花田清輝の映画的思考とは何か - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
花田清輝の映画的思考とは何か

 毎年、暮れも押しせまり、十一月も半ばを過ぎると、喪中につき年賀欠礼のハガキが届くようになる。いたずらに馬齢を重ねるばかりだが、今年はとくに多いような気がする。そのなかに今年の五月、花田黎門さんの逝去を報せるハガキがあった。
 花田黎門さんは、花田清輝のただひとりの御子息で、著作権継承者でもある。レイモンという変わった名前は、むろん、レイモン・ラディゲからとられている。『自明の理』など初期の著作にはラディゲがよく引用されていたことが思い出される。

 私は、数年前、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』(小社刊)を編集した際に、一度、御自宅に出版の許諾のお願いも兼ねて、ご挨拶にうかがったことがある。
 花田清輝のエッセイによく登場する小石川の住宅街にひっそりとある瀟洒なご自宅で、黎門さんからお聞きした生前の花田清輝をめぐるエピソードがゆくりなくも記憶の底からよみがえってくる。 

 花田清輝の著作をもう四十年近く読み続けているが、まったく飽きることがない。折に触れて読み返すたびに、さまざまな刺戟を受けるのだが、そういう文学者はほかにそういるものではない。

 花田清輝には、ルネッサンスをモチーフにした『復興期の精神』のような掛け値なしの名著もあるが、映画のエッセイのほうが、一般には親しみやすいだろうという判断から私なりの視点で、『ものみな映画で終わる』をまとめたのである。その背景には、漠然と、この十数年、記号分析のような小賢しい映画批評やら、気色悪い多幸症的なグルメ趣味みたいな文章が跋扈し始めたことへの反撥もあったかもしれない。

 花田清輝の映画エッセイの魅力とは、G・K・チェスタートンやオスカー・ワイルドを思わせる諧謔と逆説、アイロニーに満ちた豊かな批評精神が息づいていることだ。この映画はこう見ろ、という教条主義や独断専行に走ることなく、ああでもない、こうでもないというふうに、一見、のらりくらりと逸脱を繰り返しながら、常に、読む側の視点を解放させ、不断に新たな<読み>を提示するような、のびやかな批評精神が、どんなエッセイにも見出せるのである。 

たとえば、クロード・シャブロルの『いとこ同志』と松竹ヌーヴェル・ヴァーグを比較した時評では、前者にある「敵を味方の眼でみるとともに、味方を敵の眼でみることを忘れないバルザック的なリアリズム」こそ、後者に欠けているものだという鋭い指摘はいまなお新鮮である。

 小林信彦さんとの論争のきっかけとなった映画時評では、「しかし、それにしてもシャブロルとヒッチコックとではくらべものにならない。一方は、やせたりといえども、ちゃんとした芸術家であるのに反し、他方は、デブの職人にすぎないではないか」などど、「カイエ」の<作家主義>を信奉する無邪気なシネ・フィルが読んだら卒倒しそうなことを平気で書いている。
 しかし、花田黎門さんにお話をうかがったところ、実は、花田清輝は、ヒッチコックが大好きで、テレビの『ヒッチコック劇場』などは毎週欠かさず見ていたそうである。

 小林信彦さんがデビュー評論「ヒッチコックと『二重の鍵』」で暗に批判した花田清輝の「ヒッチコックの張扇」という悪名高いエッセイがある。これなども、一見、ヒッチコックの無思想性を批判しているかのようだが、子細に読めば、「本来、娯楽というものは、エッセンスのかたちで示された、芸術にほかならない。したがって、娯楽作品の作り手たちは、否応なしに、かれの芸術家としての正体を、人眼にさらさなければならなくなる。」という一節などは、そのまま「娯楽奉仕の心構え」に殉じたヒッチコックへの屈折したオマージュとも読めるのである。  

『勝手にしやがれ』で、パリの街中を行き当たりばったりにさまようジャン=ポール・ベルモンドの歩行と、ディグレッションとしての自分の批評の在り方がまったく瓜二つであることを告白した「ベルモンドよ!」というエッセイも印象深い。花田清輝は、『勝手にしやがれ』のベルモンドの無造作な死にざまと、『灰とダイヤモンド』で、ズビグニエフ・チブルスキーが演じたテロリスト、マチェックの「最後まで、英雄主義の残滓がこびりついてはなれない」悲愴な死にざまを比較し、ベルモンドへの深い共感を語っていた。 

 ここで、あらためて『灰とダイヤモンド』を批判した「無邪気な絶望者たちへ」というエッセイが思い出される。しかし、花田黎門さんによれば、昔、公開時に、『灰とダイヤモンド』を一緒に見た記憶があり、その時には、深く感動していたそうである。恐らく、花田清輝は、当時の知識人たちが、『灰とダイヤモンド』をあまりにセンチメンタルに、あるいはロマンティックに手放しで礼讃する風潮に腹が立ち、あえて嫌われ役を買って出て、そのヒロイックな感傷性を批判する役割を演じたのかもしれない。

 花田清輝には、「イジワルジイサン」と称されるほど、老獪でひねくれた皮肉屋な面をことさら露悪的に誇示するところがあった。私は、その辛辣きわまりないアイロニカルなユーモアは、なんとなくロバート・アルトマンの映画に似ているなとずっと思っていた。
 すると、黎門さんは、父親とふたりで最後に見た映画がアルトマンの出世作『M★A★S★H』で、花田清輝は面白がって、大絶賛していたという。なんだか、すっかりわが意を得たりという気分になってしまった。

 黎門さんにお会いしたとき、息子の花田十輝さんの『お嬢様特急』という文庫本をいただいた。花田十輝さんはゲーム、アニメの原作者としては大変な人気作家らしく、花田清輝も漫画映画論をずいぶん書いていたし、やはり、血は争えないなと思ったが、黎門さんの話によれば、なんと「おじいちゃんの本は一冊も読んだことがない」そうである。

 奥様のお話では、花田清輝の著作権は、その花田十輝さんが引き継いだとのことである。

 

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『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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