伊丹十三にとって<映画>とは何だったのか - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
高崎俊夫の映画アットランダム
伊丹十三にとって<映画>とは何だったのか

 二年前、私が編集した今野勉さんのメモワール『テレビの青春』(NTT出版)のエピローグで、今野さんが、「伊丹十三は、テレビの仕事を続けていれば死ななかったのはないか、伊丹は稀にみるテレビ人だった、と今にして思う」と書いていたくだりがずっと気になっている。

 最近、是枝裕和監督に取材でお会いした際にも、その話題になった。周知のように、是枝さんは、今野さんたちが立ち上げたテレビマンユニオンに憧れて入社し、数々のドキュメンタリーを作った後、映画監督になっている。今回、是枝さんが、テレビマンユニオン時代に、後に著作権をめぐって裁判沙汰にまで発展する伊丹十三製作総指揮、黒沢清監督『スウィート・ホーム』のメーキングをつくったことを初めて知ったが、彼もやはり「伊丹さんはなによりも優れたテレビ人でしたよね」と語っていた。

 今、私の手元には『話の特集』の1983年7月号に掲載された「特権的映画学講座」と題された蓮實重彦と伊丹十三の対談がある。この対談は、かねてより蓮實重彦さんの映画批評に心酔していた伊丹さんのたっての願いで実現したものである。
 その頃、『監督 小津安二郎』を刊行したばかりの蓮實重彦は、小川徹が<ウルトラ・スーパー批評家>と命名したように、絶大な影響力を誇っていた。万田邦敏が彼を教祖として崇拝するシネフィルたちを、アイロニーを込めて<ハスミ虫>と呼称したのもこの頃であった。
 当時、私は、この対談を読んで、まるで夏休みの宿題を提出した中学生が先生に褒められて狂喜しているような、ほほえましい印象を受けた。だが、一方で、ニコラス・レイの『北京の55日』をはじめ数多くの映画の現場を体験している伊丹十三ともあろう人がこれほど無邪気なハスミ虫になってしまってよいものだろうかと思ったものだ。

 伊丹さんは、その翌年、84年に『お葬式』で監督デビューする。『お葬式』は『キネマ旬報』のベストワンを始め、映画賞を総なめにして、興収十五億を超える記録的な大ヒットとなった。しかし、伊丹さんがもっとも称賛を期待したであろう蓮實さんは、最初の試写の際、本人の前で作品を酷評し、以後、ふたりが言葉を交わす機会はなかった。

 当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、伊丹さん自身の執筆になる『お葬式』の製作ノート(のちに加筆されて『「お葬式」日記』の題で文藝春秋より刊行され、ベストセラーとなった)を掲載するために、経堂にあった伊丹さんのマンションに何度かうかがった。その時に、もっともよく出る話題は、当時、蓮實重彦さんが絶賛していた商業映画デビューしたばかりの黒沢清であり、周防正行だった。

 伊丹映画は、『お葬式』をのぞいて、批評家筋からは、必ずしも好意的な評価は得られなかったが、とくに第三作『マルサの女』以降は、周到なマーケティングと時代感覚を武器にことごとく大ヒットし、混迷する日本映画界で、自他ともに認める唯一のヒットメイカーとして揺るぎなき存在となっていった。
 伊丹さん自身も、ふっきれたように批評よりも興行成績を重視し、ひたすら<当たる>映画を撮り続けることが、低迷する日本映画界の復権につながると思い込もうとしていたように見える。

 あれは、91年ごろだったろうか。当時、私は『AVストア』というビデオ業界流通誌の編集長をしており、『あげまん』(90)がビデオ化されたのを機に、ひさびさに伊丹さんにインタビューすることになった。私は『あげまん』はまったく生理的に駄目だったので、映画の内容云々ではなく、ちょっと意地悪く<映画と批評>というテーマをめぐってズケズケ聞いたように記憶している。伊丹さんはもはや無邪気なシネフィル的言説は封印していたが、逡巡しながらもひとつひとつ言葉を選ぶように誠実に答えてくれたように思う。
 後で立ち会っていた東宝の宣伝部の女性が、今回の取材の中で一番、面白かったです、と言ってくれたのがせめてもだった。
 思えば、インタビューした場所は、後に伊丹さんが自死することを選んだ彼の六本木の事務所だった。

 さて、晩年、伊丹十三さんは、たびたび公の場で、映画監督こそは、それまでの自分のすべてのキャリアを統合できる天職である、と語っていたが、ほんとうにそう信じていたのだろうか。
 伊丹さんが、そう発言する時に、偉大な父である映画監督・伊丹万作をつねに意識していたことは間違いないだろう。
 しかし、私は、伊丹さんの映画には、伊丹万作作品が持つ軽妙洒脱、諧謔味あふれる、かわいた諷刺精神は見出せなかった。だが、彼の初期のエッセイとテレビマンユニオン時代につくったドキュメンタリーには、間違いなく、同様のエスプリを感じ取ることができるように思う。

 たとえば処女作『ヨーロッパ退屈日記』の冒頭に、「これは本当に映画だろうか」というエッセイが入っている。
これは、1960年代のはじめに、ロンドンのナショナル・ギャラリーでジャン・ヴィゴの『アタラント号』と『新学期・操行ゼロ』の二本立てを見た時の感想で、少し長いが引用する。
「およそ天才の創った映画を見ていると、それ以前のコンヴェンショナルな作品に対して、これは本当に映画だろうか、という問いをなげかける作者の言葉が聞こえてくるように思われます。これはとても重要なことです。なぜなら、映画の世界ほど新しい実験の困難なところはなく、実験のないところに新しい伝統の生まれてくる道理がないとするならば、われわれは古い主題の巧妙なヴァリエイション、古い枠の中でのテクニックの高度の洗練、といったものに幻惑され、同化されないために、常に<これは本当に映画だろうか>という問いを心の中に持ち続けることが必要であると思われるからです」
 これは、恐らく、日本人によって書かれた最初期のジャン・ヴィゴについての、そしてきわめて秀逸な批評であると思う。蓮實批評に出会うはるか以前に、伊丹さんの審美眼は際だっていたことが了解されるのである。
 花田清輝も『女たちよ!』のピーター・オトゥールに関するエッセイを絶賛し、庄司薫の小説の過小評価と並べて、「批評家には同時代の才能がわからない」と嘆息していたことが思い出される。

 テレビマンユニオン時代の作品では、二日酔いの精神状態をユーモラスに映像化した怪作など彼の薀蓄エッセイそのままの面白さだが、今でも鮮烈に記憶に焼き付いているのは、伝説の蒸気機関車D51を描いた『遠くへ行きたい』である。
 レポーターをつとめた伊丹さんは、最後の走行となるD51を必死に撮ろうとする鉄道撮影マニアやマスコミの混乱ぶりを密着取材する。そして、ラスト、雪原のはるか遠方にD51が見えた瞬間、視点が切り替わり、D51の側のカメラから、一斉に無数のファインダーをむけている不気味な群衆を映してエンドとなる。その皮肉たっぷりな批評精神は見事であった。 

 映画俳優としても、記憶に残る作品は枚挙にいとまがない。なかでも、加藤泰監督の『男の顔は履歴書』で、伊丹さんは医師安藤昇のイノセントな熱血漢の弟を演じているが、韓国人・真里明美との悲恋の果てに銃弾に倒れ、ふたりが折り重なるように死んでいく哀切に満ちた美しいシーンは忘れられない。

 私は、これから、伊丹十三が再評価されるとすれば、映画監督としてではなく、エッセイスト、映画俳優、テレビマンとしての仕事ではないだろうかという気がするのだ。

 

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 伊丹十三さんの最初のエッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』 

 

 

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 伊丹十三氏 

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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