高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2013年7月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2013年7月アーカイブ

大岡昇平とルイズ・ブルックス

 大岡昇平の『成城だより』全三巻(文藝春秋)は、時おり、読み返す愛読書のひとつだ。ほとんど日記というものをつける習慣のない私にとって、<署名入りの「匿名批評」>と評されたこの膨大な日記は、ちょうど、『文学界』に連載されていた一九七九年の終りから八五年にかけての時代の文化、政治、社会状況が手に取るように活写されており、当時の記憶がリアルに甦ってくるのも、大きな読みどころになっている。 

 

とにかく、『成城だより』のページをめくるたびに、七十歳を超えても文学、映画、音楽、舞台とあらゆるジャンルに触手をのばす、大岡昇平の止まるところを知らない旺盛な好奇心に驚嘆させられる。とりわけ立花隆の批判が火種となったフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』をめぐる批評論争に首を突っ込む顚末は有名だが、映画についていえば、この時期、大岡昇平が、突然、狂ったようにオマージュを捧げて、伝説の彼方から鮮やかに甦らせてしまったひとりの女優がいたことを思い出すのである。

 

その名はルイズ・ブルックス。

サイレントからトーキーの時代にかけて、あまりに斬新なボブ・ヘアで一世を風靡したこの魅惑的な女優は、そのポートレイトを一目、見たら、決して忘れようもない。

映画史的には、サイレント期にハワード・ホークスの『港々に女あり』(28)、『カナリヤ殺人事件』(29)、そして、とくにG・W・パプストの『パンドラの箱』(29)、『淪落の女の日記』(29)で神話的なファム・ファタール(宿命の女)を演じ、人気は絶頂を迎えるが、トーキー以後、急速に忘れられた存在だった。

 

そのルイズ・ブルックスが1970年代に復活したのだ。欧米でルイズ・ブルックス自身による回想録『ハリウッドのルル』、彼女をめぐる証言集『あるアンチ・スターの肖像』が続けて刊行され、それを入手した大岡昇平が熱に浮かされるように、文芸雑誌『海』の84年1月号に「あるアンチ・スター」、同誌3月号に「ブルックスふたたび」を一気に書き上げるや、その後、すぐに『パンドラの箱』の主要場面スチルで構成された豪華本『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(中央公論社、84年)として纏められた。

 

この大岡昇平の刺戟的な論考がとても身近に感じられたのは、ちょうど同じ時期に、私が編集していた『月刊イメージフォーラム』で「ハリウッドの神話学」という特集を組み、当時、ニューヨーク大学の博士課程にいた平野共余子さんに、「私が決して回想録を書かないわけ」というルイズ・ブルックスのエッセイを翻訳してもらい載せていたからだ。

 

大岡昇平は、このエッセイもさっそく引用し、分析を加えているが、面白いのは、この老大家の異様な熱狂に当てられてしまい、山口昌男、大江健三郎、埴谷雄高、蓮實重彦、山田宏一、四方田犬彦、松田政男といった人たちがルイズ・ブルックス関係の資料を惜しげもなく提供していることだ。筒井康隆にいたっては、以前からブルックスに目をつけて、昭和初期の「キネマ旬報」を独占的に収集していたものの、大岡昇平の文章を読んで、その計画を放棄し、一括送付してきたという。

 

大岡昇平のエッセイは、『パンドラの箱』の原作者ヴェデキントが創造したヒロイン「ルル」を制度破壊者、トリックスター的道化の文脈で考察したり、当時、『パンドラの箱』の日本版である舞台、蝙蝠座「ルル子」で、日本でも大流行したブルックス刈りをいち早く真似した三宅艶子の証言なども紹介するなど、雑知識、情報が豊富で、興味は尽きない。

 

筋金入りのスタンダリアンである大岡昇平は、「美は幸福の約束である」というスタンダールの定義を引きながら、「ルイズの顔は何か幸福を約束していなければならない。それは多分知性をまじえた、友愛的なものだろう。しかしそういいきってしまうには、彼女の身体の曲線には魅力がありすぎ、上眼使いの眼には色気がありすぎる。あれが演技でできるだろうか。」と書いている。

 

当時、この大岡昇平の本をきっかけに、アテネ・フランセやドイツ文化センターで、ルイズ・ブルックスの映画の上映会が幾度か開催された記憶がある。ただし、上映されたのは『パンドラの箱』、『淪落の女の日記』、そして『港々に女あり』にほぼ限られていたと思う。

 

 映画史には、スチル写真を見た記憶だけで、ずっと見たいと切実に夢想してしまうような幻の映画が何本かある。私にとって、ある時期までは、プレストン・スタージェスの『サリヴァンの旅』(43)、そしてウィリアム・ウェルマン『人生の乞食』(28)がそういう作品であった。

 

映画監督の自己探求というメタ・フィクション的な趣向が先駆的な『サリヴァンの旅』で、もっとも魅了されるのは、映画監督サリヴァンと共にホーボーに扮した、女優志願の娘ヴェロニカ・レイクがハンティング帽をかぶった男装で、鉄道の貨車にヘタクソに飛び乗るシーンだ。突然、コマ落としになったり、ヴェロニカ・レイクが、トレードマークである多量な髪が額を覆い尽くすかのような独特のヘアスタイルを封印し、少年のように走り回るシーンは、何度見てもその美しさに陶然となってしまう。 

 

だが、この映画監督サリヴァンが、社会の過酷な現実を知るための<通過儀礼>としての列車のタダ乗りのシーンには、どうやら原典があり、それはサイレント末期の社会派映画『人生の乞食』であるというのが映画史の通説となっている。

 

最近、不完全な形ながら、その『人生の乞食』をようやく見る機会があり、ホーボーであるリチャード・アーレンとハンティング帽をかぶった男装のルイズ・ブルックスが列車にタダ乗りするシーンを見て、愕然となった。プレストン・スタージェスは、やはり『サリヴァンの旅』で『人生の乞食』のこのシーンを、カット割りまでほとんど丸ごと再現していたのだ。これは明らかにパロディというよりもオマージュ、岸松雄ふうに言えば<心ある踏襲>と呼ぶにふさわしい。

 

それにしてもボーイッシュなショート・ボブヘアのルイズ・ブルックスが男装するといったいどうなるか。二重に倒錯した形容しがたい妖しいエロティシズムが生まれるのだ。とくにふたりが干し草の山の中で、一晩過ごすシーンの瞳が濡れたようなルイズ・ブルックスの美しさは筆舌に尽くしがたい。

 

『サリヴァンの旅』の撮影時、ヴェロニカ・レイクは妊娠していて、当然、列車のシーンでは、スタンドインがいたが、『人生の乞食』で、ルイズ・ブルックスは危険なスタントにも果敢に挑み、走り出した列車に飛び乗るというシーンも自分でこなしている。

 

『ハリウッドのルル』には、『人生の乞食』をめぐる印象深い記述がある。ロケーション先で、リチャード・アレンの身替りスタントマンが、確実に死んだと思われるような見事な離れ業をみせたので、彼女は、その男に、今夜、遅く宿舎の自分の部屋の窓に来れば、入れてあげると言った。しかし、男は来なかった。翌朝、男は、ロビーで会うと、大声で「ミス・ブルックス」と呼びかけ、声をひそめて「われわれの商売は体が元手なんです。あなたは監督と寝ているという噂だ。ところがあの監督は梅毒持ちだということですので」と言ったという。

 

 全篇がこんな途方もない率直さと親密な語り口で溢れている『ハリウッドのルル』は、ルイズ・ブルックスという神話的な女優を知るうえで最重要な文献である。私の手許にはバリー・パリスの大部の評伝『ルイズ・ブルックス』もあるのだが、これらの著作をどこかで翻訳・出版できないものかと思う。そして、その際には、ぜひとも『人生の乞食』をニュープリントで上映したい、とあてどない妄想はますますふくらむばかりである。

 

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『ルイズ・ブルックスと「ルル」』(大岡昇平著・中央公論社)

 

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『サリヴァンの旅』の男装のヴェロニカ・レイク(右)

 

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『人生の乞食』の男装のルイズ・ブルックス(右)

岩田宏、あるいは小笠原豊樹をめぐる断想

淀川長治、蓮實重彦、山田宏一氏の鼎談集『映画千夜一夜』(中公文庫)を読み返すたびに、世の中には、映画ファンであるならば、見ておかなければいけない映画が膨大に存在することにあらためて愕然となる。私の場合、たとえば、その筆頭に挙げられるのが、ヘンリー・ハサウェイの『永遠に愛せよ』(35)だ。とはいっても、ゲイリー・クーパーとアン・ハーディングが主演したこのハリウッド黄金期の古典的なメロドラマが気になり始めたのは、つい最近のことである。

 

十年ほど前に上梓された岩田宏のエッセイ集『渡り歩き』(草思社)の中に「夢の領域」という一文がある。アメリカのミステリ、大衆小説に頻出するピーター・イベットスンという謎の名前をめぐって入念に考察したエッセイで、読み進むうちに、それはダフネ・デュモーリアの祖父にあたるジョージ・デュモーリアの処女作『ピーター・イベットスン』に由来することが判明するのだが、他ならぬ『永遠に愛せよ』の原作が『ピーター・イベットソン』なのだ。

 

岩田宏は、『ピーター・イベットスン』の主人公の生い立ちが、作家ジョージ・デュモーリアのそれとほぼ同じであると指摘し、この夢の中の相愛をテーマにした哀切極まりない物語の骨子を紹介しているが、その手際があまりに見事で惚れ惚れとしてしまうのである。

以来、『永遠に愛せよ』は、もっとも見たい映画の一本となり、恐らく未訳であるはずのジュージ・デュモーリアの原作『ピーター・イベットソン』も、ぜひとも彼の翻訳で読みたいと思った。

 

 詩人の岩田宏と翻訳家である小笠原豊樹が同一人物であることに気づいたのは、いつ頃だったろうか。

 最初に名前を知ったのは、もちろん小笠原豊樹のほうである。最初に読んだ小笠原豊樹の翻訳は、多分、レイ・ブラッドベリの『太陽の黄金(きん)の林檎』(早川文庫)だったと思う。

私にとって、翻訳者としての小笠原豊樹という名前、ブランドに対する信頼感は絶大でゆるぎないものだ。

 たとえば、ロス・マクドナルドの『さむけ』(早川ミステリ文庫)を読み終えた時の得も言われぬ充実感は、今でもあざやかに憶えている。イリヤ・エレンブルグの『芸術家の運命』(美術出版社)の堅牢なタッチで描きだされた数々のポルトレはいかに魅力的であったことか。ウラジーミル・ナボコフの『四重奏/目』(白水社)、『ロシア文学講義』(TBSブリタニカ)の精妙で酔わせるような言語の魔術にも瞠目させられた。   

 

詩ではウラジーミル・マヤコフスキー、そして何といってもジャック・プレヴェールだ。昔、書肆ユリイカから出ていた小笠原豊樹訳の『プレヴェール詩集』(後にマガジンハウスから復刊された)は、何度、読み返したかしれない。たとえば次に引用する「夜のパリ」などは、すっかり暗誦してしまったほどだ。

 

三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜のなかで

はじめはきみの顔を隈なく見るため

つぎのはきみの目を見るため

最後のはきみのくちびるを見るため

残りのくらやみは今のすべてを想い出すため

きみを抱きしめながら。

 

この名高い詩を含む詩集『パロール』は、初期の谷川俊太郎の詩作にも深い影響を与えているはずである。私は、未だに、プレヴェールの詩に関しては小笠原豊樹訳以外では読む気がしない。

『天井桟敷の人々』のシナリオライターでもあったプレヴェールの詩が映像的であるのは言うを俟たないが、なぜか小笠原豊樹の翻訳には映画化された作品が多いことも特筆されよう。代表作としては、ジョン・ファウルズの『コレクター』(白水社)、『魔術師』(河出書房新社)、そしてメアリイ・マッカーシイの『グループ』を挙げたい。

 

『コレクター』は、ウィリアム・ワイラーの手堅い演出で見せるが、ジョン・ファウルズの原作は主人公のキャラクターがより一層屈折しており、彫りが深い。『魔術師』は、たしかダーク・ボガード主演で映画化されたはずで、日本未公開であるが、あの壮麗な地中海的幻想の世界を映像化するのは至難の業である。

 

シドニー・ルメットが監督した『グループ』は、もっと高く評価されていい〈女性映画〉の秀作である。一九三三年、バッサー女子大を卒業した八人の女性たちが、ニューディール政策下のアメリカ社会で、理想と現実の葛藤にさいなまれ、それぞれが挫折と幻滅を味わうという物語だが、キャメラが名手ボリス・カウフマンのせいか、エリア・カザンの『草原の輝き』を想起させる柔らかな色調と淡いノスタルジックなトーンが強く印象に残っている。

ところが、メアリイ・マッカーシイの原作のほうは、あけすけなまでにドライで、感傷を排した冷静な叙述と文体が、時としてグロテスクなまでに暴露的なユーモアをたたえているのだ。とくに第二章のヒロインの一人、ドティ・レンフルーが初めて男とベッドを共にするくだりなど、彼女のエスカレートする妄想や男とのトンチンカンな会話がアイロニーたっぷりで爆笑をさそう。この辛辣なユーモアが、ルメットの映画にはやや希薄なのだ。 

 

『グループ』の小笠原豊樹の訳者あとがきは、独立したメアリイ・マッカーシイ論として読める卓越したもので、「この小説は、新しい家具のようにグッド・センスという言葉で片付けるには、あまりにも多くの生々しい問題を含み、強烈な個性に満たされている。それはたぶん孤児の哀しみと、バッサーの教育と、トロツキストの政治運動と、「パーティザン・レヴュウ」の文学運動と、三度の離婚を経て来たひとりの女性の年輪のようなものであるのだろう」という指摘は正鵠を得ていると思う。

 

 岩田宏には、『同志たち、ごはんですよ』(草思社)という大部のエッセイ集がある。ここには、後に『私は好奇心の強い女』で話題となるヴィルゴット・シェーマンの伝説の獣姦映画『491』を試写で見た感想や、エリア・カザンの『アメリカ・アメリカ』とルイ・マルの『鬼火』を比較した「青春の獲得と喪失」などが収められている。『妻よ薔薇のように』と『彦六大いに笑う』を中野実、三好十郎の原作と比較して論じたエッセイも出色で、職能的映画批評家とはまったく異なる独自の視点がきわめて新鮮である。

 

そういえば、岩田宏は、ロバート・アルトマンの『三人の女』の劇場用パンフレットにも作品評を書いていて、とても読みごたえがあったと記憶する。私は、今、岩田宏=小笠原豊樹の映画エッセイ集を編んでみたい、というささやかな夢想にふけっている。

 

 

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メアリイ・マッカーシイ『グループ』(小笠原豊樹訳・早川書房)

 

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ジャック・プレヴェール『プレヴェール詩集』(小笠原豊樹訳・マガジンハウス)

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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