元男(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)の「瞠目すべき傑作」という大絶賛の短評に大いに刺激された。そして数か月遅れで、新宿昭和館でようやくつかまえ、驚愕したのをよく憶えている。ダイニチ映配末期に狂い咲いた長谷部安春の日活ニューアクションの代表作『野良猫ロック・セックスハンター』(70)についても、当時、「キネマ旬報」の読者投稿欄に載った藤田真男の「『野良猫ロック・セックスハンター』の論理と構造」という秀抜な論考が強く印象に残っている。

 

 一九八四年に出た山田宏一の書下ろしエッセイ集『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫)は、まさに、達意の名文による同時代の映画批評の宝庫で、「サミュエル・フラーの戦争 『最前線物語』」、「松田聖子のおでこ 『野菊の墓』」、「田中裕子とグリーンの誘惑 『天城越え』」、「森崎喜劇の行方 『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』」などは、それぞれの作品について書かれた最も魅力に富んだブリリアントな批評であった。

 

 その山田宏一さんから、はるか昔、日本ヘラルド映画の宣伝部長の山下健一郎さんが蒼井一郎というペンネームで映画評を書いていて、浦山桐郎論がすごくよくてね、という話を聞いたことがある。

 

 山下健一郎といえば、私が「月刊イメージフォーラム」編集部に在籍していた一九八〇年代の前半には、子会社のヘラルド・エースを原正人さんと共に牽引していた。『赤い帽子の女』『瀬戸内少年野球団』『片翼だけの天使』などのプロデューサーとして活躍していた時期で、恐らく、その頃は多忙を極め、映画批評を書く余裕はなかっただろう。

 

その後、私はフリーの編集者になったが、必要があって、戦後日本映画の批評の歴史を調べていて、小川徹が編集委員会代表を務めた『現代日本映画体系』全六巻(冬樹社)を通読する機会があり、ようやく「蒼井一郎」の書いたいくつかの批評を読むことができた。

第二巻「個人と力の回復」には「やむをえざる犯罪の物語――『警視庁シリーズ』論――」、第三巻「日本ヌーベルバーグ」には「渋谷実の笑い――『二人だけの砦』評――」が収められており、とくに前者は、東映の『警視庁シリーズ』を、その作られた高度成長期という時代背景を踏まえた精緻な分析が読みごたえがある。

「とどのつまり、警視庁シリーズ作品の絶ちがたい魅力とは、大都会の貧しい風景・貧しい犯罪の描写をはさんで、企業的アルチザン根性と本物のドキュメンタリー精神が、その接点のあたりで毎度安定した〈スタイル〉のなかにするりと統一されてしまうという、〈じれったさ〉にあったのかもしれないのだが……。」というくだりなどは、実に鋭い指摘で、読んでいると、猛然と「警視庁」シリーズ全作を見たくなってしまうほどだ。 

 

しかし、映画批評家、蒼井一郎の最高傑作といえば、やはり第五巻「幻想と政治の間」所収の「『私が棄てた女』と六〇年代」だろう。四百字詰め原稿用紙で四十枚ほどの長篇の論考で、初出が一九七〇年三月刊行の「シネマ70」四号というのも時代を感じさせ、象徴的である。

 

冒頭で、蒼井一郎は次のように書き出している。

「浦山桐郎の『私が棄てた女』について書こうとすると、それはひとつの明確な結論を持った文章として完結しないのではないか、という危惧を、最初から感じてしまう。……中略……『私が棄てた女』を正面切って分析した批評は少なく、いわば論理的解明ではなく心情的な共感として、ひとりひとりの胸の奥にスムーズにしまいこまれ、やがては記憶という錆びによって動かなくなる錠を下されてしまっていくように思える。

 多分その理由は、『私が棄てた女』という作品が、自己の内部と外部の両方に向かって発した〈問いかけ〉であり〈追求〉であり、〈否定〉でありながら、同時にその〈答え〉であり〈弁明〉であり、〈肯定〉であるという構造を持っているために、明確な一元的メッセージを受けとることができなかったからであろう。」 

 

『私が棄てた女』(69)を、私は、十年おきぐらいに名画座でかかると見返しているが、最初、二十歳前後で見た時には、さほど感銘を受けることのなかった、この作品は、歳を重ねて、見直すたびに、名状し難い苦さ、棘が刺さったような鈍い痛みにしばし襲われる。こういうタイプの映画はきわめて稀である。

蒼井一郎の批評は、この『私が棄てた女』という一筋縄ではいかない、不可解な魅力をたたえた映画に、全力でぶつかり、格闘し、〈言葉〉によって肉薄しようとした稀有な試みである。

 

『私が棄てた女』の主人公・吉岡(河原崎長一郎)は、勤め先の社長の姪であるマリ子(浅丘ルリ子)と結婚するいっぽうで、昔、学生時代に知り合い、妊娠させて棄てた女工の森田ミツ(小林トシ江)と再会した後、関係を持ち続ける。そして、ふたたび、見棄ててしまい、結果的には、ミツを死に追いやってしまう。

 

蒼井一郎は、吉岡の「俺は……ミツじゃないが、ミツは俺だよ」という謎めいた呟きの意味を問い直し、吉岡にとって、「死せるミツは、すでにあの「『道』のザンパーノにおけるジェルソミーナのような存在になっているのである」と卓見を述べている。

さらにラストのマリ子のモノローグについても次のような鋭い分析を加えている。

「ここでは、ミツとは対照的な環境に育ち、都会的知的な女性像として登場したマリ子が、吉岡に対するミツのような存在に転生している。吉岡にとっては、彼女自身が第二のミツになりうるかもしれない。だが、吉岡の方は、愛するものを愛し続けながら、ミツを殺した外部の敵、内部の敵と戦ってゆくことができるのだろうか。朝の空とも、夕暮れの空とも見える不思議なラストショットの空のあかね色は、その可能性と絶望の交錯のように見える。」

 

 浦山桐郎は、『キューポラのある街』(62)、『非行少女』(63)、そして『私が棄てた女』という日活時代の三本の作品で、作家生命を燃焼し尽くしてしまったというのが私の長年の持論で、とくに主人公の吉岡に烈しく自己を投影した『私が棄てた女』には、浦山桐郎のすべてがあると思える。

 

その後、山下健一郎さんとは、フリーのプロデューサーになられてから、数回、酒席を共にする機会があったが、酒が入ると、なんだか照れてしまい、直接、『私が棄てた女』論の感銘を伝えることはできなかった。山下さんは、二〇一〇年の八月に胆管細胞ガンで死去された。享年七〇。

その数か月後に、『ゴダール・ソシアリズム』の完成披露試写で、奥様の山下由紀子さんと偶然、お会いし、喫茶店で長々と話し込んだ。山下さんご自身も大変な映画狂で、シネ・ヴィヴァン六本木に勤務していた一九九〇年代には、ジョン・カサヴェテス特集などで一緒にイベントを企画したこともあった。山下さんは、「通夜では、原正人さんや河原畑寧さんなど親しかった沢山の友人たちが、いつまでたっても帰らずに主人の思い出を延々と語り合っていたんですよ」と嬉しそうに話されていたのが印象的だった。

山下健一郎さんは、豪放無頼なキャラクターの魅力もあって、黄金期のヘラルド映画時代の宣伝マンとしての伝説的なエピソードには事欠かないが、私としては、傑出した『私が棄てた女』論を書いた映画批評家・蒼井一郎としての貌を忘れないでおきたいのである。

 

206231e29fa003dfd5aa6110_L.jpg

浦山桐郎監督の名作『私が棄てた女』(VHSのみ。絶版)

« 2014年1月 | メインページ | アーカイブ | 2014年3月 »
著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
検索