高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2012年6月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2012年6月アーカイブ

加藤泰を愛した女たち あるいは袴塚紀子さん追想

 先日、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニング「昭和の銀幕に輝くヒロイン・桜町弘子」特集で、桜町弘子さんのトークショーがあり、満員札止めの中、上映作品『車夫遊侠伝 喧嘩辰』と加藤泰監督にまつわる数多の感動的なエピソードが語られたという。

桜町弘子といえば、加藤泰作品のヒロインとして、まず、第一に挙げられる名女優だが、支配人の石井紫さんによれば、桜町さんは近所の高円寺にお住まいで、彼女の行き付けの喫茶店に、特集のチラシが置いてあるのを見つけて、度々、来場されるうちに、トークが実現したのだという。

 桜町弘子さんは、近々、池袋の新文芸坐で始まる加藤泰特集でも、トークをするらしい。これまで、あまり人前には出ない方という印象があったのだが、敬愛する加藤泰の映画を語り継ぐのだという、強い意志のようなものを感じる。 

 

ここで、私は、ゆくりなくも、加藤泰の映画を心の底から深く愛したもうひとりの女性を思い出す。袴塚紀子さんのことだ。

袴塚さんとは、多分、一九七〇年代の後半に知り合ったのだと思うが、当時、すでに仲間内の映画ファンの間でも、熱狂的な加藤泰ファンとして知られており、『明治侠客伝 三代目襲名』を二十回以上、見ているという伝説(彼女は熱烈な鶴田浩二ファンでもあった)があった。   

 

袴塚さんは、その頃、たしか、独立してプロダクション映芸を立ち上げた小川徹の『映画芸術』編集部にいたと思う。といっても、当時の『映芸』は隔月刊がやっとで、経営的にも青息吐息な状態であったはずだから、給料をもらっていたとは思えないし、恐らくボランティアのようなものだったに違いない。

 

袴塚さんは、小川徹好みの「女性が感じるロマンポルノ」みたいなイロモノ記事や批評は一切、書かなかったが、好きな監督の撮影現場ルポには必ず登場していた。むしろ、それを書くために、『映芸』に身をおいていたのではないかとすら思えるほどだ。

今、手許にある『映画芸術』のバックナンバーを眺めると、一九七七年の六・七月号には「特報! 十年の歳月夢の如し 目の当たり見た奇想天外!清順演出の20日間」と題された鈴木清順の『悲愁物語』のレポートが載っている(これは数人の執筆者で書き分けたようだ)。

そして七七年の八・九月号が「加藤泰『陰獣』強行撮影の30日間」という『陰獣』のルポルタージュ、八一年二月号は「加藤泰『炎のごとく』ロケのぞき記」というレポートである。八五年二月号の「山下耕作 やくざ映画は復活するか」は、『修羅の群れ』の撮影現場での山下耕作監督へのインタビューが中心である(袴塚さんは加藤泰と同様、山下耕作の大ファンで、とくに『博奕打ち・いのち札』を熱愛していた)。

 

どれも、とても読み応えがあるが、たとえば、『炎のごとく』の現場ルポでは、一見、自分の思い入れを抑制した客観的な記述で現場でのやりとりを淡々と再現している。しかし、その合間、合間に監督や役者のインタビューを挟むことで、とくに、菅原文太や佐藤允から過去の加藤泰作品の印象や感想を引き出すことによって、加藤泰と役者たちとの親密で信頼感に溢れた関係が自ずと浮かび上がってくるのである。

 

一九八五年、加藤泰が急逝し、私は在籍していた『月刊イメージフォーラム』でささやかながら追悼特集を組んだ。その際に、キャメラマンの丸山恵司、鈴木則文監督らの追悼文と合わせて、袴塚さんにはグラビアページを加藤泰の映画の名科白で構成してもらった。当時、まだビデオはそれほど普及していなかったから、ほとんど彼女自身の記憶に頼るか、シナリオからの採録だったはずだが、実際には、シナリオは参照する程度であったと思う。 

 

たとえば『喧嘩辰』からは「俺ァな、何処でもいいんだ。このオレが俺のまんま、誰でもね、俺のまんまだ、真直ぐに生きていける所を探してやって来たんだ」という内田良平の泣かせる名科白が引用されていた。

『男の顏は履歴書』からは「先生、これだけは信じて。私が愛したと言えるのは先生だけよ。サヨナラ」「マキ、マキ、何かが間違ってるよ。何かが間違ってるよ」という安藤昇と中原早苗の切なくなるような白熱した科白の応酬が引かれている。

『三代目襲名』からは、「わかってくれ……阿呆な男や、しゃけど、わいはそういう生き方しか出来へんねん」という鶴田浩二の苦い諦念に満ちた科白。

 そして、『みな殺しの霊歌』からは、「だがな、俺には我慢出来ないんだ。お前達は寄ってたかって、一番キレイなものをメチャクチャにこわしやがった」という極めつけの佐藤允の科白が採られている。

 こうやって、忘れがたい名科白を書き写しているだけでも、フツフツと加藤泰の映画独特の熱く迸るような情感のうねりが目に浮かぶようである。

 

『みな殺しの霊歌』は、マンションの一室でブルーフィルムを見ていた五人の有閑マダムが集金に来たクリーニング屋の少年を部屋に引き入れて輪姦し、少年はショックのあまり投身自殺を遂げる。そして少年を弟のように可愛がっていた佐藤允が女たちを次々に惨殺していくのだ。この日本映画史上もっとも謎めいた畸形的なノワール・メロドラマの傑作については、袴塚さんとも何度か語り合った記憶がある。 

 

 うろ覚えだが、袴塚さんは奈良女子大学の英文科出身で、卒論のテーマは『ライ麦畑でつかまえて』と『みな殺しの霊歌』を比較したものだったという話を本人から聞いたことがある。

 

 イノセントなものを守ろうとする潔癖なモラルを饒舌な独白体に仮託したサリンジャーの永遠のロングセラーと、イノセントなものを汚されたことへの理不尽なドス黒い憤怒を描いた悪夢のような加藤泰の映画とは、一見、相反するかにみえて、双生児のように似ているというのが、彼女独自の見立てなのだった。

 こういうユニークな視点をもつ彼女なのに、いわゆる映画批評に手を染めることはなかった。これみよがしに映画に託して自己を語るという安易な自己主張を嫌い、ただの映画ファンであればよいといった潔く自己韜晦しているフシがあった。

 

 私が、最後に、編集者として、袴塚さんと一緒に仕事をしたのは、一九九六年に、キネマ旬報社から出たデイヴィッド・シップマンの『ジュディ・ガーランド』である。

彼女の語学力には定評があり、当時、ジュン・フォード関連の翻訳を一手に引き受けていた故・高橋千尋さんが彼女に翻訳チェックを依頼していたのは有名で、ふたりの共訳である『映画のクォート事典 いつか、どこかで、このセリフ』(ハリー・ホーン著・フィルムアート社)でも、袴塚さんに、誤訳を逐一指摘されたと、高橋千尋さんから直接、伺ったことがある。そこで、私は彼女にこの大部の評伝の翻訳を依頼したのだ。

 

『ジュディ・ガーランド』は、二段組み五百ページを超える大著だけに、翻訳作業は大変だったはずだが、輸入盤のジュディのCDを何十枚も購入して、丁寧に聴き込み、この不世出の天才エンターティナーの生涯を追体験しようとしていた。

 今、思い起こしても不思議なのは、訳者あとがきとプロフィールを書くことを頑なに拒んだことだ。なんとか、説得してあとがきは書いてもらったが、プロフィールは載せられなかった。彼女の異常なまでの匿名への意思は何だったのだろうか。

 

 その後、しばらく、袴塚さんとは会う機会はなかったが、数年前、突然、彼女の訃報が届いた。友人たちと遺品の整理をし、映画関係の資料は、神保町の矢口書店に一括して引き取ってもらったが、とくにフレッド・アステアの資料の膨大さには、思わずめまいがしそうだった。

 

二年ほど前だったか、酒席で関本郁夫監督が、ぽつりと「袴塚は、映画に殉じちゃったのかなあ」と呟いていたことが思い出される。一九七〇年代の終わり頃、今はなき伝説の名画座、上板東映で「関本郁夫オールナイト」というイベントがあり、袴塚さんはその司会を務めていたのだ。関本監督への偏愛も、当初は、恐らく、彼が加藤泰の助監督を務めていたことが理由の一端であったはずだ。

加藤泰の映画は、永遠に語り継がれていくだろうが、その決して安寧ではなかった晩年の仕事をまるで私淑した弟子のように克明に記録し続けた袴塚紀子さんのことも永く心に留めておきたいのだ。

 

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加藤泰の呪われた傑作『みな殺しの霊歌』のDVD(松竹)

 

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袴塚紀子さんが翻訳したデイヴィッド・シップマン著『ジュディ・ガーランド』(キネマ旬報社)

ジャズで踊って、または幻のタップ映画『舗道の囁き』

最近、戦前の日本のジャズソングが静かなブームになっている。「君恋し」「アラビヤの唄」「私の青空」で知られる日本最初のジャズ歌手二村定一の評伝が二冊も出ているし、二村定一、ディック・ミネ、川畑文子、岸井明などのアルバムを復刻した『ニッポン・モダンタイムズ』シリーズ、昭和初期のマイナーレーベルのSP盤を復刻した『ニッポンジャズ水滸伝』シリーズも売れているらしい。

 

 このブームの発火点となっているのは、明らかに、色川武大の傑作短篇集『怪しい来客簿』(話の特集)や『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)などの一連の芸人を描いたサブカルチュア・エッセイ集、そして瀬川昌久さんの『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』(清流出版)である。

 

とくに瀬川昌久さんの『ジャズで踊って』は、大正末期に日本に渡来したジャズが、戦前の昭和モダニズム文化の中でいかに豊かに開花したかを貴重な資料を駆使して描いた類例のない名著で、前述のふたつのCD復刻版シリーズも瀬川さんが監修をされている。

 

『ジャズで踊って』は、一九八三年にサイマル出版会から上梓されたが、直後に版元が倒産したため、長い間、入手困難になっていた。当時、古書店で見つけて、愛読していた私は、清流出版に企画を持ち込み、瀬川さんの私的メモワールやエノケン劇団のくだりを大幅に加筆していただき、二〇〇五年に増補決定版として復刻することができた。

 

 サイマル出版会版の表紙は川畑文子、小杉勇、杉狂児が主演の音楽映画『うら街の交響楽』(一九三五年)だったが、復刻版のカバーは、瀬川さんとご相談して、本書でも言及されている、戦前の昭和モダニズムの粋ともいうべきミュージカル映画『舗道の囁き』(一九三六年)で中川三郎とベティ稲田が踊っているワン・シーンをあしらったものにした。

 

『舗道の囁き』は、数奇な運命をたどった幻の映画である。加賀まり子の父親で戦後、大映のプロデューサーとして活躍した加賀四郎が、昭和十一年、自ら独立プロを興し、加賀ブラザース第一回作品として製作した日本初の本格的なタップ映画なのだ。加賀四郎は、RKOのドル箱であったフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの陽気なミュージカル映画が大好きで、若手のトップダンサー中川三郎と人気ジャズ歌手ベティ稲田を起用した本作は、日本版アステア&ロジャース映画を目指したとおぼしい。

 

ストーリーは、本家と同様に、まことに他愛ないボーイ・ミーツ・ガールもの。アメリカ生まれのジャズ・シンガー、ベティ稲田が鳴り物入りで来日し、成功を収めるが、悪徳興行師にギャラを持ち逃げされ、たちまち淪落の淵に沈む。そんな時に彼女は失業中のバンドマスター中川三郎と出会う。お互いに惹かれ合うが、紆余曲折があって、中川はバンドの再起をかけたコンクールに応募すると、ベティ稲田も駆けつけて、見事、コンクールに優勝する。

 

『舗道の囁き』の監督・主演は松竹の大スターだった鈴木傳明である。加賀四郎は、当時、松竹の城戸四郎撮影所長と衝突し、岡田時彦、高田稔とともに松竹を飛び出した鈴木傳明を、この作品に抜擢したのだが、公開直前になって、松竹サイドから圧力がかかり、結局、製作時には一度も上映されないまま、葬り去られてしまったいわくつきの作品なのだ。

実は、終戦後の昭和二十一年に、『思い出の東京』という題名で、松竹の配給でひっそりと公開されたことがあるのだが、その後は、プリントの所在すらわからなくなってしまっていた。

 

先日、秦早穂子さんの『影の部分』の出版パーティでお会いした映画評論の重鎮・佐藤忠男さんに、『舗道の囁き』という作品をご存知かどうかお尋ねしてみたが、大部の日本映画史を書かれている佐藤忠男さんもまったく聞いたことがないとおっしゃっていた。

 

ところが、その『舗道の囁き』のプリントが、一九九一年にカリフォルニアのUCLAで発見された。そして、京橋のフィルムセンターに寄贈された際に一度だけ上映されたが、その後は、ほとんど見る機会のない、まさに伝説の映画なのである。

 

『舗道の囁き』を見て、驚くのは、天才タップダンサーと言われた中川三郎(当時、なんと十九歳!)のソフィスティケートされたタップの妙技であり、ベティ稲田の独特のフレージングを利かせたジャズソングの数々である。

たとえば、中川三郎に援けられたベティ稲田が、彼のアパートで一夜を過ごした翌朝、食事の用意をしながら、ふいに「ブルー・ムーン」を口ずさむと、それに合わせて中川が突然、タップを踊り出すシーンなどは、まさに、アステア&ロジャース映画を彷彿とさせる愉しさである。

なによりも、巻頭から、ふたりのデュエットで何度もリフレインされる服部良一作曲の主題歌「舗道の薔薇」がすばらしい。音楽担当の服部良一は、戦前、すでに、松竹歌劇団の笠置シズ子と組んだ一連のジャズ・ナンバーで圧倒的な名声を得ていたが、『舗道の囁き』の洗練された数々のナンバーとアレンジを聞いていると、<日本のジョージ・ガーシュイン>という瀬川昌久さんの形容句がなんら誇張ではないように思えてくる。

 

その幻のタップ映画『舗道の囁き』を、七月一日(日)、午後二時から、ザムザ阿佐ヶ谷で、瀬川昌久さんのトーク付きで上映することになった。私は、昔から、瀬川昌久さんの監修・解説で日本のミュージカル、ジャズ映画の歴史的なアンソロジー、いわば日本版「ザッツ・エンターテインメント!」がつくれないものかと夢想しているのだが、今回、ようやく、その端緒となるイベントが実現できそうである。

当日は、瀬川さんの発案で、加賀四郎の長男で大映、松竹でプロデューサーをされていた加賀祥夫さん、中川三郎の長女で女優、タップダンサーの中川弘子さんにもゲストで登場いただく予定である。

 

日本のジャズ評論の最長老である瀬川昌久さんは、学習院初等科から東大法学部まで、ずっと三島由紀夫の同級生で、三島とは最晩年まで家族ぐるみの親密な交流があった。私は、折に触れて、瀬川さんから三島由紀夫をめぐる回想を伺ったことがあるが、とても興味深い。  

三島自身、一九五〇年代に初めてニューヨークへ行った際の旅行記『旅の繪本』(新潮社)の中で、当時、富士銀行のニューヨーク支局にいた瀬川さんの案内で、夜な夜な、「ウエスト・サイド・ストーリー」の初演ほか、ブロードウェイの芝居を観まくった刺激的な日々のことを、実に愉しげに回想している。

 

私が、瀬川昌久さんを心底、うらやましいと思うのは、一九五三年、カーネギーホールで、チャーリー・パーカーとビリー・ホリデイの生のステージを聴いていることだ。ジャズにしろ映画にしろ、同時代で出会うことの特権、かけがえのなさというものがあり、そういう稀有な体験した人の言葉こそ、今、もっとも読まれるべきである。

そろそろ、瀬川昌久さんの『ジャズで踊って・戦後篇』を、まとめなければと思っているところなのだ。

 

 

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 ★瀬川昌久さんの名著『舶来音楽芸能史・ジャズで踊って』(清流出版)

 

 

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★幻のタップ映画『舗道の囁き』のタップシーン

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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