高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2012年11月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2012年11月アーカイブ

大和屋竺という映画作家がいた時代

 前回、急逝した若松孝二監督のことを書いているうちに、若松プロが生んだ天才的な映画作家、大和屋竺(あつし)さんのことを思い出してしまった。

 大和屋竺さんが食道癌で亡くなったのは一九九三年の一月十六日だから、もうそろそろ没後二十年になる。 

 

あれは、七、八年ぐらい前だったろうか、なにかの試写の後で、中原昌也からヘンな外人を紹介されたことがある。「ジム・オルークといって、大和屋竺の熱狂的なファンなんですよ」と言われて、その時は、そんなタランティーノをさらに過激にしたような日本映画オタクがいるのかとちょっと驚いたが、実はロック・バンド「ソニック・ユース」のメンバーでもある高名なミュージシャンで、後に若松孝二に師事し、『実録・連合赤軍 あさま山荘へ道程』の音楽を担当したのは周知の通りだ。

 

ジム・オルークならずとも、大和屋竺が若松プロ時代に撮った『裏切りの季節』(66)、『荒野のダッチワイフ』(67)、『毛の生えた拳銃』(68)の三本のピンク映画を見れば、世界にもまったく類のない特異な映画作家がいたことに驚くだろう。

ときどき、私も、未知なる才能に溢れる映画に出会うと、これは、まるで大和屋竺みたいだ、と呟くことがある。たとえば、エドワード・ヤンの傑作『恐怖分子』を初めて見たときには、真っ先に『裏切りの季節』を思い浮かべたりもした。

 

私が最も偏愛する大和屋作品は、『毛の生えた拳銃』で、麿赤児と大久保鷹のトンチンカンな殺し屋コンビと、彼らの標的たるアンニュイたっぷりな吉沢健が渋谷の街で交差する場面などが、ふいに断片的に記憶に甦ってきたりする。ハープシコードをアクセントに使った中村誠一と森山威男の白熱したプレイが圧倒的に素晴らしく、これは日本映画史上、もっとも過激なフリー・ジャズ・シネマでもある。

 

大和屋さんのエッセイがまた見事なのであった。日本映画史上、これほどの名文を書く映画作家はかつていなかったのではないかと思えるほどだ。

たとえば、大島渚の『白昼の通り魔』や加藤泰の『みな殺しの霊歌』の批評などは、同時代の映画批評家よりもはるかに深い洞察と鋭い知見に満ちていた。マキノ雅弘の『次郎長三国志』シリーズと『性賊(セックスジャック)』の語り口を比較した「大深刻は、大軽薄に裏づけよ」という独創的な若松孝二論にも唸ったおぼえがある。

今でも思い出すのが、一九七七年初頭、当時、高い評価を受けていた日活ロマンポルノが大きな曲がり角を迎えた時期の「キネマ旬報」に載った「鎖国の至福、ロマンポルノ的なるものをめぐって」という論考の次のような一節である。

 

「ロマンポルノという造語の妙は、字義上の矛盾を敢えてくっつけて一緒にしたところにあるようだ。もともとポルノグラフィーという奴は人類の絶望の所産であり、イメージ上の暗黒部分にわだかまっていたものだった。誰がポルノグラフィーを見てロマンティックな気分になぞなれるものか。……中略……おそらく、その破滅の一撃の後にくるロマンポルノ系作家たちの悪戦苦闘は、このポルノグラフィーのもつ、恐るべき凍結性――ぎりぎり裸形の人間存在が、いかに不動のものであるかを知り、動かざること山の如きにそれをいかに動かすかということにかかっているのだろう。」

 

ロマンポルノの内部から発せられた鋭い批判で、当時、読んでいても、大和屋さん自身の呻き声を聴くような思いがしたものだった。実際、シナリオライターとしてロマンポルノ作品を手がけていた大和屋さんは、『愛欲の罠』(73)以後、新作を撮れずにいたし、八〇年代に入っても、インチキプロデューサーに騙されるなど、辛酸をなめてばかりいたのであった。

 

その頃、『月刊イメージフォーラム』の編集者になったばかりの私が、まず、思ったのは、テーマはなんでもよいから、大和屋竺に原稿を書いてもらうことだった。

 

大和屋さんの没後、荒井晴彦、竹内銃一郎、福間健二の編集によって纏められた遺稿集『悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集』(ワイズ出版)の目次を眺めると、一九八〇年代の前半に書かれた文章の大半は、私が依頼したものであることに気づく。

たとえば、「カメラを持った裸の少年」は、伊藤高志の実験映画『SPACY』『BO?』を見て、論じてもらったエッセイだが、大和屋さんはとても興奮し、とくに伊藤高志が、尊敬する松本俊夫さんの九州芸工大の秘蔵っ子であることを知ると、我がことのように喜んでいたのを覚えている。

 

鈴木清順監督の『カポネ大いに泣く』を特集した際には、「ドン・キホーテよ、永遠に 鈴木清順・未映画化シナリオをめぐる断章」を書いてもらった。「これらは清順さんといっしょに脚本を作り夢を見続けたわれわれ、具流八郎とその残党の、青春時代の産物である。」と自ら書いているように、資料としても貴重である。

 

大和屋さんから原稿を受け取った時には、その後、いつも安い居酒屋でビールを一緒に飲んだ。笑顔が素敵な人で、その日本人離れした仙人のような風貌には思わず見入ってしまうようなところがあった。

当時、同誌に「日活アクション無頼帖」を連載していた山崎忠昭さんが書いていたエピソードが思い出される。その頃、山崎さんのホンで、台湾を舞台に、猿の脳ミソを好んで食する美食家たちが、猿の霊に祟られて、狂ってしまい、やがて人間の脳ミソを喰わずにはおれなくなるという恐ろしい因果話を、大和屋さんが撮る、という企画があったのだという。

一緒に飲みながら、そのホンの話題になると、大和屋さんは、うれしそうにディテールの構想を話し始めるので、こちらは頭がクラクラしてしまうのだったが、当然のことながら、このトンデモナイ奇想に満ちたお話は、実現せず、幻の企画となった。

 

その頃、『ツィゴイネルワイゼン』を成功させ、時代の寵児であった荒戸源次郎が主宰するシネマ・プラセットで、大和屋竺監督、小泉今日子主演で『スウィング』という映画が企画され、私は、たしか浦沢義雄が書いたシナリオを読んだ記憶があるのだが、あれはどうして駄目になってしまったのだろうか。

 

<幻の映画>といえば、山崎忠昭さんは、早稲田の「稲門シナリオ研究会」で大和屋さんの先輩にあたるが、山崎さんによれば、大和屋さんがシナ研時代に監督した『一・〇五二』という作品があるらしい。これは「血液をテーマにしたアヴァンギャルド映画で、血液銀行、屠場、デモ、血を売る人々の群れなど、血に関する赤のイメージがめまぐるしく氾濫する圧倒的な迫力篇」であったそうである。脚本は後の具流八郎のメンバーで、『ツィゴイネルワイゼン』を書く田中陽造だった。

話をきくと、ジョルジュ・フランジュの『野獣の血』という傑作ドキュメンタリーを思い起こさせる。そういえば、昔、日仏学院でジョルジュ・フランジュの『壁にぶつけた頭』を見た時にも、どこか不穏なモノクロの映像が大和屋竺に似ているなと思ったものである。

 

近い将来、大和屋竺DVDボックスが出るとしたら、ぜひ、この幻のアヴァンギャルド映画を特典映像で付けてほしいものだと思う。

 

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大和屋竺さんの遺稿集『悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集』(ワイズ出版)

若松孝二をめぐる個人的な追想

 十月十七日、若松孝二監督が交通事故で急逝という知らせに、しばし茫然となる。癌を二回も克服した並はずれた強運の持ち主だったはずなのに、まさか、こんな意想外な形で亡くなってしまうとは。

運命というものの酷薄さ、理不尽さに思いをはせるほかない。

 

若松孝二のような半世紀近くにもわたって日本映画の最前線に屹立し続けた伝説的な人物については、その映画に出会った時代によって、さらに世代ごとにまったく違った相貌をみせるはずである。

ここでは、あくまで私の世代から見た若松孝二のことを語ってみたい。

 

私が学生だった一九七〇年代の半ば頃、若松孝二の名前はすでに映画ファンの間では鈴木清順と同様に、神格化された存在だった。若松プロの同伴批評家ともいうべき平岡正明の著作を愛読していたこともあり、当時、映画研究部に入部したばかりの私は、さっそく、『性賊(セックス・ジャック)』(70)と『処女ゲバゲバ』(69)の二本立てを企画し、当時、若松プロがあった原宿のセントラルアパートに現金を持って、フィルムを借りに行った。  

その時、応対したのは眼鏡をかけた若い痩せぎすの男で、「いまどき、学園祭で若松のピンクをやるんだ?」なんて皮肉めいたことを言われたのを覚えているが、その男は、もしかしたら、荒井晴彦ではなかったろうか。

 

その頃、若松孝二監督は過激な問題作『天使の恍惚』(72)を撮って以後、シラケ気分が蔓延する時代との緊張関係が途絶え、やや失速状態にあったように思う。当時、私は、新宿昭和館地下で、『(秘)女子高生課外サークル』(73)、根津甚八が映画デビューした『濡れた賽の目』(74)などの彼の新作を見ているが、同時代の神代辰巳、田中登といった日活ロマンポルノの傑作と較べると、どうしても見劣りしてしまう気がした。

 

そして、時はめぐり、一九八二年に、私は『月刊イメージフォーラム』の編集部に入るのだが、入社早々に任されたのが、若松孝二監督の自伝『若松孝二・俺は手を汚す』の膨大なテープ起こしの作業だった。

その当時、若松さんは、何度目かの黄金期を迎えていた。『水のないプール』(82)でコンビを組んだ脚本家・劇作家の内田栄一さんと意気投合し、雑誌の版元であるダゲレオ出版の代表、富山加津江さんの発案で、内田栄一さんが聞き手となり、若松さんの語り下しによる自伝を、急遽、『水のないプール』の公開に併せて、刊行することになったのだ。

 

若松監督は、だいぶ後になって、もう一冊、『時効なし』(小出忍、掛川正幸編・ワイズ出版)というやはり語り下しの自伝を上梓しているが、この急ごしらえの『俺は手を汚す』のほうが、内田栄一という絶妙な聞き手のせいもあって、粗削りな分、彼の肉声が活き活きととらえられていると思う。

 

この自伝には、昭和三十九年に、『裸の影』という原爆症の女の子を描いた<社会派>の問題作でスキャンダルを引き起こし、「その後でやった作品の撮影中に、俺、二人役者さんを殺した」というショッキングな記述がある。

アメリカ映画の『手錠のままの脱獄』のヒントを得た作品で、会津若松の奥の温泉場でロケ中に、手錠をしたまま二人の脱獄囚を演じた役者が渓流に足をとられ、行方不明となり、亡くなってしまうという不慮の事故だった。遺体が発見されたのは、東京オリンピックの開会式の十月十日で、若松さんは、以後、仕事がまったく手につかず、廃業も考え、酒浸りになり、役者の亡霊の幻覚を見ることもしばしばだった。

 

ある日、亡くなった役者の母親が若松さんを訪れ、「うちの息子は好きな映画で死んだんだ、本望だ。あなたがいくらやけくそになっても、うちの息子が帰ってくるわけじゃない。あなたがいい仕事をすることによって、うちの息子も浮かばれるんだから」と言ってくれたお蔭で、若松さんは、ふたたび監督をやる気になった。

 

この事故については、当時、週刊誌や新聞にも大きく取り上げられ、私の田舎の福島で起きたことでもあり、東京オリンピックという一大イベントとも重なって、子供心にも、鮮烈に記憶に残っていた。映画は八〇パーセントほど撮り終えていて、撮り足せば完成するが、若松さんは、それだけは絶対やめてほしいと会社に言って、世に出さなかった。 

 

若松さんは、毎年、ふたりの遺体が見つかった十月十日がめぐってくると、その日は、酒を一滴も飲まず、供養をすると語っていたが、それは、多分、最晩年まで遵守されたはずである。

 

『月刊イメージフォーラム』時代には、ビデオカメラを渡して、好きなものを撮ってもらう「体験的ビデオ論」という連載にも出てもらった。若松さんは、ちょうど、その頃、たしか御茶の水のホールで開催されたパレスチナの難民を支援するイベントを撮ろうと言い出し、私も同行することになった。その日は、早朝から会場に詰めていたので、途中で、つい、うとうとしてしまい、若松さんに「眠ってたら、ダメじゃないか!」と頭をげんこつでゴツンと叩かれたのを覚えている。

 

問題はその後で、原稿をお願いしたところ、「俺が今、これから喋るから、あとはおまえが適当に書いとけ」と言われてしまい、すっかりビビッてしまった。仕方なく、必死で、資料を読み込み、ずいぶん話していないことも補足してなんとか原稿に仕上げ、恐る恐る、当時、たしか千駄ヶ谷にあった若松プロの事務所に持って行ったら、「うん、よくまとまってる」と褒めてくれた。

この時の「ビデオはプライベートなメディアだ」という一文は、『若松孝二・全発言』(平沢剛編・河出書房新社)に収録されているはずである。

 

プロデューサーを務めた『赤い帽子の女』の特集号の時には、監督の神代辰巳さんと対談してもらい、私がテープ起こしをして原稿にまとめた。このときは、終始、上機嫌で、まったく資質が違う神代さんと、「ワカちゃん」「クマさん」と呼び合いながら、互いを尊敬しあっているふたりの語り口がとても面白く、楽しい仕事だった。

 

最期に若松さんに会ったのは、それから四半世紀も過ぎて、「キネマ旬報」の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』特集、『キャタピラー』特集でそれぞれインタビューをした時である。もちろん、若松さんは私のことなど忘れていたが、私は、なによりもその鮮やかな復活ぶりがうれしかったし、ひさびさに話を聞きながら、若松孝二のような真にラディカルなインディーズ・スピリットを持った映画作家が、いかに今の日本映画界に必要とされているかを、ひしひしと実感したのだった。

 

今、追悼の思いで『俺は手を汚す』を読み直してみて、あの東京オリンピックの時に起きた不幸な事故が、意外に若松孝二の作品に深い影を落としているのではないかと思えてきた。「俺は手を汚す」という題に込められた幾重にも屈折した真情、そして、とくに、近年の作品には、さまざまな無念を抱えた<死者>たちへの鎮魂の眼差しが色濃く漂っているからだ。

 

大島渚監督は、かつて川喜多和子さんへの弔辞の中で、「世界はまだあなたを失ったことの大きさを知らない。……日本はまだ、あなたがいないことの空白が埋めようもないことを知らない」と呼びかけた。この痛切な言葉は、そのまま盟友である若松孝二監督にもそっくりあてはまるのだ。

 

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 若松孝二監督の自伝『若松孝二・俺は手を汚す』(内田栄一編・ダゲレオ出版)

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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