高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2013年1月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2013年1月アーカイブ

「ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」――大島渚追悼


 一月二十一日、大島渚監督の通夜に行く。築地本願寺での映画監督の葬儀に出席したのは、二〇〇一年の相米慎二監督以来のことである。車椅子の鈴木清順、篠田正浩、山本富士子、山田洋次、北野武などの顔が見えて、さながら戦後の日本映画史を支えた映画人が一堂に会したような感があった。

焼香の後で、小山明子さんに、「一昨年、大島さんの『わが封殺せしリリシズム』をつくれたことを嬉しく思います」とお声をかけると、小山さんが隣に立っている息子の武、新さんに、「パパの最後の本をつくった方よ」と話されたので、恐縮してしまった。

 

その訃報以来、大島渚という映画監督の偉業については、ざまざまな人がさまざまな視点で語っているが、ここでは、あくまで私が自分の眼で見た大島さんの印象、思い出を書いてみたい。

 

最初に大島渚監督の姿を見たのは、たしか、一九七〇年代の半ばごろ、当時、先鋭的だった自主上映組織「カトル・ド・シネマ」の最後の上映会が四谷公会堂で行われた時で、『儀式』の上映の後、大島さんをゲストに主催者側とのティーチ・インが開かれた。当時は『白昼の通り魔』や『絞死刑』『日本春歌考』などの大島作品が名画座にかかることは稀で、ホールでの自主上映で見るほかなかったのだ。最初に主催者代表が、『儀式』を批判しつつ、なぜ最終上映に大島作品を選んだのかを説明したが、続く、大島さんの激烈な反批判に、彼らはまったくグーの音も出なかったという記憶がある。 

 

この時に、激烈でポレミークな論客としての大島渚というイメージが、強く印象づけられたのだった。

 

次に、大島さんとじかに会ったのは、『月刊イメージフォーラム』に入った直後の一九八二年である。大島さんは『戦場のメリー・クリスマス』のクランク・インを控えており、ロケ地であるラロトンガ島に出発する直前に、編集部でロング・インタビューを行ったのだ。聞き手はダゲレオ出版代表の富山加津江さんと編集長の服部滋さんで、私は隅の方でただ黙って聞き入っているだけであった。

この時は、さながら大島さんの独演会という様相を呈し、にこやかに、『戦場のメリー・クリスマス』が実現するまでの経緯を、ほぼ三時間、まったく淀みなく語っていた。このロング・インタビューは、『戦メリ』の公開時に出た増刊号『それでもまだ君は大島渚が好きか!?』に収録されたが、大島さん自身は、ゲラに目を通す機会はなかったはずである。

私は、テープ起こしをしながら、その発言が一言一句、まったく訂正する必要のない完璧な原稿として完成されていることに、ただ、驚嘆するばかりだった。こういう稀有な人物は、私が知る限り、詩人の谷川俊太郎さんだけである。

 

このインタビューの際に、強く印象に残ったことがある。富山加津江さんが、大島さんの発言に反応して、ふっと笑ったのだが、大島さんが、突然、激昂し「笑うな!」と大声で叫んだのである。その場が、一瞬、凍りついたようになり、次の瞬間、大島さんは、なにごともなかったように、また、にこやかに笑いながら、話し始めたのだが、あの一瞬の憤怒に満ちたような一喝は、いったいなんだったのだろうと思う。

それは、明らかに、『朝まで生テレビ』での視聴者を意識した上でのパフォーマティブな「バカヤロー!」発言とは次元が違う異様な迫力に満ちていた。

 

しばらくして、私は、ふと、『同時代作家の発見』(三一書房)に収められた「『仁義なき戦い=深作欣二』という卓抜な大島さんのエッセイを思い出した。

 

大島さんは、昔、アテネ・フランセ文化センターの全作品連続上映で、ある学生から、「ヤクザ映画を一回撮ってみたらどうですか?」と質問された際、「その時私の体をつんざいた理不尽な怒りの記憶は、今も私のなかになまなましい」と書いている。そして、「それはどういう意味ですか?」と語気荒く言い返し、激情に駆られて、その学生と言い合いになってしまい、最後には、「私はヤクザ映画を撮らないのではなく、撮れないのだ!」と強弁したままにもの別れとなった気まずい顚末を振り返っている。

 

当時、ATGとの提携による一千万映画の映画つくりに疲れ果て、なんらかの方向転換を模索していた大島さんにとって、その学生の質問は最大級の好意的な申し出であるかもしれないと、一応、理解を示しながら、しかし、と大島さんは次のように書く。

「あの時、私にはその好意がわかっていたのだ。しかしそれは好意であるだけに私の窮境へグサリと突き刺さるものだった。痛さに私は飛びあがったのだ。そして、跳ねた。ありとあらゆる論理の鎧で身を守ろうとした。それはボロボロの新聞紙の鎧であったけれども。」

 

私は、一昨年、大島渚とは、一般に知られたラディカルな戦後日本映画の変革者としての貌とは別に、過敏なまでのセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持った芸術家であるという視点からエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)を編纂した。しかし、さらに裏を返せば、大島さんは、その自ら封印した柔らかでリリックな部分に触れられそうになると、制御しがたい理不尽な怒りが込み上げてくるという実にやっかいな映画作家でもあったのだと思う。

 

その後、大島さんには、一九九〇年ごろ、私が編集長をやっていたビデオ業界誌『A?ストア』の創刊号でもインタビューをしているが、その時には、ビデオ・レンタル全盛時代の映画作家の悲惨と不幸をユーモアたっぷりに語ってくれた。さらに、デビュー当時に熱烈に擁護した花田清輝や斎藤龍鳳のことを懐かしげに回想していたことなども思い出される。

 

小山明子さんは、テレビで、最後に大島さんが大好きだったお酒を唇にしめらせて飲ませたエピソードを語っていたが、私も一度だけ、大島さんと酒席をともにしたことがある。

 

あれは、やはり、一九九〇年の真夏の暑い時期だったと思う。新橋にあるTCC試写室でヨリス・イヴェンスの『風の物語』の試写があり、見終わって出口のところで映画評論家の松田政男さんに声をかけられた。そして、そのうしろには大島監督がいて、なぜか、三人で新橋のガード下の汚い居酒屋に流れたのだ。大島さんは洒落た絣の和服を着ていたと思うが、当時、大島さんはテレビのワイドショーに出まくっていた時期だから、周りの昼間から酒を飲んでいる労働者風の男たちがびっくりしていたのをよく憶えている。

冷奴をたのみ、生ビールを何杯も飲み干しながら、見たばかりのヨリス・イヴェンスの新作をこき下ろす大島さんがなんとも痛快であった。ちなみに、この時は、大島さんに奢っていただいた。

 

大島さんは、その生涯に膨大なインタビュー、発言を残しているが、今、私がもっとも強く印象に残っているのは、かつて読売新聞の林玉樹が、「同じ松竹大船育ちで、自己完結的な世界をつくる山田洋次に対して、大島さんは自分に不便なもの、夾雑物と格闘するタイプである」と指摘したのを受けた、次の言葉である。

「ひと口でいうと、ぼくの映画というのは、ぼくの悶えみたいな気がする」

 

 大島映画が甘美な自己陶酔とはほど遠い、独特の居心地の悪さ、挑発性を秘めているのは、見る者が、この大島さんの<悶え>に共振するせいなのだと思う。

 


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大島渚著『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)

映画狂のミステリ作家、小泉喜美子の思い出

 

 ハリウッドを舞台にした傑作小説を三冊選ぶとすれば、ナサニエル・ウエストの『いなごの日』(角川文庫)、スコット・フィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』(角川文庫)、それにバッド・シュールバーグの『何がサミイを走らせるのか?』(新書館)を挙げることに異論はないだろう。

 

 最近、必要があって、『何がサミイを走らせるのか?』を再読し、その訳者あとがきの小泉喜美子さんのマニアックな解説にほとほと感心させられた。小泉喜美子さんは都会的な洒落たミステリ作家として知られていたが、私は、むしろアーウィン・ショーをはじめとする英米の現代小説、ミステリの優れた翻訳家として親しんでいた。なかでも、かつて植草甚一が「こんなにも謙虚な推理作家はいままでいなかった」と絶賛したP・D・ジェイムズの出世作『女には向かない職業』(早川ポケミス)は名訳で、私のお気に入りの一作だった。

 

 その『女には向かない職業』がかつて映画化され、日本で上映されたことがある。といっても一般封切りではなく、一九八二年、まだ焼失する前の京橋フィルムセンターの「現代イギリス映画の展望」という特集での一度だけの上映だった。

 当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、このきわめて珍しい作品を、ぜひ翻訳者である小泉喜美子さんに見てもらい、批評を書いてもらおうと考えた。

 

  たしか、フィルムセンターで待ち合わせた際には、やはりミステリ通の映画評論家である渡辺祥子さんも一緒だったと思う。見終わった後で、三人で歓談した記憶がある。

残念ながら、映画の出来はイマイチだった。とくに小泉さんは、ヒロインのコーデリア・グレイの魅力がまったく描けていないことが不満だったようで、作品評でも次のような鋭い指摘をしている。

「原作にはない子供の登場などもその一例だが、最たるものはコーデリアが妙な個人感情に負けてこの事件担当をオリたいと依頼主に申し出、そのあと、彼とベッドをともにするという挿話をつけ加えたのは珍。およそこんなことをする女性ではないというふうに描かれているところが原作の一番の特色なのに!……中略……彼女がプロの(卵の)私立探偵としてあくまで冷静非情に事件に対処する立場でいながらなおかつ、女として、人間としての感情を投影せざるをえないところが映画では表現されていない。P・D・ジェイムズの描いたコーデリアの内面は単なる父性や異性への思慕ではなく、もっと大きな人間性に根差した悲痛な怒りとでもいうようなものである。」

 

 小泉さんから原稿を受け取る際には、赤坂の自宅マンション近くのホテルのラウンジを指定された。午後もまだ早い時間だったが、ビール、そしてウィスキーを注文し、すでに赤ら顔でちょっと酔っている感じであった。ちょうど、内藤陳さんと一緒に住んでいた時期だったと思うが、酔うにしたがい、レイモンド・チャンドラーが生んだ私立探偵フィリップ・マーロウを自分の恋人のように連呼する半面、当時、ベストセラーが次々に映画化されていたある日本のミステリ作家を「ホテルマンあがりのつまんない奴!」と罵倒する始末で、こちらは、ただひたすら黙って拝聴するだけだった。

 

今でも思い出すのは、私が、当時、忘れられていた伝説の映画監督プレストン・スタージェスのことを話題にすると、眼を輝かせて、「小林信彦さんがよく書いているけど、戦後のあの頃は、小林さんだけじゃなくて、東京のオマセな高校生はみんなプレストン・スタージェスの『結婚五年目』と『殺人幻想曲』に夢中になったものよ!友だちの河野基比呂がとくにすごく詳しいわよ、原稿を頼んでみたら?」と教えてくれたことである。あの頃、河野基比古はテレビ東京「木曜洋画劇場」の解説を務めていたが、映画音楽に強い映画評論家という印象だった。思えば、河野基比古は、小泉さんの前夫、生島治郎と早稲田の同級生でもあった。

 

その後、小泉さんとお会いする機会はなかったが、時おり、編集部に電話がかかってきたり、出たばかりのエッセイ集『やさしく殺して』(鎌倉書房)を送ってくれたりした。その頃、生島治郎がベストセラー『片翼だけの天使』のモデルとなった女性と再婚したことがニュースになり、小泉さんが、その配偶者を非難するような手記を女性誌に発表したため、生島治郎から絶交されたという話を伝え聞いた。当時、粋とソフィスティケーションを信条とする小泉さんらしからぬ振る舞いだなと思ったのを憶えている。

 

小泉喜美子さんは、ずっと生島治郎の影を引き摺っていた気がする。その後、内藤陳さんとも別れ、一九八五年、新宿のゴールデン街の酒場の階段から酔って転落し、脳挫傷を負って、意識が戻らぬまま急逝してしまった。享年五十一。

当時から、築地生まれのチャキチャキの江戸っ子で、銀座をこよなく愛した小泉さんが何故、もっとも似つかわしくないゴールデン街で亡くなってしまったのかといぶかしく思う人は多かった。

 

小泉喜美子という作家については、ふたつの優れたポルトレが残されている。

ひとつは戸板康二の『あの人この人――昭和人物誌』(文春文庫)に入っている「小泉喜美子の博識」で、生前、小泉さんを娘のように可愛がっていた戸板康二の深い愛情が伝わってくる滋味深いエッセイである。

 

もうひとつは、関川夏央のエッセイ集『水のように笑う』(双葉社)に収められた「あるミステリー作家の思い出」という印象深いスケッチである(関川は、今のような居丈高な文芸評論家ではなく、初期の屈託した自虐的なコラムを書いていた頃が一番良い)。関川は、次のように書いている。

「彼女は東京人のわがまま、孤独、粋好み、華やかさへの傾斜、すべてを持っていた。男たちを愛したが、日常生活をともにいとなむのは不得手そうに見えた。マーロウに憧れ、いつもコートの広い背中に頬を押しあてていたいという感じがあった。しかし、酒の入った霧の夜にしかそのようなかりそめの充足はあり得ないのだ、ということも彼女は知っていたと思う。いつもどこかにかすかな不幸がちらついて見えるひとだった。酒と酒のもたらす数瞬の高揚に殉じたという気がした。」

 

小泉喜美子さんの没後、『ミステリ歳時記』(晶文社)、『ブルネットに銀の簪』(早川書房)と続けてエッセイ集が刊行されたが、私が書いてもらった『女には向かない職業』の映画評は、たぶん、どちらにも収められていなかったと思う。

 

小泉さんが亡くなって十年後に、私はプレノン・アッシュのプレストン・スタージェス映画祭の企画に関わることになったが、その際にも、ふと、彼女がもし生きていたら、『サリヴァンの旅』や『レディ・イヴ』についてどんな感想をもっただろうか思わずにはいられなかったのである。

 

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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