高崎俊夫の映画アット・ランダム: 2012年4月アーカイブ
高崎俊夫の映画アットランダム
2012年4月アーカイブ

マックス・オフュルスの方へ

 マックス・オフュルスをめぐっては、以前、このコラムでも<国辱映画>『ヨシワラ』を取りあげたことがあるが、私がもっとも心酔し、敬愛する映画作家のひとりだ。

マックス・オフュルスについて書かれたもののなかで、私が、ひと際、印象に残っているのは、植草甚一による『輪舞』『快楽』の批評(『映画だけしか頭になかった』所収・晶文社)の一節である。 

 

「……こういう彼の名前に関連しておかしかったのは『快楽』のタイトルを見ているときであった。

『輪舞』のときと同じようにタイトルはあっさりしているなと思いながら見ていると、二度目にオフュルスの名前が出たときOphülsと書いたUの字のウムラウトが白絵具で消してあるのに、消しかたが下手なのでボンヤリと残っているのである。本当はこう書くのであるが、フランスの活字ではウムラウトのついたUを使うには不便だし、発音はなくても同じなので、いつのまにかOphulsとなってしまったわけである。つまらないことを書き立てているようだが、ぼく自身そうは思っていないのは、Hがなくなったり、ウムラウトが消えてしまうところに亡命映画作家としてのある種の悲しみに触れるような気がするからである。」

 

 こういうフシギな発想、さりげないディテールの記述にこそ、植草甚一の特異な審美眼、映画批評の精髄があるのだと思う。実際、日本でマックス・オフュルスを、その豪奢な装置や流麗なキャメラ・ワークなど<テクニック主義>的な側面から分析した批評家は植草甚一をおいてほかにいない。

 

以前、「フィルムネットワーク」で秦早穂子さんにインタビューした際に、新外映時代に配給した、マックス・オフュルスの遺作『歴史は女で作られる』(55)を試写で見た植草甚一があまりに熱狂し、大絶賛するので、これは当たらないなと直感したら、案の上、大コケしてしまったと苦笑しながら、お話しされていたのを憶えている。

 

 最近、日本スカイウェイから出ているDVD?BOX「巨匠たちのハリウッド」シリーズが、一部の映画マニアの間で話題になっている。エルンスト・ルビッチ、ダグラス・サーク、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、ジョン・ヒューストンといった錚々たる顔ぶれで、しかも、日本未公開作品を中心にピックアップしているのがミソである。

 

 このシリーズで、近々、「生誕百周年記念マックス・オフュルス傑作選」が出る。『笑う相続人』(31)『永遠のガビー』(34)『無謀な瞬間』(49)という、ちょっと信じられないようなプログラムである。

 

『無謀な瞬間』は、オフュルスが亡命先のハリウッド時代に撮った最後の作品で、窮地に陥った人妻ジョーン・ベネットを脅すつもりで近づいたヤクザな男ジェームズ・メイスンが、その貞淑な魅力に妄執のごとく惹かれてしまい、常軌を逸した献身の果てに、死を迎えるという畸形的なメロドラマである。

 

『笑う相続人』は、ウーファー時代のオフュルスには珍しいロマンティック・コメディだ。

 

そして、なによりも、このDVD―BOXの最大の目玉は『永遠のガビー』である。ナチスが台頭し、ドイツを去ることになったマックス・オフュルスが、ハリウッドへ亡命する前に、イタリアで撮った唯一の作品で、これまで、『みんなの女』という題名で、一部に知られていた幻の映画である。

 

マックス・オフュルス研究で知られる映画研究者の斉藤綾子さんが、その見事なDVDの作品解説で「オフュルスの流麗なキャメラ・ワークと、運命と愛に翻弄されるオフュルス的女性の原型の全てがここにある」と、書いているが、まさに、ため息の出るようなすばらしい映画である。 

 

女優として盛名をはせたイザ・ミランダが突然、謎の自殺を計り、手術台の上に横たわり、死の意識の予感のなかで、その数奇な人生をめぐる回想に入っていく。主演はイザ・ミランダ。彼女は、この作品で、一躍、人気スターになったが、どこか若き日のデルフィーヌ・セーリグを思わせる儚げな美しさが印象的である。

 

冒頭、イザ・ミランダに横恋慕し、自殺してしまう学校の教師にはじまり、彼女は周囲の男を破滅にみちびいてしまう魔性を秘めているのだが、ハリウッドのフィルム・ノワールに登場するような典型的な誘惑する悪女、<ファム・ファタール>ではなく、あくまで、受け身で、無意識に、知らず知らずのうちに、男を虜にしてしまう悲劇的なヒロインである。

 

その意味では、オフュルスの描いた多彩なヒロインの中では、『歴史は女で作られる』のローラ・モンテス(マルティーヌ・キャロル)よりも、『無謀な瞬間』のジョーン・ベネットや『たそがれの女心』のダニエル・ダリューに近いかもしれない。

 

ヒロインが伯爵から寵愛され、夜、館の外で逢引きする場面がある。そして、二人の不在に気づき、嫉妬に狂った妻が車椅子もろとも階段を落下していくシーンは、ロバート・ジオドマクのゴシック・ホラーを思わせる、夜の闇を深々とたたえた鮮烈なイメージが忘れがたい。

 

イザ・ミランダは、オフュルスがハリウッドからフランスへ帰還し、晩年の<黄金の四部作>の劈頭を飾った『輪舞』(50)で、ふたたび、恋の手管を知り抜いたベテランの舞台女優を貫禄たっぷりに演じている。

 

アルトゥール・シュニッツラーの名作戯曲をもとに、十組の恋人たちの情事をオムニバス形式で描く『輪舞』でもっとも印象的なエピソードは、イザ・ミランダが情人である詩人ジャン・ルイ・バローと語気荒く口論するシーンである。ふたりの感情が次第にエスカレートし、平手打ちの応酬となるが、次の瞬間、突然、二人は激しい接吻を交すのだ。淫蕩なゲームのような恋愛術のきわみである。

さらに、続いて、彼女が若い伯爵士官ジェラール・フィリップと恋仲になり、自分の部屋に引き入れて、挑発し尽くした果てに、まさにベッドを共にしようとした瞬間、狂言回しのアントン・ウォルブルックが映写室に登場し、「これは、不謹慎なのでカットしましょう」などと呟き、フィルムにハサミを入れる場面には、唖然となってしまう。

 

このような古典的なメロドラマと実験的なアヴァンギャルド精神がまったく違和感なく優雅に結びついているのが、マックス・オフュルスの映画の最大の魅力なのだ。

 

スタンリー・キューブリックが、もっとも憧れたのも、そのオフュルスの類い稀な資質であった。キューブリックが、遺作に、シュニッツラーの『夢小説』が原作である『アイズ・ワイド・シャット』を選んだのも、『恋愛三昧』ほかシュニッツラーを数多く手がけたオフュルスへのはるかなる屈折したオマージュであったのだと思う。

 

 

 

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 『巨匠たちのハリウッド/生誕百周年記念マックス・オフュルス傑作選』DVD―BOX(日本スカイウェイ)

 

映画作家としてのアイダ・ルピノ

 もう、十数年前になるだろうか。神田神保町の映画古書の老舗・矢口書店が店内改装かなにかで一時、仮店舗を構え、大々的な洋書のバーゲンセールをやったことがある。

 その時に、珍しい映画本を何冊かまとめて買った。その中には、後に清流出版から刊行したジョン・ヒューストンの傑作自伝『アン・オープンブック』があった。

そのほかに、ジェームズ・メイスンの自伝『ビフォア・アイ・フォーゲット』、ヴィンセント・ミネリの自伝『アイ・リメンバー・イット・ウェル』、ハリウッド・プロフェッショナルズ・シリーズの『トッド・ブラウニング/ドン・シーゲル』といった掘り出し物があり、そのなかで、ちょっと目を惹いたのが、ピラミッド・ブックのスター評伝シリーズの一冊『アイダ・ルピノ』である。

 

 アイダ・ルピノといえば、私の世代では何といっても、サム・ペキンパーの『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』(72)での、時代遅れのロデオ乗りスティーブ・マックィーンの気丈な母親役が印象深い。そして、一九八八年だったか、ハンフリー・ボガート映画祭が開催され、半世紀も遅れて初めて劇場公開されたラオール・ウォルシュの伝説的な名画『ハイ・シエラ』(41)を見て、絶頂期のアイダ・ルピノの美しさ、神話的な輝きに絶句してしまったことをよく憶えている。

 

『アイダ・ルピノ』を読んでいて、この女優が一九四〇年代の終わりからハリウッドでは例外的な女流映画監督として活躍し、とくにフィルム・ノワールの分野において傑出した才能を発揮したことを知った。

 

 数年前、WOWOWで、山田宏一さんの監修で、<美女と犯罪>というフィルム・ノワール特集が組まれ、『深夜の歌声』(48)という映画が放映されたことがある。未公開のフィルム・ノワールで、監督はジーン・ネグレスコ。コーネル・ワイルドとリチャード・ウィドマークから愛される場末の酒場の歌手でアイダ・ルピノが出てくるのだが、彼女が酒の入ったグラスを脇において、煙草をくゆらせながら、ピアノの弾き語りで「アゲイン」を歌い出した時には、心底、驚いた。このライオネル・ニューマン作曲のスタンダード・ナンバーは、ジャズファンの間では『ロードハウス』という映画で使われたことは有名だったが、まさか、『深夜の歌声』が『ロードハウス』だったとは! 

 

 この映画で、アイダ・ルピノは、「アゲイン」を、独特の掠れたハスキー・ヴォイスで、スローなテンポで情感たっぷりに歌っている。彼女は、この後の場面でも、フランク・シナトラの絶唱で知られるジョニー・マーサーの「ワン・フォー・マイ・ベイビー」まで歌うのだから、たまらない。

 

 やはり、同じ時期だったと思うが、新刊書店のワンコイン(五百円)DVDコーナーで、『二重結婚者』(53)という聞いたこともない題名の映画を見つけた。パッケージを眺めると、主演がアイダ・ルピノ、ジョーン・フォンティーン、エドモンド・オブライエン、そして監督がアイダ・ルピノとある。 

 

 さっそく購入して見て、驚いた。ちょっと類のない映画だったからだ。

主人公のハリー(エドモンド・オブライエン)は冷蔵庫のセールスマン。妻のイヴ(ジョーン・フォンティーン)はやり手のビジネス・パートナーで、結婚八年目になるも子供が出来ず、ふたりの間には微妙な間隙が生じている。ハリーはロサンゼルスに単身赴任中に、ハリウッド周遊バスの中でフィリス(アイダ・ルピノ)と出会う。

大都会の中で、言い知れぬ孤独を抱えた男と女がゆるやかに距離をつめていくさりげない描写が実に繊細で味わい深く、アイダ・ルピノは、初めて自分の監督作品で出演しているのだが、クリント・イーストウッドの遙かな先駆ともいうべき見事な演出である。

 

 ハリーの誕生日にふたりは結ばれ、やがてフィリスは妊娠する。いっぽう、イヴが家族の絆に目覚め、養子を取ることを決心したために、ハリーは、ぐずぐずと離婚を切り出せないでいるうちに、ふたつの家庭を持つ重婚者となっていた。映画は、しかし、この優柔不断を絵に描いたような男をあからさまに糾弾することはせずに、彼の行き場のない切羽詰まった苦悩を、当時の女性の社会進出という時代背景を見据えながら、的確に浮き彫りにしている。

それは、ちょうど、同じ時期に、ヨーロッパからの亡命者であるマックス・オフュルスが『無謀な瞬間』(49)や『魅せられて』(49)で、あるいは、ダグラス・サークが『天が許し給うすべて』(55)や『いつも明日がある』(55)で描いた、戦後アメリカの大きな価値転換の時代における女性の不安や深層心理を深く洞察したニューロティックな<女性映画>の系譜に位置づけられるだろう。 

 

 映画の中で、ハリーが、誕生日に、高級なナイト・クラブにフィリスを誘うくだりがある。そこのラウンジでピアノの弾き語りで登場するのが、なんとマット・デニスなのだ。名曲「エブリシング・ハップン・トゥ・ミー」や「エンジェル・アイズ」の作曲家でもあるマット・デニスは、チェット・ベイカーと並ぶ独特のヴェルヴェット・ヴォイスで一世を風靡したジャズ歌手で、当時、人気絶頂だったはずである。彼の甘く気怠そうな歌唱と、ふたりがダンスをしながら、頬を寄せ合い、親密に見つめ合うシーンが幾度かカットバックされるや、このほろ苦いメロドラマは豊潤な香りを放つ。 

 この忘れがたいシーンひとつをとってみても、アイダ・ルピノの演出力、音楽的センスが、いかにずば抜けたものであるかがわかる。

 

 映画は、まさに泥沼のような法廷劇と化そうとする瞬間、モラリッシュな告発のトーンを抑制させ、曖昧さを残したまま、唐突に終わりを迎える。

 

 重婚を描いたアメリカ映画というのは、トラジ・コミカルなタッチのアラン・ルドルフの『探偵より愛をこめて』(89)以外、思い浮かばないが、いずれにせよ、半世紀以上も前に、こんな先見的で特異なテーマを真摯に追求した女流映画監督がいたことは特筆されるべきだろう。

 

 アイダ・ルピノは、この他にも伝説的なフィルム・ノワール『ヒッチハイカー』(53)ほか七本の映画を監督している。ハリウッドの名花にして名監督アイダ・ルピノの作品がもっと見たい。

 

 

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ピラミッド・ブックの評伝シリーズの一冊『アイダ・ルピノ』

 

 

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500円のワンコインで見られるアイダ・ルピノ監督・主演の『二重結婚者』

 

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著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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