ジャズで踊って、または幻のタップ映画『舗道の囁き』 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
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ジャズで踊って、または幻のタップ映画『舗道の囁き』

最近、戦前の日本のジャズソングが静かなブームになっている。「君恋し」「アラビヤの唄」「私の青空」で知られる日本最初のジャズ歌手二村定一の評伝が二冊も出ているし、二村定一、ディック・ミネ、川畑文子、岸井明などのアルバムを復刻した『ニッポン・モダンタイムズ』シリーズ、昭和初期のマイナーレーベルのSP盤を復刻した『ニッポンジャズ水滸伝』シリーズも売れているらしい。

 

 このブームの発火点となっているのは、明らかに、色川武大の傑作短篇集『怪しい来客簿』(話の特集)や『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)などの一連の芸人を描いたサブカルチュア・エッセイ集、そして瀬川昌久さんの『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』(清流出版)である。

 

とくに瀬川昌久さんの『ジャズで踊って』は、大正末期に日本に渡来したジャズが、戦前の昭和モダニズム文化の中でいかに豊かに開花したかを貴重な資料を駆使して描いた類例のない名著で、前述のふたつのCD復刻版シリーズも瀬川さんが監修をされている。

 

『ジャズで踊って』は、一九八三年にサイマル出版会から上梓されたが、直後に版元が倒産したため、長い間、入手困難になっていた。当時、古書店で見つけて、愛読していた私は、清流出版に企画を持ち込み、瀬川さんの私的メモワールやエノケン劇団のくだりを大幅に加筆していただき、二〇〇五年に増補決定版として復刻することができた。

 

 サイマル出版会版の表紙は川畑文子、小杉勇、杉狂児が主演の音楽映画『うら街の交響楽』(一九三五年)だったが、復刻版のカバーは、瀬川さんとご相談して、本書でも言及されている、戦前の昭和モダニズムの粋ともいうべきミュージカル映画『舗道の囁き』(一九三六年)で中川三郎とベティ稲田が踊っているワン・シーンをあしらったものにした。

 

『舗道の囁き』は、数奇な運命をたどった幻の映画である。加賀まり子の父親で戦後、大映のプロデューサーとして活躍した加賀四郎が、昭和十一年、自ら独立プロを興し、加賀ブラザース第一回作品として製作した日本初の本格的なタップ映画なのだ。加賀四郎は、RKOのドル箱であったフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの陽気なミュージカル映画が大好きで、若手のトップダンサー中川三郎と人気ジャズ歌手ベティ稲田を起用した本作は、日本版アステア&ロジャース映画を目指したとおぼしい。

 

ストーリーは、本家と同様に、まことに他愛ないボーイ・ミーツ・ガールもの。アメリカ生まれのジャズ・シンガー、ベティ稲田が鳴り物入りで来日し、成功を収めるが、悪徳興行師にギャラを持ち逃げされ、たちまち淪落の淵に沈む。そんな時に彼女は失業中のバンドマスター中川三郎と出会う。お互いに惹かれ合うが、紆余曲折があって、中川はバンドの再起をかけたコンクールに応募すると、ベティ稲田も駆けつけて、見事、コンクールに優勝する。

 

『舗道の囁き』の監督・主演は松竹の大スターだった鈴木傳明である。加賀四郎は、当時、松竹の城戸四郎撮影所長と衝突し、岡田時彦、高田稔とともに松竹を飛び出した鈴木傳明を、この作品に抜擢したのだが、公開直前になって、松竹サイドから圧力がかかり、結局、製作時には一度も上映されないまま、葬り去られてしまったいわくつきの作品なのだ。

実は、終戦後の昭和二十一年に、『思い出の東京』という題名で、松竹の配給でひっそりと公開されたことがあるのだが、その後は、プリントの所在すらわからなくなってしまっていた。

 

先日、秦早穂子さんの『影の部分』の出版パーティでお会いした映画評論の重鎮・佐藤忠男さんに、『舗道の囁き』という作品をご存知かどうかお尋ねしてみたが、大部の日本映画史を書かれている佐藤忠男さんもまったく聞いたことがないとおっしゃっていた。

 

ところが、その『舗道の囁き』のプリントが、一九九一年にカリフォルニアのUCLAで発見された。そして、京橋のフィルムセンターに寄贈された際に一度だけ上映されたが、その後は、ほとんど見る機会のない、まさに伝説の映画なのである。

 

『舗道の囁き』を見て、驚くのは、天才タップダンサーと言われた中川三郎(当時、なんと十九歳!)のソフィスティケートされたタップの妙技であり、ベティ稲田の独特のフレージングを利かせたジャズソングの数々である。

たとえば、中川三郎に援けられたベティ稲田が、彼のアパートで一夜を過ごした翌朝、食事の用意をしながら、ふいに「ブルー・ムーン」を口ずさむと、それに合わせて中川が突然、タップを踊り出すシーンなどは、まさに、アステア&ロジャース映画を彷彿とさせる愉しさである。

なによりも、巻頭から、ふたりのデュエットで何度もリフレインされる服部良一作曲の主題歌「舗道の薔薇」がすばらしい。音楽担当の服部良一は、戦前、すでに、松竹歌劇団の笠置シズ子と組んだ一連のジャズ・ナンバーで圧倒的な名声を得ていたが、『舗道の囁き』の洗練された数々のナンバーとアレンジを聞いていると、<日本のジョージ・ガーシュイン>という瀬川昌久さんの形容句がなんら誇張ではないように思えてくる。

 

その幻のタップ映画『舗道の囁き』を、七月一日(日)、午後二時から、ザムザ阿佐ヶ谷で、瀬川昌久さんのトーク付きで上映することになった。私は、昔から、瀬川昌久さんの監修・解説で日本のミュージカル、ジャズ映画の歴史的なアンソロジー、いわば日本版「ザッツ・エンターテインメント!」がつくれないものかと夢想しているのだが、今回、ようやく、その端緒となるイベントが実現できそうである。

当日は、瀬川さんの発案で、加賀四郎の長男で大映、松竹でプロデューサーをされていた加賀祥夫さん、中川三郎の長女で女優、タップダンサーの中川弘子さんにもゲストで登場いただく予定である。

 

日本のジャズ評論の最長老である瀬川昌久さんは、学習院初等科から東大法学部まで、ずっと三島由紀夫の同級生で、三島とは最晩年まで家族ぐるみの親密な交流があった。私は、折に触れて、瀬川さんから三島由紀夫をめぐる回想を伺ったことがあるが、とても興味深い。  

三島自身、一九五〇年代に初めてニューヨークへ行った際の旅行記『旅の繪本』(新潮社)の中で、当時、富士銀行のニューヨーク支局にいた瀬川さんの案内で、夜な夜な、「ウエスト・サイド・ストーリー」の初演ほか、ブロードウェイの芝居を観まくった刺激的な日々のことを、実に愉しげに回想している。

 

私が、瀬川昌久さんを心底、うらやましいと思うのは、一九五三年、カーネギーホールで、チャーリー・パーカーとビリー・ホリデイの生のステージを聴いていることだ。ジャズにしろ映画にしろ、同時代で出会うことの特権、かけがえのなさというものがあり、そういう稀有な体験した人の言葉こそ、今、もっとも読まれるべきである。

そろそろ、瀬川昌久さんの『ジャズで踊って・戦後篇』を、まとめなければと思っているところなのだ。

 

 

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 ★瀬川昌久さんの名著『舶来音楽芸能史・ジャズで踊って』(清流出版)

 

 

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★幻のタップ映画『舗道の囁き』のタップシーン

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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