高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2013年5月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2013年5月アーカイブ

田中眞澄の遺稿集『小津ありき――知られざる小津安二郎』

 今、映画・文化史家の田中眞澄さんの遺稿集『小津ありき――知られざる小津安二郎』(清流出版)を編集している。今年は、小津安二郎監督の生誕百十年、没後五十年にあたるが、それに合わせて、小津研究の第一人者であった田中さんの小津に関する単行本未収録のエッセイをまとめたいと考えたのだ。

 

 田中眞澄さんにはさまざまな逸話がつきまとっている。

私は、一九七〇年代の半ば頃から、京橋のフィルムセンターに通い始めたが、そのロビーには、必ずいつも長髪で、白いワイシャツ、草履ばき、という怪しい風体の眼光鋭い人物がいた。それが田中さんだった。

 田中さんは、後年、自ら「フィルムセンター最多有料鑑賞者」という肩書を名乗っていたが、この呼称に何ら誇張はない。田中さんは、後に「キネマ旬報」の連載「その場所に映画ありて」で、七〇年代のフィルムセンターに棲息していた常軌を逸した映画狂たちの生態を、自嘲を交えつつ諧謔たっぷりに回想していたが、その中心にいたのがほかならぬ田中さんだった。

 

その頃、新沼千春さんが編集していた映画ファンのガリ版の同人誌『ぴくちゃあ』で、「日本映画監督ベストテン」特集が組まれ、私も参加しているのだが、田中眞澄さんは一位に小津安二郎を選んでいた。「小津作品こそ、日本の<近代>の最大の達成なのだ」云々という記述があったのを憶えている。

 

 フィルムセンターで一九八一年に開催された大規模な小津安二郎特集が連日、大盛況となり、八三年には蓮實重彦の『監督 小津安二郎』(筑摩書房)が刊行されて、<小津ブーム>は頂点を迎えた。当時、蓮實流の表層批評以外は、野暮の骨頂のようにみなす風潮が蔓延する中、一九八七年、田中さんの最初の編著『小津安二郎全発言19331945』(泰流社)が上梓された。

 田中眞澄さんは、以前から、日常生活のほとんどをフィルムセンターの映画鑑賞と国会図書館で古新聞、古雑誌を渉猟することに費やしているという伝説があった。その伝説がまさに真実であったことを物語るのが、『全発言』と『小津安二郎戦後語録集成 昭和21年―昭和38年』(一九八九、フィルムアート社)という二冊の編著である。

さらに、ほぼ同時期に、「ユリイカ」の臨時増刊『監督 川島雄三』が出ているが、私は、巻末にある田中眞澄・編「川島雄三関連文献目録」を眺めた瞬間、感嘆を禁じ得なかった。これほどまでに豊饒な資料は、気の遠くなるような時間をかけなければ精査できるはずがないからである。

 

その後、編著『全日記 小津安二郎』(一九九三、フィルムアート社)を刊行し、文字通り、田中眞澄さんは、自他ともに認める小津研究の第一人者となった。文藝春秋の細井秀雄、照井康夫さんというふたりの映画狂の優れた編集者に恵まれ、類い稀なエッセイストとしての貌を露わにし始めたのは、その頃からである。

 

私が田中眞澄さんと親しく口をきくようになったのも、たぶん、田中さんが、文春の『ノーサイド』で特集「「戦後」が似合う映画女優」を監修していた頃だったように思う。フィルムセンター、あるいは神保町や世田谷の古本屋でばったりと出食わし、そのままなんとなく一緒に安い呑み屋に流れるというケースがたびたびあった。映画の物書きは下戸か底なしの呑兵衛かに大別されるというのが、私の永年の持論で、われわれはまぎれもなく後者であった。

 

酒席でも、田中さんとは堅苦しい映画論などを交わした記憶はほとんどない。共通の知り合いをめぐる他愛ないゴシップやら、読んだ本の話などが多かったが、はっきり覚えているのは、ドナルド・リチイの評価をめぐってである。

 

田中さんはドナルド・リチイの『黒澤明の映画』も『小津安二郎の美学』(ともに現代教養文庫)も世評ほどには高くは買ってはいなかった。私も、ドナルド・リチイの本領は、それ以前に書かれた『現代アメリカ芸術論』(早川書房)、『現代アメリカ文学主潮』(英宝社)、『映画芸術の革命』(昭森社)の三冊にあると自論を述べると、田中さんは、我が意を得たりとばかりに、じつは、『現代アメリカ文学主潮』は密かな愛読書で、この本で、天才女流作家カースン・マッカラーズの名前を初めて知って、夢中になって読んだんだよ、と嬉しそうに語っていたことが思い出される。

 

一緒に仕事をしたのは、私が編集した『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』(清流出版)のために「大衆文化としての菊池寛」という序文を書いてもらった時である。わずか十五枚ほどのエッセイのために、菊池寛の長大な通俗小説を何冊も読破してしまう、その周到さには本当に頭が下がった。

田中さんは、私がつくってきた虫明亜呂無、山川方夫、武田泰淳などの雑文集を気に入っていて、自分もその種のエッセイ集を出したがっている風情であった。

 

私は、今回、『小津ありき』を編集するに当たって、第一章では小津映画を戦争、家族、メロドラマなど幅広い視点でとらえたエッセイを集めた。第二章では小津の生誕九十周年の時に刊行された『小津安二郎映畫讀本』(松竹映像本部映像渉外室)の小津全作品解説を網羅し、巻末には、小津の助監督だった斎藤武市監督のインタビューを収めた。

『映畫讀本』を編集した郡淳一郎さんによれば、田中さんは、「みんな、あの作品解説を読んでくれてないんですよ」と嘆いていたという。

 

巻頭の「<日本の家>を描き続けた小津安二郎」という論考において、田中さんは「小津安二郎の描いた家族は、常に解体する」と断じている。この視点が、「小津全作品解説」をつらぬく通奏低音となっているのはいうまでもない。

 

「『東京暮色』複雑な情感が渦巻く上野駅」というエッセイで、田中さんは、北海道から上京、帰省する際に並んだ上野駅ホームの光景をスケッチしているが、こういう私的な回想はきわめて珍しい。

「長野日報」に連載された「小津安二郎と蓼科高原」も、小津と信州という風土を結びつけた卓抜なエッセイである。こういう微細な発見に富む、味わい深いエッセイは田中さん以外には誰も書けないだろう。

ドイツ映画祭のパンフレットに寄稿した「ルビッチュ、ルビッチ、そして小津――日本に生きたルビッチ映画」、フィルムセンターのニューズレターに載った「<あいつはあれでいいんだ、儲かるシャシンは俺が作る>――小津安二郎と清水宏の蒲田時代」といった長篇エッセイは、田中さんの博覧強記が存分に発揮され、見事なものである。

 

田中眞澄さんとは、ここ十年ほど、毎年、年末に新宿紀伊國屋ホールで澤登翠さんの活弁でサイレント映画上映会を聴いた後、数人の気のおけない映画仲間と浪漫房での忘年会になだれ込むのが慣わしとなっていた。二年前の十二月二十九日深夜、やはり、ほろ酔いの田中さんと新宿で別れたその数時間後、田中さんは急逝してしまった。

 

『小津ありき』は、これまでの小津を主題にした『小津安二郎のほうへ モダニズム映画史論』(みすず書房)、『小津安二郎周遊』(文藝春秋、岩波現代文庫)、『小津安二郎と戦争』(みすず書房)とは、また一味違う、雑文家としての田中さんの魅力を堪能できるエッセイ集になっていると思う。早ければ、六月末には、店頭に並ぶ予定である。ぜひ、手にとっていただきたい。

 

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講演中の田中眞澄さん

桂ゆきとジャン・ジュネ

先日、東京都現代美術館で開催中の「桂ゆき ―ある寓話―」展(4月6日―6月9日)を見てきた。桂ゆきの生誕百年を記念して開催された個展で、これほど大規模なものは東京でも恐らく初めてであろう。コルクや布を使ったコラージュ、お伽噺に想を得た動物や妖怪が闊歩するユーモラスな寓話まで、広い会場を埋め尽くす、抽象から具象へと自在に往還するその壮大な作品群には、ただ圧倒されるばかりであった。 

 

会場には、私が八年前に企画・編集した『余白を生きる 甦る女流天才画家・桂ゆき』(清流出版)が積まれてあった。現在、入手できる桂ゆきの唯一のエッセイ集であり、この本をつくっておいてよかったとつくづく思った。

 

私が桂ゆきという画家を知ったのは、花田清輝の著作を通じてである。一九七〇年代の半ば頃、私は当時亡くなったばかりの花田清輝の魅力に憑りつかれ、古本屋で見つけては片っぱしから花田の本を購入していた。なかでも、『さちゅりこん』(未来社)、『冒険と日和見』(創樹社)、『乱世今昔談』(講談社)『俳優修業』(講談社)、『随筆三国志』(筑摩書房)は桂ゆきの装幀・挿絵で、その大胆不敵な奇想とユーモア、諷刺と諧謔に満ちた作品は、強烈な印象を与えた。

 

一九八〇年代の半ば頃、私は、『月刊イメージフォーラム』の編集部を辞めた後に、『一枚の繪』という美術雑誌の編集部に数年間務めていた。竹田厳道というカリスマ的で超ワンマンな会長が君臨するかなり特異な会社であったが、この雑誌で、桂ゆきさんの自伝的回想を連載することになり、私が担当することになった。

毎月一度、新宿の余丁町にあった桂さんのアトリエに原稿を取りに伺い、手料理をごちそうになりながら、数時間、過ごすのが、私の唯一の楽しみとなった。

 

桂ゆきさんは、戦後、岡本太郎の誘いで、日本のアヴァンギャルド芸術運動の拠点となった「夜の会」に入ったが、桂さんから、当時のメンバーであった埴谷雄高、花田清輝、安部公房たちのゴシップを交えた回顧談を聞くのは、まさに至福の時間であった。とりわけ、<意地悪ジイサン>の異名をもち、辛辣な皮肉と毒舌をもってなる花田清輝が、桂さんのアトリエを訪れた時にはいつも、シャイで下を向いて顔をあわせることもなく、ほとんど話すらしなかったというエピソードは、何度聞いても、可笑しくてならなかった。

 

桂ゆきさんは、一九五六年に渡仏し、以後、ヨーロッパ、アフリカの奥地、そしてアメリカにわたって、数年後に帰国し、一冊の旅行記を書き上げる。一九六二年に光文社からカッパブックスとして刊行された『女ひとり原始部落に入る――アフリカ・アメリカ体験記』である。

この傑作旅行記の帯は当時、気鋭の作家だった大江健三郎が書いているが、一躍、ベストセラーとなり、翌年には、当時、まだ権威があった毎日出版文化賞を受賞している。

 

『女ひとり原始部落に入る』には、アフリカの原地人の奇怪な風習や猛獣狩りに参加し、バッファローの大群に襲われるという、恐ろしくも抱腹絶倒な体験の数々が綴られている。

たとえば、映画がらみの話題でいえば、中央アフリカの小都市バンギの空港で、突然、オーソン・ウェルズ、ジュリエット・グレコ、エロール・フリンらハリウッドのスターと遭遇するエピソードが興味深い。ジョン・ヒューストン監督の『自由の大地』のロケ隊が、この地で撮影を行っていたのだ。ここで見かけたエディ・アルバートとは、後に、桂さんがニューヨークに住んだ時に知り合いとなる。桂さんは、グリニッジ・ヴィレッジで絵画制作の傍ら指圧のアルバイトをしていたのだが、エディ・アルバートの紹介で、フランスの名優ミッシェル・シモンから顔面神経麻痺の治療を頼まれる話もじつに面白い。

 

桂さんは、ご自身は、美術家として映画の現場に関わることはなかったが、映画雑誌には何度か登場している。「キネマ旬報」の一九五六年九月下旬号では、「『夜の河』をめぐって」というタイトルで、吉村公三郎監督、文芸評論家の十返肇と鼎談している。あの吉村監督、最初のカラー作品の独特の色彩感覚について鋭い卓見を述べていた記憶がある。

同じく「キネマ旬報」の一九六五年五月下旬号では、羽仁進監督がアフリカ・ロケをして話題になった『ブワナ・トシの歌』をめぐって、羽仁監督と対談し、楽しそうにアフリカ談義をしている。

 

『女ひとり原始部落に入る』でも『余白を生きる』でも、最も忘れがたい印象を残すのは、パリのセーヌ河畔の古本屋で出会ったジャン・ジュネのエピソードである。桂さんはジュネと意気投合し、ジュネは、二十部限定の戯曲『バルコン』をプレゼントし、サインしてくれたという。帰国しても手紙のやりとりがあり、「映画『羅生門』に出てくる若者はよかった。日本にはあんな男が大勢いるのか? 今度、ぜひ、日本に行きたい」としきりに熱っぽく語っていたという。

 

桂ゆきさんとジャン・ジュネの話題になった時に、私は見たばかりの『愛の唄』(50)の話をした。『愛の唄』はジャン・ジュネが監督した唯一の映画で、フランスはもちろんアメリカでも上映禁止となった伝説の作品である。刑務所の囚人と看守の恋愛をテーマにしているが、大島渚監督が『戦場のメリー・クリスマス』を撮る際に、もっともインスパイアされたと公言していた映画でもある。

 

当時、『愛の唄』は、新宿厚生年金会館の裏手にあったアートシアター新宿でたびたび上映されていた。佐藤重臣の主催する黙壺子フィルム・アーカイブスの提供で、当時、ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』ノーカット版、トッド・ブラウニングの『フリークス』と並ぶ定番の人気作品だった。上映前に、佐藤重臣の解説がいつも付いていたが、とくに、ペニスを丸出しにした全裸の黒人が看守への愛に打ち震えて踊り出すシーンなど、メルヘンのような幻想的な味わいがあった。

 

『愛の唄』の話をすると、桂ゆきさんは、眼を活き活きと輝かせ、こんど、ぜひ、その映画に連れて行ってほしいと、しきりにおっしゃていた。

 

私は『月刊イメージフォーラム』時代に、佐藤重臣の回顧録ふうな連載「祭りよ、甦れ!」を担当していたので、重臣さんがいかに花田清輝に影響されていたのかをよく知っていた。花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』こそが、佐藤重臣の<アングラ志向>の原点なのであった。

その花田清輝がもっとも尊敬していた画家が桂ゆきさんであった。だから、私も、このふたりを引き合わせることを密かに楽しみにしていたのだが、一九八八年に佐藤重臣が脳出血で急逝し、続いて、アートシアター新宿も閉館してしまった。

 

私も、その頃、『一枚の絵』を退社してしまったが、桂ゆきさんとのおつきあいは続き、八九年、東京画廊の「桂ゆき」展に出かけてご挨拶をしたりもした。だが、桂ゆきさんもその後、体調を崩されて東京女子医科大附属病院に入院され、一九九一年、急性心不全で逝去された。

 

今でも、私の唯一の心残りは、桂ゆきさんにジャン・ジュネの『愛の唄』を見せられなかったことである。

それにしても、『愛の唄』を含む、あの非合法なトンデモナイ黙壺子アーカイブスの幻の作品群はどこにいってしまったのだろうか。

 

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桂ゆき著『余白を生きる――甦る女流天才画家 桂ゆき』(清流出版)

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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