イヴリン・ウォー原作の幻の未公開映画 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
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イヴリン・ウォー原作の幻の未公開映画

 うろ覚えだが、晩年植草甚一が、新聞かなにかの「無人島に本を持っていくなら何を選ぶか」というアンケートに答えて、当時、没後、刊行が始まったばかりの「吉田健一著作集」(集英社)を挙げていたのが印象に残っている。 

 かたや百科全書的な雑知識を誇るサブ・カルチュア・エッセイの大家、かたや英文学者にして快楽的で融通無碍な小説家であり、一見、ふたりにはまったく共通点はないようにも思える。

 

 ところで、植草甚一に「『衰亡記』などの初版を買った思い出」(『植草甚一読本』所収・晶文社)というエッセイがある。昭和十年に銀座の古本屋でイヴリン・ウォーの処女作『衰亡記』を買ったが、あまりに難解で、書いてあることが判らず、長い間、イヴリン・ウォー・コンプレックスにとらわれていたと告白している小文なのだが、ほかならぬ、日本で唯一人、イヴリン・ウォーを熱烈に擁護し、精力的に翻訳・紹介に努めたのが、吉田健一なのだった。

 もしかしたら、植草甚一は、イヴリン・ウォー・コンプレックスに重ねる形で密かに吉田健一という文学者にずっと敬意を抱いていたのではないだろうか。 

 

 私自身、もっぱら吉田健一訳でイヴリン・ウォーの小説に親しんできた一人である。優雅で残酷きわまりない『黒いいたずら』(白水社)、プルースト風の甘美で悲痛なノスタルジアが横溢する名作『ブライズヘッドふたたび』(筑摩書房)、爆笑必至の『ギルバート・ピンフォールドの試練』『スコット・キングのヨーロッパ体験』(集英社)と、どれも癖になるほどの辛辣なユーモアがあり、こういう強烈な毒を含む笑いは、アメリカの、たとえば、テリイ・サザーンのようなブラック・ユーモア作家とは本質的にレベルが違う。

 

 そういえば、テリイ・サザーンは、クリストファー・イシャーウッドと共に、イヴリン・ウォーの『囁きの霊園』(早川書房・吉田誠一訳)の映画化である『ラブド・ワン』(64)の脚本を書いているが、監督が生粋の英国人トニー・リチャードソンだけに、悪意たっぷりなハリウッド批判、アメリカ批判は冴えわたっていた。

 

『ラブド・ワン』を頂点に、イヴリン・ウォーの小説は、これまでたびたび映画化されている。だが、たとえば『ラースト夫人』(新潮社・二宮一次、横尾定理訳)が原作の『ハンドフル・オブ・ダスト』(88)は、原作の皮肉な笑いが消えてしまい、ありきたりな風俗映画となっていた。

 さらに、『ブライズヘッドふたたび』は『情愛と友情』(09)、また、晩年の代表作である戦争三部作『名誉の剣』までが、『バトルライン』(01)のタイトルで映画化されている(日本ではDVDスルーのみ)。前者は、エマ・トンプソン主演の『モーリス』風の文芸映画、後者は、ダニエル・クレイグ主演のアクションもの、とだいたい出来栄えについても想像がついてしまう。

 

 実は、イヴリン・ウォーの『衰亡記』を映画化した劇場未公開作品が、1970年代半ばにひっそりとテレビの深夜映画で放映されたことがある。『おとぼけハレハレ学園』という実にふざけた題名だったが、これが、なんというか抱腹絶倒の傑作なのだった。

 

『おとぼけハレハレ学園』は、無垢な青年ピーター(ロビン・フィリップス)が主人公で、さまざまな社会の矛盾、試練にさらされ、成長するという、ヴォルテールの『カンディード』の現代版みたいな物語である。ピーターは、オックスフォード大学に入学するが、女子寮を覗き見していた学生たちの悪戯で、キャンパスで素っ裸にされ、猥褻容疑の濡れ衣をきせられて、退学処分となる。

 

 彼は、ようやくローカルな私立学園に職を得るも、そこには、重婚の常習犯である体育教師やら、刑務所をいったりきたりしている小使いやら、あやしげな人物がうろうろしている。ある時、寄付額最高の長者未亡人である妖艶なジュヌヴィエーブ・パージュの色香にボーっとなり、誘惑されるままに、婚約するも、結婚式の前日、彼女の依頼でモロッコに飛ぶことになる。

 実は、彼女は国際的な売春業をビジネスにしており、ピーターは、捕まってしまい、刑務所に収監される。そこには、なぜか小使いと体育教師も投獄されている。ほうほうの体で、脱走するも、未亡人の奸計で、棺に入れられ、焼かれそうになる始末。

 とにかく、めまぐるしいばかりのテンポのよい語り口、主人公以外、全員が気が狂っているような、『不思議の国のアリス』を思わせるナンセンスで馬鹿馬鹿しいギャグが次々に飛び出し、ラスト、悪夢のような遍歴を経て、平原の果てに向って走り去ってゆく主人公に、思わず、『幕末太陽伝』の居残り佐平次を連想したものである。 

 

 今、私が、こんなふうに、30年以上も前に見た『おとぼけハレハレ学園』のストーリーを詳細に書けるのは、当時、この作品について、映画批評家としてデビューしたばかりの宇田川幸洋が『キネマ旬報』の「T?ムービー評」というコラムできちんと紹介していたからである。

 宇田川さんは、『おとぼけハレハレ学園』について、<もし場末の小さな映画館で出会ったら、狂喜して「ケッ作だ、ケッ作だ!」とふれまわりたくなるだろう、と想像できる奇妙な小品である>と書いているが、まったく同感で、宇田川さんとは、今でも、飲むと、この幻の未公開映画の珍品が話題にのぼることがある。

 

 ちなみに、当時、宇田川さんが、この連載で取り上げていた未公開劇場映画では、ジュールス・ダッシンの『夜明けの約束』、イエジー・スコリモフスキーの『ジェラールの冒険』、マルグリッド・デュラスの『冬の旅 別れの詩』(彼女の戯曲『ラ・ミュージカ』の映画化だ)、それにピーター・ブルック、リンゼイ・アンダースン、トニー・リチャードソンという豪華メンバーによるオムニバス『赤と白とゼロ』(69)などの傑作が目白押しで、このコラムは、本にまとめると貴重な資料になるのではないかと思う。

 

『おとぼけハレハレ学園』はジョン・クリシュというまったく無名の監督の作品だが、イーリング・コメディの伝統をはっきりと感じさせる才気煥発な演出がすばらしかった。ピーター役のロビン・フィリップスは、その後、チャールズ・ディケンズの『デヴィッド・カパーフィールド』の映画化である『さすらいの旅路』(71)のヒーローも演じているから、当時、こういうビルドゥングスロマンの主人公にぴったりだったのだろう。

 

『衰亡記』は、吉田健一も植草甚一も亡くなった後、1991年に、富山太佳夫訳で『大転落』の題で、岩波文庫から刊行された。とても、読みやすい優れた翻訳だったが、願わくば、吉田健一訳で読んでみたかったなとも思う。

 

 さらに、最近、新人物往来社から「20世紀イギリス小説・個性派コレクション」というシリーズが始まったが、マーガニータ・ラスキの『ヴィクトリア朝の寝椅子』、マックス・ビアボームの『ズリイカ・ドブソン』というあまりにも渋いラインナップの中にイヴリン・ウォーの『汚れた肉体』を見つけた。

 果たしてイヴリン・ウォー再評価の動きがあるのだろうか。

 

 

 

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『衰亡記』の題で知られていたイヴリン・ウォーの処女作『大転落』(岩波文庫)

 

 

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イヴリン・ウォーの未完となった回想録『少しばかりの学問』。吉田健一訳で読んでみたかった。

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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