高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2013年9月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2013年9月アーカイブ

『夜になっても遊びつづけろ』を再読する

 先日、オーストラリアのタスマニア大学教授で武田泰淳を研究しているバーバラ・ハートリーさんが来日したので、武田花さんと三人で渋谷で待ち合わせ、久々に一献、傾けた。バーバラ・ハートリーさんは堅苦しいアカデミシャンという感じはまったくしないチャーミングな女性で、昨年は、熊野大学主催の夏季セミナーで中上健次をめぐるシンポジウムにも出席したそうだが、いっぽう、大逆事件の研究者でもある。

 

 バーバラ・ハートリーさんの永年の夢は、武田泰淳の『富士』と、金井美恵子の『噂の娘』を英語圏で翻訳出版することで、この二つの小説がいかに素晴らしいかを飽くことなく繰り返し熱心に語っていた。


 バーバラさんには、今年の八月、平凡社から「金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]」全四巻の刊行が始まったことを伝えたが、彼女も金井美恵子さんのエッセイが大好きだという。そんな雑談をかわしながら、私は、今、ふたたび、静かな金井美恵子ブームが到来しつつあることを実感するのである。

 

 私も金井美恵子さんの小説、エッセイの永年の愛読者だが、今、手許にある「金井美恵子エッセイ・コレクション」全四巻の内容見本を眺めると、どうやら、著者自身が「批評」「猫」「作家」「映画」という四つのテーマでセレクトし、新たに編まれたもののようだ。


 そして「批評」をテーマにした第一巻のタイトルが『夜になっても遊びつづけろ』とある。思わず、ああ、なつかしい、とつぶやいてしまった。

四十年ほど前、私が初めて手に取った金井美恵子さんの本が、『夜になっても遊びつづけろ』だったからだ。


 金井美恵子さんには、もちろん『映画 柔らかい肌』『愉しみはTVの彼方に』(河出書房新社)という映画エッセイ集がある。近年、金井さんの映画エッセイは、あたかもワンシーン=ワンショットで描写するように長いワンセンテンスが延々と続くその老練で典雅な文体にいっそう磨きがかかって、一種、凄みすら感じさせるのだが、いっぽうで、『夜になっても遊びつづけろ』に収められた、若き日の、ある独特の観念の硬さがそのまま、引き締まった持続と諧謔をたたえているエッセイにも私は深い愛着を感じている。


 そこで、ふと、ひさびさにオリジナルの『夜になっても遊びつづけろ』 (講談社)を読み返してみたくなったのである。 


 一九七四年に上梓された、このエッセイ集は、金井美恵子さんが「十九歳(一九六七年)から二十五歳(一九七三年)までの間に書いた小説以外の文章の中から、詩人論、作家論、作品論といった類いのものを除いたほとんど」(あとがきより)を収録したものである。

 ずっと私の記憶に残っていたのは、「視線と肉体――長谷部安春『野獣を消せ』」というエッセイだ。『野獣を消せ』の冒頭の名高い、基地のごみ捨て場で少女が犯され、自殺するシーンで、それまで両極が黒く塗られた画面が一挙にシネマスコープサイズに広がる視覚的な魅惑に言及したくだりとか、長谷部安春の前作『縄張はもらった』のきり込み場面の飛沫がサム・フランシスの赤い絵を思わせるとか、『野獣を消せ』の撃ち合いで壁にかかった星条旗が、ジャスパー・ジョーンズを思い出させること、そして、長谷部作品の魅力は「暴力的なアクションの内に開ける本質的なリリシズム」にあるとする指摘などは、今なお新鮮である。

 ちょうど、この当時、文芸坐オールナイトで、長谷部安春の日活ニューアクション五本立てを見ていたせいもあるかもしれない。映画評論というのは、やはり、アクチュアルな時代の気分の刻印が押されていなければ面白くない。  


 「高橋英樹――テロルと肉体とアドレッセンス」は、あらためて読み返しても、つくづく見事な論考だと思う。金井さんは、高橋英樹の映画には、〈少年期との訣別〉という体験が繰り返し重要な意味合いをもって現れると書く。そして、『狼の王子』、『刺青一代』、『けんかえれじい』を論じながら、とりわけ『狼の王子』において、「高橋英樹は、青春期の過剰な熱狂に支えられた張りつめきった筋肉と、精神の熱狂的な硬直、いわばテロルの思想と肉体そのものであり、彼は眉の濃い、意志と自尊心の強いりりしい少年めく、それゆえ一種の硬直した精神の蒙昧さを具現していた」と鋭く洞察している。こういう卓越した評論を読むと、舛田利雄の『狼の王子』が見たくてたまらなくなってしまう。


 時代性と言えば、「石坂浩二――スノッブの栄光」という俳優論が面白かった。論というよりも、一九七〇年当時、異様な人気を誇っていた石坂浩二をめぐって、あらんかぎりに罵倒し尽くした痛快な一文だが、私がひときわ興味を覚えたのは、当時、放映されていたテレビドラマ『憎いあンちくしょう』について言及した次のくだりだ。


 「テレビの機構の中で疲れきってケンタイの最中にある人気タレントという役どころを、石坂浩二は実に楽々とまったく自然にこなしていた。しかし、『憎いあンちくしょう』という蔵原惟繕の傑作は、石原裕次郎と浅丘ルリ子という俳優と六二年という時代とによって作られた映画であったことによって成立したのである。今や、わたしたちは石坂・加賀(まりこ)の『憎いあンちくしょう』の中に、白々しさとどうしようもない低級な、いわば『少女フレンド』や『マーガレット』といった雑誌の中にようやく生きのびている類いのロマンスしか、見はしないのである。」


 じつに、身もふたもない激烈な批判である。ただ、蔵原惟繕のオリジナルが傑作であることは言うを待たないが、私は、同じ山田信夫の脚本による、このテレビ版のほうも、当時、テレビマンユニオンの鬼才として知られていた村木良彦の斬新な演出が鮮烈に記憶に残っているのだ。当時、石坂浩二と加賀まり子が実際に恋人同士であったことも、奇妙なリアリティを感じさせたし、あの時代の白々しい気分を鮮やかにすくいとったヌーヴェル・ヴァーグ風な村木良彦の演出もすばらしかったように思う。

 この村木良彦版の『憎いあンちくしょう』は、たぶん、映像も残っておらず、批評も皆無であるせいか、私の中では永い間、<再見したい伝説のテレビドラマの一本>となっていた。金井美恵子さんの歯に衣を着せない批評を読んで、私は、ひさしぶりに、この幻のテレビドラマを思い出してしまったのである。


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金井美恵子著『夜になっても遊びつづけろ』(講談社)

『ルイス・ブニュエル』を読みながら思い出したこと

 四方田犬彦の六百ページを超える大著『ルイス・ブニュエル』(作品社)を読んでいたら、次のような一節が目に止まった。

「一九八〇年代に入ると、これまで日本ではブニュエルの暗黒時代であると見なされていたメキシコでの諸作品に照明が投じられることになった。最初の契機となったのは、一九八四年に開催された「ぴあフィルムフェスティヴァル」のブニュエル特集である。……中略……わたしはこの年をもってブニェエル元年と呼びたい気持ちを、今でも抱いている。」

 

 そうだ、八四年にはPFFでルイス・ブニュエルの全三十二作品のうち二十九本を集めた大回顧上映会が開催されたのだ。あれは画期的な〈事件〉といってよかった。ブニュエルの自伝『映画 わが自由の幻想』(矢島翠訳・早川書房)が刊行されたのもこの年だった。

 

この空前絶後のブニュエル特集がすごかったのは、それまでまったく見ることができなかったメキシコ時代の彼の作品がほとんどすべて上映されたことである。

この特集によって、ルイス・ブニュエルにつきまとっていた〈難解でスキャンダラスなシュルレアリスムの巨匠〉というイメージが払拭されてしまった。

そして、それに代わって、ミュージカル、通俗メロドラマ、コメディ、とあらゆるジャンルを手がけ、スピーディなタッチで撮り上げてしまう、まるでマキノ雅弘を彷彿させる、プログラムピクチャーの職人監督としての貌が一挙にクローズアップされることになったのである。

 

世界中からプリントを集めたということで、二、三か国語の字幕が付いている奇怪なプリントが何本もあった。たしか、市ヶ谷のシネアーツで、連日、試写をやっていたはずで、そこで、たびたび、金井久美子さん、金井美恵子さん姉妹と一緒になり、見終わった後、近くの喫茶店で談笑した記憶がある。

金井美恵子さんは、かなり興奮気味に、ブニュエルについて語っていた。その後、金井さんは、何度も「メキシコ時代のブニュエル」というテーマでエッセイを書いていたが、それほど、このブニュエル特集は刺戟的であったということだ。

 

PFFの特集にあわせて、編集長である西嶋憲生さんの発案で、『月刊イメージフォーラム』でも「ルイス・ブニュエル伝説」という特集を組んだ。宇田川幸洋さんの「ブニュエル爺(ジー)の秘かな愉しみ」という長めのエッセイ、晩年のブニュエルの傑作のシナリオを書いたジャン=クロード・カリエールのインタビュー、ジャン・パイヤールの『銀河論』、ルイス・ガルシア=アブリネスの『ブニュエルの再生』というメキシコ時代の作品をテーマにした論考、それにメキシコ時代の十五作品の映画評を網羅した内容だった。

 

とりわけ、先日亡くなった梅本洋一さんによるカリエールのインタビューは、私も同行して帝国ホテルの一室で行ったのだが、演劇評論家でもあった梅本さんは、ピーター・ブルックとの共同作業について、熱心に訊いていたことが思い出される。

 

ちょうど同じ号に『女子大生・恥ずかしゼミナール』(後に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と改題)の製作ノートが載っているのだが、この問題作を撮ったばかりの黒沢清さんに『熱狂はエル・パオに達す』、水谷俊之さんに『昇天峠』と『幻影は電車に乗って旅をする』の批評を書いてもらった。ところが、その号が出た後で、『映画芸術』で評論家の野崎六助が、このふたりの批評にかみついたのだ。たしか、「こんな、理解不能な、ふざけきった文章を載せた編集部に猛省をうながす」みたいな批判であった。

 

しかし、今、ふたりの批評を読み返してみても、ふざけているとは思えない。ただ、未知のブニュエルの映画の世界に触れた、その新鮮な驚きの体験を、率直に言葉にしているだけである。

 

この特集では、私も『若い娘』とい過激なロリコン映画について書いている。PFFの特集の後で、一時、世界で一本しかないそのプリントが紛失してしまったという噂が流れた。実際、その後、ヘラルド・エースを中心にメキシコ時代の作品が上映される機会が増えたものの、この『若い娘』だけは、長い間、見ることができなかったが、数年前、日本でもようやくDVD化されたようだ。

 

四方田犬彦の『ルイス・ブニュエル』の最終章は「日本におけるブニュエル受容」と題され、ここは読みどころかと思う。戦前の瀧口修造の初紹介にはじまり、パリで『アンダルシアの犬』を見て、そのオリジナル脚本を訳出した映画評論家、内田岐三雄の功績が高く評価されている。

さらに、戦後、日本で初めて公開されたブニュエル作品『忘れられた人々』を、「シュルレアリスムと社会主義リアリズムを高次で統合した傑作」と喝破した花田清輝の炯眼が称賛され、その影響下から松本俊夫の名著『映像の発見』が生まれた背景が詳述されている。

この章で、興味深いのは、一九六〇年代に、唯一、メキシコ・シティの自宅でルイス・ブニュエルにインタビューした日本人への言及があることだ。金坂健二である。金坂は、ジョナス・メカスをはじめとするアメリカの実験映画、アンダーグラウンド文化の最初の紹介者であり、アメリカのカウンター・カルチャーに関する優れた批評家でもあった。

金坂健二のブニュエルのインタビューは、たぶん、一九六二年頃、『シナリオ』に掲載された「海外作家インタビュー」シリーズに載ったものではないかと思う。

 

今、私の手許にはアンドリュー・サリスが編纂した世界の映画作家へのインタビューをまとめた『インタヴューズ・ウィズ・フィルム・ディレクターズ』があるが、この中にも金坂健二による短いブニュエルへのインタビューが収録されている。初出は一九六二年の『フィルム・カルチャー』誌で、この時期、金坂健二がいかに旺盛に活躍していたかがわかる。このインタビューを読むと、ブニュエルは、ヌーヴェル・ヴァーグでは『二十四時間の情事』と『大人は判ってくれない』が好きであること、日本映画では『羅生門』『七人の侍』『地獄門』を見ていて、日本への関心はあるが、飛行機恐怖症のため、たぶん、日本へ行くことはないだろう、などと語っている。

 

金坂健二は、九〇年代であったろうか、映画祭かなにかのあるパーティで見かけたことがあるが、若い映画関係者、ライターたちのテーブルに立ち寄っては、しきりに「金坂健二です」と自己紹介している光景を憶えている。突然、声をかけられて、相手はぽかんとしていたが、あれだけの仕事を成し遂げた人物が、すでに忘れられた存在になっていることがショックであった。

 

私自身は、イメージフォーラム時代に、かわなかのぶひろさんから、「ジャパン・コーポ」総会において、金坂健二が「フィルム・アート・フェスティバル東京1969」開催をめぐって造反を起こした経緯をなんども訊いていたので、こちらから積極的に話をするということはなかった。

近年、北沢夏音による金坂健二の評伝ノンフィクションが書かれ、再評価が始まっているようだ。そして、金坂健二の造反で、「ジャパン・コーポ」を脱退し、「日本アンダーグラウンドセンター」をつくった佐藤重臣は、晩年、黙壺子アーカイブスで非合法でブニュエルの『アンダルシアの犬』や『黄金時代』『砂漠のシモン』を上映していたのだった。その佐藤重臣もふたたび脚光を浴びている。

『ルイス・ブニュエル』を読みながら、日本のアングラ文化との意外なむすびつきに思いを馳せてしまった。

 

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四方田犬彦著『ルイス・ブニュエル』(作品社)

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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